石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

「静まれ」「アーメン」

2010-08-25 15:19:01 | Weblog
土曜日に、「月曜日からお隣の屋根の葺き替え工事が始まりますからよろしく」と、建築会社の方から一本のタオルを渡された。いつもお話をしているお隣さんからは聞いてはいなかったし、なぜこんなに突然にこの猛暑の中でするのかと私は混乱し、やがて腹が立ってきた。

この会社には、お隣さんの5年前の建て替え時にひどい埃りと振動や騒音で、とても痛い目にあったことがある。
そのことが思い出されて、私はパニックのようになってしまった。この暑さの中で家を閉め切って、一週間も暮らすことなど出来ようか・・と。

月曜日から始まる工事に、今からキッチンにエアコンを付けるなんてとても間に合いそうにもないし、そんなドタバタでやりたくもない。
私だって自分たちを守る権利はあるのではないかと・・心の中からあれやこれやと良い?考えや言い分があふれ出てくる。そしてなぜ一言、直接挨拶をしてくれないのかとお隣への不満も口をついて出る。そんなふうに土曜日をいらだちと不満と混乱の中で過ごしていた。


その夜は、ウトウトとしてもすぐに目覚め、ついに疲れ果ててしまって強情な私も降参。
床に起き上がって主の御前に出る。
訴える間もなく「静まりて、我の神たるを知れ」と、一撃された。こんな時私は主が何よりも恐い。
「安息日を覚えて、聖なる日とせよ」「アーメン。黙ります。」そう、もう日曜日だった。

確かに、あの工事の時にはひび割れる被害も受けたけれど、庭木が取り払われ、シロアリで痛んだすべてが取り払われ、地面深く掘り起す基礎工事によって、その巣も取り除かれたのだろう。
我が家の冬の日当たりが良くなり、今では我が家にとって最善の結果となっていたのだった。

翌日には知恵も与えられ、どうせ早朝に起きるのだからと、早くにその日の料理の下ごしらえを全部すませてしまうこと。作りたてにはこだわらずに作り置きすることにした。

家を締め切る必要に迫られたときには、唯一エアコンのある息子の部屋でお昼寝をなどをして遊ぶこと。まあ、お昼寝は苦手なので難しそうだけれど、本を読むには差し支えない。範囲限定で息子のPCを使う許可も得た。


 しかし、私は知っている。
すべての問題は私と主との間のことであり、それが、たとえどれほど誰、彼が原因のように見えても、主が私に問われた問題であること。「さあ、あなたはこの問題を誰によって解決をしようとするのか」と・・
でも、でも、それは分かっているのだけれど、いざ問題にぶつかったときには、肉の思いを抑えることは、弱い私にでも簡単ではなく、主の助けがなければ無理。

一番の問題点は、私にも出来る事があると言うこと。もし、何も出来ないほど完全に弱いのなら、何の間違いも起こりはしないのだけれど・・。
本当に「わたしの力は弱さの中に完全に働く」主であり、主の力を完全に用いるには、私が完全に弱く、完全に愚かであるべきなのだ。いや、自分の本当の弱さ、愚かさに気づいているべきなのだ。
時には、主に屈服するために自分の肉と戦って七転八倒、そんな中でみことばに勝利していただいて導かれての、拙くも危うい一日一日。


 火曜日は屋根から瓦が下ろされる騒音と、瓦を割って車に放り込む作業。家中を締めきってエアコンの部屋に籠もり、のどの異常を感じつつ、マスクをして縫い物などをして過ごした。
そもそも私は閉所恐怖症かと思うほど締め切ることが嫌いで、夏など家中を開けっ放しにしているのだ。

しかし、なんということ3時頃になって雨がザーッと降り出した。部屋を飛び出して家中の窓を開け放ち、埃っぽくムッと澱んだ空気を入れ換える。
扇風機を回すとヒヤリとした空気が部屋に流れ込んできた。埃っぽさがさっぱり消えても雨音は続いていた。

