石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

住めば都

2011-07-30 21:15:17 | Weblog


ご近所のご主人と、雨上がりの橋の上でお話ししている時、ヒグラシゼミからアブラゼミに鳴き声が変わった。
「あれっ、アブラゼミですよね。」って言うと「ああ、ほんまや」って、やかましくなく声が何処から聞こえるのかと、ご一緒に耳と目で探した。
蒸れるような湿気の中で、緑の梢を抜けてくる川風は少し優しい。

今日は右隣のご主人から頂いたピーマンや、自家製のかぼちゃ、茄子などを夕食に蒸し、練り味噌をぬって食べると、柔らかくてとても美味しかった。自家製のピーマンは甘くて柔らかい。

左隣のお宅には、先日頂いたスイカがとても美味しかったとお礼を言うと、「ああ、そうか。美味しかった?良かった。こればっかりは食べてみんとわからんからなぁ」と、「では、では」と、また、また、お代わりを頂いた。わ~ぉ

我が家でも野菜を作っているけれど、両家は上手に沢山作られるので、年間を通して何かと頂く事が多い。
お返しするほどのものもなくて、たいがい「ありがとう。嬉しい。」って頂きっぱなし・・。

「ゴーヤいらんか」「一本ほしい。」「一本でええのんか」「はい、はい。」でも、また数日後に、同じ会話を繰り返して頂く・・そんなことの繰り返しで、我が家にゴーヤは作っていないけれど不自由はしない。なにかとこんな調子・・。

ご近所はありがたい。そりゃぁ、何十年も此処で一緒に生きてきたのだから・・。
生まれたり、死んだり、嫁いだり、迎えたり、入学をしたり、卒業したり・・。生まれたときから見てきた子供たちが、結婚をして子供が出来て成長して行く・・。

病む時もあり、悩む時もあり、寂しそうな時もなんとなく分かる。迷惑なときもあるけれど、助けられることもある。
あり得ない噂をされることもあるけれど、必要な忠告もある。

何があっても、やはり此処は主が置いて下さった町。
私は時々、この町もきれいだなぁって・・、好きだなぁってほれぼれする。
仲良く、平和に暮らして行きたいなぁと、そっと祈る。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

解放の衣

2011-07-29 18:33:03 | Weblog

 心を裸にしていられるならそれはとても心地よいこと。何も取り繕わないで、身構えることもなく、隠すものもないのなら・・。
完全な夫婦の間柄みたいに、欠けを互いの愛によって覆い合う関係は麗しい。初めのアダムとエバもそうだったのかなぁ・・

「人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった。」創世記2:25
彼らに罪が入るまでは、神が造られた汚れなき姿は裸だった。
罪ある血筋となってしまった今だって、赤ちゃんの裸はピカピカで玉のように美しいのだけれど・・。

 罪によって裸は汚されて恥となり、覆い隠すべきものとなった。裸にされることは見せしめであり、罰である。
「エルサレムは罪に罪を重ねて、汚らわしいものとなった。彼女を尊んだ者たちもみな、その裸を見て、これを卑しめる。彼女もうめいてたじろいだ。」哀歌1:8

 
「あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい。」黙示3:18
 その白い衣の代価は、すでにイエス・キリストが支払って下さっていた。十字架で御体を裂いて流してくださった聖い血潮によって。

救われた者の着物は、神の子の赤い血潮によって買い取られた真っ白な義の衣、永久に古びることのない完全な衣。
私はただで、信仰により、その衣を主から頂いて着たその時、ほんとうに、たとえようもないほど嬉しかった。責め続ける罪の記憶から、完全に解放されたから・・。

 その衣は祭司のエポデのように、不自由な動き難いものではなく、身を縛るものから解かれ、じつに心地よくて、私の素肌のように違和感がなく、しなやかに動けるもの。
そう、このことはイエスさまの謙遜なんだ・・。


