石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

新しい着物

2011-04-29 11:19:49 | Weblog

イエス・キリストの教えは、未処理(十字架以前)の布(人の行い)のようなもので、私たちを救うことができないのですが、彼がすでに完成されたあがないこそ私たちを救うことができます。

私たちはただ、自分が最も良いと見なす行いを完全に捨てて(新しい布で継ぎを当てる行為)、神の与えられる新しい着物をきるのみです。

神は私たちが自分の破れた着物を捨てて、新しい着物を着るようにさせられるのです。人のすべての衣服は、みな破れています。しかし、神に感謝します。神には新しい着物があります。
・・
人が救われないのは新しい着物を着ようとしないからです。
人が救われるのは、彼の行いにあるのではなく・・過去が良いか悪いかによるのではなく、彼が今日、主イエスを受け入れるか、あるいは拒絶するかにあるのです。

すべてイエス・キリストを受け入れるものは、みな救われます。
               ウオッチマン・ニー 「十二かご 第六集」より

「だれも、真新しい布切れで古い着物の継ぎをするようなことはしません。そんな継ぎ切れは着物を引き破って、破れがもっとひどくなるからです。」マタイ9:16
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「わたしについて来なさい」

2011-04-28 19:05:16 | Weblog

 今日まで、しんどさの中にすっぽりと嵌ってしまっていた。
カレブの85歳になっても40歳と少しも変わらない信仰、その行動力について書かれている箇所を読んでいて、今日深く心に響いてきた。
なぜ私はこんなに疲れているのか、年を数え、世を見て気落ちしているのか・・、

 カレブは年を取っても、神から目を反らせることがなかった。だから彼は年老いても、その信仰も力も少しも変わることはなかった。
彼の力は若いときも、老いても、常に神により頼んでいたのだ。それは永遠に変わらない力だから・・。

カレブは言っている。
「ただ、主に背いてはならない。あなたたちは、そこの住民を恐れてはならない。彼らは我々の餌食にすぎない。」(新共同訳 民数記14:9)

すべての事情はアナク人となると言っている。それはキリスト者の食べものであり、成長の糧とてして主が置かれたものである。
老いも、時代のもろもろの状況も、すべてはキリスト者の食べものであり、成長の糧であった。
そう、確かにその時に私たちは主のわざを経験する。その困難の中で生きて働かれる主にお出会いする。


 しかし・・
「今日、私が見つめるみことばとは何でしょうか。」と主にお聞きした。

「わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。」(ヨハネ12:26)

なんと、ぼんやりとした話しだろう。ちゃんと先に与えられていたみことば。
確かにそれは、何に対して与えられた言葉であるかはわかっていたのに・・。
私はその言葉の重さを聞き漏らしていた。軽く受けてしまって聞き流していた。

 みことばの意味が突然あふれてきた。
「わたしについて来なさい」
という言葉は、主について行くことを赦してくださったということであり、主について行くことが可能なのだ。主は出来ない事を言われることは無い。出来るように助けて下さるお方であることは知っている。

「わたしがいる所に・・いるべきです。」
主の居られるところ!それを赦されると言うことがどんなに素晴らしいことか! 栄光と力に満ちているところ。そこに主と共に居なさいと言われているのだと・・。

 与えられたみことばを聞き漏らし、聞き流してしまったから、世と自己の現実に押し流されて、弱さに閉じ込められてしまっていたのだろう。
主の約束から目を反らしてしまっていた・・。
メニエール病の症状には、「目が振れる」という症状もあるらしいけれど、なんだか象徴的。私は激しい目眩に襲われていた・・。

 私は「主に仕える。」と告白したことを覚えていなければならない。日々みことばの約束から目を反らさずに、しっかりと主について行かなければならない。主のおられるところに、その素晴らしい所に留まり続けて居なければならない。
そうして、そのことを成させて下さるのもイエスさま!