主人は「ほら、これでゴミも埃も全部流れたよ。」と慰めるように言った。
工事も止んで静かになった部屋で、冷えたビールをコップに一杯ずつ・・秋の使者のようなコオロギの音を聞きながら、二人でゆっくりと夕食を取った。

すべての事態と戦って下さるのは何時も主。夕立も嬉しいことだけれど、主が顧みて下さることほどに嬉しいことはない。


「静まって、わたしこそ神であることを知れ。わたしはもろもろの国民のうちにあがめられ、全地にあがめられる」(詩編46:10)
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雨乞い

2010-08-20 18:40:36 | Weblog
今年は長梅雨だったけれど、その間もなんだか梅雨が明けることに不安な気持ちを抱いていた。親しい方に道で出会ったとき、傘の下から「梅雨が明けて欲しいような、明けることに恐いような気がしますね。」と言われて、あら、私と全く同じ事を考えて居られると大いに同感したものだった。

あの、不安が的中してしまった。こうなると思っていた。
いったい何時から雨が降らないのだろう・・、昨日から主に雨乞いをしなければと、与えられないのは求めないからではないかと考えていた。

求めないことには理由がある、求めても与えられなかった経験があるからだ。同じような拒絶を恐れる気持ちがあって、さり気なく求めることを避けてしまうのだ。
でも「NO」という答えを受け入れられなくなってしまったら、それこそすべてのコミュニケーションは成り立たないことになる。

主がどれほどの深い思いで与えないという結論を出されたのかを、私たちは知らないのだから・・・・そのことも「アーメン」という素直さを持って受け取れる関係を大切にしていきたい。

今朝、「雨を降らせて下さい。」と祈った。たった一言だったけれど、付け加える言葉は何も出てこなかったので、「ああ、みこころにかなったのだ。」と平安があった。
雨量はそれほど多くなかったけれど、天気図には雨雲のないところに降ったのだった。

ぐんと涼しくなって、庭が、本当に久しぶりにしっとりと濡れる様が嬉しくて、紫陽花の葉や椿の葉、今年は咲き遅れている高砂百合やリュウノヒゲ、元気のない苔に落ちる大きな雨粒をながめていた。「主が憐れんで下さって良かったね。」と心で語りながら・・
気温が下がって、さっそくツクツクボウシが裏山で鳴き出した。


あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。(ヨハネ16:24)

あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。(ヨハネ15:7)
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引きこもりに引き込んで・・

2010-08-18 20:11:34 | Weblog
Aさんから昨夜「明日、会いたいけれどいい?」とお電話があり、何時ものように「いいよ」と答える。「良かったら、家に来てくれない?」と誘われたけれど「私は今引きこもり中、だからこちらに来てね。」と答えた。

本当に最近は買い物に行くくらいで、ほとんど何処にも行っていないなぁ・・。
大怪我をされたご近所のご主人が退院されて、杖をつきながらも元気に歩いて居られ、「今、橋まで行って来ましてん。」とニコニコと話され、ウオーキングをさぼっていた私は大いに反省して、朝歩くようにはなったけれど、「朝は気持ちが良いですね~」と庭先をお掃除をして居られる方と挨拶を交わす程度で、あまり人と交わることもない。
別に何があってということでもないのだけれど・・。

 
でも、久しぶりにAさんにお出会いするとそれはそれでとても嬉しい。ましてイエスさまのことを好きなだけ話せるなんてとても幸せなこと。
昨夜から祈りつつ準備をしていたプリントを、聖書箇所と交互に読む、時々は横道にそれたり・・そんな自由も二人きりの気楽さ。

今日は、旧約から十字架までフルスピ-ドでざっと流す。それは私の必要のためでもあった。「時間がない人に対してどのような伝え方があるのか」そんな備えの必要に、以前から迫られていたから・・。それに基本的なことを整理して復習をするため。

 
「善悪の知識の木」をなぜ神は置かれたのか?彼女の疑問。いろいろと話し合いつつ聖書を読んでいるとき気がついたことがある。
「神である主は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木とを生えさせた。」(創世記2:9)

