石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

重なる部分で・・

2010-09-29 21:37:42 | Weblog
「お久しぶり!」って車から降りてくる友を、手にしていた箒を放り出して迎えた。豊富なお野菜の綺麗なサラダがいっぱい入ったパックと、「お庭で摘んで来た。」と花束を頂いた。彼女のようにさりげなく可愛い多彩な花々。こんなの大好き!

重い病気を抱えて、それでもキリッと美しく暮らして居られる。そんな部分を私はいつも尊敬している。彼女は子供が幼い頃からの友人。
共に聴覚障害児という重荷を負って生きてきた同士。信仰はそれぞれ違うのだけれど、人生のある部分が重なる友人、共通の知人も恩人もある。

今日はその共通の恩人である、聴覚障害児を教えて下さった塾の先生の話で盛り上がった。彼はなかなか気むずかしい方で、とうとう齢60歳になるまで結婚をされなかった。何度かチャンスがあったというお話は今日始めて聞いた。

「私は子供が成長して幸せに過ごす様子を見る度に、先生をなんだか使い捨てにして来たような罪悪感があって、幸せになって欲しいとずっと思っている。」と話すと、
「そうそう、私もずっとそんな気持ちがあったのだけれど、最近はとても元気にやっておられるよ。良い筋をしているって誉められてアーチェリーに夢中みたい・・お会いしたとき、とても楽しそうで若くなられたよ。こんど試合があるって聞いたから、息子と見に行こうかと思っているの。」そんなニュースはとても嬉しくてほっとした。


今日のビックニュースは息子さんの再就職、それも我が息子と同じ会社に入社出来たと言うことで、二人でとてもとても喜び合った。
聴覚障害はあっても、ちゃんと4年生大学を卒業しておられるのだけれど、彼が入社した会社では、幾ら勤めても一人前の待遇が得られなかったという。

今回の就職条件に「とても感動している。」と満足そうに話されて、私にもその気持ちは痛いほど分かるから、「良かった。良かった。」と一つ心になって喜ぶことが出来た。
そのような喜びを、彼女が自分の信仰に結びつけて話される時、私は深い淵のような距離を感じてしまう。

彼女と出会った頃、私はまだキリスト信仰を持っていなかったから、ある意味もっと純粋に楽しむことが出来たのだけれど・・今は彼女の信仰にとまどってしまって、そんなとき心の中でイエスさまに叫ぶ。

主が置かれた自由の中で人は生きているのであり、そのルールが時にどんなに切なくても、ただ、主にあって生きるという私の選択の日々を、ありのまま見ていて頂くほか無いのだろうなぁ・・。
しかしふっと、人は主の忍耐を少しも知らないなぁ・・。信じている私でさえも、ほとんどの時を気づかずに過ごしているのだろうなぁ・・と、そんなことに気づいた。

互いに重なる時間の中に、どうか主が現れていて下さいますようにと願いつつ・・早くも暮色迫る中に走り去る彼女に手を振った。
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ノアの箱船の交わり

2010-09-28 20:44:01 | Weblog


今週はノアの箱船について、「電気屋さん」のメッセージをお聞きした。
船大工のお話は興味深く、家を造るよりも難しいということはよく分かった。そうだろうなぁって。だって我が家のように隙間だらけの船だとたちまち沈むだろうから・・。でも、それだけのことではなく、木というものは膨張したり収縮するという問題があるということに、そのやっかいさは経験者だけが知っている知識だなぁ・・と楽しく聞いていた。

「ノアには、最低箱船が必要であった。だから、すべて神が命じられたとおりにしたノア。
今、ノアより優れていない者に天国はない。」そのメッセージは衝撃的であって、「今、私たちにとっての箱船とは、イエスを建て上げることである。」とのことだった。
今の私にとって、イエスを建て上げるということは何なんだろうと・・私がこれから主に聴いて行くこと。


箱船を100年という時をかけて造るノアの信仰を、それぞれに話し合った時、メッセンジャーの方は、ノアは楽しく働いただろうと話されて、その費用はいくらでもイエスさまに請求出来るというお話には、このことはメッセンジャーの方のお証なのだろうと、私は自分の経験と重ねて合わせてアーメンした。だから、その楽しさはいくらか想像出来たのだけれど、
saltさんは、100年のプロジェクトとしては救われたのが8人では失敗だろうと話されて、それも確かにそのとおりだと思ったりもした。
私はそんな迷いの中で、ノアはなぜ100年間も確信を持って働き続けることが出来たのだろうかということ、その答えをはっきりと知りたくなっていた。


