石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

暑いね

2011-06-30 15:21:20 | Weblog

オーブンの中に閉じ込められて居るみたい、まだ、梅雨だというけれど・・、お空は雲一つ無くて、連日暴力的な陽差しがギラギラ・・。

ところが主人は、週2回の点滴をしながらも超元気で、屋根の補修を完了した後、次の仕事に出かけて行った。
「ドーピングは違反だよ。点滴しながらそんなに仕事してたらあかんよ。」と、何とか手綱を締めようとしても壊れたブレーキ状態で、昨日は、暑い中の草刈りに本当に心配をした。
祈りと共に「 昼も、日が、あなたを打つことがなく、夜も、月が、あなたを打つことはない。」と、みことばを思い起こさせて下さって、すべて主の御手の内にあることに平安を得た。

そもそも、暑さには強い人なのだけれど・・次々と持ち込まれる仕事を引き受けては、生き生きと汗にまみれて働いている。そうして得たささやかでも貴重な手間賃を、ちょっと誇らしげに手渡してくれる。

これはイエスさまが守ってお与え下さったものであり、主人のプライドがかかっているお金だと素直に感謝。
でも、私はそんな主人のまわりに居て、実はちょっと疲れている。主人は高血圧、私は低血圧なのだ。

ギラギラお日様はまだこれから・・何もかも少しずつ変だし、あまり真っ正面から受け取るとパニックになりそうな世の中。
何時だか知らないけれど、どのようにしてかも知らないけれど、神様のご計画は必ず成るだろう。今朝のお祈りの中で、私はそのすべてに「アーメン」と申し上げた。
そうして、イエスさまのその砦で、その大庭で、その御翼の影に伏せっている。


なぜなら、信者でない夫は妻によって聖められており、また、信者でない妻も信者の夫によって聖められているからです。そうでなかったら、あなたがたの子どもは汚れているわけです。ところが、現に聖いのです。(Ⅰコリント7:14)ハレルヤ!
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失敗(ペテロとユダ)

2011-06-29 11:48:32 | Weblog

 火曜日の交わりのことで、ヨハネ18章をどのように・・って悩んでいたけれど、ユダのこと、ペテロのこと、イエスさまのことと、3回に分けるように導かれた。
昨日はペテロのことを中心に交わった。

 彼女は此処で、思わず「私だったらどんなことがあっても、イエスさまを知らないなんて言わない。」と言われて、「それは、ペテロと一緒ね。」って笑ったのだけれど、真面目にそう言い切る彼女が、なんだかとても微笑ましかった。
きっと、イエスさまもそのように御覧になってくださっているのだろうなぁ・・。

人は誰でも失敗をする、軽々に語って失敗をする。また、はっきりと語らなければならない所で、黙ってしまって失敗をする。
ペテロの失敗は、いつもイエスさまの御前での失敗だった。イエスさまを求めて求めての失敗だった。イエスさまは、どれほど彼をいとおしまれたことだろう・・。

 ユダの失敗は違っていた。ユダはイエスさまを離れて闇に出て行って犯す失敗。そうして、最後は自分で失敗を償おうとした。・・でも、それは地所を汚れた血で汚しただけの行為。なんと憐れなことだろう。

ユダは確かに彼の働きがありそれをした。けれども、イエスさまは彼を使い捨ての道具のようには扱ってはおられなかった。
最後の最後に「友よ。」と言われた神は、人を使い捨てるようなお方ではない。人が神を使い捨てるのだ。

ペテロは失敗をして、激しい後悔の中に居ても、イエスさまへの望みを失うことはなかった。それは彼がいつも側にいて主をよく知っており、イエスさまのみことばを覚えており、祈りのことばを聴いていたから・・。彼は自分の失敗を自力で取り戻そうとはしなかった。主の御手にすべての裁きを委ねて待っていた。

そうして、ペテロは聖霊を受けて生まれ変わった。
彼の、「あなたのためなら、いのちも捨てます。」その告白のとおり、彼は愛するイエスにすべてを捧げた。そのことを主がさせて下さった。
ペテロにもし、失敗がなかったらどうだったのだろうと思う。
失敗なんてちっとも恐くはない。ただ一つのこと「主に在って」このことがすべてだけれど。


