石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

フクシマ

2011-03-31 06:01:53 | Weblog

主に打たれたら、くずおれるなければならない。
主の打たれたものを守ってはならない。
人相集い、心をひとつにして、
主に、打って出てはならない。

灰をかぶって地にひれ伏し、
主の主権に服するのみ。


主の御前に静まれ!
すべてを主の御手に差し出せ
主の裁きこそは人の最善なのだから。

主は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。
さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。(創世記11:6~7)
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すべてを益とするために

2011-03-24 19:15:53 | Weblog


 最近はなんだか涙もろくなって・・ぽろぽろ涙を流すわけではないけれど、涙のダムが決壊しそうになることが度々ある。
この悲惨な震災から後、テレビや新聞記事に胸を詰まらせることが多い。

私は素直でなく情のこわい女で、以前は「フン、安っぽい涙を流して・・」と斜めに構えることが多かったのだけれど・・悲しいことがあまりにも多すぎて、痛ましいことが多すぎて、もう・・共に悲しむことしかできない。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)
私は、創造主が御子をくださった事実、その愛を知っている。主がどうしてもさばかなければならないとしたら、その理由は唯一「愛するゆえに・・」

 死は誰にでも平等に訪れる。しかし、造り主を無視するとき、救い主を拒否するとき、もっともっと悲惨なことがあるのだ。もっともっと終わりのない苦痛がある。それをどうか悟ることが出来るようにと、主は大きな音を立てて人の心の戸を叩いていてくださるのだろう。


今日、T姉妹が送って下さった本「聖霊の管理」(ウオッチマン・ニー著)を読んだ。
聖霊が私たちを管理し、私たちに働いて、生まれたままの良いことも悪い事も含めて、生まれつきの古いものをすべてを砕き、新しく造り直して、神の内に組織してくださるその時、

「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」(ローマ8:28)
あらゆる事柄が、私たちの益となるように神の按配が働いている。しかし、それは私たちが共に働くということによって、益として実現するのだということ。
益とならないのは、私たちに神以外に心があり、神以外に目的があるからで、神を愛さないからである。

 主を愛する態度・・それは、安心してやわらかな心でお任せることだと思う。普通に考えても、愛する人に対して守りを固める人はいないだろう。
「心が柔軟でないのは、神の愛を感じないため、神を愛さないから・・」と書かれていた。


「わたしは黙し、口を開きません。あなたが計らってくださるでしょう。」(詩編39:10)

私たちへの神の愛し方に対しては、いかなる事態であっても、「神が、私の益のために許されたことが起こっている。」という事実を知っておれば、神に対して「なぜですか」とは問わない。

 今日はあっても、明日は居ないかもしれないのだから・・光のある内に、このいのちのある間に、心の戸を開いて、救い主を一番大切なところに迎え入れることができますように。そのお方に身を委ねて安息することが出来ますように。

このような混乱の中で、主に向かって色々なことを祈りお話をする。悲しみを訴え、哀願をする。言葉がないときには異言で語る。
ふざけているときも、笑っているときも、心の奥に聖霊の悲しみの祈りが満ちていることも知っている。
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火曜日の交わりのために(盲人のいやし)

2011-03-21 22:16:54 | Weblog
「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」
この言葉から、イスラエルにも因果応報という考えがあった事が分かります。
親の因果によって子に災いを残すこともあるでしょう。しかし、このように質問する弟子たちが、自分たちにはそのような罪はないと思っている鈍感さに問題があります。
子に一切の災いなど残さないほどの親が何処にいるでしょうか。人は親も子もみんな罪の血筋に生まれた罪人なのです。

イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。

イエスさまのお答えは憐れみに満ちていました。イエスさまは病人を癒し、罪人を赦すために来られたのですから。

わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行なわなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。
わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」


時間は限られています。そのいのちのある間に私たちは、イエスさまを知らせる責任があるのです。

イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。
「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。

イエスさまは今までのいやしとは違って、彼には不思議なことをされます。目に土と唾で作った泥を塗ったのです。
「顔に泥を塗られる」という言葉がありますが、まさにそのとおりです。彼が自分が泥を塗られたことを知ったのは、周りにいた人々が囃し立てたからでしょう。