この神こそ、私に力を帯びさせて私の道を完全にされる。
彼は私の足を雌鹿のようにし、私を高い所に立たせてくださる。
戦いのために私の手を鍛え、私の腕を青銅の弓をも引けるようにされる。
こうしてあなたは、御救いの盾を私に下さいました。あなたの右の手は私をささえ、あなたの謙遜は、私を大きくされます。 (詩篇18:32~35)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

「ダビデとウザ」candyさんのメールより

2011-07-28 15:03:41 | Weblog

 あのウザの割り込みの箇所だけを見ると、ウザに神の怒りが発しただけのように思うけど、それだけだと答えにならないとおもうんよ。
でね、その答えが次のみことばにある

「最初の時には、あなたがたがいなかったため、私たちの神、主が、私たちに怒りを発せられたのです。私たちがこの方を定めのとおりに求めなかったからです。」歴代誌 上 15:13

このダビデの告白は、もうあのウザの割り込みの出来事は、ウザ個人の罪の出来事ではなく、ダビデ自身が「私たちに」と告白しているとおりのものだと思います。

私たちがこの方を定めのとおりに求めなかった・・ことが、あの一連の出来事を引き起こしたといえます。
牛がひっくり返そうとしたことも、ウザが割り込んだことも すべては神の許しの中で起こされたこと、それは、すべてこのダビデの罪から発しています。

 同じ「ウザの割り込み」のことを記している歴代誌第一・13章1節~4節には、主の契約の箱を運ぶに当たって、ダビデが、祭司やレビ人たちをも招集して合議したことが記されています。
祭司やレビ人たちは、契約の箱を運ぶときには、祭司がその準備をして、ケハテ族の人々が担ぎ棒を担いで運ぶという、明確な主の戒めを知っていたはずです。

 しかし、この時は、それをないがしろにして、牛車で運んで、主の聖さを冒してしまいました。それによって、「ウザの割り込み」という出来事が起こった

神の定められた方法を冒す(ダビデがレビ人を起用して神の箱を運ぶということ)をしなかったことの根本は、何よりも神をことばを退けている罪、それこそ神を神としてあがめていない表れである=不敬の罪、(これを不従順の罪と書かれていないことはまた意味があることですね。)
によって引き起こされたものではないでしょうか。

ダビデが神の定められた方法で神の箱を運ばなかった罪は、それを語っておられる方を拒む罪。
「語っておられる方を拒まないように注意しなさい。なぜなら、地上においても、警告を与えた方を拒んだ彼らが処罰を免れることができなかったとすれば、まして天から語っておられる方に背を向ける私たちが、処罰を免れることができないのは当然ではありませんか。」

 まことによる礼拝は、人間が好き勝手に神をあがめるということではなく、神が定められたお方、御子キリストイエスの中にあって捧げられることを通してのみ、神が神として栄光をお受けになられるのだということを神によって教えられ、神をあがめることが出来る人は幸いですね。

ダビデの罪から発した不敬の罪から 主はあえて牛に(命じて?)契約の箱をひっくり返されようとされた。
箱を担ぐだけのケハテ族すら、直接契約の箱に触れることすら許されてはいませんでした。
触れることは死を意味しています。

「宿営が進むときは、アロンとその子らが聖なるものと聖所のすべての器具をおおい終わって、その後にケハテ族がはいって来て、これらを運ばなければならない。彼らが聖なるものに触れて死なないためである。これらは会見の天幕で、ケハテ族のになうものである。」民数4

それなのに、ウザは決して触れてはいけない箱に手を伸ばしたのです。
人間の感覚で落っこちるから手を出したんじゃん、などと言うことは、契約の箱について何も知らない人が考えることばです。

よって、ダビデやウザ・・主の言葉を知っていたはずの彼らの行動のすべてが、神を神としてあがめていない行動の表れだったことがわかります。

 ウザの上に神の怒りがくだった。
これはけっしてウザだけにくだった怒りではない。
ウザの事件から主に罪を犯したことをダビデは感じたのか、ダビデは神の御顔を避けた(神の箱を避けた)のではないでしょうか。

