石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

保護者姉妹へ

2011-01-29 14:47:39 | Weblog

そんなに気を遣わないでください。
主が真ん中に居て下さいますから大丈夫でしょう・。主がお選びになった方をつまずかせることなんて出来ないと思います。

私たちがイエスさま以外に、腹に何もないことは主が先刻ご存じですもの。
でも、できるだけ親切な表現を心がけるべきだと・・気づかせられました。巻き込んでごめんなさい。

また、「言葉の足りないところ」ばかりで、知識にも欠けており、十分に語ることは所詮無理ですが、すべて失敗も成功も主にあって・・私はそれで良いと勝手に思っています。


「この病人がどんな動機で語ったにせよ、イエスにとっては大きな問題ではないですね。」
私はアーメンです。それは、人の側の問題に過ぎないと思います。主は初めからすべてをご存じですから、彼への導きとして言われたのだと思います。
主のご計画を人の行いや言葉によって、駄目にしてしまうなんて考えられません。

「魂の考え」このことを伝えたかったのです。私の熟慮が主と何の関係があるでしょう!
私はサマリヤの女の箇所でこのことを学びました。

彼女はイエスさまに出会った時、「あなたは何で水を汲むのですか」と聞きました。その答えをイエスさまから得て、渇くことのない新しい生き方を知った直後、それまでの生きる方策である、古い水瓶を放り出して駆けだしたのです。なんら躊躇するなく・・。古い自分の姿なんか伝道のネタでしかなかった・・。

彼女はイエスさまのお言葉だけで学びました。凄いことだと思います。それだけ渇いていたのでしょう。
行いのない信仰は虚しいです。でも、そのほうが賢そうでもあります。何もしなければ失敗もありませんから・・。黙っていれば恥をさらすこともありませんから・・。

サマリヤの女も自分の恥を町中でさらすことはありません。でも、主に渇きを満たされたら、いのちがあふれてきて動き出してしまうのです。それを止めることが出来ないからです。
すべては、「渇いているか?」ということでしょう。


主の道は平らだ。正しい者はこれを歩み、そむく者はこれにつまずく。(ホセア14:9)

彼らがつまずくのは、みことばに従わないからですが、またそうなるように定められていたのです。(ペテロ2:8)
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ベテスダの癒し2

2011-01-28 11:47:57 | Weblog


ベテスダでイエスさまに癒された男は、パリサイ人にイエスさまが癒し主であることを告げる。
この時のこの男の本当の気持ちは分からないけれど、そもそもイエスさまはこの男に、口止めはされていない。

ただ、「もう、罪を犯してはならない。」と言われただけ・・。それは、彼が告げるその時の彼の心のありかの問題だと思う。

 私はイエスさまのこと、知ったことや経験したことをぺらぺらとよくしゃべる。
それは主が嬉しくてとても黙っては居られないからであり、共に御名を崇めてくださる方に出会うなら、それこそもっと嬉くなって喜びを分かち合いたいから・・

だから、それは深く考えるという魂の作業を通さずに、時が良くても悪くてもそのことを真っ先にする。後のことは全部イエスさまにお任せで・・。

 もし、この男がイエスさまをかばって黙っていたなら、この男の回復はあるいは彼自身の栄光になるかも知れない・・それこそ私の最も恐れること。
この男のおしゃべりが、イエスさまが神の御子であると明確な宣言のきっかけとして用いられている。

イエスさまはこの後、ご自分が神の御子であることを明確に語られる。父の神よりすべての権を委ねられていること、ご自身のわざはすべて神のわざであるとはっきりと語られる。

 今、このことを言うべきだろうか・・と時を気にしたり、私のようなものが語ることは主に恥をかかせるのではないだろうか・・などと、まるで私がイエスさまをかばうような心遣いは、愚かしいサタンの気遣いだと思う。それは罠。

かばわれるのは私であり、私こそが気遣われている者なのである。どれほど考えても私に神のなさることがわかるはずもない。
けれども、主は私のすべてをご存じであり、私を引き留める方法も、進ませる方法もご存じなのだから。

道を誤った時には鞭を下さるだろう・・幾ら鈍くても、打たれたら痛いとわかる感覚があるのだから何も心配しない。主は人をコントロールされないけれど、御真実な方であることを知っている。