「ですから、私たちは聞いたことを、ますますしっかり心に留めて、押し流されないようにしなければなりません。」(ヘブル2:1)
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春爛漫

2011-04-27 10:36:18 | Weblog

あなた方の確信を投げ捨ててはなりません。
それは大きな報いをもたらすものなのです。
あなたがたが神のみこころを行って、
約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。
(ヘブル10:35)
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春爛漫

2011-04-26 18:01:23 | Weblog

息子がどんどん春爛漫の写真を撮ってきてくれるのだけれど・・
今はとてもしんどくて、書く意欲がありません。
せめて写真だけでもどうぞ。
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わが避け所

2011-04-20 14:52:58 | Weblog


大地が激しく上下して割れて行き、ズブズブと泥に呑まれてゆくショックは消えない。
どれほど堤防を高く築き、幾重にも築いても、あっけなく崩れる・・家が重なり合って流れ跡形もなくなる・・。美しい田畑が、一瞬に産廃場のようになって行く。

それらのリアルタイムの映像は、すべての価値観をひっくり返すようなことで、自分の立っている場所の頼りなさに目眩さえ覚えた。
それは人が営々と築いてきたものに、特に自覚していなくても、信頼し依存していた結果のショックでもある。

あらゆる苦痛を見た・・今も涙はある。
けれども、主はこう約束しておられる。
今すぐに逃げ込む所として、みことばが備えられているのだから・・。
永遠に揺るぐことのない、イエスさまの約束に住もう。


彼らは飢えず、渇かず、
熱も太陽も彼らを打たない。
彼らをあわれむ者が彼らを導き、
水のわく所に連れて行くからだ。(イザヤ49:10)

主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。
あなたは、その翼の下に身を避ける。
主の真実は、大盾であり、とりでである。

あなたは夜の恐怖も恐れず、
昼に飛び来る矢も恐れない。
また、暗闇に歩き回る疫病も、
真昼に荒らす滅びをも。(詩編91:4~6)

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足を洗ってくださるイエスさま (火曜日のために)

2011-04-17 10:37:25 | Weblog

 イエスさまは十字架の時が近いのを知って、弟子たちに模範を示されました。弟子の足元にひざまずくようにして、ひとり一人の足を洗われたのです。そうして、手ぬぐいで拭ってくださいました。

大方の弟子は、言われるままに足を差しだして洗ってもらいました。どんな気持ちで汚れた足を御前に差し出し、イエスさまの手に触れられ洗われていたのでしょう・・。綺麗に洗われて拭われたときの気持ちはどんなだったでしょう。

 私は足が汚いので、もしこんな場面に出くわしたら本当に狼狽するでしょう。でもね、私たちはイエスさまに、自分のもっとも汚れた部分に触れて頂く必要があるのです。
見せたくないその部分に触れて頂いて、赦しと、癒しと、そうして古いものをぬぐい去った新しい主発のための備えを頂かないと、イエスさまの弟子で居ることはできないのです。

恥ずかしさと勿体なさにペテロは一度は拒んで、後で手も頭も洗ってくださいと言いました。
でも、私たちはイエスさまに信頼して、そのままで身を任せる事がとても大切です。与えられるサービスはすべてを受けること。でも、それ以上を望まないこと。
いつも主のなさることは私たちの身の丈にぴったりだからです。すべての必要を満たしているからです。

 ユダも同じように洗って頂いたのでしょう。しかし、彼の頭の中はお金の計算でいっぱいでした。イエスさまは無理に私たちの計画まで洗い去ることはされません。それは私たちの自由なのです。
しかし、イエスさまの御前に自身の計画を差し出すなら、それが私たちにとって汚れたものである時、主は洗い流してくださるでしょう。

イエスさまは、私たちに「互いに足を洗い合うように」とおっしゃいました。イエスさまは、私たちの罪、汚れのために十字架にかかって罪の代価を支払ってくださいました。イエスさまが足を洗ってくださったとは、それほどのことなのです。
私たちが互いの間にそのような愛を示すことなど、本当はできないことです。

イエスさまは、「わたしがあなた方を愛したように」と言われたのです。そんなことが出来るわけがないのです。
しかし、御真実なイエスさまが、出来ない事を私たちに命じることなど無いはずです。必ずできるように備えられています。