 その日ダビデは主を恐れて言った。「主の箱を、私のところにお迎えすることはできない。」ダビデは主の箱を彼のところ、ダビデの町に移したくなかったので、ガテ人オベデ・エドムの家にそれを回した。 サムエル記第二・6章9節、10節

 ウザの出来事の真理を知ることを通して、改めて吟味することが出来ると信じます。 
コメント (2)
この記事をはてなブックマークに追加

「ダビデとウザ」の誤りについて

2011-07-28 15:00:20 | Weblog

 先日の集まりにおいて、このブログで過去に掲載した「ダビデとウザ」という文中の間違いに対して、主が兄弟姉妹を通して導きを与えてくださいました。
その指摘は人から人へと渡って、とても分かり易く私に帰って来ました。

みことばを語り伝えて行くとき、主は忍耐をしてくださっている事をいつも感じています。でも、感じているというレベルではなく、よく吟味をして主のみことばを伝えるべきであると、改めて知らされました。

 ウザの罪は、神様の律法を軽く見たダビデから出たことであり、ダビデの罪はそのダビデの選択を正しいと見た全員にもあるのです。主を軽んじたのはウザだけではなく、ダビデにもあり、賛成をした者にもありました。
私はこうした聖書の記述に注意を払うべきでした。

そもそも私が、あの中でダビデを正しいとしたことは、聖書のことばに対して不注意であり、全体を通して見ず、自分の好みにあった部分を取り出してしまったからだと思います。
私は喜び踊るダビデの姿が大好きなのです。

 主は、ある人には私の誤りを覆っていてくださったのだと思います。でも、あからさまにされたときに、覆いよりも神と人の愛の真実を感じています。
恐れるべきは、旧約聖書において、ウザが落とすまいと手を触れただけで不敬の罪で殺されなければならなかったほどの神の箱が、今はみことばとして、私たちの手に委ねられてあることだと気づかされました。神様の赦しと忍耐の中で・・。

それにしても、みことばをこのように分かち合うことを赦していて下さる主に感動しています。集った者だけではなく、その場にいない方からも教わることができて、恵みを頂く事はとても幸いです。感謝いたします。

きっとこれからも間違いを犯すでしょう。でも、再びこのように交わりの中でみことばを分かち合って下さるなら、それもいいなぁ・・なんて懲りていませんね。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

ふたつの交わり

2011-07-27 19:46:18 | Weblog


月曜日は、何時もの火曜日の形のままにお客様方も交わって下さった。
キリスト者の交わりは心地よくて楽しい。なぜならそこにイエスさまが見えるから・・。
それぞれ自分の言葉でみことばを語り、イエスさまをほめたたえ続ける場所、イエスさまが解き明かしてくださる所は、光りの中に居るような明るい喜びに満ちている。

そりゃ・・すべての言葉が完全に通じ合うわけではなくて、少々もどかしく感じるときがあり、変な間違いがあったりしても、イエスさまは待っていてくださる。絶望しなくても良いのだから。
イエスさまは、時をかけてすべての誤りや誤解からも、主を知ることができるように導いていて下さるという望みがある。イエスさまに希望がある楽しさ。


今日、スーパーでAさんにばったり出会った。
彼女いわく、「ねえ、遊びに来て・・イエスさまだけの関係ではなくて、もっと普通の友人として行き来したい。」
「つまりイエスさま抜きにしてってこと?」
「イエスさまのことを知りたかったら、あなたにではなくても、教会に行けばよいわけでしょう。
私はイエスさまは今も変わらずに信じ居るけれど、信仰を反対している主人を裏切るような気がして、聖書をもってあなたの所に行くことはなんだかしたくない。もっと普通のお友達ということで、行くのだったら主人にも悪くないし・・
そんな中でもっと自然にイエスさまのことを知ることが出来ると思うから・・」