福音書はなぜか四人の筆者によって書かれている。証人は二人以上と聖書に書かれているからなのだろうけれど・・。
イエスさまの同じような場面を語っていても、それぞれ自分のもっとも印象的なことを話すから、少しずつ表現が違っていたりする。

同じ箇所のメッセージを聞いたときに、人によって主から示される内容に違いがあっても、みことばが語られているときは何の違和感も感じない。
なにしろ聖書は、何千年にも渡って時代も価値観も違う人々を導く神の書物であり、霊のことばなのだから。
マニュアルとは違うのは当然で、その幅、その行間を縫うように、全ての人の、すべての時代に必要な言葉が詰まっているのだから。

心の偏狭な私でも、自由にみことばが語られる交わりは発見があって楽しく、少し世界が広がる思いがした。そこでは、純粋にみことばだけが語られていて、皆さんが自分の言葉で話して居られたから。

みことばには日々新しい発見がある。そうして、リアルに今に置き換えようとするとき、戸惑いや、手探りもあるけれど、
「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなた方と共に居ます。」という主のみ約束があるから大丈夫だと、教会の前に広がる黄金色の田を見ながら深呼吸をした。
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ダイヤモンドとガラス

2010-09-27 10:23:40 | Weblog
ダイヤモンドとガラスのほめ言葉は、重なる部分がある「キラキラと光る」「透明な輝き」などなど・・
ダイヤモンドとガラスの誉め言葉が重なるからといって、ダイヤモンドを誉めるときにその言葉を避ける必要はない。同じ言葉であっても、それを本当に知る人には違いは伝わるだろう。また、知らない人であっても、ダイヤモンドを用い続けるなら違いが分かるときが来る。

それを失敗によって傷つけた時、簡単に割れてしまうガラスと、ダイヤなら傷さえつかないだろう。必要に迫られて手放すときもその違いは歴然とするだろう。
信仰も、偽物と本物はとてもよく似ている。
それは当然、そもそも本物に似せて仕組まれているのだから。証もよく似ているのは当然だろう。

どんな陳腐な証の中にも、聖霊の働きによって保証されている本物の証はある。どのグループの証だから本物だというものではないけれど、イエスさまを証するのは聖霊によることなのだから、まるで偽物のように見えても本物は本物である。
ただ、主の事実を述べることによって、救い主を喜ぶことはみこころに叶っているというだけのこと。

その言葉は聖霊ご自身が保証されるものだから、本物かどうかを人が言葉で表すことなど元々できないし、言葉を選んで心配をする必要もない。
人の言葉によって、イエスさまが本物であることを見抜くことなど出来ない。人は始めに、神様に選ばれたことによって主を知ることが出来るのだから。

 
壊れやすくて傷つきやすく、失敗によって簡単に弱さを露呈してしまう、人とはまるでガラスのよう・・。
それでも私は、そんな傷つきやすい人を造られた神様が少し分かってきた様に思う。
完璧にみえる人に出会った時、私はどうしても警戒してしまう。そこに神様の作品としての匂いをかぎ分けることが出来なくて・・。

神様は、その人の弱さを人の前に露呈させられる時、その欠けの部分から砕かれて、完全に砕かれて、新しく造りなおして彼の働きを完成させられる。
イエスさまは、ペテロの「たとえご一緒に死ななければならないとしても・・」という証の言葉を実現して下さった。事実、彼は見事に殉教した。証を実現されるのも主である。

 
「また、人の子に逆らうことばを口にする者でも、赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、だれであっても、この世であろうと次に来る世であろうと、赦されません。」(マタイ12:32)
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復活

2010-09-23 14:56:32 | Weblog
イエスさまは十字架刑により死んで葬られてのちに、墓からよみがえられ、弟子たちの前に現れ、多くの人の前に現れて、神様のご計画の成就をあかしして下さった。

イエスさまの亡骸を求めて泣いていたマリヤが出会ったのは、「おはよう」と声を掛けて下さる今までどおりの、共に生きてきたそのままのイエスさまだった。

エマオの途上にあったクレオパたちと、ともに歩いて導いて下さったイエスさま。
その方は聖霊として、今も私たちの内に居てくださってみことばを解き明かして導いてくださる。
イエスさまは「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)と約束して下さっている。

よみがえりのイエスに会ったという弟子たちの話を、信じることができないトマスのために会いに来て下さったイエスさま。
「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」と、「見ずに信じる者は幸いです。」と語りつつも、疑い深い者を憐れんで信仰を助けていて下さる。本当に、信仰は主によって守られている。