ひとり一人がイエスさまに堅く繋がって立っているとき、ひとり一人に満たして下さるイエスさまの備えによって、互いに愛し合うなら、それこそイエスさまの愛によって愛することだからです。

「イエスは彼らをじっと見て言われた。『それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。』」(マタイ19:26)
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どん欲

2011-04-16 15:23:04 | Weblog

「イエスは、これらのことを話されたとき、霊の激動を感じ、あかしして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ります。」(ヨハネ13:21)
「それはわたしがパン切れを浸して与える者です。」それからイエスは、パン切れを浸し、取って、イスカリオテ・シモンの子ユダにお与えになった。
彼がパン切れを受け取ると、そのとき、サタンが彼に入った。
「あなたのしようとしていることを、今すぐしなさい。」(ヨハネ13:26)


イエスさまがユダを手離すと同時にサタンが入った。サタンは主の許し無しには、御手の中にある者を自由にする事などは出来ないのだ。
だから、それ以前にユダがイエスさまを売ったのなら、それはサタンではなくユダ自身の責任であった。

ユダはマリヤの香油の時から、いや、それ以前に主の財布から盗んでいたときから、主を愛するよりも金銭を愛しており、心はすでに主を離れていた。
ただ、近くに居るというだけで、主を愛しているとは限らないということ。

なぜ、イエスさまは彼に財布を持たせていたのだろうと考えたことがあった。それは誘惑ではないかと・・。でも、それさえも主の赦しの中にあったのだと思う。
マリヤが主のために香油を注いだときに、彼がその捧げ物さえも狙うまでにどん欲でなければ・・。

もし、主の財布の中に入っているもので彼が満足していれば、どのように使おうと彼に任されていたのだろう。
すべては主のものなのだ。今私の財布の中に入っているものも・・。 だからそれに満足するとき、主の赦しの中で私には自由がある。ただ、主のために備えられたものまで、自分の自由にしようとさえしなければ・・。

「あなたのしようとしていることを、今すぐしなさい。」その許しは恐ろしい。そうして、彼は、心も体もイエスさまの側を去って闇に出て行った。

だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。(マタイ6:24)

金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい。主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」(ヘブル13:5)

イエスさまが居て下さる私たちには、すべてが備えられている。足りないことは何もないのだから。なんと安心なこと、なんと平安なことだろう。
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山桜

2011-04-14 14:33:50 | Weblog

 今日は妹とお弁当を持って山に登る約束の日。最近は私の体調が最悪で、花粉症なのか?うっかりマスクを忘れて外を歩くと、のどはイガイガ、鼻詰まりと鼻血ということなる。細かいところでは、ちょっと花粉症と違うみたいだとも思うけれど・・、

暖かくなったとたんの血圧の低下もあって、凄くだるいから本当は歩きたくないけれど、「年に一度くらい付き合いもしなければね。」と、ハアハア言いながらも登ってきた。


 しかし、そんな私の体調なんかお構いなしに、山桜ははんなりとした色に山を染め、踏み行く足元一面に花びらは散り敷いて、風吹くごとに山間に舞っていた。
それは時々刻々と移り変わる、いのちのあやうい美しさで、まるで花に酔っ払ったようになって、フラフラと登り、漂うように降りてきた。

妹の家で御抹茶を点ててもらい、薫り高いヨモギの焼き餅を頂いて、初めてフゥ~とひとごこち。
神様のお造りになったものは、なんと奥が深いのだろう・・。毎年登って見ている景色だけれど、それは何時もいつも違うものを見せてくれるのだから。
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教会

2011-04-12 15:36:13 | Weblog


 いつも二人で「いつくしみ深き」を賛美して、声を揃えて聖書を読む。彼女は年を取っておられるのに、スラスラととても上手に読まれて、私は時々間違って「ごめん」といって少し戻って読む。

そんな二人の礼拝が終わったとき、彼女が「東北の震災に遭われた牧師さんが、テレビで話しておられたのを見た。」と話されたことをきっかけに、私たちの献金を送ろうという話になった。

