石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

速贄(はやにえ)

2010-11-30 17:08:26 | Weblog
 そのことは、まだ私は完全に癒えているわけでもなかったので、正直心が重かった。だから前日には一応準備をしながらも、まだ心のどこかで逃げ道を作っていたのだけれど、当日はすべての事情が私を押し出そうとしていた。

 そのような時、主人がガサガサと捜し物を始めた。「どうしたの」「ガソリンスタンドのカード知らんか?」と言う、「そんなの私は知らないよ。」「車検に出すときに、どこかに仕舞ったと思うけど・・入れたはずの所にないねん。」「いつも車に鍵も掛けないで放っておくから盗られたんと違うか?」「もう一回、車の中を見てくるわ」主人は、ばたばたと出て行った。

「イエスさま。主人に思い出させて下さい。そうしたら私は平安のうちに従いますから。」と祈る。
出てくるとも思えなかったので、「ああ、これでたぶん私は行かないことになるだろう。」と変な安心をしていたのだけれど、

主人の大きな声を玄関に聞いたとき、すべてを悟って「やはり行くべきなのか」と思った。
「有った!有った!フッと缶の中に入れたことを思い出した。」と飛び込んで来た。「良かったな。スッとしたな。今、祈っていたよ。」と告げると、主人は嬉しそうに「イエスさまに感謝や」と言い残して再びそそくさと出て行った。
私はそれほど嬉しくもなかったけれど約束をしたのだからと、覚悟を決めて出かけることにした。

 道中もあぜ道を選んで、畑や田を覗き込むように道草を食いつつ歩く。シロツメクサが生えている畦を行くとき、「イエスさま。もう一つお願いがあります。四つ葉を見つけさせてください、そうしたら幸せな気持ちで従えますから。」と主にお話した。

でも、四つ葉は見つからないまま・・体は前進し、心は遠くに逃げて行く。
そんな時、シロツメクサを追っていた目に、カエルがグサリと突き刺された、一本の茎が飛び込んできた。まるでカエルの草のようにそれは一体化して、黒くカンピンタンに渇いていた。

 庭の梅の木にムカデやトカゲが刺さっているのを見たことはあるけれど、その草はわずかに20cmほどの茎だったから、こんなのを見たのは初めてで珍しくて、しばらくすべてを忘れて見とれていた。

モズがこんな低いところに降りてきたのかと・・、そんなことを考えていたらなんだか楽しくなって、なんだか元気が出て来て、その日はとにかく主のみこころに楽しく居ることが出来た。

 その日はそれだけのことだったのだけれど、やはりなんだか悲しくて、いろいろと思い巡らせてた時、イエスさまが生け贄となって下さったこと、イエスさまの低く低くなってくださったことなどが、ワッと心に吹き出して瞬間あのカエルと重なった。

十字架にかかってくださったイエスさま。渇いてくださったイエスさま。ああ、このことをおっしゃりたかったのか・・このことを教えて下さっていたのかと・・。

幸せになる四つ葉ではなく、死ぬべき十字架。低く低くなって侮られ、嘲られる死。注ぎ尽くしてカンピンタンになるのだと・・。
主よ。そんなことができるのでしょうか・・。そのような栄光を受けることに恐れを感じるけれど、もし、そんなことがこの身に成るなら、なんと晴れがましいことだろう。

そして、その日に受け取ったものは、ある姉妹が送って下さっていた聖別への備えのご本。受けるべきものを受けよとのお導き。
コメント (2)
この記事をはてなブックマークに追加

老後バンザイ

2010-11-29 19:18:37 | Weblog
年を取るってそんなに嫌なことなのかなあ・・そんなに悪い事なのかなあ・・私は今、結構満足して暮らしている。元々、私はお正月が好きだもの。こんなことを言うと友人を失いかねないけれど・・。

今夜も食事をとりながら、主人が「年々月日の経つのが速ようなるなぁ・・」と言った。それは事実だけれど、「別に速うてもかまへんやん。70歳でも、80でも、もう同じようなもんと思わへんか。」「そらそうやなあ」これは私的ポジティブ。

「さくらの嫁入り姿は、俺らはよう見んやろうなぁ・・」「『さくら嫁に行け』って言いおうか?徳川時代か!」そこで二人で爆笑。
小学生の孫の嫁入り姿を思うなんて・・主人には時々びっくりさせられる。私はそんな暇なことを考えることもないから・・でも、それも愛かなぁ・・。