「でも、それだったら私が尋ねていくときは、心にイエスさまを伝えたいという企みを、ご主人に隠して行くってことになるね。私にはそれはできないわ。
私はイエスさまのことを抜きにしたら、おしゃべりをしても何もないよ。Aさんにイエスさまが必要になるまで私は待っているわ。今は必要が無いと言うことだと思うから・・。イエスさまを抜きにされたら私は抜け殻だよ・・。」

分かれた後なんだかすごく悲しくなった。困難なとき彼女はあれほど熱心に聖書のお話を求めていたのに・・。今はなにひとつ不自由のない中で、自分好みの関係を求めている。
単車で走りながら「主よ。彼女をお赦し下さい。彼女が何を否んでいるのか知ることが出来ますように。」と祈る・・。

「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。」ピリピ1:21
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

「すがりついていてはいけません」 (ヨハネ20章から)

2011-07-26 09:53:38 | Weblog


 マグダラのマリヤは暗い内から墓にやってきました。きっとひと晩中まんじりともせず朝を待っていたのでしょう。
ペテロたちが帰ってもマリヤは墓に留まって泣いていました。主を求めて御声を聞くまで其処に留まることは、主への執着であると思います。
クリスチャンが唯一執着するのは、イエスさまにお会いすること、御声を聞くことであると思います。

私たちは御声を聞かずに信じることはできません。イエスさまは「見ずに信じる者は幸いだ」と教えられましたが、みことばを聞くことによってのみ、見ずに信じることが可能です。
なぜなら、みことばを聞いて従って行くときに、霊の目には主が見えてくるからです。人は、みことばを生きる時主を見つけます。

 イエスさまはマリヤの後ろから声をかけられました。振り向いてお姿を見てもそれが主とは分からなかったのです。見ることによって信じることができず、聞き慣れたことばで名前を呼ばれたときに、はっきりとイエスさまを知ることができました。

良いときも悪いときも、絶望の十字架の側ででも、主と居て御声を聞いていないと、大切なときに呼んで下さっても、それが主の御声だとわからないのです。主との間に、聞き慣れたことばの関係があることが大切です。

主の語りかけは、ひとり一人にそれぞれ違うと思います。何時も誰か人を通して教えてもらうだけでは、いつまで経っても主の御声を覚えることはできません。
恐れず聖霊の導きによって、ひとり聖書を読むことは大切だと思います。
いつもイエスさまの御声は細い声です。何かに夢中になっていては気が付かないほどの・・。静まらないと聞こえないような声だからです。

あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから「これが道だ。これに歩め。」と言うことばを聞く。(イザヤ30:21)

地震のあとに火があったが、火の中にも主はおられなかった。火のあとに、かすかな細い声があった。(Ⅰ列王記19:12)


 
 イエスさまは「すがりついていてはいけません」とおっしゃいました。
私は自分の成すべき事を避けて、ただ主にすがりついて過ごしたい方です。勇気がなくて臆病だからです。
でも、「行って、わたしを伝えなさい」と言われます。主が必要を満たしていて下さいますから、自分の足で歩いて自分で聴いたことを伝えるべきなのです。

「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」
そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。」

聖霊のバプテスマはこの後、イエスさまが天に帰られてからのことなのですが、平安を得るために、また、遣わされた働きのために、イエスさまが聖霊の息を吹き込んでくださいました。
みことばのための必要は、ご真実な主がすべて備えて下さいます。

これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることをあなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。

みことばを深く感謝いたします。イエスさまが神の御子であることを信じます。イエスの御名によって永遠のいのちを得させて頂いたことを、深く感謝いたします。アーメン
コメント (4)
この記事をはてなブックマークに追加

