石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

結婚の奥義

2011-02-22 14:51:14 | Weblog

イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。
わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。
わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。
わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。
生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。



昨夜火曜日の準備のため、ヨハネ6章を祈りと共にもう一度読み返していたとき、このみことばと結婚が結びついてすべてが解けた。
もつれた糸を根気よく解こうとしているような日々が続いていた。でも、それはちゃんと間に合った。

これはキリストとの結婚のことであると・・、
「それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。」
「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。」


このことは紛れもないひとつとなるということ、キリストの内に私は居り、私の内にキリストが居られる。
イエスさまが十字架で裂いて下さった御体を食べものとし、十字架であがなって流して下さった御血を飲み物としたときから、傷も染みもないキリストの聖い花嫁とされた。

妻は夫によって養われ夫の位を享受するのだから、私は主の資産によって生きる。キリストの最大の資産は十字架で裂かれた御体、流された血潮、そうして与えられた永遠のいのち。

私は、キリストの御胸に抱かれて、昼も夜も語ろう
「主よ。私たちがだれのところに行きましょう。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。
私たちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています。」


火曜の学びを終えて、「すごい玉の輿だね。」って言うと、「本当に!この年になって・・」と言われたのでふたりで大笑いをした。
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肉には拠らず

2011-02-18 14:39:19 | Weblog
父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。(ヨハネ6:37)

わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません。(ヨハネ6:44)

『そして、彼らはみな神によって教えられる。』と書かれていますが、父から聞いて学んだ者はみな、わたしのところに来ます。(ヨハネ6:45)

あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。(ヨハネ15:16)

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。
わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。
わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。(ヨハネ53~55)


イエスさまはどうしてこのようなおっしゃりかたをされたのだろう・・聖書を読んでいてそのように思うことが時々ある。
でも、そのように話されたイエスさまの言葉遣いには、深い理由があるのだろう・・。

そのように思い巡らせていたら、ひとつの答えが浮かんできた。イエスさまの言葉、みことばを肉に吟味させてはならないのだと。
それは霊のことばなのだから、逃げ道を作ったり言い換えたりしないで、そのことば通りに受け、何も付け加えたり差し引いたりしてはならないのだと・・。

でも、肉は霊を激しく否むものだから、どうしても受けれなければならない時には、すっかり言い換えて納得しようとしたりする。「これは十字架を指しているのです。」と言って納得させる。

肉の言う清さと霊による聖さは違う。霊による聖さとはひとえに主への従順であり、肉による清さは見た目である。肉は見た目によってイエスの血と肉を嫌悪する。

誰が永遠のいのちに至るのだろうか・・それは、肉によって飾り立てられたものからは遠い。
神に選ばれた者は誰だろう・・
しかし、主は如何ばかりか与えたいと願っておられる・・

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。(ヨハネ3:16.17)
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初めての胃カメラ

2011-02-17 16:16:07 | Weblog
 一ヶ月ほど前からお腹が空くとシクシクと痛み、吐き気も続くので、病院嫌いの私もとうとう診察を受けようという気になった。
でも、病院に滅多に行かない私には、「何処に行くべきか・・」と言うことで悩んでしまう。

思い巡らせていたとき、昔からいろいろと助けられているk姉妹が、以前チラッと言っておられた医院の名前を思い出した。何よりも近く此処なら通うのに都合がよい。
それでも見知らぬ医師に、自分の治療をお任せして従うと言うことはとても気が重い。

 以前、膵臓ガンの疑いで入院していたとき、ercp検査の説明を受けて、私が断っても計画をどんどん進められたので、祈りつつ強引に退院した経験がある。
私は、自分自身で命をどうように決するか決めたい。それは単に命を長らえることよりも、私にはずっと大切なことだから。

 初めて医院を尋ねてお薬を頂いてから一週間経って、「その気になったら何時でも来て下さい」というふうに言われていたので、胃カメラを受けようと覚悟して出かけた。
診察室で医師に向かったとき、なぜか次々と軽口が出て、私らしくもない世間話なんかしていた。
医師が検査を受ける決定を、私に任せてくださったことに安心していたかしら・・。

鼻からのカメラはそれほど苦痛もなく、おしゃべりをしながらの検査だった。
k姉妹がお祈りしていて下さるという事と、上手だという評判を教えてくださっていたこともあって、すっかりリラックスしていた。
「十二指腸潰瘍をしていますね。」
「えっ、分かるのですか。もう30年以上も前ですが・・」体は傷跡を残していた・・。