食べ物のないペテロたちに、魚とパンを準備してくださったイエスさま。
霊の糧を備えて下さるお方は、私たちの肉の糧も備えて下さり、私たちに何が必要であるかをご存じである。
だからこの方に信頼している。心配しない。だって、食べるものがないところに来て下さる方であり、そこでお出会いする方が主、その時、網一杯に満たして下さる祝福を見ることができるのだから。

恐れから、三度もイエスさまを知らないと言ったペテロの信仰の傷にふれて、三度の信仰告白のチャンスを与えて下さったイエスさま。イエスさまは何度でも信仰の回復を導いて下さる忍耐深いお方。決して私たちを捨てて孤児にはしないと約束してくださっている。
「あなたはわたしに従いなさい。」

そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。(ピリピ4:7)
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それでも夫婦は似ている

2010-09-20 20:14:18 | Weblog
今日は敬老の日。後期高齢者の主人も70歳が目前の私も今日は主人公。息子がキースマンハッタンで美味しいケーキを買って来てくれた。私には大きなイチゴが乗っていた。えっ、この季節もイチゴがあるのか・・でも、美味しかった。

主人は今日は仕事。時々だけれど製材所に半日の仕事をもっていて一応現役。大きな銘木は製材所で挽く前に皮を剥いておく必要があるためで、その皮むきが仕事。主人は床柱になる絞巻きから林業一般何でも屋。

以前、台風で隣家に被さるように倒れかかった大きな木々を、一瞬にして反対側に倒す技を見せられてからは、少々呆けてきても私は主人を心の底では尊敬している。こういう舞台はサラリーマンには無理だろうなぁ・・。
私は、誰であれ仕事というもの、その技術や能力を目の前に見せられると無条件に尊敬してしまう。

主人はほとんどの時間を畑など戸外で過ごす。雨が三日も降ると血圧が上がって、「それほど家に居づらいのか・・」なんて思うけれど、私も助かっていることは事実。
近くのおばあさん達と親しくなって、「ちょっと、畑の杭を打って・・」とか「ちょっと草刈りをして・・」とか頼まれて、機嫌良く手を貸しているらしい。

時々は労賃として頂いたお金を律儀に私に渡してくれる。そんなときは老いた鵜から搾り取る鵜庄のような気分で、ちょっと可哀想だけれど、「まあ、預かっておく」と自分自身に言い訳。
「財布からいつでも要るだけ持って行ってね、全部あんたのものだから・・」とは言ってあるけれど、そんなことが安心して言える人である。

いつも、お年寄り仲間の話し相手になっているらしく、帰ってきてから私に色々と話してくれるけれど、私にはまったく関心がもてなくて「ああ、そう・・この間もそんな話をしていたね。」と、目をPCから離さずに素っ気なく答えてしまう日々。

時々は反省をして、私はおじいさんのすべてを喜んで「『それはようございましたね、』と言うような『かさこじぞう』のおばあさんにあこがれていたのじゃなかったっけ・・」と思うのだけれど、それはとても私の柄ではないと改めて知るばかり。

人付き合いの苦手な私には、主人が本当に似合いなのだと最近は納得している。年を取るに従ってついつい口出ししたくなって、あれこれと命じたくなったり、反対したくなるけれど、その度に夫を支配する「イザベルの霊」という言葉が思い浮かんで「ああ、恐ろしい・・」と思いとどまることができるのは本当に感謝。


あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。(イザヤ46:4)
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十字架の上で

2010-09-17 13:32:34 | Weblog
サタンの罠に落ちた人間に、神の御子が人となって来て下さり、神様の目的を成就して、いのちを取り戻して下さったイエスさまの十字架。限界までの苦痛を忍ばれ、それこそ大事を成して遂げて下さった。
そのような時に、

ルカの福音書23章39~43
十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」と言った。
ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。
われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」
そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」
イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」

この箇所の内容はあまりにも小事。このような大事の時に、散々悪事を働いたひとりの悪人の救いがわざわざ記録されている。
しかし、イエスさまは真っ正面から彼の言葉を受け入れてくださり、救いの約束を語られた。
この時のイエスさまは、究極の十字架刑が執行されている時で、心も裂ける悲しみと、激しい痛みの中にあったのだ。


ヨハネの福音書19章25~27
イエスの十字架のそばには、イエスの母と母の姉妹と、クロパの妻のマリヤとマグダラのマリヤが立っていた。
イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に「女の方。そこに、あなたの息子がいます。」と言われた。
それからその弟子に「そこに、あなたの母がいます。」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。