年を取ると沢山の事柄から解放される。責任がどんどん取れなくなって行って、それは責任を取ることから解き放たれることだとも思う。
究極呆けることも出来るのだし・・呆けた振りという技も振るえる。

年を取るまいと頑張る人の心がよく分からない。神の下さった美味い時間を、わざわざ世の溝に捨ててあくせくするなんて・・まぁ、個人の自由なんだけれど・・。

若い頃に憧れた「時間」を今やっと手にすることが出来た。若い頃に疲れ果てた責任からも解かれた。若い頃に堪え忍んだ世の縛りからも、今では居直って好きに振る舞うこともできるようになった。

自分の体の中ばかり覗き込んで、サプリメント探しや、些細なことに病院通いで命を磨り減らすなんてまっぴら。
だから、夕食の度「今日も元気だったことが嬉しいね」と主人と話す。それは一日一日その日に与えられたものだと知って、その日その日に満足しているから。

「世の人は、我に何とも言わば言え、我がなす事は我のみぞ知る。」
龍馬の意味にはほど遠いけれど、おくればせでも年を取ってこのような生き方に目覚めることはいいかも・・。老人こそが、既成のしがらみを打ち破る環境にいるのではないだろうか。だって失うものがもうないのだから、それはそれだけ自由を手にしているということだと思うから。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

ダビデとウザ

2010-11-23 13:48:37 | Weblog
神の箱を運び上ろうとしたとき、ウザの割り込みによって神が怒りを発せられた事を知って、ダビデは激したとある。ダビデには神の怒りの理由が分かったのだろう。
ウザの不敬の罪を知ることはとても大切。殺されなければならないほどの神の怒りとは、ウザが神の箱をただの箱のように扱ったからではないのだろうか。

神の箱だからこそ落ちないように手を出した?いや、それは人の賢い判断ですることであり、どんな積み荷の時にもする行動である。人間が手を出して守ることは。
人は偶像にはすべてそのようにする。人間が造り、人間が食べ物を供えて食べさせ、盗まれないように守る。

ウザは、自分の判断で神の箱の価値を計った。人は無意識にそういうことをする。みことばを割り引いて計ったり・・。
「聖書にはこのように書いてはあるけれど、実際にこの世を生きる時、私たちのがんばりというものが大切である。」そんなふうに、常に自分の判断を優先してしまうことがある。

それは、死に価するようなことだとウザの死は教えているのだと思う。
神のご計画をどうして私たちが知ることが出来るだろう・・。どうして計ることが出来るだろう。

ダビデが再び神の箱を運ぶとき、王の権威を脱ぎ捨てて、ダビデのそれまでの働きによって得た評価のすべてを脱ぎ捨てて、まるで子供のように無心に喜び踊って迎えた。
その謙遜な信仰によって、彼は主に受け入れられ、主はとこしえの祝福を約束された。

しかし、その姿は神には受け入れられたけれども、もっとも身近な妻からはさげすまれた。神の前に正しい行いが人の評価を得るとは限らない。いや、きっと純粋であればあるほど、愚かしく映るだろう。


ダビデはミカルに言った。「あなたの父よりも、その全家よりも、むしろ私を選んで主の民イスラエルの君主に任じられた主の前なのだ。私はその主の前で喜び踊るのだ。私はこれより、もっと卑しめられよう。あなたの目に卑しく見えても、あなたの言うそのはしためたちに、敬われたいのだ。」(Ⅱサムエル6:21、22)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

弱さと強さ

2010-11-22 13:49:51 | Weblog
27章のダビデの働きはそれまでとは全く違う。主により頼むことをせず、サウルを恐れて、敵に身を寄せ敵のために働いている。
敵の敵は味方というけれど、その敵はダビデの主の敵である。このことはまったく人間のやり繰りであって、それまでのように主に聴くダビデの行動ではない。

「私はいつか、いまに、サウルの手によって滅ぼされるだろう。ペリシテ人の地にのがれるよりほかに道はない。そうすれば、サウルは、私をイスラエルの領土内で、くまなく捜すのをあきらめるであろう。こうして私は彼の手からのがれよう。」(Ⅰサムエル27:1)