あなたのいつくしみは、なんと大きいことでしょう。あなたはそれを、あなたを恐れる者のためにたくわえ、あなたに身を避ける者のために人の子の前で、それを備えられました。(詩編31:19)
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日曜日

2011-06-27 09:35:08 | Weblog

 今日、礼拝中の教会の下を単車で通り抜けてお買い物。こんな事をするようになるなんて数年前には考えられなかった・・。
あの頃は日曜礼拝、祈祷会を守り、そっと献金をし奉仕も黙々としていた。
聖書はあやまりがないように解説書を通して通読をし、祈りの要請にはたとえ知らぬ人の事柄であっても祈り、教会員として私の分をこなしていた。

あの頃のことは、私の中の懐かしい歴史ではある。そうして、主は沢山の祈りにも答えてくださった。
「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」 (詩編103:2)

でも、徐々にそのような信仰は、主によって追い詰められて行き、現実にはすべてがちぐはぐなものになって行った。
何時からか私の心の奥には、主の「no」が聞こえていた。そうして、何がnoなのかもわかって来ていた。

「形にあぐらをかくことを止めなさい。お前は何一つ選択しては居ない。何も捧げては居ない。人に頼ることを止めなさい。人の組織にしがみついていてはいけない、自分の責任によって選び取りなさい。選択によって自分の十字架を負いなさい。わたしだけを頼みとしなさい。」と・・

そうして20年以上居た母教会を出た。あれやこれやと問題はあったけれど、私には関係のないことだったが、それ以前から主によって、私の居場所はそこにはなくなっていたから・・。
教えられた通りにした結果の責任は教えた人にある。言われたとおりにした結果の責任も言いつけた人にある。

しかし、自分の判断でしたことはすべて自分の責任であり、その結果はひとりで負うことになる。だから、自分自身で選び取ることは何であれ恐ろしい。
もっとも、主に従順したときにはひとりではなかった。いつだってイエスさまが共に居て下さった。だから、一度そのことを経験するとき、もう恐れることはないのだけれど・・。

信仰生活は、人に教わり誰かが責任をとってくれる安全圏のなかで終始するものではない。そんなつまらないものではない事を知った。
年寄りにだって、主に賭ける勇敢な人生が経験出来るのであり、主を独り占めしていると勘違いするほどに、日々神の祝福を味わうことができるものである。

 自分の責任で聖書を読むとき、聖霊の導きにより頼む。そのときに読み間違ってしまったとしたらその責任は聖霊?でも、聖霊は間違えないのだから、それは聞き間違った私の責任なのだけれど・・。
私を知り尽くす賢い聖霊の介在の中にあるのだから、その間違いを通して、主が時間と手間を掛けて、私に大切な真実を知らせて下さる道中なのかも知れない。それは簡単には分からないけれど・・。

しかし、ひとりでその作業をするときは、誤りあり、赤っ恥あり、人を傷つけてしまうような失敗もあり得る。
イエスさまが共に居て下さるからと言って、その時矢面に立つのは自分自身でしかない。しかし、それすらもイエスさまの赦しの中にあって、自分自身を自分で守ろうとさえしなければ、主が私を育てて下さる。主はご真実なお方なのだから。

信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いて下さる方であることとを、信じなければならないのです。(ヘブル11:6)

でも人の導きを頼りにしていては、少々の違和感があっても聞き咎めないという逃げ癖が付いてしまい、主が命じておられる事柄に対して耳をふさぐようになってしまう。
ペテロでさえも人を恐れると、主を否むところに落ちて行った。

私初めはそんなことをしていた。
伝道で、その手引き書を用いることに違和感があったにもかかわらず、牧師さんに勧められるままに漫然と用いてしまい、大切な時を浪費してしまったことがある。
あの時、聖霊の導きは自分の言葉で伝えなさいだった。

でも私は、聖霊のことばに従うよりも人に従った。神を恐れず、人を恐れて伝道をするなんてなんと愚かなことだろう・・。私の恐れは自分の無学にもあった。偉い先生が書かれた本の方が良いに決まっている。「私は教え方なんて誰にも習ったことがないのだから・・。」と・・。

しかし、聖書はそれを負うときに、開かれて行くものであることを後に知った。知っているから語るのではなく、伝えようと負ったときに必要が満たされ、語る言葉が与えられると言うことを・・。