今まで何となく、「見るからに好ましく食べるのに良いもの」は、善悪の知識の木の実だけのように思ってしまっていた。でも、事実はすべての木の実がそのようだったのだ。何も「善悪の知識の木」にこだわらなくても、園にはすべての良いものにあふれていたのだ。

「神さまは、初めから『善悪の知識の木』の実を、人が必ず食べるって分かっていたのじゃない?」と彼女、「それは分からない。聖書に書いてあることしか分からないから・・。でもね、神様には一切の罪はなく真っ直ぐなお方だから『食べるな』命じられたときには、人が真っ直ぐに従うと信じておっしゃったのじゃないかと私は思うよ。」そんなことを話し合ったり・・

「聖霊ってなに?」「三位一体の神様。イエスさまが十字架で死んで葬られ天に昇られた後に、イエスさまを信じる人に『助け手』として来て下さった神さま。」「私にも来て下さったのかなぁ」
「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です。』と言うことはできません。」と書いてあるから、あなたがイエスさまを主と信じて告白しているということは、聖霊がいて下さるという証拠だよ。」
「でも、聖霊を私は知らない。」「いいえ、知っているよ。イエスさまを信じることが出来るように助けて下さった事実があるのだから。」

 
はっきりと確信が与えられるようにお祈りをして、共にイエスさまに感謝したあと、Aさんはわざわざ車を止めては、名残惜しそうに何度も手を振って帰って行かれた。
もう少しゆっくり出来れば良かったのだけれど、今は制限がある中ではあっても、時間いっぱいイエスさまが共に居て下さったことを、私たちは感じることができたのだからとても感謝。
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「あなた方はこれを望まなかった」

2010-08-17 14:30:56 | Weblog
「私たちの知ったことか。自分で始末することだ。」イエスを売ったことを後悔するユダに、祭司長たちが言った言葉。
ピラトは、イエスを十字架につけろと叫ぶ群衆に言った「自分たちで始末するがよい」
人は罪の及ぼす結果から逃げるものである。

ただひとり、人となられたイエス・キリストだけが、すべての人の罪を真っ正面から捉え、その御身に負って、一つも残さず十字架に解決をしてくださった。
だから誰であれ、御側に出てすがる者に、決して背を向けなさらず、完全な赦しを準備して待っていて下さる。

だから罪の結果の確かな相談相手は、決して逃げなさらないイエスさまだけ。信頼して静まって待つなら、誰でも「わたしもあなたを罪に定めない。」と言うイエスさまのお言葉を聞くことができる。


ピラトは、「真理とは何ですか」とイエスに問うた。真理についてこの方に問うほどに相応しいことはないのだから、素晴らしい質問をしたのだけれど、彼はイエスのことばを待たずに、群衆の所に行ってイエスのことを相談した。
その結果は後に引けなくなって、無実を承知の上で十字架刑に渡すという役割を果たすことになってしまった。

イエスさまに質問をした時、イエスさまに相談をしたり、願い事をしたときは返事をじっと待たなければ何も得られない。
実に、この世では、待つことは時機を失したとの嘲りを免れないけれど、その覚悟がなければ何も得られない。


神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」しかし、あなたがたは、これを望まなかった。(イザヤ30:15)
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行く夏

2010-08-16 21:42:53 | Weblog

今日は自然な流れで朝早くに掃除、洗濯、みことばも開くことが出来た。息子の連休明けという緊張感もあってのことだったのだけれど。

だから暑い昼の間は、何時間もぼんやりとモーツアルトを聞いていた。
ソファに転がって、裏山の葛の葉が、ゆらーりゆらゆらと風に揺れる様を、薄暗くなるまで眺めていた。

ふっと、窓の外に聞き耳をたてる、それは確かに今年初めて聞くツクツクボウシ!
ミンミンゼミに混じって聞こえてくるその声は、待ちかねた秋の訪れを予告している。「頑張れ!もう少しですよ~」って・・