そもそも人は、イエスさまをこの世で一日でも長く生かすことを望める者ではなく、イエスさまの十字架のみわざを待ち望む他に、なんの望みもない者なのだから。


私は言った。私は自分の道に気をつけよう。私が舌で罪を犯さないために。私の口に口輪をはめておこう。悪者が私の前にいる間は。
私はひたすら沈黙を守った。よいことにさえ、黙っていた。それで私の痛みは激しくなった。 (詩編39:1~2)
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火曜日の交わりのために (役人の息子の癒し)

2011-01-24 14:51:21 | Weblog
 どこから来たのか分からないということが、神秘性を演出する場合には必要です。
何処で生まれて、どんな人が親であるか知っており、私たちと一緒に大きくなったと言う場合「その人の事は何もかも知っている。」と人は思うのです。
それほどにイエスさまは完全な人になって下さり、人の病も弱さも食べて行く苦労も、隣近所の人々・・そう、私たちと同じように経験してくださったのです。

でも、そのことで、故郷の人々にはイエスさまを、救い主である神の御子と信じることが難しくなりました。
神のわざをなさる神の御子イエスを知っているのか、人の弱さを担われた人の子イエスを知っているのか・・私たちがその両方を知ることが出来る事は本当に幸いです。

この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。」(ヨハネ3:2)

イエスさまを否定するパリサイ人であっても、ニコデモという人はイエスさまが神の子であることを、わざによって知ることができました。
イエスさまが、パリサイ人達に願っておられることはこのような出会いでしょう。彼は、弟子たちにはできないイエスさまを葬る役割を果たしました。

 王室の役人が息子の病気を癒して下さいと願いにやってきました。
彼は息子のいやしの計画を持ってやって来ました。
「イエスさまが急いで家に来て、息子に手を置いて病気を癒して下さる。」という・・そして、息子が元気になるそのわざを彼が目の前で見るという計画でした。

しかし、イエスさまの「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない。」そのおことばは彼の計画を否定しました。
イエスさまの答えは「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています。」でした。役人が頂いたのはみことばだけでした。

彼には王室の役人としてのそれなりの力も権威もあったでしょう。力尽くでイエスさまを引っ張って行くことが出来る立場だったと思いますが、彼はお言葉だけを頂いて帰って行きます。

このことが「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない。」と言われた言葉に対しての彼の答えです。
彼は、まだ何も目の前で見ては居なかったのです。それも大事な息子のいのちがかかっていることなのに、みことばだけを頼りにして帰って行きました。

 私たちも聖書のことばを頼りに生きています。まだ見ては居なくても、まだ問題の最中にあっても「平安があるように」というみことばによって平安を得るのです。
みことばが永遠のいのちを約束しているから、見てもいない未来を、そのことばに託して御国への望みを抱いています。

その時、イエスさまのことばは私たちに事実となります。そのわざによって私たちは、イエスさまを神の御子と感謝にあふれて礼拝します。
ありふれた日常の中で、みことばが生きて働く神の言葉であることを、家族ぐるみで経験させてくださり、その積み重ねによっていよいよ主を喜ぶ礼拝を導いて下さいます。
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ベテスダの癒し

2011-01-22 15:07:23 | Weblog
ベテスダの池でいやしの奇跡を待っていた男。しかし先着順の癒しには預かれなかった。
駄目だと分かっているのに、男はそこを38年間も動けなかったのだ。
それは、救われる前の私の姿、世に勝てない勝負の中で、人をうらやんでも自分の力では方向転換をすることさえ出来なかった。

「イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。『よくなりたいか。』
病人は答えた。『主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。』」


男の答えは恨み言であり、「良くなりたいのです。」と真っ直ぐに答えることが出来なかったけれど、イエスさまは一方的な憐れみによって癒された。
それは、恨み言の背景さえも汲み取って下さる主の優しさだと思った。私の救いもこのようだったのだろう・・。

イエスさまの「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」というお言葉に、すぐに応じた男にはイエスさまの力が満たされたのだと思う。
そうでないと38年間寝ていた体に、床を取り上げて歩く力などないのだから。また、その気力も満してくださったのだろう。人は長い間病んでいると、何よりも心が固まってしまって動けなくなってしまうから・・。