百足

2011-07-17 19:54:36 | Weblog

昨夜足の指に痛みが走って飛び起きた。電気を付けると、青いシーツに真っ赤なムカデを見つけた。
時に我が家に忍び込んでくる真夏の嫌な奴。慌てふためいて戦おうとしたけれど、私の部屋には何の武器もなく、スリッパさえない。

敵は、見ている間に悠々と隙間ににげこんでしまった。猛然と階下に駆け下り、キンチョールをもって来て辺り構わずまき散らしていると、ゴソゴソと音をたてて這い出してきた。

棒立ちになって様子を覗き込んでいると、そのうちに動かなくなった。もう大丈夫だろうと思ったけれど、とても眠れそうにないほど胸がドキドキしているので、再び階下の主人を起こしに行き、事態に巻き込むことにした。
主人は眠そうな目で火箸を持って来て捨ててくれた。興奮して話す私の話を聞いて「大丈夫か」とちょっと同情もしてくれた。

それでやっと落ち着き、扇風機で殺虫剤を追い出し、眠ろうと努力をしたけれど足を伸ばすのも恐くて、とても寝付けそうにもない。刺されたところは、薬ですぐに痛みはなくなったのだけれど・・。

 眠れないのでラジオをつけたところ、懐かしい石原裕次郎の歌が流れてきて、次々と聞き入る内にいよいよ眠れなくなってしまった。
ムカデの恐怖はお陰で消えてしまったのだけれど・・。

それにしても足のない蛇の次は百足とは・・笑ってしまったけれど、ふっと必要以上には要らないんだなぁって思った。
たとえ霊的なことに関しても、むさぼらず、主の赦しの中にとどまろう・・。


「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」(ガラテヤ5:16)
コメント (4)
この記事をはてなブックマークに追加

2011-07-15 12:17:37 | Weblog

 ウオーキング中に出会った小学生に、「おはよう!」と声を掛けると、「おはようございます」ってきちんと挨拶が返ってきたので、小さなランドセル姿がなんだか愛おしいなぁと思った。
少し先の辻には、老人会のおっちゃんが見守りをしておられる。

 そんなことに気を取られて居たとき、ふと足元に目を落とし、声を出すことも出来なくなって固まってしまった。毒々しい色の蛇が数歩先で、車に轢かれて丸くなって死んでいた。私は息が詰まるほど胸がドキドキした。

少し行くとおっちゃんが、「ウオーキングですか」って声を掛けてくださったので、「はい・・あ~びっくりした。そこで、蛇が死んでいたんです。」変な返事をしてしまった。
「ああ、綺麗やからハビやなぁ、今年は多いよ。」なんて話しをしてくださって、私も落ち着くことができて「見守りご苦労様です。」って、やっとまともな挨拶をすることができた。

 死んだ蛇が恐いのは変だ。ハビは恐ろしい毒を持っているけれど、死んでいることがはっきりしているのだから恐れることはないはず・・。
でも、その事実を知っていても私はすごく恐い。蛇はとっても嫌、死んでいても、脱皮をした皮でも嫌。蛇の絵も蛇の柄も大嫌い。
嫌うのは良いけれど・・・みことばは恐れるなと繰り返し教える。


あなたは、獅子とコブラとを踏みつけ、若獅子と蛇とを踏みにじろう。(詩篇91:13)

蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず・・(マルコ16:18)

確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。(ルカ10:19)



昨夜は・・・
月光の 床にまどろむ 夢の中 かぐや姫なり 主の待つ宙で  
コメント (6)
この記事をはてなブックマークに追加

「良くなりたいのか?欲しいのか?」

2011-07-14 14:34:49 | Weblog

 エアコンの見積もりは無事に終わったが、一つの部品が特別な物らしくて、後に取り寄せになると言ったきり連絡がなくなった。
息子は「会社では、物事の進捗状況は日々報告するべきものだ。」と言うが、私は「駄目なら駄目でも良いよ。どうもリアル感がないもの・・」なんて思ってしまう。