モーツアルトは癒しの効果がある音楽だと聞いたけれど、「イヤシ」と言う言葉はあまり好きではない。「癒して癒しては卑しい」と誰かが言っていたけれど、私もそう思う。
でも、空っぽになって浸っていると、旋律はからだに、こころに染み、駆けめぐり、なでるように通り抜けて行く・・
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お天気

2010-08-12 14:33:43 | Weblog


誰が自分の数々のあやまちを
悟ることが出来るでしょう。
どうか、隠れている私の罪をお赦しください。

あなたのしもべを、傲慢の罪から守ってください。
それらが私を支配しませんように。
そうすれば私は全き者となり
大きな罪を免れて、きよくなるでしょう。

私の口のことばと、心の思いとが
御前に受け入れられますように。
わが岩、わが購い主、主よ。 (詩編19:12~14)


十字架の御血潮が、私に滴ったとき、緋のような罪も雪のようになるという。だから今日も、自己嫌悪を捨てて、イエスの義の中で胸を張ってみる。

とてもしんどい・・夏ばてかなぁ・・。私はいつも低気圧が来ると駄目なんだけれど・・
この体はお天気野郎だから・・この心もお天気野郎だから、うっかりすると引きずり下ろされてしまう。
聖書をとって、聖霊の導きの中に逃げ込む。わが避け所、わが砦。主よ。
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日曜礼拝

2010-08-09 11:28:49 | Weblog
アダムの罪によって、私たちは生まれながらの罪人となり、罪から離れられなくなった。意識的にも無意識的にも罪を犯す。良いことをするためにさえ罪を犯す。それをsaltさん「腐った善」といわれたけれど・・。

何のために出かけて行って礼拝をするのか。このことをずっと考えていた。電車の中でも考えていた。
昔は何も考えずに、当然のごとくに日曜毎に教会に行き、献金をして、時に奉仕をして、メッセージを聞いて、「今日、私は主に従順して捧げた。これで良し!」と午後はすっきりとさわやかな気分で過ごしたものだった。

しかしあるときからそんな行為に臭いものを感じだした。まるで主と取引をしているような不純なものが澱んでいる・・。
「わたしに捧げたというのか。天の下にあるものは、みなわたしのものだ。」「アーメン」

では、では、私はどうすればよいのかと、ぐずぐずと何週間かを過ごし、今日はぐずぐずと電車に乗って、空っぽなままで炎天下を歩いて教会へ向かう。
賛美の時、急に胸がいっぱいになって悲しくなってしまった。私は今、此処に相応しくないのではないかとそんな風に思えて・・。


メッセージの要約を、帰りの電車の中で何度も読み返していたとき、神は、なぜ人に罪を犯すことを容認されたのか。罪の中に生まれた罪人は、犬がワンと鳴くように罪を犯す者であるという。なぜ、こんなことが許されるのか・・

神のご計画とは・・と考えていたとき、イエスさまの十字架ではないかと、御子がいのちをもって買い取って下さり、新しく生まれさせて下さった。
新しく生まれた者は、救い主の御子を知り御父を知る。そこで初めて愛を知る。
そして、造り主に応答することが出来る者となった。
これこそ、人は神の息を吹き込まれ、神のかたちに造られたということの完全な完成なのだ。これこそ神の栄光。

それは、何を捧げたとか、成功したとか、失敗をしたとか、そんな事とはまったく違うことで、新しい事実の中に居るというだけで主の栄光。
日曜礼拝はその応答のひとつのかたち。それだけのこと。
だってすでに、イエスさまのいのちを受けて生きることは、すべてが礼拝であり主への賛美となっているのだから。


「しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔にいたる実を得たのです。その行き着くところは永遠のいのちです。」ローマ6:22
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2010-08-06 08:15:26 | Weblog
夏休みの時期をずらしての長男の帰郷は、孫娘あ~ちゃんが夏風邪で熱があり微妙だった。「飲ませる薬もないから、出来ることなら帰るようにするよ。」と言っていたけれど、私たちは「無理をしないで」と伝え今年は駄目かも知れないと思っていた。
二日ほど様子を見たのちに、お医者さんに相談をしたり、途中で引き返しポイントを決めて検温をしつつ「とうとう帰って来た。」と嫁さんが言った。