私にはそのことがよく分かる気がする。イエスさまに出会うととても元気になれるから・・それは良いときも悪いときも何時だってそうだから・・。

そこでユダヤ人たちは、そのいやされた人に言った。『きょうは安息日だ。床を取り上げてはいけない。』
しかし、その人は彼らに答えた。「私を直してくださった方が、『床を取り上げて歩け。』と言われたのです。」


その男にも安息日であることは分かっていたと思う。彼はその責めを受けることよりも癒されることを選んだのだ。このことによって、彼は癒されても人からの栄誉は受けられない。彼は癒されたことで人の言い伝えを破った罪人とされた。

「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。
それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。
わたしは人からの栄誉は受けません。」


ユダヤ人たちは聖書をよく知っていた。なのに、イエスさまを知ることはなかったのは、わざを受け入れることが出来なかったから。聖書をよく知ることはユダヤ人たちの誇りを満足させたと思う。けれどもイエスさまのわざは彼らの誇りを砕き、彼らの言い伝えの矛盾を暴いたから。

そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行なうのです。
それは、父が子を愛して、ご自分のなさることをみな、子にお示しになるからです。また、これよりもさらに大きなわざを子に示されます。それは、あなたがたが驚き怪しむためです。(ヨハネ5:19~20)


イエスさまのわざは父なる神様のわざであり、すべて神より発した恵みであって人の願い発ではないのだけれど、人の願いや必要を祈る前からご存じなのだから、私の祈りとイエスさまの答えはいつも繋がっている。でも、それは人の栄誉を受けるためのものではないことは大切な事実だと思う。
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「お言葉がこの身になりますように」

2011-01-21 11:59:44 | Weblog
主にあっては病も祝福となり、この世の問題も祝福を得る道筋となることがあるのだと思う。
ヨハネ4章、役人の息子の癒しを読んでいて思いを巡らせたこと・・。

王室の役人の息子が病気になり、
「『主よ。どうか私の子どもが死なないうちに下って来てください。』」と願いにやって来た。
「そこで、イエスは彼に言われた。『あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない。』」(ヨハネ4:48)


私は始めイエスさまのこのお言葉を不思議に思った。まるでしるしと不思議は良くないことのように聞こえるけれど・・って、イエスさまはそのことをなさるのに・・しかし事は、その順序の問題ではないかなぁと気づかせてくださった。

役人は死にそうな息子を助けたい必死の思いで来た。
「イエスは彼に言われた。『帰って行きなさい。あなたの息子は直っています。』」
彼は、短いそのお言葉に死にそうな息子の命を賭けて、おめおめとひとりで家路に就いた。この時はまだイエスさまを信じては居なかったのだから、これは賭であったと思う。

読んでいるだけではこの役人の心境はよくはわからないけれど、自分の身に置き換えたとき、お言葉だけを信じてイエスさまを離れることには、どれほどの決心が必要だったことだろう。何しろまだ何も見てはいないのだから・・。

しかし、彼は、自分の持っている力でイエスさまを引っ張って行くことはしなかった。此処で彼は自分の力も賢さも用いることはなかった。このことは祝福を得るための大きな事だと思う。

「彼が下って行く途中、そのしもべたちが彼に出会って、彼の息子が直ったことを告げた。 そこで子どもがよくなった時刻を彼らに尋ねると、『きのう、七時に熱がひきました。』と言った。
それで父親は、イエスが『あなたの息子は直っている。』と言われた時刻と同じであることを知った。そして彼自身と彼の家の者がみな信じた。」


主にあっては、いつでもしるしも不思議も起こりうる。私たちが鈍感でそのしるしや不思議に気が付かない時もあるけれど・・。
でも、それらを見たから信じるのと信じた結果起こるのとでは違う。見たから信じるというのは「今、目の前で起こらない事は信じない。」と言うことだから・・それは主の力を否定している。
イエスさまは「見ずに信じる者は幸いです。」とおっしゃった。見ずに信じる者はイエスさまのすべて、奇跡も不思議も信じているのだ。

イエスさまを信じて救われた者は常に祝福のど真ん中にいる。でも、十字架で救われたこの身の大切なものを、不信仰の中で震えながら、お言葉に賭ける時に其れをリアルに見ることになるのだと思う。
この経験によって、イエス・キリストを自分の言葉で証することが出来るのだと思う。
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コロコロ・・