彼はシロアムの池までたぶん苦労をして行ったと思いますが、あざけりや嗤うことばにくじけることはありませんでした。それは、彼の信仰と言うよりは、それ以外に物乞いの生活から抜け出る方法がないほど絶望的な立場だったからでしょう。

私たちは信仰によって救われたと思いがちですが、自分の絶望的な立場に気づいただけなのかも知れません。この気づきが実に大切なことなのです。
この世でどれほど上手くいって幸せであっても、たかだか120年です。
その後は、お葬式での適当な慰めの言葉として、誰にでも「天国で・・」と言いますが、それはサタンの誤魔化しです。

待っているのは永遠の滅びと永遠の裁きです。その事実を知って人は生きている間に絶望するべきなのです。まだイエスさまの救いには間に合うからです。昼の間に働くことが必要なのです。

パリサイ人たちは、彼らの言い伝えに従わない癒しを責めます。しかし、こうした世の人々によって、癒された男はイエスさまをあかしして成長して行きます。
彼の言葉が世を恐れることなく、癒し主であるイエスさまを大胆に伝えています。

ほかの人は、「これはその人だ。」と言い、またほかの人は、「そうではない。ただその人に似ているだけだ。」と言った。当人は、「私がその人です。」と言った。

彼ははっきりと自分が癒された盲人ですと語りました。自分の身に起こったことを伝えることは、イエスさまに憐れまれた者の大切な仕事です。

こういうわけでもう一度、パリサイ人も彼に、どのようにして見えるようになったかを尋ねた。彼は言った。「あの方が私の目に泥を塗ってくださって、私が洗いました。私はいま見えるのです。」

彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、私は知りません。ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」

彼は答えて言った。「これは、驚きました。あなたがたは、あの方がどこから来られたのか、ご存じないと言う。しかし、あの方は私の目をおあけになったのです。

盲目に生まれついた者の目をあけた者があるなどとは、昔から聞いたこともありません。
もしあの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできないはずです。」

彼の言葉はどんどんはっきりとイエスさまを語るようになります。
そうして、イエスさまを主として受け入れ礼拝しました。このようにして神のわざがあらわされ、今も私たちが、彼から主を知ることができるのです。

この時、かれの障害が親の因果であったのか、彼の罪によるものであったのかは問題ではなく、ただ神が崇められるために用いられたのです。

彼は言った。「主よ。私は信じます。」そして彼はイエスを拝した。
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弱さの暴露

2011-03-20 11:13:21 | Weblog


生まれつきの盲人はイエスさまにすべてを賭けた。なぜそれができたのか、彼にはそうする以外に、生涯物乞いという生き方から抜け出せなかったからである。

だから、盲人の恥をさらしても、目に泥を塗られてシロアムに向かって歩いた。これが最後のチャンスだと悟ったから。

信仰よりも大切なことがある。それはその人のイエスさまの必要度。イエスさまは必要な者の所に来て下さるお方だから。信仰はイエスさまと歩む中で育てられる。

目が見えるというパリサイ人には、盲人の目が見えた!という事実が見えなかった。目が見えない盲人には、イエスさま以外に救いがないことが見えた。

今すべてが不安な日常の中で、私たちが弱い者であり、明日が見えない者であることを悟ることが、どれほど必要であるかと思う・・。

イエスさまの救いを私の信仰によって呼ぶことなど出来ないけれど、イエスさまを、真に必要としている者の所には来て下さるお方であることを知っている。

今、私たちの弱さが暴露されなければならない。そうでないと主のわざが現れることはないのだから。
弱さが隠されたままで神のわざがなること、それは恐ろしいことである。それは主の栄光を盗むことだから。

「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える。』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」
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神のわざが現れるために

2011-03-16 15:46:44 | Weblog


弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」
イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。(ヨハネ9:2~3)


イエスさまに目を開かれて神のわざを現すためには、時々見えたり見えなかったりじゃなく、その人が完全に見えない人であるという事実が必要。そうして、その目に泥を塗って頂くことが必要。

