石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

雀の一羽さえ

2010-10-30 13:56:24 | Weblog

命は神のもの。主の支配下にある命を、神の与えた人の自由という中で、神に最悪の決断を迫るそれが自殺。それは殺人。

「死ぬ」ことと「死にたい」事とは全然違う。死の決行は神への反抗であり、そこには自我の強さを感じる。
しかし「死にたい」ことは、弱さの中に完全に働かれる方の御手の中に居ること。

自殺は、それはとことん自分自身の問題のようでも、他人との関係が中心になっているように思う。それとも、すべて他者の評価によって生きる者が人間なのだろうか・・。それなら、生きていても何時虚しくなるかしれないだろう。


裁きは主にあり、自分自身をさえも裁かないとパウロは言う。
ペテロも大きな失敗の時、主の裁きにすべてを任せて主の近くに居続けた。

すべての責め言葉も、誉め言葉も主にあって受けるなら、自分をいたずらに責めることも、人を呪うこともないだろう。
心の脱出の道はどんな時でも、天に向けて開いてくださっている。

仮に、死ななければならないほどのことがあっても、腹をくくって最愛の人の前に裁かれる時を待っていればよい。彼は良き裁き主であり、いのちをも賜ったほどに愛して下さっているのだから。

だから、ユダは死ぬべきではなかった。ユダさえも赦すための十字架を見るべきだった。自分自身を、自分の裁きで治めることは誰であっても間違っている。

私は、死にたいという小学生の息子言葉によってイエスさまにすがりついた。それが大きな祝福のはじまり。
死にたくなると言うことは、弱さの中に完全に働く方の働きによって、新しくリッセットされて出発することができる場所なのだから、どうかイエスさまを見いだすチャンスとして欲しい。

人(自分も含めた)への絶望は救いをもたらすけれど、神への絶望は死をもたらす。だから、どんなときも神に絶望する言葉は吐かないでほしい。

自死さえも与えるほどの自由を、神と人の悲しみのためではなく、喜びのために用いて欲しい。
人を見つめているその目を、イエスさまに向けて欲しい。人の評価を聞いて居るその耳を、祝福の神のことばを聴く事に向けて欲しい。

 
二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。(マタイ10:29)
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恐れ

2010-10-25 11:05:38 | Weblog

「主よ。助けて下さい!」と叫ぶとき

「わたしはあなたを背負って運んでいるではないか。
わたしはあなたの砦であり、避け所ではないか。」と言われる。

ああ、主よ。私の不信仰をお赦し下さい。
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おおきくなあれ

2010-10-22 23:10:38 | Weblog
     

あめのつぶつぶ 
キウイにはいれ 
ぽとん ぽとん ちゅるん
ぽとん ぽとん ちゅるん
おもくなれ 
あまくなれ
            
           作詞 さくら
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陣痛

2010-10-22 15:19:43 | Weblog

あれほど心地の良い場所が・・
今は私を責める
暗いトンネルへと追い込む

祈られた夜
それは陣痛だと教わった
もう時が来たと、みこころだと・・

胎児ほどに主に聴くことはない者には
それは恐れと迷い・・

しかし留まるなら
すべてが壊れるだろう・・
それは逆らうことであるから。

産まれるのである
必ず、ひとつの飼い葉桶は備えて下さっているのだから
そこで眠り、そこで育つだろう・・その方を知っているから。
安かれと・・恐れるなという言葉を、今聞いている。

  
「あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」(ヨハネ3:7)
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愚かなことばへの従順

2010-10-15 18:12:05 | Weblog
 
ヨシュアがエリコに送り込んだ斥候に、彼らをかくまった遊女ラハブは、主のあかしによってエリコの民には恐れが在ること、また、自身が主に信頼することを語った。

 
「主がこの地をあなたがたに与えておられること、私たちはあなたがたのことで恐怖に襲われており、この地の住民もみな、あなたがたのことで震えおののいていることを、私は知っています。・・・
私たちは、それを聞いたとき、あなたがたのために、心がしなえて、もうだれにも、勇気がなくなってしまいました。

あなたがたの神、主は、上は天、下は地において神であられるからです。・・・
どうか、私があなたがたに真実を尽くしたように、あなたがたもまた私の父の家に真実を尽くすと、今、主にかけて私に誓ってください。そして、私に確かな証拠を下さい。
私の父、母、兄弟、姉妹、また、すべて彼らに属する者を生かし、私たちのいのちを死から救い出してください。」(ヨシュア2:9~13)