「ダビデは、これらの地方を打つと、男も女も生かしておかず、羊、牛、ろば、らくだ、それに着物などを奪って、いつもアキシュのところに帰って来ていた。・・・
ダビデは男も女も生かしておかず、ガテにひとりも連れて来なかった。彼らが、『ダビデはこういうことをした。』と言って、自分たちのことを告げるといけない、と思ったからである。ダビデはペリシテ人の地に住んでいる間、いつも、このようなやり方をしていた。(Ⅰサムエル27:9、11)

これらのことは、主の命じられた聖絶とは全く違う。ただ、ダビデが自分の身を守るためにした殺戮にすぎない。
いのちを造られた造り主の権威の元にすることと、自分の身を守るために殺すこととはまったく違う。

ダビデは、それまでの主の恵みを覚えていれば、サウルをそれほど恐れる必要はなかったと思う。飛んでくる槍から身をかわさせ、逆にサウルを討つ機会さえも与えた主なのだから。

そのような、主の守りを経験していても、人は弱気になってしまうこと、信仰が切れる・・そんなことがあるのだろう。

 
エリヤは450人のバアルの預言者とひとりで向き合って、主が力ある神であることを証明した直後に、イゼベルの脅しの言葉を恐れて逃げている。
主の大いなる力を見た後で、なぜそれほどに恐れるのかと思うけれど、人とはそうした者だと思う。大きなことをした後で、もの凄く恐くなることがある・・。

それでも、そのような弱さを持っている者に、主は近づいて下さって、エリヤを養い力づけて主のご計画を行わせて下さった。
ダビデにも脱出の道を備えてくださった。
「主は、私たちの成り立ちを知り、私たちがちりにすぎないことを心に留めておられる。」(詩編103:14)


しかし、パウロは逃げていない。エルサレムに上ることをどんなに引き留められても、彼はまっすぐにエルサレムに上って行った。
聖霊の導きがパウロを去ることはなく、彼は神の愛のエネルギーによって生きていたからだと思う。

 
「もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。」(ローマ9:3)

「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。」(ピリピ1:21)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

恐ろしい歌

2010-11-21 15:11:00 | Weblog
「 女たちは、笑いながら、くり返してこう歌った。『サウルは千を打ち、ダビデは万を打った。』」(Ⅰサムエル18:7)
こんな風にもて囃されること、それは決してダビデの望むところではなかっただろうと思う。

こんなふうに囃し立てられる立場は恐ろしい。ほめられるべきはダビデではなく勝利を与えられた神である。このように囃す人々によって、ダビデはとても辛い経験に追い込まれて行った。

最後まで勘違いをしなかった、ダビデの真実な信仰に教わることはとても多い。でも、信仰の結果をもって人をほめることは本当に恐ろしい。その結果はただ、神の憐れみによることなのだから。

ダビデは信仰者だったけれど、勇者ではないと思う。彼はいつでも、自分の勇気で戦ってはいなかった。ただ、主に信頼して主を恐れて、自分の成すべき事をしていただけ。

サウルは選ばれてすぐに王とされたけれど、ダビデには長い時間をかけられた。ダビデも決して自分で策略を巡らせたり、チャンスを用いて王座を取りに行くことはなく、ひたすら主を恐れていた。王になる意志を持っていたのか持っていなかったのか、それさえわからないほどに・・。

神様は、うんざりするほどの時をかけられた。ずっとダビデを御目を止めておられ、ダビデが壊れそうになったとき、ダビデの忍耐、信仰の限界を見定めて居られたように、そのすべての弱さの極限に王座に就かせられた。

だからダビデは知っていたと思う、自分の信仰が大した物ではないことも、自分の勇気が大した物ではないことも・・。そのことはなんと感謝な事だろう。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

ねたみ

2010-11-17 11:25:32 | Weblog

サウルの内に入ることを許された災いの霊は、まるで獣のように、ねたみという餌を与えられて凶暴に育ってしまった。ダビデの琴によっても制御出来ないまでになり、ダビデを苦しめ、サウルを破滅に向かわせた。