言うべきことは、そのときに聖霊が教えてくださるからです。(ルカ12:12)

信仰生活は生きているすべての時が主と共にあって、そのいのちのど真ん中にあり、曜日でもなく、何時からでもなく、何をしたからでもなく、何をしないからでもない。
すべての自由の中で、ただ、命のある限り「アーメン」と主を選び取る、その準備の連続なのだと今思っている。

あなたがたのばあいは、キリストから受けた注ぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるように、・・その教えは真理であって偽りではありません。・・また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです。(Ⅰヨハネ2:27)
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奴隷

2011-06-25 11:05:24 | Weblog


「こんにちは、梅屋です。」親しげに声を掛けてきたのは、どうやら近くで梅を生産している農家の人らしい。
その時ハッと気づいたのは、そういえば・・と先日漬けた梅のこと。何時もなら側に置いてずっと見張っているのだけれど、今年は水をあげたところでさっさと仕舞っていた。

さっそく出して来て、蓋を開けるなり白いものが目に入った「カビだ!」やはりと言う気持ち。やる気のない時にはこうなるわけ。
全部さっさと捨てて、来年のために瓶を塩素消毒する。

私は塩を一割しか入れないから、ほとんど姿は見えなくなる。そのかわり、氷砂糖を徐々にわけて一割入れる。出来はまろやかで美味しい。一度ちゃんと漬かると何年も置ける。この間まで食べていたのは3年前に漬けたものだった。

始めに焼酎で消毒をするのだけれど、今年は少しだからと手抜きをしたからなぁ・・
そもそも漬ける前にこの小梅は性が悪かった。綺麗に見えたし、主人が漬けろといったので慌てて買ってしまったのだけれど、腐れが入っていた。

来年からは良く吟味して買おう。高い授業料だったけれど・・。そもそも初めから気乗りしなかった。言われるままのおざなりだった。
年を取れば、やる気がしない時は頼まれても断ることも必要だ、覚えておこう。

それはそうと、この辺では、「梅を腐らせると悪い事が起こる。」と言われている。それで思い切った減塩ができない人もおられる。
ふっと、そんな言い伝えが頭をよぎった。
直ちに「イエスさま!」光よりも早くお返事が来る「平安があるように」「アーメン」

主人は昨日も今日も、朝のうちだけ大屋根で塗料を塗るなど修理をしている。年を取っての高所の作業はとても危険なのだけれど、本人はいたって平気。
本当にイエスさまを知らなかったら、どれほど喧嘩をしていたことだろう・・。どれほど主人を縛っていただろう・・。


そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。
ですから、あなたがたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です。
しかし、神を知らなかった当時、あなたがたは本来は神でない神々の奴隷でした。
ところが、今では神を知っているのに、いや、むしろ神に知られているのに、どうしてあの無力、無価値の幼稚な教えに逆戻りして、再び新たにその奴隷になろうとするのですか。(ガラテヤ4:6~9)
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「友よ」

2011-06-20 14:50:10 | Weblog


ああ、梅雨ど真ん中シトシト・・シトシト・・ある時は糸のように・・ある時は激しい音を立てて降っている。今年の梅雨は脇目もふらぬ真面目型?

紫陽花が、白からピンクに変わってゆく、どんどん大輪になり日に日に色を濃くして行く。
サツキは大きな白い花びらに雫をためて、「栄冠」というその名のままに我が世の春。紅を差すような赤が混じっていて可愛い。

苔の色も鮮やかに、環境の悪い庭でしばし安らいでいる。
雨に降り込められて・・洗濯物のぶら下がった隙間から見る猫の額の庭にさえも、神様の慰めも癒しもあふれている。嬉しいこと・・。

それでも、実は追い詰められている私。明日の準備が出来ていない。聖書を読む度に伝えなければならないことが、次々と広がって行くから収拾が付かなくなっている。アハハ・・頭の悪い証拠。
でもね、イエスさまは賢いお方だから[ギブアップすれば良いのだけれど・・、とはいえ・・追い詰められている?