それは誰の目にも彼が今、主に取り扱われているということがわかるためのもの。そうして、彼自身がみことばに従順している事実が、シロアムの池に向かって歩む姿によって見られるため。
すべてが曖昧な状態から、主をはっきりと証ししたり、神のわざがあがめられることはない。

イエスさまのまわりではいつも分裂が起こる。いつもすべてがはっきりとわかれる。信じるのか信じないのか、敵か味方か。
そうして私たちも問われる、目の前の問題に対してみことばに信頼するのか、しないのか。主を頼みとするのか、人間を頼みとするのかと・・。

主の栄光をあらわす者は、彼のようにこの世の言い伝えを完全に打ち破るような主の真実を、真っ直ぐに語って止めない。
それは、人にどのように語ろうか・・というものではなく、いつも誰に向かっても、ただ自分の身に経験した主を語るのである。

「あの方が私の目に泥を塗ってくださって、私が洗いました。私はいま見えるのです。」

「あの方が罪人かどうか、私は知りません。ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」

盲目に生まれついた者の目をあけた者があるなどとは、昔から聞いたこともありません。 もしあの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできないはずです。」
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家族は一緒に居たいけれど

2011-03-12 21:25:48 | Weblog
 のんびりと主人とテレビを見ていて地震を知った。大阪でも揺れたとのことだったけれど、私のところは揺れなかった。
その時はまだ落ち着いたもので、「大きな地震らしいね。」なんて他人事だったのだけれど、大津波をリアルタイムに見てこれはただ事ではないと、今起こっている事の重大さに息をのんだ。

関東に住んでいる息子宅に電話を入れようとしたけれど、まったく通じない。ああ、そうだと、公衆電話は通じやすいことを思い出して走る。そんな間も心の震えが止まらない。
何度か試している間に息子には通じたけれど、家族がバラバラであることを知った。
息子と嫁さんはそれぞれの職場に居り、子供達は小学校と保育所。特にさくらが小学校を出た頃と言うことで居場所がわからなくなっていた。電話が一切通じないという。

息子は完全な帰宅困難者、自宅に向かってこれから5時間ほど歩いて帰るという。
孫達が今どうしているのかと心配で居ても立ってもいられない。公衆電話でやっと通じた自宅は、空しく呼び出すばかりで誰も出ない。そのことから、孫が帰っていないことが分かった。

嫁さんからメールが届いて、子供達の行方を捜して欲しいという。彼女も家に向かって歩いているという。やはり5時間はかかるだろうという・・。
学童保育所と保育園の電話番号に繰り返し掛けるが、何度も何度も掛け直しても一向に通じない。何度も公衆電話を行き来しながら、それでも、何度も繰り返して掛ける。彼女がどんなに心配だろうと思うと、手は汗ばみ心が振るえる。

何度も時間をおいてかけ直す。
公民館の公衆電話を使っていたけれど、時間で閉鎖されてしまい、バス停の公衆電話に走る。やはり、通じなくてしょんぼりと電話ボックスから出ると、いつの間にかみぞれが降っていた。でも、嫁さんの買ってくれたコートは少しも冷たくはなくて、そのことを思い出したら元気が出た。

何度も繰り返しても駄目な帰り道、ふっと主の眼差しに気づいた。「ああ、大丈夫だったんだ・・。」心の震えがすっと止まった。イエスさまが一緒にいてくださる。ちっとも心配することはない。孫は少しも恐い思いなんかしては居ない。何処かでお友達と楽しくいる。

息子からは通じるのか電話が時々かかってくる。彼の息せき切って歩いている様子が電話を通して伝わってくる。だから、なんとか良い知らせを・・と一生懸命になったのだけれど、良い知らせとはイエスさまだったのだ。伝えることは、ただ、「イエスさまがいてくださるから大丈夫。」それだけだった。

嫁さんからも電話が掛かってきた。健気に元気な声で「子供のこともきっと大丈夫だよ。」と自分を励まして歩いている。
それでも、もう一度公衆電話に走っても、通じなくて結局孫の居場所はつかめなかった。でも、もう恐れはなかった。大丈夫。イエスさまが最善にお守りくださる。