 
すでに主がエリコの民の心に恐怖を与えて、その地に働いていて下さっていることが分かります。ラハブは主のあかし、わざを聞いたことによって主を知り、時を移さず、真っ直ぐに主を選び取り、自分自身を主に預けた。このようして、ラハブは主の味方となって、家族と共にいのちを得た。
主はご自分の力をあかしされる。主のあかしに対してあなたはどうするのか、といつも問われているのだと思う。

ラハブは言った。「おことばどおりにいたしましょう。」この言葉は、「お言葉通りこの身になりますように」そんなマリヤの言葉を思い出す。
「おことばのようにする」それが信仰告白。主に対するその行いこそがいのちを得させるすべてだと思う。

エリコ戦の前に、主は再びヨルダン川を分けてイスラエルを渡らせ、ヨシュアがリーダーとして、主によって立てられていることをあかしされた。
主は人をご存じで、うなじのこわい民であることもご存じだから、ヨシュアが信じるに足りる者であると証してくださった。人は、主のわざを見なければ信じることが出来ない者であることも、そんな弱さを持っていることも主は知って居られるから。

主はイスラエルの戦士たちに、エリコ直前で割礼を命じられた。そうして彼らを完全に無力な状態に置かれた。割礼は激しい痛みを伴い数日は動けなくなるために、敵の前で行う事は愚かなことだけれども、彼らは主に聞き従って自分たちの従順を証した。

またヨシュアに対しても主への従順を試された。

 
さて、ヨシュアがエリコの近くにいたとき、彼が目を上げて見ると、見よ、ひとりの人が抜き身の剣を手に持って、彼の前方に立っていた。ヨシュアはその人のところへ行って、言った。「あなたは、私たちの見方ですか。それとも私たちの敵なのですか。」
すると彼は言った。「いや、わたしは主の軍の将として、今、来たのだ。」そこで、ヨシュアは顔を地につけて伏し拝み、彼に言った。「わが主は、何をそのしもべに告げられるのですか。」
すると、主の軍の将はヨシュアに言った。「あなたの足のはきものを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である。」そこで、ヨシュアはそのようにした。(ヨシュア記5:13~15)

 
主に向かって、敵か味方かと私たちは問う者ではなく、主によって、私たちが良い時も悪い時も主を礼拝する者であるか、ということが問われているのだと思う。
抜き身の剣の前で、主のことばに従順する者であるか、伏し拝む者であるかと問われている。

今まで自分の判断、自分の賢さでもって生きて来た、人の汚れたわざによる生き方を、完全に主により頼む、清い生き方に向きを変えるようにと求められているのだと思う。

主のわざを知っていながら、エリコは強固な城壁をもって身を固くした。彼らの前に城門を堅く閉ざし、主に対して守りを固めた。
もし、この町がもっと脆弱であったなら、とても守ることが出来ないようなものであれば、主の前に自分をわきまえることが出来ただろう。そうだったら・・聖絶の対象ではなかったかも知れない、と思ってしまう。
 
 
ヨシュアは民に命じて言った。「私がときの声をあげよと言って、あなたがたに叫ばせる日まで、あなたがたは叫んではいけない。あなたがたの声を聞かせてはいけない。また口からことばを出してはいけない。」
・・・
その七度目に祭司たちが角笛を吹いたとき、ヨシュアは民に言った。「ときの声をあげなさい。主がこの町をあなたがたに与えてくださったからだ。
そこで、民はときの声をあげ、祭司たちは角笛を吹き鳴らした。民が角笛の音を聞いて、大声でときの声をあげるや、城壁がくずれ落ちた。そこで民はひとり残らず、まっすぐ町へ上って行き、その町を攻め取った。(ヨシュア記6:10.16~20)

 
人のわざによって主に立ち向かうことになったその堅固な城壁は、人が指一本触れる間もなく、主の方法によって崩れ落ちた。
主の方法を行ったのは、神の愚なことばに対する人の徹底した従順だった。
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「ああ 恐かった!」

2010-10-12 18:07:54 | Weblog
すっきりとした秋晴れ、朝は羊さんの雲が沢山だったのに、今はもう二つだけ・・ぽっかりと穏やかに浮かんでいる。
頭上ではパカッと開いた栗のイガから、今にも実がこぼれ落ちてきそう・・。稲刈りの終わった田圃では、キジバトがのんびりとこぼれた籾をつついている。
野に咲き残りの紫苑や百日草、真っ赤な鶏頭の花、コスモスたちが乱れ咲いて、ススキの穂はキラリと光る。

