石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

雪の大晦日

2010-12-31 23:30:25 | Weblog

雪の大晦日はシンと静まって物音一つしない。まるで陸の孤島にいるみたい・・
今日は、朝からチラチラと降り初めて、その後一日中小止み無く降り続いている。
だから主人が飛び出して行ってせっせと雪かきをしても、その形跡があっという間に消し去られるに至って、流石にさじを投げてしまった。
そして雪はすべてを真っ白に覆って、ただ、しんしんと降り積もっていく・・。

最近は滅多に雪さえ降らなかったから、このような大雪は昔の記憶にはあるけれど・・本当に驚き。
それに、今日は息子が徹夜のメンテナンスがあり出社。毎年のことだけれど今年はちょっと気の毒、頑張れ!と心の中で言うばかり。まあ、彼は淡々と出て行ったけれど・・。


私は例年のごとく、せっせとおせちを作ってはお重に詰める。
鍋の中、金時人参のねじり梅、☆切り椎茸、レンコンにゴボウ、亀甲の小芋・・とても綺麗で、日本の食文化や・・って、ひとりで悦に入っている。

大根なますには、人参のしっぽで小さな梅を刻んで散らす、これは私のオリジナル。今年はじっくりと出汁をとったので、大根もこんにゃくも味がよく染みると美味い。大根は夕食にかなり食べてしまった。もう少し作っておけば良かった・・。

叩きゴボウや黒豆は多めに作るけれど、その他の煮物はお重に詰める分だけしか作らないことにしている。捨てるのが嫌だから・・。
だからチマチマと五つきれとか六きれとか、面倒くさい手間を掛けるわりに一口でなくなったりしてしまう。

おせちってよく考えられていると思う。本当に日本の食文化の集大成。ヘルシーで繊維質もたっぷり。彩りも美しいし、バランスもよい。
でも、数の子だけは高コレステロールが恐くて要注意。主人や息子は好きだけど少なめに買うようにして、お重にも多くは入れないように注意している。

有頭エビにだし巻き玉子、紅白のかまぼこ、花切り酢蓮に矢羽根蓮、棒鱈に昆布巻き、ぱりっと仕上げた田作・・私はこの田作が得意!我が家はお正月でなくても、家族が好きだから時々作る。

アッそうか!私がお正月が好きなのは、このおせち作りが楽しいからかもしれない・・そんなことを今、書いていて気づいた。
まあ、それも家族が元気で美味しそうに食べてくれるから。本当に主のお憐れみに感謝するばかり。

信仰について、この一年を・・と考えていたけれど、未だ途上にあって締めくくれない。だから、無理に締めくくらないことにした。今日に続く明日があるばかり。
たとえ、どんなに家事に追い回されているときさえも、主の存在をほんわかと感じている。日常の中で、時にみことばの鞭がピシッと飛んでくることもある。だから、今はそれでいい。

皆様。主と共に良いお年を!


「あなたは若かったときには、自分で帯を締めて、自分の歩きたいところを歩きました。しかし、年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。」(ヨハネ21:18)
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今日はクリスマスイブ

2010-12-24 19:25:30 | Weblog

今日はクリスマスイブ。そうして、どうでもいいことなのだけれど私の誕生日。晴れて高齢者の仲間入り、それが嬉しいのは歯の治療費が安くなるから。虫歯があって要治療。まぁ、大した理由ではないけれど年を取ることにも何か楽しみがないと・・。

私は幸いにも持病がないので、めったに病院に行くことはない。低血圧で、これでも内臓脂肪の価は低い方。主人は肥っても居ないのに内臓脂肪が私の2倍近いから、これは恐ろしい。その訳は彼は野菜嫌いで、私は野菜好きだからじゃないかと勝手に思っている。

 
実は今日、とっても嬉しいことがあった。欲しかったコートをなんと嫁さんが贈ってくれたの。不思議だ、誰にもこれが欲しいなんて言ったことはないのに・・。
私はめったに物を欲しがらないけれど、これはめすらしくコマーシャルを見て欲しくなった品物。
嫁さんの「お正月、帰れなくてごめんね。」って優しい手紙付きで・・素晴らしいプレゼント、本当にすごく嬉しい。