2011-01-19 20:09:01 | Weblog
今日はなんだか体が重く、何時ものようにと走り出しても足が前に進まないので、青く澄んだ空や、桜の梢のプックリとした芽をながめながら歩くことにした。
枯れ野にもそれなりに緑はあって、種々に地面に張り付くように葉を伸ばし、寒風に耐えて真冬の気まぐれな日差しを精一杯浴びている。

小鳥の声もなく、人の声もしない・・わずかに遠くのチェンソーの音が時々漏れてくる・・冬の野は静かで誰に出会うこともない。だから広い道を独り占めしてのびのびと歩く。走っている時は余裕が無くて、ただただ、前に進んで来たのだけれど・・

 畑によって夕食用にめぼしい野菜はないかと見回す。
タンポポの様に地面一杯に葉を広げているターサイを2株引き抜いて、葱を一株、根元で千切らないように「よ~いしょ」と引き抜いて、最後に丸大根の葉っぱを掴んで引き抜た。

大根に付いている黒い泥をジャブジャブと洗うと、真っ白なツルツルお肌が光っていた。まな板代わりの切り株に乗せて、葉っぱをトンと切り落とした。
そこまではなんら問題はなかったのだけれど、切り落とされた大根はあまりに見事にまん丸だったので・・。

切り株からコロンと落ちてころりと転がり出した。伸ばした手をすり抜けて、いよいよコロコロ弾みをつけて、畦の間をどこまでも転がって行く。
待て待てと慌てて追いかけると、此処までおいでとからかうように、畑の端までコロコロ・・転がって、アッという間に4メートルも下の道路の真ん中に弾んで落ちて、派手に砕けてしまった。

急いで後を追うけれど私は真っ直ぐには降りられず、回り道をしている間に滅多に通らない車が走って来た。あーぁ、追っかけてきたけど無駄だったかと車を見つめていると、運転している男性は笑いながらハンドルを右に左にと切って、大根を避けてゆっくりと通り過ぎて行って下さった。三つに割れた大根は泥が少しついていたけれど、食べるにそれほど問題はなさそうなので大切に拾い集めた。

帰って痛々しい大根の話をすると、有休を取って居た息子も主人も大笑い。
丁寧に洗って大根は牛肉と一緒にストーブの上でコトコトと煮て、緑のターサイを添えて鮭のムニエルと、野菜たっぷりの豚汁。大根の若い葉っぱをサッと茹でて細かく刻み、緑鮮やかな菜飯というメニューとなった。
コロコロ大根はとても柔らかくて、少しも残さずすっかり食べてしまった・・とさ。

写真はトラツグミ見つけられるかな?
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新しく

2011-01-18 13:53:42 | Weblog
 あまりに寒い日が続くので、炬燵の中で何かしようと思いついて、始末に迷っていたセーターを引っ張り出してきて解く事にした。
根の要る仕事だけれどさりとて捨てる気にはなれない。あまり着ていないセーターで糸はしっかりしているから・・。着る機会がなかった理由は、編み込みのために厚手に成りすぎて、ついつい着るチャンスがなかった物。

一本ずつかがった糸を解いて、袖、身頃と全体のパーツにして、それをバラバラと糸を引き抜いて解いてゆく・・横で見ていた主人が「時間のかかるもんやなぁ・・」と言う。
たしかに解いて、その糸を巻き取って、枷にして、洗濯をして、枷から玉に巻き取って、やっと編むことが出来るようになるのだから・・。

洗濯をした毛糸の枷を竿に干していたら、お向かいのご主人が珍しそうに寄ってきて、「それ、編むの?昔はしていたなぁ」ってちょっとあきれたように言われた。
私は笑顔で答えながら「わかんねぇだろうなぁ・・」とひそかに思う。

 新しい毛糸を買ったからといってどうってことはないけれど、リフォームにはまる人はその物に対する愛着があるのであり、単にお金の問題ではないの。再生の喜びは死んだ物に手を入れて、再び生き返らせるような喜び。懐かしい記憶にある物が新しく形を変える驚き。

今日は、火曜日の方と今年初めての交わりだった。
イエスさまを伝える喜びは、いのちを得て新たにされた方の喜びを見ることが出来ること。でも、それはリフォームではなく新鮮ないのちの誕生。
「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)