しかし、昨日可笑しいことに、「不正な裁判官」(ルカ18:3~5)の聖書箇所が浮かんで消えなかった。「つまり、不正な裁判官さえも動かすほどのやもめの熱心。ああ、そういうことかなぁ・・」と思っても、まだグズグズしていたけれど、午後になってピシッとおしりを叩くように電話をすることを促された。

それは「欲しいのか?欲しくないのか」ということ。
「そりゃぁ涼しく眠れる気持ちの良い所に孫達を迎えたいし・・お客様も迎えたい。つまり必要なんだ。」「それなら、それで動け!」そんな感じ。

 しぶしぶ電話をしてお店に状況を話すと、後に折り返し係の人の聞き慣れた声で掛かってきた。時々話しをすり替えているように思える箇所があるけれど、どうも彼は憎めない。「何があっても、あなたの味方です。」と人の心に上手に入ってくる。さすがプロだなぁ・・なんて変な感心をしてしまった。

工事の人の連絡不足があったとのことで、幾度か電話のやりとりの後に工事日が確定した。その日は息子が工事を見守る事ができる願ってもない日だった!
なにしろ彼は何かとうるさくて、私一人に任されてはたまらないと思っていたから・・。私は交渉事が嫌いなのだ。


 昨日もうひとつ、私に言葉の力を主は見せて下さった。
先日スーパーで買ったサンダルを家で履いてみると、予想外にヒールが高くて、私にはとても履けないことに気づいた。
タグを切ってしまっていたし、一旦は仕方がないうっかりした罰だと諦めたけれど、思い直してスーパーで取り替えて貰えないか交渉してみようと置いていたものを、買い物のついでに持って出かけた。工事の交渉が上手く行って、ちょっとばかり自信がついたから・・。

レジで申し出てみると「大丈夫ですよ。タグは付け替えれば済みますから。」ということで快く返金して下さった。私を見て「なるほど無理だろうな」と思われたのかも知れないけれど・・、さわやかな解決となって、思わずふっとイエスさまを見上げた。

 今までも、「イエスさまにすべてをお任せして・・」と言っては、苦手なことから逃げようとする私を、どれほど忍耐強く主は導いて与え下さったことだろう。
旧約聖書では、神がすでに与えられた土地をであっても、イスラエルはそれを自分達のものとするには、信仰を持って祈り、知恵を尽くして考え、勇気を持って戦って取っていかなければならならなかった。それが主と共に生きると言うことなんだろうな・・。


またイザヤは大胆にこう言っています。「わたしは、わたしを求めない者に見いだされ、わたしをたずねない者に自分を現わした。」(ローマ10:20)

コメント (8)
この記事をはてなブックマークに追加

十字架につけろ (ヨハネ19章)

2011-07-12 11:28:43 | Weblog
 

 律法には「殺してはならない」と書かれていますから、ユダヤ人が死を言い渡すことはできないのです。
彼らがイエスさまを、「自分を神だと言った。」と言うことで、神への冒涜により死刑にすると言うなら律法を守るためであるはずです。

しかし、彼らはイエスさまを十字架で殺し、律法の「殺すな」という命令を蔑ろ(ないがしろ)にしました。たとえユダヤ人自身で判決を言い渡さなくても、異邦人を利用して律法を骨抜きにしたのです。人はこのように、自分の都合で神の命令さえもねじ曲げ、その矛盾に気づかない鈍感な者です。

「そこでピラトは、そのとき、イエスを、十字架につけるため彼らに引き渡した。」と書いてありますから、彼らが殺したのです。たとえ実際はローマ兵が手を下したとしても、彼ら自身が無実のイエス・キリストを、一つになって叫び十字架にかけたのです。

 イエスさまこそが王の王です。でも、その王様は茨の冠でした。むち打たれ傷つき痛めつけられて、イエスさまはユダヤ人の前に引き出されました。
このようなイエスさまのお姿を見た民衆は、憐れむこともなく「十字架につけろ」と叫びます。