 息子の障害を乗り越えようと、通学の電車の中で時間を惜しんで勉強を続け、回りの目を完全に無視しているつもりだったのだけれど、体は痛みとなって反応したのだった。
でも、すべてが報われた今では、ただの懐かしい思い出にすぎなかったのだけれど、腹の中からカメラによって現れた過去に一瞬引き戻され、胸がチクリと痛んだ。

 今回も同じ十二指腸潰瘍とのことだったけれど、医師は「治って来ています。」と言って下さった。薬が効いたのだろうか・・
「のどに違和感があるのですが・・」と伝えたけれど、「綺麗ですよ。のどの動きも良いですよ。神経質な方ですか・・」と聞かれて「いいえ。」ときっぱりと答えた。
私の神経は太いはず・・

「十二指腸潰瘍もピロリ菌と関係があるのですか、」検査を続けつつ尋ねると、
「そうとは限りませんが、お年を取られている方は皆さん持って居られます。でも、無理に除菌する必要はありません。ピロリも悪い事ばかりしている訳ではありませんから。」ピロリの肩を持つようなその言い方が面白かった。

「年を取ってから除菌をされると、胃酸の多く出る人はもっと多く出るようになって困ることがありますから。」と教えて下さった。
貴重な情報だと嬉しかった。「歳を取って無理な治療をする必要はない。」そういう考えを持って居られる医師に出会えたことがとても感謝だと思った。

しかし、ストレスが原因だとしたら、今回何がストレスになったのだろうと、最近の事などを振り返った時、歳と共に気短でこらえ性がなくなってきている事に気づいた。
何をするにも時間がかかるようになったこと、そのうちに疲れてしまってイライラしてくることが原因。

よく知っているはずの名前を思い出せなかったり、心にあふれているものを言葉にまとめることが出来なくて、途中で投げ出してしまうことがあったり・・。
ちょっとした出来事にとても焦ってしまって、パニックのようになったり・・、

そして、そんなふうに老いて行っている姿をじっと見つめるている、もう一人の自分がいる。
弱さ、愚かさをも主に明け渡して、信仰によって自分自身を許し受け入れつつ、熟練した老いを実現するまでには、まだまだ七転八倒するかもしれない・・。
けれども、主にとって大切なことだけは、必ず主ご自身が私に成させてくださるであろう・・という望みを持っている。


平和の主ご自身が、どんなばあいにも、いつも、あなたがたに平和を与えてくださいますように。(Ⅱテサロニケ3:16)
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永遠を目指して

2011-02-16 16:57:30 | Weblog


大勢の人々はイエスさまのしるしを見て、もっと知りたいと時も場所も忘れて付いて来た。その時の彼らは何も持ってはおらず、自分の空腹のことさえ忘れていた。
しかし、パンを食べて満腹したとき、彼らは変わってしまった。彼らの中に計画が生まれ、イエスさまをむりやり王にしようと考えた。

「主よ。いつもそのパンを私たちにお与えください。」と、安定的にパンを手に入れる方法を考えたのだった。それは、イエスさまをなくなる食物としたと言うこと。
イエスさまの与えようとして居られるものは、ご自身にある永遠のいのち。

「わたしが、彼らの先祖に誓った乳と蜜の流れる地に、彼らを導き入れるなら、彼らは食べて満ち足り、肥え太り、そして、ほかの神々のほうに向かい、これに仕えて、わたしを侮り、わたしの契約を破る。」(申命31:20)

人とはこのようなものだろう・・。元々永遠を思うことはできないのではないか・・。苦しいこの世の避け所として思うことがあっても、その苦しみが終わってなを、永遠を求める者がどれだけいるのだろう。

何時だって主が与えて下さるすべての物は良き物であり、祝福であると思うけれど、ある人々には災いである。
家柄や財産、名誉や能力、美貌や魅力それらが、主を知り成長するために用いられるなら祝福と成るけれど、彼らには時に、あまりにもこの世は居心地が良く、満足な状態でありすぎるから、永遠を思う暇はないのではないか・・。

主にあって、成長をして行くには、続く欠乏が必要ではないかと思う。
そこでしるしのパンを食べ、主を知り、みことばを聞く。なを、イエスへの飢えと渇きがあるなら、日々主のパンの養いを受ける。
「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」(ヨハネ6:35)

そうして、昨日まで聞いたみことばを、さらに新しく聞き続けるなら、
「イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。」(ヨハネ6:53)
このみことばにつまづくことはないだろう。なぜならこのように約束されているのだから。

「わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。」(ヨハネ6:39)
約束のことばを私たちに実現して下さるのは、私たちの理解に拠るのではなく、主の導きによるのであり、私たちが何も持たない者のように、聞き続けることによるのだと思う。

「あなたは聞いた。さあ、これらすべてを見よ。あなたがたは告げ知らせないのか。わたしは今から、新しい事、あなたの知らない秘め事をあなたに聞かせよう。」(イザヤ48:6)

モーセでさえも、昨日聞いたようにしか、主のことばを聞いていないなら、カナンには入れなかった。
みことばからあふれるいのちは日々に新しく満たされるから、その度に成長し、主が与えようとされる永遠のいのちに向けて歩みたい。思いがこの世で留まっていてはいけないのだと思う。

「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」(ヨハネ6:29)
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プレゼント

2011-02-11 22:58:04 | Weblog
久しぶりに、有休を入れて4連休中の息子と一緒にヨハネ5章を読む。
何度も読んだ箇所なのに、

しかし、その人は彼らに答えた。「私を直してくださった方が、『床を取り上げて歩け。』と言われたのです。」(ヨハネ5:10~11)

この言葉の迫力に気づいて「ハッ」とした。
彼は、聞き従うべき方を見い出したんだ! 癒された神のわざによって。
そうして「安息日だ。」と、彼を不自由に縛り付ける人々の脅しから解かれた。

彼は癒し主の言われたとおりに立ち上がったから、自分の病から解放され、人々の言い伝えからも解放された。
此処で息子は、「イエスさまが力を与えたからだろう・・」と言い、私は「いいえ、イエスさまによって力は備えられたけれど、自分で立ち上がらないと彼のものには成らなかったと思う。

ヨルダン川の水が分かれたのは、祭司の足が水にとどまった時だったでしょう。
イエスさまの力あるみことばの備えと同時に、私たちが応答してみことばが事実になる、それって最高だと思うでしょう。その信仰を頂いて立つの!」


今日は静かに雪が降っているから、ほとんど一日中・・家族は一つ部屋で居て、テレビを見たり、パソコンをしたりと・・てんでにくつろいでいた。
「今日」という日は、真っ白なラッピングを施した神様からのプレゼント。


「もし、あなたがたが、あなたがたの神、主の御声に、ほんとうに聞き従うなら、そのようになる。」(ゼカリヤ6:15)
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今日は火曜日 (すがりつく信仰ではなく・・)

2011-02-08 21:28:59 | Weblog

 火曜日の人との交わりは、イエスさまに今日もこのように元気に守られていることの感謝から始まる。
年を取ると一日一日が、どれほどの主の守りによってあるのか・・ということを身に染みて知るから。
賛美をしてヨハネ6章を読んだ。そうしてパンの奇跡のことをお話して分かち合う。

私たちを満してくださった聖書のみことばを、心の中に大切に集めようって。
私たちがイエスさまご自身を求めるなら、イエスさまは共に居て下さり、すべての必要を満たして下さるお方。
でも自分自身の計画のために、イエスさまを利用しようとする時は去って行かれる。主は侮られるお方ではない。

その後もふたりで、イエスさまの成して下さった事々を話し合う。
信仰の初めのころは、二言目には「信仰することが大事やな。」と話し、「イエスさま、イエスさま」とすがりつくような信仰だった・・と話された。

イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついていてはいけません。」(ヨハネ20:17)

それが、今では安心しきっている。もう、そんなことを繰り返して言わなくても大丈夫、イエスさまはすべてを知って居て下さるから・・と。
なんて凄い信心があるのかって、今は本当にびっくりしている・・と。

私はひとりで憂いたり、心配したり、悩んだりするけれど、主なるお方ご自身が成長に導き、実を結ぶ者として下さる。イエスさま。不信仰な私をお赦し下さい。


夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。(マルコ4:27)

すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。(ローマ11:36)
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食べる

2011-02-07 12:21:50 | Weblog
 我が家の冬の風物詩、昨夜干した鰺の開きがぶらりと下がって、僅かな風に揺れている。
安く新鮮な鰺を見つけて大喜びで買ってきた。鰺の開きは出来合は買わないけれど、自家製は大好き。味がまったく違うし干し加減も自由自在。

食べることは女の一生の課題。
新婚旅行から帰ってきて初めて作った目玉焼きが、なぜか何時までも脳裏に張り付いている。危うかった出発点として・・。料理なんてほとんど知らなかった。