彼女は、先日孫さんの結婚式で「いつくしみふかき」と歌ったことをとても喜んで居られた。大きな声で歌い、牧師さんのメッセージにも「アーメン」と大きな声で言ったと・・。
みことばの、「神が結び合わせた・・」という言葉がとても嬉しくて、その神を私が知っていることが嬉しかったと・・。幼子のような満面の笑みが主にある喜びを語っていた。
この笑顔をイエスさまはどんなに喜んで居て下さるだろう・・。
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わたしは背負って救い出そう

2011-01-16 21:10:35 | Weblog
 「エッ!!」レジの前で財布を開いて絶句した。入れたはずの一万円札が忽然と消えている。確かに家を出るときに新札の一万札を入れて来たのに・・「どうしますか・・」と苛立たしそうに繰り返す店員を前にして、「?」一体どうなってしまったのかと、この現実がどうにもわからなくて・・うろたえるばかり・・。

「後にしますか、また、初めからになりますが・・」せき立てられて、「はいはい。後にします。ちょっと置いておいて下さい。」やっとそう答えて、呆然とCD機に行ってお金を出す。その間もいったいどうなったのか・・さっぱりわからない。

うろたえる私を見つけて主人と息子が寄ってきた。「どうかしたのか」と聞かれ、説明をしている間に、私もだんだん落ち着きを取り戻してきて、「たぶん財布に入れたつもりで、何処かに置いてきたのだと思う。」という結論に達した。

そうして朝祈ってから出てきたことを思い出すとすっかり気持ちが落ち着いた。
祈って始めたことなら何が起こっても、すべては主の赦しの中なのだからちっとも怖がることはない。お札もたぶん家の中にあるだろうと・・。

 だが帰って部屋中を探したけれども、あの新品の一万円札は影も形もない。そんな馬鹿なことがあるはずがない。財布の中から忽然とお札が消えるなんて・・。
「ああ、そうだ!途中で寄ったお店で千円札と間違えて出したのではなかな・・」と思い、主人に「お店に聞くだけ聞いてみようか。」と相談すると、「そんなことは止めておけ。きっと何処かから出てくるよ。」いつになく厳しい顔をして止められたので「そうだね、疑うみたいになったら悪いね。」と素直に思いとどまった。

それにしても主人が一言も責めないで、むしろ慰めてくれたことが嬉しかった。そもそも、途中で寄った店というのは、主人に「止めておけ。向こうで一緒に買うたらええやろう。」と言われたのを、僅かに安いとか、ポイントが・・とか、つまらないことで強行したことを思い出した。でも「だから寄るなと言ったやろう!」なんて言わない主人の優しさに気づいた。

 ちょっと落ち着いたので祈る。
やはり、主人の言葉を聞き流したことが気になったけれど、祈りの中で「大したことではない・・」という思いが私の中に浮かんだ瞬間、「わたしがお前の言葉を『大したことではない』と言ったことが一度でもあったのか!」という叱責が返ってきた。
「ああ、主よ。あなたはこの虫けら以下の者のために、本当にどれほどご真実でしょう。本当にごめんなさい。」

もうお金のことは大した問題ではなくなった。授業料だったのだと思った。
夜、一緒に心配をしてくれていた息子が、「出かけるときに祈ったのだから、このことにはきっと何か意味があるんだよ。何処かから出てくるように思うよ。」と慰めてくれた。

その夜、なんだか疲れてしまって滅多にないことだけれど炬燵でうたた寝をしてしまった。目覚めたとき息子が台所に漬けたままにしていた洗い物を全部済ませてくれていた。
大きな失敗をしても家族に優しくされていることに気づいて「ああ、呆けることも悪くはないかも・・」なんてチラッと思った。
そもそも私は可愛げがなくて家ではいつも強がっているから、このように弱さを露わにして家族に気遣われた記憶は今までなかった。

 そうして今朝とんでもない所であの新品の一万円札を見つけた。落ち着いて昨日の出かける前の行動を思い出すとそれもあり得る箇所だった。
それにしても、なんとまあドジな話。出したお金を財布に入れないで出かけてしまうなんて・・「主人は急いでいたからなぁ・・急いだらあかんなぁ」と言ってくれた。 

若い時なら、無くし物をしてもそれだけの話だけれど、年を取ると激しくうろたえるのは、その事柄が一瞬にしてすべての自信を押し流してしまうから。
単に物がなくなったというだけの話では終わらず、いつの間にかじわじわと忍び込んでくる老化が、はっきりとした形で現れた事に対して不安で恐いのだ。

