石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

助け主のこと (火曜日のために ヨハネ16章から)

2011-05-30 16:17:34 | Weblog


 イエスさまが十字架にかかって天に帰られた後、弟子たちは激しく迫害されました。その迫害者の中でもパウロ(サウロ)という人は、熱心にクリスチャンを追い回して捕まえ、牢に放り込んでいました。
彼は厚い信仰を持っていましたが、イエスさまが神の子であることを知らなかったのです。
彼はイエスさまにお出会いしてはじめて、自分のしていることが神様に敵対していることを知りました。

彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」という声を聞いた。
彼が、「主よ。あなたはどなたですか。」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。(使徒9:4)


それまで彼は、良いことをしていると思っていたのです。
この時彼は、自分に起こったことを通して、イエスさまを神と認めたのです。
彼はイエスさまに出会ってからは、何度も殺されるようなめに会いながらも、生涯イエスさまを広くイスラエル人以外にも宣べ伝えて行く重要な働きをしました。

 イエスさまは弟子たちにこれから起こることを話されますが、弟子たちはイエスさまの話される内容を受け止めかねています。
そんな中で、ご自分が共に居られるよりももっと良いことがあるのだと、弟子たちに、決して孤児にはしないことを話されたのです。

私たちと同じ肉体を持って来て下さったイエスさまは、いつでもすべての人と一緒に居ることはできません。
でもやがて来られる聖霊は、ひとり一人に来てくださり、イエスさまを信じる者と共に歩んで下さるお方です。

聖霊はイエスさまが天に帰られた後に来てくださり、三位一体の神、私たちの助け主です。イエスさまのお言葉を私たちの必要なときに解き明かし、思い出させてくださいます。絶えず、私たちにイエスさまを指し示してくださるのです。

その方だけが世にあやまちを認めさせることができ、イエス・キリストを示すことができるのです。
私たちの言葉でどんなに上手く語っても、人に罪を認めさせることはできません。聖霊によらなければ、造り主に逆らっていることは人にはわからないのです。

その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。
罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。
また、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。
さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。(ヨハネ16:8~11)


罪とは、そもそもイエス・キリストを信じないことだと書かれています。
人は罪によって死ぬのですが、イエスさまを信じることで、十字架のあがないがその人のものとなり永遠のいのちを頂く事ができます。けれども、イエスさまのあがないを信じない者の罪はそのまま残り死が罪を証明するのです。

義についてとは、神の正義は人の罪を見て見ぬ振りをすることができません。神様にとっては罪は大小ではありません。どんな罪でも罪は汚れであり、聖なる神様には受け入れることが出来ないのです。
アダムが神様に背いて以来、その罪は全人類を罪の血筋にある者としました。

神様に対して人は自分の命をもってしても、誰も罪をあがなうことができません。人はみな罪人であり、罪の中に生まれ、日々思いの中ででも、罪を犯しつつ生きているのが人だからです。その死は罪の報いに過ぎないのです。
聖書に「義人は居ない。ひとりもいない。」と書かれています。

そこで愛の神様は、ご自分のひとり子、罪の血筋ではないひとりの人を、救い主として世に贈って下さったのです。罪のない人だけが罪を身代わりに負うことができるからです。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)

神様は、ひとり子イエスを人の世に送り、十字架の恥と痛みにさらして、人類の罪を十字架で処罰してくださいました。
そのようにして罪に死ぬべき人の運命、また、生きる間も良心に責められる苦しみから、私たちを解放してくださいました。

イエスさまがすべてのことを終えて、御父の元に帰られたことで神様の義は成立し、今私たちイエスさまを信じる者は、永遠のいのちを与えられ、父なる神様に子として受け入れられました。

「アバ父」と神様を呼び、なんでも祈り求めてるようにとイエスさまは命じています。
イエスさまが御父に従順してくださったことにより、一方的に頂いた永遠のいのちであり、いつも祈り、何でも求めることが出来ると、神様とイエスさまを信じる私たちの間に親子関係が成立したのです。

さばきについてとは、この世を支配していたサタンがイエス・キリストによって、裁かれたことです。
サタンは今もこの世を支配していますが、彼は滅びの執行を猶予されているだけなのです。すでに彼の永遠の滅びの刑は決定しています。だから、私たちは神様を愛し、神様を恐れますが、サタンを恐れることはありません。

世は自分たちの義を信じています。しかし、聖霊はそのあやまりを教えます。人は人間の理解の中で、自己中心な正義を持っています。殺し合う戦争でさえも国々は互いに正義を振りかざします。
「私は清廉潔白です。なんの悪い事もしていません。」と言っても、それは神に通用しません。イエスさまを信じていなければ彼はその罪によって滅びるのです。
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五月雨