「女の方」という呼びかには思い出す箇所がある。
「イエスは母に言われた。『あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。』」(ヨハネ2:4)

この時は冷たい言葉に聞こえたけれど、十字架の上でイエスさまが見せられた心遣いは、愛のすべてを語っている。人となられた神は人の情までご存じで、最後まで母としてマリヤを気遣っておられた。

人は大事の前の小事と切り捨てたり、あれもこれもすべてが叶うなんてありえないと自らあきらめてしまうことがある。
祈りさえも、「このような卑近なことを・・」とか、「そんなことはとても、イエスさまには願えない。」などと決めつけてしまうことがある。

けれども、強盗の願いさえも無条件で聞き入れて下さるイエスさまなら、どうして祈りに価しない事柄などあろうかと・・、
人は事の大小を自分で測って、重要だとか些細なことだとか言うけれど、イエスさまには、私たちのことはすべてのすべてが大事なのじゃないかと・・
恐れずに、あきらめずに、主とコミュニケーションをしっかりと取りなさいと言われているように思った。
ゲッセマネのイエスさまを心に覚えて・・

「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」(ルカ22:42)
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秋雨

2010-09-16 14:14:43 | Weblog
ひと雨ごとに・・木の葉が色を変えて行き
ひと雨ごとに・・風が肌にひんやりと感じる日々。

雨上がりの空の下で、揺れている葛の葉。
ぶらりと風に身を任せ、共に揺れていた花々も、
だんだんに・・いつしか色あせてしまった。
赤紫ののぼり藤のような花だった。

こんな季節になると、「秋は寂しいね・・」と
貴女は、毎年毎年同じ台詞を言って・・
その陳腐さに私は笑っていたけれど・・

貴女を亡くして何年にもなるのに・・
私は同じ言葉を、誰に言うでもなく、誰から聞くでもなく・・
置いてけぼりの心を抱えて、ひとり思い出している。
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イエスの生涯 (56) マタイの福音書27:38~66

2010-09-13 07:47:45 | Weblog

27:38 そのとき、イエスといっしょに、ふたりの強盗が、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけられた。

イエスさまは強盗と一緒に十字架にかけられました。それは、特別な身分の方としてではなく、どこまでもごく普通の人となってくださって、私たちの罪を負ってくださったことを現しているように思います。


27:39 道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって、
27:40 言った。「神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い。」

神殿とはイエス・キリストの御体を現しています。だからまさに、これからそのことが行われるのです。彼らの言うとおりにイエスさまが十字架から降りられたなら、人間の罪は永遠に残り、すべての人が滅びることになったのです。


27:41 同じように、祭司長たちも律法学者、長老たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。
27:42 「彼は他人を救ったが、自分は救えない。イスラエルの王さまなら、今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから。
27:43 彼は神により頼んでいる。もし神のお気に入りなら、いま救っていただくがいい。『わたしは神の子だ。』と言っているのだから。」
27:44 イエスといっしょに十字架につけられた強盗どもも、同じようにイエスをののしった。

イエスさまが十字架にかかってくださった場所では、ののしり、あざけり、からかいの言葉ばかりの不信仰のど真ん中でした。賛美や感謝や信仰の中でではありません。
このことに人の罪の醜い姿を、遙かに超えたイエスさまの愛の深さ、神様の救いのご計画の偉大さを感じます。

私たちは少しのことで人を裁く者ですが、神様の救いのご計画は遙かに深く、どうしようもない者だからこそ、御子を送って下さり、罪を身代わりに負って救い出すということを計画し、実行して下さったのだと思います。

私もかってはその行いや言葉において、十字架を降りてきて私を救ってみろと心の中で叫んでいた者です。


27:45 さて、十二時から、全地が暗くなって、三時まで続いた。
27:46 三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。

ゲッセマネでイエスさまが血のような汗を滴らせ「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」このように祈られたのは、ご自身が人の罪を負うことによって、聖なる御父から切り捨てられることの恐れだったのではないかと思います。

三位一体の神であるお方は、天地創造の初めからずっとご一緒でした。ですから、イエスさまのこの恐れはどれほどであったか、父なる神様のこのときの痛みはどれほどであったか、私たちには計ることさえ出来ませんが・・。

また負われた罪の恐怖は、聖なるイエスさまにとって一度も経験なさったことのないものですから、どれほど苦しいことであったかと思われます。本当に人の罪とはおぞましいものだからです。