私たちの信仰がなくなり、主をないがしろにするとき、私たちの内は荒野のようになり、そこに燃える蛇が住むことを主が許されることがある。
しかし、イエスさまを仰ぎ見るなら、主は私たちの内を緑の牧場と変えて、そこに伏させ憩いの水、清い霊に満たして祝福して下さる。
そこには燃える蛇が住むことはない。

ねたみはいつも近くにあるけれど、私たちが日々主を知ることによって、満たされ満足を得ているなら、何をねたむことがあるだろう。
どうぞ、主よ。あたなをもっと、親しく知ることができますように。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

今日は火曜日(嵐は去って)

2010-11-16 14:16:33 | Weblog
 火曜日の方とイエスさまを礼拝する時、彼女の笑顔にいつも励まされる。イエスさまのご真実なことを繰り返し話してくださった。
「私はいろんな神さんを今まで信じてきたけど、こんな方は初めて。見たことも聞いたこともないよ。すべての心配事が、ガラッとひっくり返ったように片づいて、夕べは本当に感謝で一杯になってお祈りしたよ。」

 次々と問題が起こって、大きな悩みを三つも抱えて居られた。でも、それらは彼女には、イエスさまのご真実を経験するための材料に過ぎなかった。主は、主に来る者の苦しみを祝福に変えて下さるお方であることを、彼女を通して私にも見せて下さった。
彼女はその信仰のタラントを用いて、主に留まり続け、主に期待して、どんな時も決して主に絶望しなかった。


 苦しみや混乱の時が過ぎ去って静かな時間が続くときは、みことばからイエスさまを知って成長するとき。
問題が取り去られたのに、それをまだ心配して思い煩うことがあると話された。誰でもそうだけれど、主の平安の中に安息することはそんなに簡単ではない。
その平安も祈りつつ、これから、ゆっくりともっと主を知らせて頂こうと・・。


 今日はカナの婚礼の箇所を二人で読んだ。イエスさまがマリヤに言われた、
「あなたはわたしと何の関係があるでしょう。女の方」という言葉に、
「やはり、イエスさまは神様だから、お母さんにもそんなもんなのかなぁ・・」と言われたので、

「いいえ。むしろとても普通の仲良しの親子だったのだと思うよ。だからこそ、この時イエスさまは、けじめを付けるために厳しい言い方をされたのだと思う。『これからのことは親子関係にはよらず、神の子としての仕事なのですよ。』ってことだと思うよ。」

「なるほどね。マリヤは偉いね、イエスさまを産んで、ずっと大きく育ててきても、その子が神であることをちゃんと忘れなかったんだから。それはけっこう難しいことだと思うから・・。」
「本当にね、彼女は信仰による緊張感を持ちながら、普通に生活をして、イエスさまを普通の子供のように育てて来たのだと思うよ。」

 キリスト者としての信仰生活も、ほとんどの時間を一社会人としてこの世に普通に生きて居る。ただ、キリストにある者として、何ものにも変えられない大事なものを抱えていて、時には、そのために一人ででも世と戦うことがある。

それは主に賜った十字架。イエスさまが命を捨てて勝ち取ってくださったものを、私も命を賭けて守りたい。でも、そのことを実現して下さるのもイエスさまのわざ。
いろいろな感動の中で、深い感謝のお祈りとささやかな献金を主に捧げて、香ばしいお茶を頂いてお別れをした。


「私が苦しみの中から主にお願いすると、主は答えてくださいました。私がよみの腹の中から叫ぶと、あなたは私の声を聞いてくださいました。」(ヨナ2:2)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

足口を鍛えたこと

2010-11-13 16:08:59 | Weblog
妹に誘われて今年も山に登った。あらかじめ「今年の紅葉はたいしたことないよ。」と聞いて居たので、覚悟はしての紅葉見物だったのだけれど、下から山を見上げただけで「本当に駄目だね。今日は足口を鍛えよう。」
山道を歩きながらおしゃべりを楽しもうと方針転換をした。

紅葉の美しさは鮮やかさだと思うけれど、下手な水彩画のように濁った色をしていて、青いままで萎れたように木にくっついているものがほとんど・・。
そんな姿はなんだか老醜を思わせて辛い。たしかに潔さというものは美しいんだ・・と今更のように思う。

しかし、木に責任がある訳じゃなし・・神様がお造りになった良きものを、人のどん欲が台無しにしたのだろう。自然はその巻き添えを食っているだけ。
温暖化でちっとも寒くならないから、散り損なったんだ・・
それに、なんだか山全体がどんよりと曇っていると思っていたら、黄砂だったという・・。