イエスを裏切る者(ユダ)は、彼らと合図を決めて、「私が口づけをするのが、その人だ。その人をつかまえるのだ。」と言っておいた。
それで、彼はすぐにイエスに近づき、「先生。お元気で。」と言って、口づけした。
イエスは彼に、「友よ。何のために来たのですか。」と言われた。(マタイ26:49~50)


ユダが心に企みを持って、イエスさまに偽りの挨拶をしたときも、イエスさまのお言葉は真実だった。ユダが引き返せるようにと愛のあるお言葉だったけれど、ユダにはとてもまぬけな言葉と聞こえただろう・・。

愛のある言葉が、時には間抜けた言葉に聞こえることがある。堪えてなを愛そうとする様が、愚かしく思えることもある。恐ろしい事だと思う。

十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。(Ⅰコリント1:18)
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待つこと

2011-06-18 00:26:08 | Weblog


 買い物をしていると、こちらに歩いてこられる人の中に親しい顔を見て、互いに笑顔で「お久しぶり!」と言うことになった。
彼女とは聖書を開いて向き合った仲。それももう10数年になるかな・・断続的にそんなことが続いている。彼女の気の向くままに・・。

最近ちょっと気になっていて、何か信号を送ってみようかな・・と考えていた所だった。でも、彼女は意外なことを言った。
「一度私の家に来て欲しい。何時もいつも、私は一方的にしてもらってばかりで・・、それって気がしんどいことでしょう・・」と言う。
「つまり借りを返したいと言うこと?」
「えっ・・」それから彼女は大笑い。
「だから、家まで取りに来いってこと?」再び大笑い・・。

でも、行く約束はしなかった・・。
私はイエスさまを伝える事以外は、彼女に何もして上げた覚えはない。イエスさまを伝えることは、むしろ貸しではなくて私には借りなのに。

また、彼女にとっては絶対に返し得ないのが福音。どんなにしんどくても受け続けることが、救いの条件なのだから。
イエスさまの十字架の恵みを、どのような代価を持って支払うというのか・・。

 親切なら彼女のしたいことを受けて、それから事をわけて話すことで次に進むのかなぁ・・。
でも、私の中で何かが「違う」と言う。それはむしろ回り道だと・・、曖昧の中にすでに何年も経ってしまった。
電話があったら、「待っているから来てね。続きをお話しするから。」と言うことにしよう。

信仰のことは、ことをわけて話して分かることではないから。渇いていたら、たとえどのような理由があっても来ることになるだろう。
何時も、例え夕食前であっても、彼女が来られたら喜んで聖書を開いて来た。祈りつつ待とう、それで良いのだと思う。


私は、ギリシヤ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています。(ローマ1:14)
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一つ

2011-06-16 14:32:53 | Weblog


 イエスさまは十字架を前にして世に残す弟子たちと、後に宣教のことばによって救われる私たちのために祈って下さった。その祈りの中にある「一つ」というとこば・・

「わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。」(ヨハネ17:11)

この「一つ」とは、父なる神と子なるイエス・キリストの完全な一致、それほどの一つ。
そのような関係を、人は誰も経験したことがないだろう。罪のある身には、そのように一致する事はないだろうと思う・・。

 確かに人だって皆で一緒に、ワッショイワッショイと一つになることは好きである。バベルの塔だって人は一つになって「われわれの名」をあげようとした。
国が一つになって応援をするオリンピックや、博覧会や宇宙科学を競うときも皆で一緒に喜び合ったりもする。

戦争は一つを強要するし、あらゆる宗教も一つになって、教祖や、団体の名を上げようと立派な組織を建て上げる。
人が一つになるときには何かの目的があり、その目的に向かって一致している。それは綺麗に覆われていても、探れば大概人の欲望が見えてくる。

 主の祈られた「神の一つ」が、これらの「人の一つ」と同じわけがないと思う。
私たちはイエスさまの祈りによって、悪から守られ、愛の中に保たれているのであって、私たちの行いによるのではないように、
父と子の神が一つであるような、人には知りようもないほどの「一つ」は、ただ、イエスさまの祈りによって完成し、すでに備えられているものなのだろう・・。

確かに・・出会ったばかりの人に、なんとも懐かしくも慕わしいキリストの香りを感じて、無条件に心を開き、霊の深い交わりに憩うことがあるけれど、それはきっとイエスさまが祈り備えてくださった「神の一つ」なのだろうなぁ・・。


「わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。」(ヨハネ17:23)
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今・・

2011-06-14 15:01:39 | Weblog


実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、
規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、 十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。

キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。
それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。

従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、
使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、
キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。
キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。 (新共同訳 エフェソ2:14~22)



私たち、異邦人さえも顧みたもうイエスさま。
聖霊の臨在により、私たちを一つに繋いで、私たちのうちに神の御住まいをお建てになりました。
すべてはこれから始まるのです!
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天理カナン教会で礼拝

2011-06-13 18:15:27 | Weblog


久しぶりで天理カナン教会への道を歩いた。植えたばかりの早苗が綺麗に並んだ田に静かなさざ波を立てている・・。
突然、2羽の鳥が「ケッケッケッ・・」と激しく鳴きながら飛び交い、思わず見上げた雨空にその姿を見たとき、先日息子が撮ってきたばかりの写真のまま、見知った特徴のある羽の色に「あ、ケリ・・」と識別することが出来てちょっと嬉しかった。我が家の近くでは見たことがなかったから・・。

途中で拾ってくださったsaltさんの車に乗せて頂いた時、「お久しぶりです。」って先に挨拶をされてしまって、私は少々狼狽えた・・。しなければならない挨拶の言葉が沢山あるはずだけれど・・どれもちょっとずつ違うようで、結局なにも準備出来ていなかったから・・。
昨夜、「明日礼拝に出席しても良いですか?」とメールをして、「待っています」というお返事を下さったので、ほっとして嬉しく出てきたのだった。

メッセージの間はずっと喜んでいた。なんども「アーメン」と主をあがめた。久しぶりに、近しく聴くみことばが浸みていった。


エペソ6章の武具、ダビデの武具、ゴリアテの武具それらは例えに過ぎず、
パウロの「キリストを着る」という言葉、「この身にキリストの焼き印を帯びているのですから。」(ガラテヤ6:17)という言葉によって、救われた私たちはイエスさまから焼き印を押された者であると、決して変質することのない私たちの立場について語られた。
救いの確かさを改めて深く知ることができて、目が開かれる思いがした。

帰りには送って下さる姉妹の車の中で、このことがどんなに素晴らしいことかと興奮して分かち合った。姉妹ともずっと会いたいと思っていたから、おしゃべりは止まらなかった。

今、先のことは私には分からないけれど、例えどんなに切迫している時であったとしても、「大事なのは新しい創造です。」なんだろうなぁ・・。
新しく生まれることを信じて待っていることは楽しみなことだから。ひとつの「終わり」だけれど、私には、主が何かを始めて下さるという希望がいつだってある。
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くちびるの実

2011-06-10 09:50:12 | Weblog


私にも愛する者はいて、彼らのことを悪く言われることは辛く悲しい。例えその時はその言葉を無視することができても、後になるほど怒りは深く腹にたまる。その根拠が私に因るならなをさらに苦しみを生む。

しかし、まったく言われもなきののしりを受けて、死刑になってくださったイエスさま。私はイエスさまによって救われた者、彼は故もなく責められることの代表となってくださった。
イエスさまを救い主と慕っているのなら、同じ道を行くことは誉れであり喜びであるはず・・そんな事実に思い巡らせていたのだけれど・・。

みことばは口には甘いけれど、腹に効く苦さゆえに、完全に消化するには時間がかかるし、助けも必要だった。「それはあなたの腹には苦いが、あなたの口には蜜のように甘い。」(黙示10:9)

 
今朝、このみことばを思い出させてくださった。
「まことに、あなたがたに告げます。人はその犯すどんな罪も赦していただけます。また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。」(マルコ3:28~29)

神を汚す言葉さえも「それはみな」赦されているのだ!
私にわだかまっていたものが、取るに足りない「しょうもないこと」だと、さらりと流れ、苦く滞っていたみことばが私の内に消化されて行った。

「大切な者だ」と私が守る必要などなかった。主にお委ねしているのだから、守ってくださるのは主。
私が握りしめては、共にみことばに沿わない道を行くことになってしまう・・。

 
「わたしはくちびるの実を創造した者。平安あれ。遠くの者にも近くの者にも平安あれ。わたしは彼をいやそう。」と主は仰せられる。(イザヤ57:19)
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