 不信仰な私には、便利が全部なくなったとき、人の賢さがまったく役立たなくなったとき、本当にイエスさまにつながることができるようになる。
イエスさまにすべてをお任せしようと心を決めることができるようになる。

自宅に戻って落ち着いたとき、嫁さんのお母さんからお電話があって、さくらが学校で保護されていることを教えて下さった。
電話が本当に掛かりにくいのに、小学校の教頭先生が知らせて下さったとのこと。本当に心から感謝だった。「良かった。良かった。ありがとう。ありがとうございます。」同じ言葉ばかり繰り返していた・・。

ひとりの事をみんなが心配をしている。ひとりのことを知らせて下さることは沢山の人の大きな安心、喜びになる。
息子にもメールをする。嫁さんがもう知っているということだったので、そのことも嬉しかった。ほっとしただろうと思うから。

しばらくして、あかりも保育所で眠っていると知らせて下さり、息子も自宅の近くまで無事に帰ってきたという連絡を受けて、張り詰めていた力が抜けて行くような安堵を覚えた。
嫁さんも息子と連絡が付いたとのことで、家族がひとつに繋がったと、心からホッとした。

 居場所、互いの距離だけが問題なのではなく、情報によって繋がれることが安心なのだと改めて思った。
そうしてイエスさまは、私たちをどんな環境、境遇においても、繋いで下さることができるお方であると、このお方を知っていることが、どんな時でもすべてなのだと、また経験することができた。

家族はいつも一緒にいたい。けれども夫婦も、子供といえどもそれぞれの場所があり、いつも一緒にはいられない。すごい苦労をしてやっとひとつになっても、月曜日になると再びバラバラになって、ある時間みんなひとりで生きるのだ。
けれども、心配性のばあさんが、こんな瞬間もまた絆を強め愛を深めるのだと思えるのは、やはりイエスさまという強い味方があるからだろう・・。


静まりて 我の神たるを知れ
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お葬式はどうする?

2011-03-08 18:39:53 | Weblog
 今日も、みことばをふたりで読み、賛美をして、イエスさまへの深い感謝を分かち合った。彼女は「本当に人生を今まで生きてきて、今ほど幸せなことはない。毎日イエスさまに感謝することばかり・・」と、頬を紅潮させて話される。
私たちのすべての言葉をイエスさまは聞いていて下さる。

 去年の厳しい試練の間に、彼女は主にあって死ぬ経験をされた。大切な者を主にお任せすること。お委ねして待つこと。
ただ、疑うことなく黙ってイエスさを信じ続けて、たどり着いた平安の地なのだ。

『わたしを信じる者は聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。』
あなたの内に居て下さる聖霊、わかるでしょう・・。」今日はヨハネ7章。じっと見てうなずかれた。

 
 終わってから、どうしてもはっきりさせておかなければならない事をお話しした。
それはお葬式の事。
以前彼女は、キリスト教式でして欲しいと息子さんに言ってあるといわれていたので、主にどのようにしたらよいのでしょうと、私は祈りつつ聞き続けていた。

今朝は、4時頃に目覚めて思い迷ってもいた。主にお任せすることと、無責任とは似ているけれど違うのだから・・。いのちのこのことは何時か分からないので、きちんと私に出来る事と出来ない事は伝えなければならない。

「永遠のいのちの事はイエスさまがすべて準備をして下さった。この上何も付け加えるものはなく、足りないこともないけれど、お葬式はこの世のことだから、この世の備えが居るのだけれど、私にはなんの備えもない。
何処かの教会で洗礼を受けて教会員になると、そこでキリスト教式のお葬式をして頂くことができると思う。どうするかは自分で決めて欲しい。

けれども、お葬式とイエスさまの救いは関係がない。どのような式であっても、もうすでにイエスさまの十字架のあがないを信じて救われたのだから、御国に行くこと、永遠のいのちを頂くことは決まっているのだから心配はしなくても良い。」
そんなお話しをする。

彼女はすぐに「よく分かっている。私は自分の葬式は、息子がどのようにしてくれるか任せようと思っている。キリスト教でしてほしいとは伝えてあるのだけれど・・。心配はしていないよ。あなたはどうするつもり?」
私は散々悩んで話したのにあっさりと受けいれられて、逆に聞き返されてしまった。