山のそこかしこに、荒々しく削られた土が台風の後のようにむき出しになっている。足元も向いの山肌も・・。
「一体これは何?」妹曰く「これは猪の踏み荒らした後だよ。」
ああ、なるほど確かに足跡が見える。それにしてもあまりに酷い。

この山には、実のなる雑木はほどんどない。同じような種類の木ばかりで、彼らの食べ物はほどんど見当たらない。
同じものばかりを植えて来たからだろう。美しい自然だと見ていた景色は、人が造った景色だったんだと気づいた。
同じ物ばかりを選び、多様な植物を除いてきたこと、その不自然がこのような結果の原因の一つではないのだろうか・・。


 障害児をもって学校の入学に苦労をしていたとき、健常児の中に共に居ることを願うことが、なぜこんなに困難なのだろうと悩んでいた。
人間は、多様な人が居る。神様がそのような造られたのだから。
赤ちゃんから老人まで、天才から知的障害者まで、姿形もいろいろ。大好きな人も嫌な人も・・。
子供の時から、出来るだけいろいろな人を知っているほうが良いに決まっている。その方が自然に忍耐力や多様な価値観がつくだろうから。

それは時に面倒かも知れないけれど、健常児だって全員同じではないのだから、色々な人が共に居るってそんなに悪いことではないと思う。
事実彼が通学するようになって、グラスメートは彼をよく理解してくれた。高校を卒業するまでなんの問題も起りはしなかった。問題は大人が作った障壁だけだった。


 桜の木々はすかっかり病んで、真っ白な骸骨のような姿をさらし、梢は折れて幹だけが突っ立っている。
どうしてこんなに無残な姿になってしまったのだろうと、もう、景色から目を背けて取り留めもなく、たわいのない冗談をとばしながら、ちょっと膝を痛めている妹の足を気遣ってゆっくり登る。

毎年同じ場所のベンチにかけて、
「クッキー半分ずつしよう。その代わりお茶ちょうだい。」「え・・どうして持ってこなかったの、私の分しかないよ。去年はあんたが私の分まで準備してくれたのに・・それに、飴とみかんはある?」「飴はあるけどみかんはないよ。お茶は上で買ってあげるから。持って歩くの重いし・・」「どうして・・去年はあんたが準備したのに・・」「お茶は忘れたの。みかんは昨日食べてしまったの。」「私なんか、昨日からお弁当の準備をしたのに・・」「昨日何をしたの。」「え~っと何だったか・・忘れたけれど」

とにかく、私は朝からおむすびを握って、のりを入れた卵焼きを焼いて、昨日の唐辛子の炒め煮と、小芋と厚揚げの煮付けなどを折に入れてきた。
ああ、昨日準備をしたのは、煮物を多めに作ることだったかな・・。
お弁当の色は綺麗ではないけれど、美味しいでしょうと話しながら紅葉していない山でお弁当を開く。今日は本当に色気のない日。

帰り道、「これで軽くなったのかなぁ」「軽くなるわけないでしょう。だって、お腹であろうと手で持っていようと、自分で持っていることには変わりはないし・・」「本当にお腹に入れても同じなのかなぁ・・」

お弁当を食べてから、食べようかと言っていたソフトクリームの看板を見て、「やっぱりもう要らないね。」「要らない、要らない。第一高いよ。スーパーだっら160円で済むよ。」「この考えは日本を滅ぼすね。」
口は大いに鍛えられたけれど・・さて足の方は・・?
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

サウルの悲劇

2010-11-12 15:14:00 | Weblog
「見よ。主がお選びになったこの人を。民のうちだれも、この人に並ぶ者はいない。」
サウルはこのように王として選ばれた。
しかし、神様に選ばれた人は神様に聞き従うことをもって、初めてその役割を果たすことが出来る。

彼自身は荷物の間に隠れてしまうような、気の小さなただの人間に過ぎなかった。
彼は王となったとき民が離れて行くことを恐れて、自分で全焼のいけにえを捧げた。
その時、彼は神様を恐れることを捨てて、王座を偶像としてしまった。
そのようにして守った座は、人を支配する王座のように見えて、実は人を恐れ、自由をなくしてしまっている事に彼は気づいていない。