2011-05-23 16:49:13 | Weblog


 フロントガラスを伝い流れる雨、対向車の大型トラックが水しぶきを上げて走り去る。ゆっくりと走る車の中で、私の大腸検査の経験を主人に話しつつ・・
主人の主治医の命令で、大腸検査の申し込みに付きそう。

降りしきる駐車場はがらんとしていて、「今日は空いて居るなぁ・・」なんて話しつつ、一本の傘に身を寄せ合うようにして、道路を渡り医院のドアを押す。
主人の前にスリッパを出し、受付で手続きをしている主人を見守る。

診察券が間違っていることを指摘されて、「あれっ」と鞄の中をかき回しているので、「とにかく保険証を先に出したら・・」と横から口を出してしまった。受付嬢は「無ければ結構ですよ。」と捜し物は打ち切りにしてくれた。

 検査の度に肝臓の数値が変わり、週に2度の点滴を再開していたから、病院通いが頻繁になっている。
それらはすべて、命を守る結果になっていることはわかり、ありがたい時代だと思っている。でも、モグラ叩きのように、歳と共に衰えはあちらこちらと現れ続け、もはや良いものがでてくることはないと思い知らされる。

 私は主に頂いた経験から、すべての問題は、いよいよ近しく主を味わう時であることを知ってはいても、出来る事ならいつまでもこのままで居たいというのが本音。やはり問題は好まない。

私という人は、今持っている色々なものを失ってまで、切に主を知りたいとは思ってはいないのだ。そんな程度の信仰であると思い知らされる。
でも、確実に問題の終わりには、主との甘い経験が残るのだけれど・・。

検査前の準備の説明を受けて支払いを済ませ、玄関に来ると、先に靴を履いていた主人が靴を揃えてくれた。
「いいのに・・」なんてそっけなく言ってしまったけれど・・また、同じ傘に身を寄せて車に潜り込む。

「やれやれ・・買い物に行くか?」「うん。トマトの肥料を買いたいから。」濡れて光っている車道にゆっくりと車を出す。
互いに弱くなって、絶えず気遣っていないとひとりでは過ごせないようになって、夫婦という関係が芯からありがたい。
主は、私に何が必要であるかをよくご存じで、備えてくださった主人なのだろう。

私たちの花婿は永遠に変わることのないイエスさま。すべて、このお方の上に建て上げられている限り、揺さぶられたとしても、崩されたとしても、真っ逆さまに倒れることはない。色々あるけれどその事実に、深いところで安息している。
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愛し合うこと

2011-05-22 13:44:45 | Weblog


最近は忙しい・・。この世のあれこれに追い回されて、ゆっくりとpcに向かう余裕がない。主婦としてはどうしても家事が一番になり、ブログはついつい後回しになって仕舞うから・・。
今日は息子に写真がたまっていると言われたので、まだ、まだ未消化なのだけれど・・。
自問自答の中で書いている。

わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。
人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。
わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。(ヨハネ15:12~14)


イエスさまはユダの足さえも洗われた。
「水浴した者はきよいのです。でも、みながそうではありません。」といわれたことからそれがわかる。皆の足を洗われたということだから・・。

すべてを承知の上で、ひざまずいてユダの足を取って洗われたイエスさま。
ユダは自分の思いとは違って、弱々しくさえ見えるイエスさまを、冷たい軽蔑をもって見下ろしていたのだろうか・・。
それとも、イエスさまを追い込んで試そうと思っていたのだろうか・・。
滅びるまでサタンの思いから、イエスさまへと向きを変えられなかった憐れなユダ。

でも、ここでイエスさまの愛には例外がないことを知った。
愛する時に裏切るのではないかと心配する必要も、相手の本心がわからないと躊躇する必要もない。
「愛し合う」とはその愛が応答することだと思うけれど、イエスさまは裏切り者の弟子たちを一方的に愛された。

何かある度に簡単に裏切るような私さえも、永遠の愛を持って愛して下さっている。
そのイエスさまの愛によって愛することから、「愛し合うこと」が始まるのだろうと・・思いを巡らせている今日この頃・・。
でも、このことを成させてくださるのは主。
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刈り込み

2011-05-16 19:37:09 | Weblog


今日は、紅しだれもみじの選定をした。このもみじは真っ赤な柔らかい新芽が出て、枝が流れるように垂れるもので、美しいので大切にしている。
主人がやると、枝打ちのように切ってしまって、枝の流れが台無しになってしまうから、自分でするほかない。

不要な小枝を一本一本選んで手折る。それも、重なった枝の下に潜るようにして、流れに逆らう枝を探す面倒な作業なので、確かに主人には向かない。
時間はかかるけれど、選定の済んだ部分から風が流れるようになる。