「私には何の計画もない。考えないわけではないけれど、イエスさまに完全にお任せしているだけ。御国さえも備えて下さるお方だから、きっとその時にはちゃんと必要は備えてくださると信じているから。」
「そうやね。」二人で納得した。こんな選びで納得する脳天気さが可笑しい。けれども、日々の主の備えを見ており、すっかり心配から解放されてしまうのだから仕方がない。

彼女は洗礼のことにもふれられたけれども、すでに主にあって「死ぬ」経験をしておられる。
「もし、教会での洗礼が必要なら、きっと平安が無くなるからわかるよ。」
「じゃ、大丈夫ね。良かった!」平安のかたまりみたいな笑顔が返ってきた。
「人はうわべを見るが、主は心を見る。」のだから形ではない、主はもっと深いところをすでにご存じなのだもの。
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花嫁の喜び

2011-03-06 20:04:49 | Weblog
 次男が旅行から帰ってきた。
日本の端から、鉄道の最先端のスピードと最高のサービスを経験し、また、美しい日本海の海岸線をゆったりと揺られる自然をも堪能して、海原に沈む夕日も撮ってきた。

 東京では国立新美術館で、あこがれのシュルレアリスム展を見ることもできたと・・、それは、高校生の時に夢中になって画集を集めたり、ポールデルヴォーの畳大の裸婦を模写して、文化祭に出品し度肝を抜かされたりしたこともあったもの。

本物を見られた幸運に感動して、マックスエルンストの「3本の糸杉」から、本物の価値をデカルコマニーについて、私にも幾らか理解出来るように話して聞かしてくれた。

 幸せが爆発しそうな息子の話しに耳を傾け、お土産のケーキを食べて、胸一杯になり・・洗い物の手を止めて主を見上げた。
一瞬、イエスさまがおちゃめなウインクを返して下さった。
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三毛猫

2011-03-04 21:27:38 | Weblog

その三毛猫は自宅の横の駐車場の角に、ちょこんと座っていた。今日は、冬日のような薄ら寒さだったのに・・
「ミーィ」と話しかけると、「ニャ」と短く答えて少しの間視線を合わせた。何かを問いたそうな目だった。

先日、まだ若いご主人を亡くしたんだね、可哀想に・・。
帰りを待っているのだろうか・・。ご主人が毎日乗っていた単車の横に、誰が置いてくれたのか、干からびたご飯に鰹節をかけて置いてある。でも、ほとんど食べていないのか山盛りだった。

いろんな思いを込めて「ミ~ィ」と呼ぶと、振り向いて「ニャ」と答えた。
元気なときには途中まで送ってくれたのに、「お前じゃ駄目だよ・・」と言うように今日は去って行ってしまった。
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歩け~走れ~

2011-03-03 14:40:21 | Weblog
 お医者様から、先日の特定健診の結果を送って来て下さった。わざわざ送って下さるのは初めてなので驚いたけれど・・。
「すごく悪のかな?」なんて思いつつ急いで開けると、「あなたはメタボシンドローム 非該当です。」という字が目に入ってとてもほっとした。

「健康的な生活習慣を保ち、健康な状態を維持しましょう。」とコメントがあり、但しこれで終わりではなく。
「要受診」「高脂血症です。治療して下さい。」だった。

ああ・・私はコレステロールが善玉も悪玉もそろって高い。中性脂肪が低いのは良いけれど・・でも、なぜ悪玉が今回かなり高いのか、その理由は自分でわかっている。

 この検査の頃は十二指腸潰瘍によって、気分優れず、体調悪く、意欲ゼロだったから、まったく動いていなかった。家の中でじっと閉じこもっていたからなぁ・・。
このことによって、いかに体を動かすことが大切であるかと言うことが、理屈ぽい私にもよく分かった。

 コレステロールのお薬は、以前体に合わなくて酷い目にあったから、二度と飲みたくはない。さあ、pcなんかに向かっていないで外に飛び出そうっと!
「いってきま~す」
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