27:47 すると、それを聞いて、そこに立っていた人々のうち、ある人たちは、「この人はエリヤを呼んでいる。」と言った。
27:48 また、彼らのひとりがすぐ走って行って、海綿を取り、それに酸いぶどう酒を含ませて、葦の棒につけ、イエスに飲ませようとした。
27:49 ほかの者たちは、「私たちはエリヤが助けに来るかどうか見ることとしよう。」と言った。
27:50 そのとき、イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取られた。
27:51 すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。そして、地が揺れ動き、岩が裂けた。

旧約聖書の時代、神様はご自身が選ばれた一人の大祭司にだけ語られました。それも、殺した動物の血によって罪をあがなうということを、お会いする度ごとに繰り返して、やっと死なずに会うことができるという、神様は罪ある人間には恐ろしい方でした。

裂けた幕とは、神殿の中の至聖所と聖所との間を仕切る幕のことです。それこそ聖い神様と罪人を隔てているものでしたが、イエスさまが十字架で死んで下さった瞬間に、天から地に向けて真二つに裂けたのです。

イエスさまがただ一度、十字架で聖いご自身を捧げ、その血をもって私たちの罪を永遠にあがなってくださったのです。
それこそイエス・キリストが十字架で成し遂げて下さったことです。
人には決して守ることのできない律法を、イエスさまが完全に満たして下さって、人を責め続け罪に定める律法から解放してくださったのです。

だから、今私たちを神様から隔てる幕は取り去られています、それが出来たのは、罪はイエスさまによって完全にあがなわれ、その罪の代価が十字架によって支払い済みだからです。

私たちは今も罪の中にいるのですが、イエスさまの十字架によってもう清いとされ、父なる神様になんでも自由に祈ることが赦されます。祈りは神様に届いており、時にかなった助けを頂くことが出来るのです。イエスさまの血は完璧ですから、祈りによって神様に打たれることはもうありません。


27:52 また、墓が開いて、眠っていた多くの聖徒たちのからだが生き返った。
27:53 そして、イエスの復活の後に墓から出て来て、聖都にはいって多くの人に現われた。
27:54 百人隊長および彼といっしょにイエスの見張りをしていた人々は、地震やいろいろの出来事を見て、非常な恐れを感じ、「この方はまことに神の子であった。」と言った。
27:55 そこには、遠くからながめている女たちがたくさんいた。イエスに仕えてガリラヤからついて来た女たちであった。
27:56 その中に、マグダラのマリヤ、ヤコブとヨセフとの母マリヤ、ゼベダイの子らの母がいた。
27:57 夕方になって、アリマタヤの金持ちでヨセフという人が来た。彼もイエスの弟子になっていた。
27:58 この人はピラトのところに行って、イエスのからだの下げ渡しを願った。そこで、ピラトは、渡すように命じた。
27:59 ヨセフはそれを取り降ろして、きれいな亜麻布に包み、
27:60 岩を掘って造った自分の新しい墓に納めた。墓の入口には大きな石をころがしかけて帰った。


ヨハネの福音書19章
19:38 そのあとで、イエスの弟子ではあったがユダヤ人を恐れてそのことを隠していたアリマタヤのヨセフが、イエスのからだを取りかたづけたいとピラトに願った。それで、ピラトは許可を与えた。そこで彼は来て、イエスのからだを取り降ろした。

アリマタヤのヨセフという人は社会的な地位のある人で、神の国を待ち望んでいたと書かれています。イエスさまの教えを受けていたのですが、それまでは人を恐れて弟子であることを隠していました。

イエスさまが十字架で死なれて、天地に大きなしるしが現れたとき、彼はこの出来事に勇気づけられ、イエスさまの御体を葬るという大役を果たすことが出来ました。
犯罪者として、十字架刑という重い罪に処せられたイエスさまを引き取りに行くことは、とても勇気が必要だったろうと思います。何しろお弟子たちも逃げて行ったのですから。

聖書には貧しい人の祝福が多く出てきますが、金持ちにとっては、その持っているものをどのように使うかということが重要です。
アリマタヤのヨセフは、自分のために用意していた新しい墓をイエスさまに提供しました。

このときには、イエスさまがよみがえられることは誰も知らなかったのです。だから彼は心からなんの見返りも求めないで、イエス様にとても高価な自分のための場所を捧げたことがわかります。