葉先をサラサラと揺さぶって、残された枝が心地よさそうに揺れ、混んだ葉の中に隠れていた太い枝が見えるようになると、見通しも良く、もみじのすっきりとした立ち姿が現れる。

今年は選定がちょっと遅くなったので、風通しが悪く毛虫が発生していた。
危うく掴みそうになって、「キャー」と言いたいところをグッとこらえ、恐る恐る作業を続ける。

続けるのはこの木に対する愛着があるから。そうでなかったら投げ出していた。虫は大嫌い。本当は恐い・・まして毛虫はかぶれるかも知れないから。
でも、手袋をするわけにも行かない。だって指の感覚で、小さな枝をポキッと折るのだから。

ほとんどできあがったところでパラパラと雨が降ってきた。焦ったとたん、枝を切っていたハサミで指まで切ってしまった。
鋭い痛みに全身がぞっと泡立つ。ハサミの汚れが気がかりなので、痛みをこらえて石けんで傷口を洗う。
血と傷口を見たとたん、足がすくむような大げさな体の反応。傷はそれほど大したことはないのにと冷静な頭と、体の大げさな反応?


今朝はヨハネ15章を読んでいた。
「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。
わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。」


私たちが刈り込まれるのは、実を結ぶ可能性があるからなのだ。実を結んでいる者であっても、もっと実を結ぶために刈り込みをされるということが書かれている。
刈り込みの覚悟をもって、主につながっていることはキリスト者の大前提。

刈り込みって現実的にどんなことなのだろう・・それぞれだとは思うけれど、ぶどうの木の選定は丸裸に近い刈り込みに見えた。
人にとっては、あるいはメンツ丸つぶれのような事、積み上げたものをすべて崩されることなのかも知れない・・。

でも、私たちが神様の刈り込みを恐れることはない。
それは、私がもみじに執着しているにもはるかに増して、神様は十字架で御子の血潮という、尊い代価が支払われた者を、どれほどにか大切に扱って下さってのことだから。
なにしろご真実なアバ父による、子への訓練なのだから。ハレルヤ!
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詩篇130篇

2011-05-15 09:18:18 | Weblog

主よ。深い淵から、私はあなたを呼び求めます。
主よ。私の声を聞いてください。
私の願いの声に耳を傾けてください。
主よ。あなたがもし、不義に目を留められるなら、
主よ、だれが御前に立ちえましょう。
しかし、あなたが赦してくださるからこそ
あなたは人に恐れられます。

私は主を待ち望みます。
私のたましいは、待ち望みます。
私は主のみことばを待ちます。
私のたましいは、夜回りが夜明けを待つのにまさり、
まことに、夜回りが夜明けを待つのにまさって、
主を待ちます。

イスラエルよ。主を待て。
主には恵みがあり、
豊かな贖いがある。
主は、すべての不義から
イスラエルを贖い出される。

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ハレルヤ!

2011-05-14 21:18:04 | Weblog


今は、どのように祈って良いのかわからない
たとえ、強いて祈っても、言葉が続かない
だから、自然に異言の祈り

今日は・・霊の賛美
今日は・・嬉しく聞いていた
歌っているのに聞いていた

賛美・・賛美・・
主をほめたたえる
主を喜ぶ
みことばを謳う

この世にいて、何を見ることになっても
何を聞くことになろうとも
主をほめたたえ 主を喜び歌う
そのことの他には何もない
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ままならないもの

2011-05-12 19:09:22 | Weblog


 人は誰だって自分の中に、「どうにも、ままならないもの」を抱えていると思う。主はそのように人を造られているはずだから。
なぜなら、そのままならない部分こそが、主を知るために重要な役割を果たすのだと思うから・・。
そういう意味で、もし、「自分には障害なんか何もない。」という人がいるなら、それこそが本当の障害だとさえ思う。あり得ないのだけれど、神様の造り損ないではないかと・・。

 息子の聴覚障害を知って、その大変やっかいな問題と戦っていた頃、私はありのままの障害という事態を受け止めず、向き合っていなかったように思う。
私自身にとって、この不都合をなんとか処理しようと、そればかりを考えていたのだろう。いかにも、彼自身のためにしていると見える事にも・・。

 イエスさまを知った今は、障害は乗り越えるものではなく、受け入れるものであり、その与えられているものの中で、主と共に、その人らしく伸び伸びと生きることだと思う。
どれほど重い障害者であったとしても、その人は神様によって造られた人であり、神様のご計画に沿って分け与えられ備えられたのだと・・。

 人間の都合を中心に考えるとき、そのことは面倒で世話が焼けて、邪魔に感じられ、容姿に醜いとさえ感じる障害もあるけれど、そんな人間の傲慢に気づくためにこそ必要な障害なのだろう。だから主は、誰一人完全な人間なんて造られなかったのだ。