そんなあ~ちゃんは、到着したときは以外にも機嫌が良くて、待ちかねていたおじいちゃんにも、とびきりの笑顔で飛びついて大喜びさせてくれた。
けれども、寝室に引き上げたとたん「おうちに帰る」と泣きだした。きっと、お泊まりになるなんて、思ってもみなかったのだろう。そうして、疲れがどっと出たのだろう。

彼女の風邪気味はなかなかすっきりせず、嫁さんが「そうとう斜め・・」なんて、言いつつまとわりつく娘をなだめ続けた。
息子も嫁さんも、成長しておしゃべりになった娘の様子を、私たちに見せてあげようと、頑張って帰って来てくれたのに散々だった。でも、本当に散々だったのは、あ~ちゃんの方だと思うけれど・・。

嫁さんと食事の後片付けをしている時、あ~ちゃんのぐずり声に「此処は良いから、眠らせて」と言ってしまった。「えっ、今『眠らせろ』みたいに言ったね。」と慌てる私。「あのねお母ちゃん、それは『寝かしつけて』でしょう」と嫁さんに訂正されて、笑って誤魔化しても冷や汗たらり・・。

  
何処よりもおうちが大好きなことはとっても幸せなこと。とうちゃんとかあちゃんが大好きなこともとても幸せなこと。知らないお家では、いつも一緒に居てくれないと心細くなって泣き出してしまう。
買い物に出かけたとうちゃんを、暗い部屋でひとり捜していたので、「おいで、とうちゃんを迎えに行こうか」というと腕の中にとんで来た。

外に出ると夕焼け、「ほら見てごらん、ピンク色の雲だよ。」
ちょっと涼しい風が吹き抜けて、夕日の残る山では、ミーンミーンとみんみん蝉が鳴き、向いの山でもシャンシャン、シャンシャンとアブラゼミも鳴いていた。「ほら、聞いてごらん、蝉も鳴いているよ。」

少しは気持ちも晴れたようで、とうちゃんが帰って来るまで此処で待っている様子だけれど、もうすぐ3歳は思いのほか腕にずしんと堪えて「どうしょう・・」
タイミング良くかあちゃんが来てくれたので、細くても鍛え上げた腕のなかにバトンタッチ、「ああ、助かった。」

 
しかし、お姉ちゃんは毎日上機嫌で、山に川にと、昼寝もせずにおじいちゃんにくっついて回っている。芋掘りも去年の経験があるので慣れたものだったという。トマト、キュウリ、オクラ、アスパラなども時期を心得て収穫している。

大川や谷川では沢蟹やメダカ、アメンボ取りなどにも夢中。「この子はちょっとも飽きることがない。なんぼでも走り回っている。足が早うて付いていけへん。」とはおじいちゃんの嬉しい悲鳴。
おかげで絵日記や観察日記が充実していたけれども、彼女も妹くらいの頃はよく泣いたものだった。

今年は絵を描いてもらう時間もなかった。お話を聞かせてもらう時間もなかった。猛暑をものともせず、部屋の中にじっとしては居なかったから。
子供は、年ごとにたくましく変わって行く。そして、興味の対象も移って行く。家族の中で、ひとり黒く日焼けした彼女を「将来、農家の嫁」と嫁さんは評している。

 
家族が集まるには互いに多くの犠牲を払う。幼い子供も大人の顔色を見たり、我慢をしたり、気を遣って疲れもする。
それでも家族だから集まる。そこで子供は非日常を経験し、そんな刺激でバランスよく成長して行く。去年の経験を意外によく覚えていて、自分のものにしていることに驚かされたりする。

置いていってくれた沢山の動画(嫁さん曰く盗撮)には、おしゃべりをしながら一人遊びに興じるあ~ちゃんがいた。お姉ちゃんとふざけて飛び回っているあ~ちゃんがいた。
そりゃあお家がいいよね。こんなに楽しいのだから・・。
来年はもう少し、田舎の生活も楽しむことができるようになるさ。
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