でも、でも、年を取ってどんどん弱さを覚える今、かってなく主を甘く近しく思うことができるのはなんという幸いだろう・・。
「私の弱さの中に完全に働いて下さる主よ。あなた無しでは一日も生きられないことが、私たちのすべての幸いの源です!」


「あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。」(イザヤ46:4)
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その教えは偽りではない

2011-01-13 18:20:01 | Weblog
 保護者姉(このハンドルネームは「保護者みたい」って私がいたずら半分で言った言葉を、面白がって使っておられる)が、先日「どう思う?」っておっしゃっていた箇所を読んで、こう思うんだけれどって感じで書くと・・。

 それはⅠ列王記13章、ひとりの神の人がヤロブアム王に預言をすることから始まる箇所で、彼は王の食事の誘いには主に命じられたとおりに断ったけれども、

「私もあなたと同じく預言者です。御使いが主の命令を受けて、私に『その人をあなたの家に連れ帰り、パンを食べさせ、水を飲ませよ。』と言って命じました。」

と言う年寄りの預言者の言葉には騙されて、帰り道で獅子に殺されたという箇所。
神の人は自分自身に語られた神の言葉よりも、年寄りの預言者の語る言葉に聞き従って、主の命令に背くことになって命を落とす。


「あなたがたのばあいは、キリストから受けた注ぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるように、・・その教えは真理であって偽りではありません。・・また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです。」(Ⅰヨハネ2:27)

昨年から絶えずこのみことばが私にありまた思い出した。もちろんキリストに留まっているのは、イエスさまの十字架を通って救われた、現在の私たちならこそなのだけれど・・。

 権威のありそうな年寄りの言葉。それに引き替え彼は自分自身を頼りなく思うことも多く、自分で聞いた主の言葉への確信が揺らいだのだろうと思う。
此処で、「その教えは真理であって偽りではありません。」この言葉に居ることの大切さを思った。

「みことばを守り王様の誘いも断って、すでに誘惑にも打ち勝ったのだから仕事は終わった。神様は預言者を通して、ご褒美をくださるのかなぁ・・。」そんな思いだったのかな?しかし彼は直接聞いた言葉に留まり続けるべきだった。

 主が私たちの霊に教えられた教えに留まり続けるには、日々の主との信頼関係、近しい関係でいることが絶対に必要であって、その上でこそタイミング良くやってくる世の権威による、おいしそうな誘惑から身を守ることができるのだと思う。

あきらかに信仰の違う者によって誘惑されることはないけれども、同じ信仰を持っているなど身近な人であるほど、それも微妙に違う事柄に対してみことばに立ち続けることはとても難しい。
それは「頑な」という自分自身からの非難に耐えなければならないし、拒絶はその事柄に対してだけなのだけれど、相手を拒絶していると誤解されることさえ覚悟しなければならないのだから。

 でも、主がみことばを託して下さることはなんと栄誉なことだろう。何と引き替えても、主の十字架を経て救われた身には感謝でしかない!
主が私たちをかたくみことばに留まらせて下さいますようにと願う。
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心から感謝!

2011-01-13 18:09:16 | Weblog
今日は主人の診察の日
肝臓の血液検査の結果値が高いと言うことで、12月の中頃から隔日に点滴を受けるために通院していた。初めのお医者さんの説明では、「いつまで続けなければならないかわからない。」と言うことだった。

今通って居る医院は車で30分ほどの距離があり、頻繁に通うことに私は不安だった。年を取ってきた主人の運転に、危険を感じることもあったから・・。
それで、一ヶ月後の検査までは今のままで、その後は近くの病院を紹介してくださるようにお願いしていた。
しかし、主人が今の先生を信頼していることが分かっていたので、なるべく主人が不安になることがないようにという思いもあり、転院することにも躊躇していた。
 
主人は淡々と通い続けて今日、検査の結果を見た先生は「完全に平常値になっている。気まぐれやなぁ・・信じられん。」とおっしゃった。そこで治療も終了。
先生には気まぐれなできごとにみえたようで、此処で、私が始めに笑って非常識かと後悔したけれど、今度は主人と笑った!

すべては主のお憐れみ。また、共に祈りに覚えて下さった兄弟姉妹のことがとてもありがたくて心から感謝するばかり。
今、病の床に居られる姉妹のために、感謝を持って祈り、主に期待して嬉しい便りを待っている。
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