本当は先日届いたのだけれど、肥っている私には着られなかった。とても欲しかった物が届いて着られないなんて・・私はさすがにショックで大騒ぎをしてしまった。
肥っていることを、「この年になってそれがどうした、余計なお世話。」と、ほとんど居直っていたのだけれど、さすがにこの時はまいった。

早速電話をして嫁さんに話すと、送り返してくれたら取り替えてきてあげると言ってくれた。
「本当は、頑張って痩せようと思うのが一番良いのかも知れないけれど、そんなことをしてたら、私死んでしまうよ」なんて意気地のないこと言って、取り替えをお願いする。

最近スロージョギングを続けていて、少し筋力が付いてきたのか、階段などの上り下りもトン、トン、トンと動きが軽くなって来たのが嬉しいのだけれど、たかだか30分ほどの運動で痩せるわけもなく、また楽しいから続いているわけで、痩せようと無理をすることがこの年になって良い結果になるとも思えない。私はストレス大嫌い、ストレスは万病の元。

 
さて、クリスマスイブなんだけれど、なぜかクリスチャンになる前の方が、よほどあれこれとクリスマスっぽいことをしていたように思う。
今や、クリスマスツリーもないし、リースもない。今日はケーキもないし、夕食は鰯のクリスマスフライ。

これには、ちょっと理由があって・・そりゃあ、チキンとかいっぱい売っていたけれど、こんなに一斉に大量のチキンを料理するってことに、大丈夫なのかなぁ・・って感じがして、買う気がしなかった・・そうしたら、新鮮は鰯が目に入ってつい買ってしまったというわけ。

我が家に今、唯一クリスマスらしいオーナメントは、先日のプレゼントの中に入っていた、
孫達の書いたクリスマスカードだけ。ツリーが飛び出す手作りカード。

そんな我が家の真ん中には、主の主、王の王たるイエスさまが居て下さって、それでもう十分で何も足りないものはないから、とても普通だけれど、いつもの穏やかな幸いがいっぱいあふれている。メリークリスマス!
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何時も・・何時も・・いつまでも幸せに

2010-12-20 15:39:44 | Weblog

今朝、主人の主治医から電話がかかってきた。
「ご主人の検査の数値が良くないので、今日から週3回の点滴を行います。来られますか?」とのことだった。

いつもは主人が一人で通って居るのだけれど、今日は何もかも放って置いて付き添って出かけることにした。
以前から覚悟していたことでもあった。老いて行くということはこういうことでもあると・・。
主人と頭を付き合わせてイエスさまにすべてのことをお導き下さいと、お祈りをして出てきたのだった。

車の中で、「しかし何処も痛くもなく、苦しくもなく、なんでも食べられるし、何処にでも行けるんだからいいね。」と言うと、主人も「何処が悪いって・・自覚症状がぜんぜんないからなぁ・・」どこか他人事みたいな言い方をしていた。

実は、その自覚症状の無いことが恐いのだけれど・・。無理をするなとクドクドと言っても、そもそも「無理」の意味がわからないみたいで「こんなことくらい何でもない」と言うばかり・・私は祈るだけだった。

でも、みことばは「妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。」(エペソ5:22)とは教えていても、夫を指導しなさいとはひとことも言ってはいないのだから、私にはその責任はないということ。
そのことがとても気が楽、ただ結果を主人に付き添って一緒に負うだけ。それも、イエスさまが共に居て下さるから大丈夫負うことが出来るだろう。

お医者さんの説明は、想像以上に先の見えないお話だったけれど、そのお話の中でなぜか私は笑ってしまった。声を立てて笑ってしまったことを、今とても反省している。
だぶん、なんて妻だと・・非常識だって思われただろうな・・なぜ笑ったのかと、今考えているのだけれど・・

でもね、ひとつ分かっていることは、どうしてもどんなときも不幸にはなれないということだけ。行き詰まることは無いということ。
危急の時ほど、脳天気な希望がすごい勢いで追って来るのだから・・主人と一緒にのんびりと御国に向けて歩いて行こう・・。

「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」(詩編23:6)
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クリスマスのために