「ホサナ ホサナ」と喜び迎えた方を、どうして「十字架につけろ」ということになったのでしょうか、それは、その時のイエスさまのお姿が彼らの気に入らなかったからでしょう。
イエスさまの打たれ、弱々しいお姿は憐れであり見栄えがしなかったからです。
そのような王は彼らには恥だったので、彼らは「カイザルのほかに王はない」と選択したのです。

 人には知性や良心はあるのですが、煽られ感情をかき立てられ、人の肉性がむき出しになるとき、それらは何の役にも立ちません。
異教の祭りや催しの中にもこのようなエネルギーをみることが出来ます。

その時人はバベルの塔を建てた時のように、ひとつになって叫び、力を合わせて働きます。それは神に逆らう時に吹き出す肉の力が強烈だからです。
しかも感情は揺さぶられ、それが素晴らしいことのように思え、美しいことのようにさえ見えるのです。

 信仰においてはみんなでいっせいに神に従順する事はありません。ひとり一人イエスさまと向き合って進む時に、同じ御霊の働きによって、神の計画を成す歩みとなって行くのだと思います。
むしろ、その計画が始まったときには恐れ戸惑うものです。一人神の前に決断して従順しなければならないからです。

人はその計画を知らないからです。でも、ヨシュア達の行く手にを遮り、神の計画を遮っていたヨルダン川の水が目の前で引いて道が開けたように、主によって一歩踏み出すとき、その全容を聖霊は示してくださるのだと思います。


イエスさまが人の形を取られるときに、すでに備えられていた十字架の準備は、イエスさまの謙遜なお姿にあったのだと思います。
旧約聖書の中で、神が人に王様を立てられるときの選びは、サウルもダビデも美しい姿でした。人の肉性は美しい形が好きなことをご存じだからです。

しかし、イエスさまは人が見とれるような姿形ではなかったと書かれています。
ユダだけが十字架のための備えではなくて、イエスさまのそうした様子が、すでに十字架に対する備えであったと思います。人は知性や理性で選ぶのではなく、感情によって選ぶ者だからです。

彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。

彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。(イザヤ53:2~3)


神は、イエスさまが人の感情に受け入れられるようには造られなかったのです。それが、十字架への備えであったことは、最後に「十字架につけろ」という、理不尽な叫びに見ることが出来ると思います。


 信仰もややもすれば荘厳な教会堂や、優しい牧師先生との交わり、兄弟姉妹の愛が中心となって、そんな人の感情によってふわりと包まれて、信仰生活の月日が気持ちよく流れて行くことになりますが、それは一皮剥けばイエスさま抜きの人間同士の寄り合い、世的な仕組みにであったりすることにもなります。

ピラトは「私にはあなたを釈放する権威があり、また十字架につける権威があることを、知らないのですか。」と言っていますが、彼はユダヤ人を恐れ、イエスさまを恐れています。彼には何の自由もなかったのです。
ただ、神の計画のままに、イエスさまを十字架に渡すほかなかったのです。

人は神を離れて、「私は自由だ」と勘違いをします。しかし、神を離れた者にはは何の自由もありません。彼らは自分の選択によって、がんじがらめであることに気づいていないだけです。
彼らが滅びるのは神にはよらず、彼ら自身の選びによるのです。


彼女と、イエスさまを「十字架につけろ!」と叫ぶような、自分ではどうしようもない感情の悩みについて話し合った。
「良くなりたいのに・・」
「たぶんそれは無理でしょう。それが出来るのだったら十字架は要らないもの。」

自分を見つめていないで十字架に安息し、イエスさまに感謝をしながら生きましょうと・・、もうすぐこのやっかいな肉からも解放されるのだからなんて、老人ならではの希望を分かち合ったり・・(笑い)

そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。
すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、
私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。
私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。
私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。(ローマ7:21~25)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加