栗林の横を通り過ぎようとしたとき、ガサガサ、ドスン ドスドスと地響きのような音がして、視野の端にチラッと何かが見えた。
「一体、何?何が居るの?確かに何かすごい音がした!」
茂みがのぞき込めるところまで回り込み、藪の中を覗き込んでいると「ブウッブルル」と恐ろしいうなり声が・・

鈍い私にもやっと事態の切羽詰まっていることが分かった。「イノシシだ!威嚇されている、襲われる。」出来るだけ静かに、「イエスさま」と心で呼びつつ、まだうなっている声からそっとその場を離れた。「ああ、恐かった!」

夕食の時、主人に
「どう思う、真昼に車さえ通るあんな所にイノシシが居ると思うか?夜行性のはずやろう、信じられへん・・完全に人間がなめられてるって、後で腹が立ったよ。」
主人曰く「女やって分かっていたんやろう。そうでないと逃げるはずや」
「へえー、私を女って思ったのか!それはすごいことや。イノシシだけが女性扱いしてくれたんや」
「チマタ(地名)のイノシシや優しいんや、感謝せえ。」
二人で爆笑した。
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「アバ」

2010-10-11 10:27:15 | Weblog
 新聞のTSUTAYAの広告が何気に目にとまった。普段こう言うものを見ることは、私にはなにのだけれど・・。そこに「アバ」のCDジャケットが載っていた。
懐かしい・・耳が聞こえない息子に、ステレオのアンプ部分に触れることで、リズムを感じることができるということで買ったものだった。
でも、私の方がすっかり気に入ってしまって毎日のように聞いていた。しんどい日々にずいぶん元気を与えてもらった。

心の重いことばかりだった。頑張っても頑張っても見当違いな同情の言葉ばかりが耳に入ってきた。出来ないことをあげつらわれて批判された。
長男に対しても、時間を割いてあげることができない負い目を持っていた。それはずっと胸が痛かったけれど、いつも心が飽和状態のようで疲れてしまって何も出来なかった。

しなければならないことは沢山あった。子供が学校に行っている間、私は小学校の教科書と格闘をしていた。これをどのように料理をして、食べやすく消化良く与えることが出来るのだろうかと・・。
障害児教育にめざましい結果を出して居られた先生の言葉「どんな子供にだって出来ないということはありません。人の5倍、10倍やれば良いのです。」その言葉が重くあった。

十二指腸潰瘍になったのは、聾学校の幼稚部に通い始めた頃だったけれど、それからずっと私はギスギスと痩せていて、人の言葉にピリピリとしていた。心に何の余裕もなかった。
そんなことが結局子供を追い詰めていた。そうして彼の「死ぬ」発言から、イエスさまへの信仰が開かれていったのだけれど、そんな人生の一時期に流れていた「アバ」

音楽cdを聞こえない息子に買ってきてくれと頼むなんて・・ありえないこと。でも、なぜが今はとても安心して頼んでいる。
出かけた息子からは、「今買ったから・・」と電話が入った。それは一方通行だけれど私にははっきりと聞き取れる。
この言葉は自然に出た言葉ではない。塾の先生と二人三脚のように苦闘して、叩き込んで得た言葉であり、発することが出来た言葉。それは事実。

でも、今私が安心をして聞こえない息子に頼むことが出来たのは、主にあって出来たこと。イエスさまが共に居て下さるという平安があるから出来ること。
弱さの中に完全に働いて下さるお方を知っているという安心。もう、決して不幸ではない。不幸になんかなれないという確信がある。

PCで聞くともっといい音がするとセットしてくれた息子。今、彼の買ってきてくれたケーキを食べながら聞いて居る。
主はすべてを逆転されるお方。泣いていた者を笑わせて下さるお方。


いま飢えている者は幸いです。あなたがたは、やがて飽くことができますから。いま泣いている者は幸いです。あなたがたは、いまに笑うようになりますから。(ルカ6:21)
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栗拾いをしたよ。

2010-10-06 19:39:25 | Weblog
主人が「栗がいっぱい落ちているから拾いに来ないか。」と畑から呼びに帰って来てくれた。
「今日は忙しいから行かないよ。」と即座に返事をしたものの・・折角誘ってくれたのだし、栗拾いなんて久しぶりだと思い返して、開いていた聖書を閉じると、麦わら帽子に長袖服と身支度をした。


艶々の大きな栗が草むらにコロコロと、イガを飛び出して気前よく転がっていた。
軍手とゴム手で完全武装して行ったけれど、イガを被っているものもあって、手を入れた瞬間チクッと反撃された。
結局主人に「火ハサミかして~」、これだったらもう大丈夫。