2010-12-18 15:25:04 | Weblog
 
 マリヤは、突然現れた御使いガブリエルに「あなたは男の子を産む」と言われました。婚約者が居る、処女の乙女にとってそれはとんでもないことです。でも、婚約者に相談をする間もなくマリヤはそのことばを受け入れました。

それは、マリヤの「神にとって不可能なことは一つもありません」という信仰によったのです。
しかし、みことばを適用するときその後の覚悟を必要とします。それは、完全に神様に委ねて、自分のための計画を放棄する覚悟です。

 私たちが神様に用いられるときはいつも突然であり、一人で結論を出さなければなりません。
そして、結果を一人で負う覚悟もします。事実は主が共に負って下さるという、もっとも安全な歩みとなるのですが・・。そのことは後にならないとわからないのです。

マリヤには、不倫のそしりを受ける覚悟はあったのでしょうか?
それは、この時代には石打の刑で殺されてもしかたのない恐ろしい罰です。また、ヨセフの誤解を招いて愛する人を失う覚悟も必要でした。

聖書はそんなマリヤの逡巡を書いては居ませんし、そんな間も与えられてはない様子です。アブラハムもイサクを捧げる時に逡巡している様子はなく、次の朝早くにそのことを実行しています。そのことが、聖書をとても清いものにしています。そこに人間の考える暇がないことが聖さだと思います。

 信仰というレースを走っている者には、そのレースを外れて考えると言うことはできないのでしょう。そのことによって、初めて人が神様に従うという信仰が守られるのです。
従うこと以外にできないのです。信仰は時に家族をも巻き込みます。なぜなら、神様は家族ぐるみ祝福されるからです。

その家庭という箱船に乗っている者は皆救われるのです。だから、家族は良いことにも悪いことにもすべてのことに巻き込まれます。それでも、家族を巻き込んで従って行く以外にないのです。
アブラハムがイサクの了解を取ることはできないのです。それが信仰なのです。

「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と言われた言葉はそういうことなのです。家族を巻き込む信仰でないと家族が救われることはないのです。

 信仰生活の小さな日々の中にも、このような選びの時がちりばめられているのだと思います。その、我を忘れて神様のレースを駆けるとき、私たちもご計画を成就する者として用いて頂けるのでしょう。

人はなんのために生まれてきて、何のために生きるのでしょうか。
それはもちろん、造り主なる神様のご計画を成就するためです。
救い主イエスさまが、私たちのところに来てくださったのは何のためでしょうか。

私たちが、御子の十字架によって罪をあがなわれ、清い者とされて、神との関係が回復された時、見えなかった霊の目が開かれ、造り主を「アバ、父」と呼びます。
霊の目が開かれたとき、人は誰でも神のみこころを知るようになるのです。

初めは、イエスさまに目を開かれた盲人のように、ぼんやりとしか見えなくても、イエスさまと居り、自分の大切なものを信仰によって渡して行くなら、みこころが見えるようになるのです。

「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」(ルカ1:38)
私たちがこのように言うなら、神は真実なお方ですから、必ずそのことをして下さいます。

 
「イエスは盲人の手を取って村の外に連れて行かれた。そしてその両眼につばきをつけ、両手を彼に当ててやって、「何か見えるか。」と聞かれた。すると彼は、見えるようになって、「人が見えます。木のようですが、歩いているのが見えます。」と言った。
それから、イエスはもう一度彼の両眼に両手を当てられた。そして、彼が見つめていると、すっかり直り、すべてのものがはっきり見えるようになった。」(マルコ8:23~25)

「しかし、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことを知っています。それで私たちは、真実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。」(Ⅰヨハネ5:20)
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ささやかなクリスマス

2010-12-14 13:13:55 | Weblog

 孫にささやかなクリスマスプレゼントを準備して、綺麗な包装紙で包み箱詰めにした。可愛い色を包むことは私の大きな幸せ。
私は、男の子しか育てていなかったので、女の子のピンクとフリルの、お姫様のようなパジャマを、「なんて可愛いのだろう・・」って、孫の姿を思い描きながら買う事自体とっても楽しい。