自分のための場所をイエスさまに捧げるということは、私たちにも深いことを教えていると思います。

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信仰は強いられない

2010-09-10 11:25:05 | Weblog
 「天声人語」にアメリカのある教会が「コーランを燃やせ」と呼びかけているということについて書いておられた。
コーランであれ、聖書であれそれを燃やすという行為には、人の意志を変えることにおいてなんの意味もないと思う。

この記事を読んでいて、聖書の使徒行伝19章を思い出した。
魔術師たちが多くの書物を焼いたという記事。しかしこのことは彼らが救いを得て自由にされ、自ら魔術を否定し、その証として焼いたのであり誰に強いられてしたことでもない。


 神様は、御子を十字架にかけるほどの覚悟を持って、人間に自由意志をお与えになったのであり、誰であれそれを奪い、力ずくで信仰を強制しようなどとは、聖書を知っている者にとってあまりにも愚かな行為ではないかと思う。こういう行為にイエスの名がつかわれる事は許せない。

パウロは偶像があふれるアテネで、「知られない神に」という祭壇を見つけて、彼らにまだ知られない方イエスを伝えた。
聖霊に導かれての知恵だと思う、宣教は人の計画や思いではできない。導く方によらなくてはどうして霊のことを、人間の口で語ることが出来るだろう。どうしてそれが伝わるだろう。まして、憎しみから発したことをもって、どうして愛である神様を伝えることなど出来るだろう。悲しいなぁ・・


「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままではいけません。
悪魔に機会を与えないようにしなさい。」エペソ4:26~27
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聖霊のあかし

2010-09-08 10:02:35 | Weblog
 昨日は火曜日の人と久しぶりにお会いしてみことばを共に味わった。
彼女は、夏休みと言うことで一ヶ月間出会っていなくても、その雰囲気も態度も、毎週会っているときと全く変わらないことに、なんとなく驚いてしまう。
「イエスさまがずっといっしょに居て下さるから・・、それに今までのみことばを読み返していたから大丈夫、それはね、こういう言い方をしたら悪いのかもしれんけど、すごくイエスさまに興味があるねん。」
こんな言葉を聞かせていただくほど嬉しいことはない。イエスさま大好きの告白ほど力づけられ、安心させられる言葉はない。

 先日、ある姉妹が訪ねてきて下さって一日ゆっくりとお交わりをした。彼女は、私なら分かってくれるはずだと、主のお証を一杯抱えて来られた。
私は約束をした後もなんの準備もせずにただ、待っていた。「おもてなし」という言葉がずっと心にはあったけれど、みことばの備えもおやつの備えも不要に思えて、お久しぶりに出会う喜びでわくわくとして待っていた。

彼女は話続けて居られ、私はその間じゅう「アーメン」といい、「主を崇めます」と言って聞いて居た。彼女の身辺の主のお働きがまぶしくて、嬉しくて・・それはまったく私の知っているイエスさまそのものだったから・・同じ霊、同じ主を共有することの喜びと安心があふれていた。

 
 火曜日の学び、共に主を礼拝する時にひとつ欠けていること、主に献金を捧げることの大切さに気づいていたので、小さな献金箱を準備して持って行こうとしたのだけれど、みことばを書こうとパソコンを開いたとき、ちょっとした不都合が起こり、時間もなかったので「ああ、今日は止めろと言うことかな」と箱を置いて出かけて行った。

帰る前になって彼女の方から「イエスさまから受けるばっかりで、献金もできないのは良くないと思うから、今度から学びの度に献金をしたいのだけど・・」と言われてびっくりした。「私も今日同じ事を考えていたよ。確かに、献金は天国貯金、とても大切なことだからちゃんと準備しておくわ」と答え、本当に嬉しかった。

このことが主から出たことであるとはっきりわかったから、彼女から提案されて良かった。お金のことは気をつけないと罠があって、確かにそれが主から出たことである確信がないと、何かの時に私は不安になったかも知れないから。

 主が、「ちょっと待て」の信号を送って下さることが時々ある。それはちょっとした引っかかりのような、事がスムーズに進まないきっかけを置いて下さることからわかる。その信号を受けて止まるなら、間違うことなく導かれて進める。

彼女はイエスさまを信じて深い平安を得られた。しかし、彼女の身の回りには次々とやっかいなことが続き、その解決のために今回大きな出費に至ったという。それでも、笑顔で「すべてはイエスさまが準備していて下さった。」と証してくださった。私は厳粛な気持ちでお証を聴いた。信仰は年月や学びの深さではなく、ただイエスさまを信頼して身を寄せる者にある勝利だと思った。
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