 それは私も以前から願って居たことだったのでとても嬉しかった。何より彼女から提案されたことに喜びがあった。
すぐに、いったい幾らぐらいあるかと、彼女が預かっていてくれた紙箱を、テーブルにひっくり返して計算をする事にした。

私はだいたい半分くらい取り出したところで、「ねえ、これだけしてもいい?」と尋ねると、「ちょっと待って、まだ出来るよ。」と言われ、残りをすべて計算し終えたとき二人で「あっ」と言った。
それは端数のでない、きっちり○万円だったから・・。

私は変な気を遣って、半分なんて言ったことを恥ずかしく思った。主に捧げる物は、何も残さずすべてなら、それが最高なんだ!備えて導いて下さった主に感動した。

 彼女と二人で、こみ上げるものを感じて互いに目を潤ませた。 こんなに嬉しいことはない。こんな素晴らしいお金の使い方は知らなかった。
そのことの嬉しさは、互いの信仰を確認し合えたことであり、主が真ん中に居て下さることを知ったこと。

 さて、郵便振り込みで送金するとして、互いに相手の名前で・・と言うことで、それもどうも変だと話すうちに、地名の「ヒロタキリスト教会」ということでどうだろう・・ということになった。
「ああ、それはいいわ。嬉しいわ。」たちまちそういうことに決まった。

 郵便局で、「これはなんだ」と言われたらどうしようなんて、私はちょっとびびりながら振込用紙にその名を書いた。でも、事はいともあっさりと進んで無事に送ることが出来た。
なんだかとても嬉しくて、帰りに真っ赤カーネーションを買って記念に活けた。
領収書を持って行くと彼女は、満面の笑顔で「まだ心がほっかほっかしているよ。」と言われた。

 イエスさまは私たちをこんなに喜ばせてくださった。主にはお金なんか要らない。でも、私たちの必要のために、勧めていてくださる捧げ物なのだと身に染みた。

私たちの内、此処が教会なら、なんと主はユーモアに満ちた方なのだろうと思う。右も左もわからない二人の老婆の中に、世に見捨てられたような者の中に、ご自身の教会を建てられるとは・・。

しかし、主には人の力なんて必要ないのだ。人の誉め言葉も社会の評判も関係はない。人の教養でもなく知識でもない。
ただ、イエスさまを必要とする者の内に住んで下さるお方。そうして、必要のすべてはご自身が備えて、私たちに与えて下さるのだから・・。


わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。(ヨハネ12:26)
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日本人考

2011-04-10 11:30:57 | Weblog


 今回の大震災で、このようなときにも日本人の行動が冷静で礼儀正しいことが、世界で評価されていると繰り返し報道されている。
それは、当然同じ日本人として嬉しいことと喜んで居たが、むしろ日本人には震災時などに、即略奪などという行動が現れることに逆に驚くわけで・・。そこまでストレートに行動出来るという箍の無さが理解出来ない。

 日本は互いに気兼ねをして顔色を見て暮らす社会であり、まして都会ではない地方においてはそうである。それは自制心を養い、美徳であるけれど、善悪の基準が互いの中にあって、取り繕う内に自分自身の本性を見失い、良心の痛みに鈍感になるのではないかと思う。

 パリサイ人や律法学者たちは極度に良心に鈍感であり、罪に対して鈍感であった。彼らは彼らの社会で互いの評価によって満足し、それを保つことによって高い自己評価をしてそこに安住していた。

人が、取り繕いや気兼ねによって、その心の奥深くに罪の本性をしまい込めばしまい込むほど、良心は鈍くなり罪により痛むことも傷つくこともなく、罪からの救いに渇くことがなくなると思う。

パリサイ人たちが罪人と呼んでいた人々は、日々否応なしに自己の罪の性質と向き合わざるをえず、それだけむき出しにされた良心は激しく痛んでいたのだと思う。
だから、彼らは救いを求めて飢え渇き、救い主イエスのまわりに集まって来た。


「イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。『医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。』」(マルコ2:17)

「義人はいない。ひとりもいない。」(ローマ3:10)
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