男の子なんて売り場も隅っこの方で、茶色と黒と紺色となんて・・色も少なく、何時も同じようなものが並んでいて、選ぶ楽しみさえも奪われていたのだから・・。

クリスマスカードに気の利いた言葉などを書きたいのだけれど・・何と書けばよいのか案外わからない。まだ、困っている・・。


 火曜日の交わりは毎年なら12月の中頃には、忙しいからとお休みするのだけれど、今年は一緒にクリスマスのお祝いをしようかと言うことになった。

「もっと誰かと一緒だっら良いのにね」彼女は残念そうに言われたけれど、「いいのよ。二人で贅沢な時を楽しみましょう」と答えた。
そりゃあ人が多い方が楽しいけれど、二人だったらその真ん中に主がいてくださるもの。主を二人占めという贅沢を今は楽しもう・・。

さて、老女二人のささやかなクリスマス会って・・いったい何をするの?何の計画もないけれど、これから主にアイデアを頂こうっと。
たぶん、いつものようにイエスさまを真ん中にして「嬉しいね。感謝だね。」って語るのだろうけれど・・。


 今日は、イエスさまを信じることができた幸いを語り合った。私たちは、神が真実であるという確認の印を押すことが出来たのだと・・その幸いを分かち合った。


「上から来る方は、すべてのものの上におられ、地から出る者は地に属し、地のことばを話す。天から来る方は、すべてのものの上におられる。
この方は見たこと、また聞いたことをあかしされるが、だれもそのあかしを受け入れない。
そのあかしを受け入れた者は、神は真実であるということに確認の印を押したのである。」(ヨハネ3:31~33)
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ロゴス

2010-12-12 13:51:24 | Weblog
 みことばは人によって語り伝えられ、人から人へと伝わって行く。けれども、みことばを聞いた人が皆救われるわけではなく、大半の人は失望して去って行く。純粋なみことばは、人の知恵には愚かな言葉だから。
だから人の賢さという混ぜ物をして語るようになる。でも、そのことばにはいのちがない。それは人による人の教えになってしまっているから・・。

みことばは、聖霊によって導かれ語られるときにいのちとなり、信仰によってその人の内に生き生きと働く神の力となる。
どうか魂の暗闇に閉じ込められている霊の目が、聖霊の働きによって開かれますようにと祈りつつ・・

 
「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。
・・・
事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。」(Ⅰコリント1:18、21)

「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。
だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。
あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。
また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。
してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。」 (マタイ7:7~11)

「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。
信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」(ヘブル11:1、6)

「あなたがたのばあいは、キリストから受けた注ぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるように、・・その教えは真理であって偽りではありません。・・また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです。」(Ⅰヨハネ2:27)

「平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。
あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます。」(Ⅰテサロニケ5:23、24)

「すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。」(ローマ11:12)
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賛美

2010-12-08 18:16:22 | Weblog
 火曜日の人と、主を喜び歌うために賛美歌のcdを買った。
ずっと賛美出来ないことに私は不満だった。けれども私は音痴だし・・楽器もできない。彼女は教会を未だ知らず、賛美を経験していないので聞かせてあげたくて、いつも共にイエスさまを喜び歌いたいと願っていた。

この間、賛美の代わりに詩編を一緒に読んでいるとき、彼女がしみじみと「いいなぁ・・」と言われたので、思わず「賛美歌を買って一緒に歌おうか?」と言うと、喜んで賛成されたので献金からcdを買う事になった。


 ひとり部屋でクリスマスの賛美を聞いていると、降誕劇をしたときのことを思い出した。カーテンを被って博士のひとりにを演じたことなど・・。あまり練習もしない、いい加減な劇だったのだけれど、演じているひとり一人が結構面白がっていて楽しかったことなどを・・。

主を求めて歩いてきた日々は、「ひとつも無駄なことなどない」ということは本当だと心からそう思う。だって、すべては主の赦しの中にあったことなのだから。良いときも悪いときも主と居たことは事実。

しかし、この世を火の柱雲の柱によって導かれるキリスト者には、同じ場所に留まることがみこころとは限らない。私たちはただ、イエスさまにのみ枕して休らう者なのだから。


「わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。
・・・・
自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。」(マタイ10:34.38)