やがて、大きなハマチを三枚に下ろして刺身を造ることも覚えた。それは、田舎ゆえに自分でする以外に方法がなかったからだけれど・・。
でも、主人のおばあさんにはかなわない。なにしろ鶏でも兎でも料理してしまって、ある日お膳に並んだと言うから・・。

そうやって戦時中に孫を養ってこられた。
ご自分は雑炊の中の野草ばかりを食べて、目が見えなくなったこともあったと言う・・。
沢山おしゃべりをして、けんかも少しして、可愛い孫の嫁として私の名前をいっぱい呼んでくれた人。


「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。」(ヨハネ6:26)

「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。(ヨハネ6:35)


イエスさまはあらゆるわざを、父なる神様のみこころによって成しておられた。イエスさまのわざに霊を見るなら、そのことで満足し平安を得たはず・・。

しかし、パンの満足だけならそれは肉の満足であり、すぐにまたお腹が空くので、王にしてでも自分たちの身近に置こうとする。
常に満たしてもらうために人の計画の中に取り込もうとする。そうして、イエスさまはひとりで山に退いてしまわれる。

肉はイエスさまを縛ろうとするが、霊の満足にいる者なら「どのようにか、イエスさまに従順したい。」と願うだろう。

「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」(ヨハネ6:29)

生まれつき閉ざされていた霊の目が開かれること、これ以上の奇跡があるだろうか・・ パンはイエスさまご自身、今、その豊かないのちの主が、私たちの内に居て下さることはなんと大きな奇跡だろう!
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パンの奇跡から

2011-02-04 11:02:31 | Weblog
少年の持っていたお弁当が、イエスさまに捧げられて5,000人以上の人々を養った。
それも、豊かに12籠もパンくずが残るほどとなった。
イエスさまに持って行く。それが絶対の条件。少年が自分の力で分け与えても、それこそなんの役にも立たなかっただろう。彼がどんなに優しさにあふれて親切に分け与えたとしても・・。

だから此処で少年の名前も知られず、5,000人の人々が彼の存在を知らないことには何の問題もないことになる。
彼自身は、自分のお弁当が用いられた喜びが心を満たし、大きな驚きとわざを成されたイエスさまへの深い信仰を育んでいただろう。イエスさまのみわざにふれた者には、もう、人のほめ言葉なんかいらないのだ。

もし此処で、「みなさん。あなた方の食べているこのパンは、この少年が捧げた物なのです!」なんて言って、拍手でも起ころうものなら、すべてがぶち壊しになってしまう。折角の清い満足に汚らわしい混ぜ物が入り込んでしまう。
人は弱いのでこの少年はとんだ勘違いをしてしまうかもしれない。何よりも恐ろしいことは、イエスさまのわざを完全に消してしまうこと。

非常に大切なことは、単純にいつもいつもイエスさまだけがほめたたえられるべきである。そうなら、すべてが聖く染みも傷もない状態に留まっているだろう。

あなたは私の心に喜びを下さいました。
それは穀物と新しいぶどう酒が
豊かにあるときにもまさっています。(詩編4:7)

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ベテスダの癒し 3

2011-02-03 19:13:46 | Weblog
ベテスダには、多く病人がたむろしていたのに、癒されたのはひとりだった。
イエスさまに「良くなりたいか」と問われて
「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」

イエスさまも知らず、人を恨むような泣きごとしか言えなかった男。でも、彼は切実に癒されたいと願っていた。だから満たされた力を即座に用いて、安息日に床を取り上げて歩いたのだ。

彼が選ばれた理由に思いを巡らせていた。
38年間も誰も助けてくれる人がなく孤独だった男。だから池に一番に入る力のない彼には、良くなる望みは一切なかった。そして、そのことを彼自身はきちんと自覚していた。

では、他の病人達はどうだったのだろうか・・イエスさまに選ばれなかったということは、彼らには望みがあったのだろう。
仮に事実は望みが無くても、本人にはその自覚がなかったし、癒されることをすでにあきらめてしまっていたのかもしれない。

「今日は失敗したけれど、次はもう少し素早く飛び込もう・・頑張って一番になろう!」
「明日には助けに来てくれる人が居るだろう。」
「友達もできた。みんなで一緒に此処にいるのもそれほど悪くはない。」
なんて・・彼らにはイエスさまは必要なかったのだろう。

イエスさまの癒しを得るための必要な条件は、「イエスさま以外には、ひとかけらの望みもない者」それだけ。人の信仰から始まるのではない。信仰は本当にイエスさまを知ったときから始まるのだから。

あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。
それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。(ヨハネ5:39~40)
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