 大切なことは人間にとってどうかではなく、造り主のご計画がどうであるのかということ。人間にはそれがまるで出来損ないのように見えても、造り主には、問題そのものが誰かのための完璧な備えなのかもしれない・・。
なぜなら主なる神様はそもそも完全なお方なのだから。

そのような主のご計画を、障害者が障害がないかのような努力して、成しとげるということではないだろう。存在そのものによってすでに主のご計画は成っているのだと思う。
ありのままで、主に造られた者としての喜びと平安があれば、障害の中で、老いて少し呆けた中で、病んだ弱さの中で、その人は主の期待されている役割を果たしているのだと思う。
そのような喜びは世には絶対に無いものだから。それこそ、環境が暗ければ暗いほど鮮やかに現れるだろうから。


しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。
ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。(Ⅱコリント12:9)
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若い日の友へ

2011-05-09 19:06:04 | Weblog
 
 真夏のような陽差しを、優しくさえぎる桜並木に差しかかると、そこで歩を緩めて深呼吸を繰り返す。フィトンチッドをすべて吸い尽くすぞ~と鼻の穴を膨らませて・・

この暑さには参っている。けれども清水の舞台から飛び降りるおもいで、私にとっては上等なウオーキングシューズを買ってしまったので、履き慣れようと頑張ってせっせと歩いている。

慣れない靴のせいか、低血圧のせいか・・それは定かではないけれど、軽やかに歩くことはできず、体は重くだるくてかなり辛い・・。調子が良いときは、足が勝手に前に進むのに・・。

 それでも道々の草花は多彩で可愛らしく、5月という素晴らしい季節をたたえるように咲き乱れている。
向い山に、藤の花が紫色の流れ落ちる大滝のように咲いている。今年は藤がとても盛ん。赤紫の山つつじ。栗の瑞々しい青葉若葉。
本当に、神様の備えて下さった自然はどんなときでも励ましに満ちている。

 
 なぜか突然、独身時代の友を思い出してとても会いたくなった。そうして昔のように熱く語り合いたくなった。
カトリックの信者である彼女は、修道院に入るために持参金を貯めようと一生懸命に働いていた。彼女の仕事ぶりはいつも誠実で馬鹿正直という言葉そのものだった。

吹けば飛ぶような小さな町工場で、毎日並んで造花を作っていた。彼女と同じ品物を作るときは、私は時々ずるをして手抜きをした。
今もそのことを思い出すと恥ずかしくて胸が痛む。しかし、彼女はどんな時も淡々と少しも態度が変わることはなかった。

 私はいつも議論をふっかけていたけれど、物静かな彼女は、私に自分の考えや信仰を決して押しつけることはなく、むしろ彼女の選択がいよいよ分からなくなるような、修道院の裏が書かれているような本や、話しを聞かせてくれた。

今思えば彼女は、純粋にキリストの花嫁として、人間的なものにはなんの期待もなく修道院に嫁ごうと思っていたのだろう。
その頃は私は、カトリックもなにもキリスト教のことは殆ど何も知らなかった。

だから、今こそ会いたい。そうして心からイエスさまのことを話し合ってみたい。今こそ大切なことを伝えたい。それが彼女が積み上げたものを壊すことになるとしても・・。
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ひとつ

2011-05-08 14:31:57 | Weblog

イエスさまは、完全に父なる神様に従順されました。何事もご自分からなさることはありませんでした。

聖霊は、イエスさまに私たちを導き、みことばを思い起こさせてくださいます。ご自身を主張なさることはありません。

ですから、私たちもすべての選択、行動の基礎をみことばに置いて、主に従順することを願い求めるのです。
そのとき私たちは、主にあってひとつなのです。


「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。」
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みことば (Ⅱ)

2011-05-06 11:29:36 | Weblog


「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
この方は、初めに神とともにおられた。
すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」(ヨハネ1:1)


宇宙にあるすべてのものは、イエスさまのことばによって造られた。そうして、それは神のわざでもあるという。

「わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。」(ヨハネ14:10)

イエスさまのみことばは、私たちの知っている言葉ではない。それはただの伝達のための手段ではなくて、教えではなくて、ことばそのものが神のわざであるという。

事実、それ自体に力のない教えは空しい。教えられて到達出来るくらいのことなら、そんなことのために命を賭ける必要はない。
力ある者だけが到達するような事柄の、何に真実を見いだすことが出来るだろう。そのようなものは直ちに廃れて行くものなのだから。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。
またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。
あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。」(ヨハネ14:12~14)


主イエスの御名によってどんなことでもできるのなら、何が真実であるかをまず知りたい。そうしてそれを求めたい。
それは、キリスト・イエスを愛すること。私の中にその愛を求めたい。助け主真理の御霊によってそれは可能になる。だってこのことはイエスさまがして下さるという約束なのだから。
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