すべてのことには時があり、主に導かれて、自分の成すべき事を成さなければならない。
ペテロがイエスさまをいさめたのは、彼が人の平和を求めたからだと思う。

「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」(マタイ16:23)

人が築いた神殿は、どんなに素晴らしくても崩されなければならない。それは神の作品ではないのだから。そこに主が住まわれることはない。
私たちは主をお迎えする準備にいそしまなければならない。
破壊される聖戦のチャンスがなく、穏やかな平和が続くということは、よくよく吟味しないと恐ろしいことでもある。

 主を賛美する歌は「イエス・キリスト」が明確でないとならない。主をあかしする言葉も明確に「イエス・キリスト」が語られていないとならないと思う。
誰を愛しているのか、誰をほめているのかわからない歌や証には、この世のものが混ざっていて、主を明確に語る時の聖霊の炎によって清められたものではないから。
それでは主をほめたたえることも証する事もできない。そのことは同じ主を知る者として、とても、とても残念なこと。

私には御国の夢がある。主の御側で何時までもいつまでもイエスさまを賛美していたい。御国では、どんなに長い時間歌っていても、決して疲れることなどないだろう。美しい声と喜びが次から次からあふれてくるだろう・・。
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写真のことから

2010-12-06 15:20:20 | Weblog
 息子の写真が10月に「みことばフォトブック」に採用されて載った。
このことを、先日ミクシィで「まるちゃん」がご紹介して下さっていた。まるで、自分の息子のことのように喜んでくださったことが嬉しくて心にじわりと染みた。

また、本の発売日を覚えていてすぐに買いに行って下さり、息子にお褒めの言葉をFAXしてくださった方も居て下さって、そのときもまるで家族のような愛を味あわせていただいた。
このような愛に触れるとき、愛のない私は本当に謙遜を学ばされる。

 お二人の方から勧められて息子に応募を促したのだけれど、彼はあまり気乗りしない様子でだらだらと時が過ぎてしまい、「日本聖書協会」に「今から送っても間に合いますか?」と尋ねてからの送付だった。

そもそも彼にとって写真は、百パーセント自分の楽しみのためであって、誰に見せるつもりもなかったようで、私のブログに載せるときにも「せっかくの神様の作品である綺麗な景色や、可愛い生き物たちの姿なんだから・・」と、説得する必要があった。

 息子にも、この経験を通して色々な方の愛にふれて、喜びを分かち合う楽しみを知らせてくださったのは主。
採用されたこと、褒めて下さったことも勿論嬉しいけれど、主にある愛の喜びを彼に教えて下さったことが、私には一番嬉しい。そうして少しばかりの自信も・・。


 先日ある姉妹とお電話で交わっていたとき、
「私たちは、ひとり一人、誰よりもイエスさまを愛しているでしょう。なのに、互いにそのことで嫉妬しませんよね。不思議だと思いませんか?このことで、世のこととは全く違うのだと思います。」とおっしゃった。

私は初めてそのことに気づかされ、すごい発見をさせられた。
この世では、同じ人を愛し合っている者同士は敵でしかなく、その愛の物語はねたみの対象でしかないはず・・。
でも、私たちは互いに主から受ける愛や喜びは、自分自身の喜びともなってる。思えばとても不思議な関係。

 それはきっと、人の魂の愛の仕組みによるのだと思う
「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。」(マタイ6:24)

でも霊的な愛はひとり一人を百パーセント愛する愛であり、そのことを知ったから私たちは、互いに主の愛を満ち足りるまで受けて安らうのだと思う。
一人の方が受けた愛は、私にも与えられている愛であることを確信するから、誰の愛も喜びも自分自身のものであり、私たちは共に居て分かち合い、一人の花嫁のように主を愛するのだろう。

厳しい苦難の中に居られる方を知ったとき、同情ではなく喜ぶことさえあるのは、今主がその方をどれほど心配してぴったりと共に居られるか・・と、想像することが出来るから、その愛の物語、その後のお証を楽しみに祈りつつ待つことになる。
素晴らしい愛の物語は、私と私の主との物語でもあるのだから。