子供の頃に、薄暗い栗林で拾った事を思い出す。あのときは靴で踏んづけて上手にイガを剥いたことを思い出した。
やってみたけれど、運動靴を通してチクチクと痛いので、「あ~あ、鈍くさくなってしまった」と思ったのだけれど、あのときはたぶんゴム長靴を履いていたのだろう。鈍くさくなっているわけではないと思いなおした。

周りの草むらには、真っ赤な彼岸花や薄紫の野菊、露草も咲いている。
畑の大根葉がだいぶ大きくなってきたので、間引いてもらって菜飯にしようと決める。茹でただけの大根葉とごま塩の菜飯は、あっさりと色も綺麗なので家族が好き。
子供が小さい頃にはおむすびにして、野菜の摂取に大いに役立ってくれた物のひとつ。

栗は、栗ご飯用に剥いて息子にも送ってあげよう。さつまいもも一緒に入れよう。でも、これは今年は酷暑と水不足でとても出来が悪くて残念だった。まあ、沢山は要らないのだけれど・・。

お味噌も美味しくできた。今年は暑かったからか例年よりも発酵が進んでいて、とても綺麗に出来たのだけれど色の濃い味噌になった。毎年造っていても結構違いがでるのは面白い。本当に生き物なんだなぁって感じる。だから、発酵中のお味噌の置き場所は変えないようにしている。


季節、季節の流れの中で喜んだり、悩んだり、迷ったり・・そんなこんなの日々を重ねて来た。
でも、どんなに大きな失敗の時にも、ぴったりと共に居て下さるイエスさま。だから大丈夫。本当に大丈夫。これからも何があっても大丈夫だよ!


あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。(イザヤ46:4)
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「この女」

2010-10-04 14:30:15 | Weblog

7:36 さて、あるパリサイ人が、いっしょに食事をしたい、とイエスを招いたので、そのパリサイ人の家にはいって食卓に着かれた。
7:37 すると、その町にひとりの罪深い女がいて、イエスがパリサイ人の家で食卓に着いておられることを知り、香油のはいった石膏のつぼを持って来て、
7:38 泣きながら、イエスのうしろで御足のそばに立ち、涙で御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油を塗った。
7:39 イエスを招いたパリサイ人は、これを見て、「この方がもし預言者なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っておられるはずだ。この女は罪深い者なのだから。」と心ひそかに思っていた。
7:40 するとイエスは、彼に向かって、「シモン。あなたに言いたいことがあります。」と言われた。シモンは、「先生。お話しください。」と言った。
7:41 「ある金貸しから、ふたりの者が金を借りていた。ひとりは五百デナリ、ほかのひとりは五十デナリ借りていた。
7:42 彼らは返すことができなかったので、金貸しはふたりとも赦してやった。では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか。」
7:43 シモンが、「よけいに赦してもらったほうだと思います。」と答えると、イエスは、「あなたの判断は当たっています。」と言われた。
7:44 そしてその女のほうを向いて、シモンに言われた。「この女を見ましたか。わたしがこの家にはいって来たとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが、この女は、涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれました。
7:45 あなたは、口づけしてくれなかったが、この女は、わたしがはいって来たときから足に口づけしてやめませんでした。
7:46 あなたは、わたしの頭に油を塗ってくれなかったが、この女は、わたしの足に香油を塗ってくれました。
7:47 だから、わたしは言うのです。『この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。』」
7:48 そして女に、「あなたの罪は赦されています。」と言われた。
7:49 すると、いっしょに食卓にいた人たちは、心の中でこう言い始めた。「罪を赦したりするこの人は、いったいだれだろう。」
7:50 しかし、イエスは女に言われた。「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい。」


彼女は、イエスさまに多くの罪を赦して頂いた女であった。だからイエスさまの足を、深い感謝の涙と、女のいのちのような大切な髪の毛と、財産をはたいた香油、つまり彼女はすべてを差し出して愛した。
正しい人々の中で、「この女」と呼ばれる侮蔑の言葉を恐れつつ、そっとイエスさまの後ろから・・。

でも、正しい人は知らない。イエスさまが、この女の罪をどのように忍耐をしておられたか。深い愛を込めて、彼女がイエスさまの必要を満たす日が来ることを、どんなに待って居られたか・・。

「この女」と呼ぶ人々は、決して知ることはないだろう。その言葉がどんなにイエスさまを悲しませているかを。
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