ヨナタンの信仰は、
「大人数によるのであっても、小人数によるのであっても、主がお救いになるのに妨げとなるものは何もない。」(Ⅰサムエル14:6)とたった二人で敵陣に乗り込んでいって、結果イスラエルに勝利を収めさせることになった。それは、人に頼ろうとするサウルとは真逆だ。

人を恐れると神を恐れることができなくなる。それは神様を恐れる自由を失うことであって、すべての自由を失ってしまうことでもある。
神を恐れる者は人を恐れない。それは大きな自由を獲得することでもある。それを守られるのは主だから。

サウルは神様の祝福を台無しにしてしまって、神様は彼を選んだことを悔まれる。
神様に御目を掛けられながら、こんな悲劇的な結末だけは絶対に味わいたくないと思う。

神様を知らないゆえに的外れな誓いを立てさせて、兵士に食事を取らせずに弱らせたり、自分の子ヨナタンを命の危険にさらしたり、宗教的であっても無意味な行為を強いている。それらは彼の単なる思いつきであり、神様のあずかり知らぬことだ。

神様の祝福である美味しい密をなめさせなかったのだから、むしろ逆らってさえいる。
密はみことばを思わせる・・。そういえば、自由にみことばを読むことを制されたことがあったけ・・ずっと昔だけれど・・。


 サウルはアマレクとの戦いでも、民が惜しんだからと聖絶のものを残した。最上の物を惜しんで残し、それをいけにえとして捧げると言うが、その汚れたものを用いるという神経には言葉を失う。

聖さとは神様に従った結果であり、みこころに背いたものはどんなに見た目に素晴らしく見えても汚れている。
少しでも神を恐れるなら決して言わぬ偽りを、平気で口にすることが出来る時は、神とはあまりに遠い存在。

聖絶とは恐ろしいことのようだけれど、主に従うときに色々なかたちで、私たちキリスト者はきよめ分かたれて、世には死んで、新しくされるために通るところだと思う。

まず、父を葬ることを願い出て退けられた弟子が居たけれど、主に従うときはその場で直ちにであって、ペテロ達も生きるすべであった網を捨てて従ったし、マタイも取税人の特権を捨てて付いて行ったのだった。
主が十字架で、父なる神に捨てられて成し遂げて下さった御救いを頂くのだから。


「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。」(Ⅰサムエル15:22~23)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

宮きよめ

2010-11-08 13:42:00 | Weblog


イエスはエルサレムに上られた。そして、宮の中に、牛や羊や鳩を売る者たちと両替人たちがすわっているのをご覧になり、細なわでむちを作って、羊も牛もみな、宮から追い出し、両替人の金を散らし、その台を倒し、また、鳩を売る者に言われた。

「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」
弟子たちは、「あなたの家を思う熱心がわたしを食い尽くす。」と書いてあるのを思い起こした。

そこで、ユダヤ人たちが答えて言った。「あなたがこのようなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せてくれるのですか。」
イエスは彼らに答えて言われた。「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」(ヨハネ2:13~19)


イエスさまがひっくり返されたものは、決して救われる事のない形骸化した宗教。
その時の宮の様子は、罪の痛みをもって、神の聖さに渇き礼拝をする場所というよりも、宗教的な行為によって安心を買い取るような、救いの形骸化がそこにあったのだと思う。

生け贄を売る者にはそこは商売の場であり、買う者には安易で便利な場所。互いに益があって、いつしかそれは当たり前のこととなり、それが形となり、それが宗教となっていたのだろう。

イエスさまはその偽りをひっくり返して、ご自身の体という神殿を、神の御前に生け贄とされ、十字架の死によって、すべての罪の完全なあがないを成し遂げてくださった。

そして三日目によみがえってくださり、私たち主の十字架のあがないを信じる者を、罪の代価を完全に支払われたきよい者、神の聖霊の宮としてくださった。

それでもなを、人は人に過ぎないけれど、主の血潮に覆われている者はきよい神の宮であり、その事実の中で、自分自身を捧げることを願う人生こそが、真の捧げものなのだと思う。


「あなたがたは何を求めているのですか。」(ヨハネ1:38)
コメント (4)
この記事をはてなブックマークに追加