 
見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、
なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。

それは頭の上にそそがれた尊い油のようだ。
それはひげに、アロンのひげに流れて
その衣のえりにまで流れしたたる。(詩編133)
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小春日和

2010-12-04 15:12:38 | Weblog
あまりに気持ちが良さそうなので、いつものコースを久しぶりに歩く。最近は内向きなことになんだかんだと忙しくて、なかなか出られなかったから。

トルコ石色の空がスカッと一片の雲もなく広がっているから、子供の頃の遊びを思い出した。
自分の影をじっと見つめて、パッと空を見上げると空には大きな自分の姿が浮かぶ・・そんな遊びを、写真を撮っている息子に教えたけれど、ちょと面倒くさそうだった・・。

飛行機が、低く悠々と頭の上を過ぎて行く。赤と白の翼の色まで見えるほど低く、ブーンと低い音をたてながら去っていった。


山々のパッチワークのような紅葉は、すでに幾らか色あせて・・季節の移ろいを感じさせる。
春の山は緑色に燃えて、そのあまりの多彩さに圧倒されるけれど、秋には、深紅のような紅葉、キラキラと黄金色の鮮やかさが、徐々にセピア色に覆われて、それは侘び寂びの美しさへと変化して行くから、何でもない山の風景にも、秋には深い味わいがある。

なだらかな丘の上から見る雲のない空は、その青さの中に吸い込まれて行きそうで神秘的。
一羽のカラスは、黒い一点のシミのよう・・早々に飛び去った。
株さえ枯れた田圃には、背黒セキレイの夫婦がやって来て、こぼれた籾でも見つかったのか仲良くついばんでいる。

畑を通り過ぎるとき、主人が「それを持って帰れ」と叫んだ。
籠の中には春菊と椎茸、丸大根にターサイ。今夜は息子の注文によってカレー鍋。出来立て野菜いっぱいのカレー鍋。
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昼の間に

2010-12-03 10:28:02 | Weblog
「またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。」
人は誰もみな生まれつき霊の盲人。ただ自分で私は見えると言い張っているけれど・・。

イエスさまの一方的な憐れみに与った者は、お言葉の権威によって仰せのままにシロアムに歩いて行く。それは信仰というよりも、それ以外に生きる方法をもたない者が選ばれているから。

パリサイ人たちの前で取り繕う言葉を、愚かさのゆえに持っていなかったから、何時でもありのままに語るしかなかった。その言葉が彼らを苛立たせていることを知っていても・・。主に出会ったという圧倒的な事実によって、ぐいぐいと問題の渦中に巻き込まれて行く。

主を語っているうちに、パリサイ人の頑なな心に対して抵抗も増していった。なぜ、通じないのか、なぜ彼らは知ろうとしないのか、なぜ彼らはいつも決まり切った言葉を求めているのかと・・。

語る度に育てられて、その言葉も明確になり
「おまえは全く罪の中に生まれていながら、私たちに教えるのか。」
と罵られるようになったけれど、教えているのは彼ではなく主の愛。

彼がこの世から追放されたときに、イエスさまは再び来て下さった。もっと確かに主を知ることを導き、この世には枕するところもない身となったけれど、永遠の住み家を頂いた。

主を語ると、時にこの世に居場所を失うことを人々は知っているから、主が「良くなりたいか」と聞かれたなら、「今は、畑を買ったから・・」とか、「牛をk買ったから・・」などとこの世の用事の中に逃げて行く。

それは主を一番とはしていないから、二番目に回すのだけれど、二番目なんてもう永遠に来ないかも知れない。
だって、主がいのちをかけて勝ち取ってくださったいのちなのだから、当然受ける者もこの世のいのちを捨てて受けるもの。

でも、主は殺す主ではなく生かす主。主にあって真に生きることが出来るのだから恐れないで・・。
その道筋は肉の目には見えないけれど、霊の目には一足毎に見えるようになる。
主の事実を与えられる言葉で語りつつ・・自分の愛する者に寄りかかって、荒野から上って行こう光のうちに・・。


「わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行なわなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。」(ヨハネ9:4)
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