石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

2010-07-29 13:31:31 | Weblog
昨夜は久しぶりの雨に潤されて、雨音を惜しんで窓を少し開けたままで床についた。寝返りを繰り返しながら、十字架のイエスさまに思いを巡らせていた。
イエスさまは、実際は一糸まとわぬ姿で十字架にかかってくださったのだと聞いて、私はショックを受けたことがあった。

アダムが罪を犯して神から隠れたのは、罪を知った自分の裸を恐れたからだった。人にとって何よりも恐れるのは、群衆の前に自分の裸の姿をさらすこと。それは普通の神経では耐えられない。
たとえ罪を犯し裁かれるときでも、一糸まとわぬ裸にまでされることはない。それは性的なことだけではなく、もっと深い罪の意識の部分だから。

イエスさまはそんな肉の無様な姿を、私に変わって引き受けて下さったのだと思う。
私もイエスさまと共に、人前で十字架にかけられたような経験があったけれど、私の裸の姿はイエスさまに覆われていた。

自分の言葉で語るとき、恥ずかしさや愚かさがさらけ出されて、まるでさらし者になったような時があり、耐え難い思いをすることがあっても、それは私の心の中で起こっていることであって、実はすでにイエスさまによってあがなわれている。
その、十字架の上では、主に抱かれて黙っておればよい。何が起こっても静かに受け入れて、主の愛に信頼しておればよい。

私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。(ガラテヤ2:20)

信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。(ヘブル12:2)
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感動

2010-07-27 14:13:01 | Weblog
イエスさまの十字架の箇所を、今日は火曜日の姉妹と交わった。
ご自分を弁護されることも、守ることもされず、なすがままに、真っ直ぐに十字架に進まれるマタイ26章後半のイエスさまに、

「ほんまに感謝やなぁ。有り難いことやなぁ。泣きとうなるね。」とつぶやく彼女に、「ああ本当にそうだ。感謝やなぁ・・」と感動を誘われた。
そうして、私は慣れてしまっているんだなぁ・・と、無感動に読み過ごしている自分を振り返った。

みことばが心を振るわせて、喜びと感謝があふれるような読み方を忘れてはいけないなぁって・・私だって初めて知ったとき、本当に感動して胸がいっぱいになったことがあったのに・・
私にとって人に伝えると言うことは、その度新しく主にお会いすること。チャンスを下さった主に感謝やなぁ・・。

大祭司はイエスさまのことばに、「神への冒涜だ」と言った。彼らが旧約聖書を片手にして言う神とは、罪を取り去るイエスを除く神だった。そして、群衆は「この人を除け」と叫び、彼らは自分のその言葉によって滅びる。

よみがえりの主は「平安があなた方にあるように」と言われる。ただ、イエスさまに身を寄せる彼女が「もう、なんにも恐くなくなった。感謝やなぁ。」と言われ「ほんまやなぁ」と、しばし共に救いの感慨に耽る。
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トワイライトエクスプレス

2010-07-23 11:28:25 | Weblog
先日、息子がトワイライトエクスプレスで個室の旅を楽しんできた。ラベンダーの香る富良野を沢山撮ってきてくれたので、その写真を見て、お土産の花のすがすがしい香りを部屋に満たして楽しんでいる。

冬には、せっかく切符が取れたのに雪で運行停止に会い涙をのんだから、今回はリベンジ成功。前回は帰路の切符だったので急に飛行機のチケットを取るために焦ったという経緯があった。しかも、空港までの列車にトラブルがあって、なんと、待ってもらった飛行機に飛び乗るような危うさだったという。

今回もやはりハプニングがあった。彼が富良野でいる間はよく晴れて、写真を撮ることも出来たのに、列車フラノラベンダーエクスプレスに乗るなり、にわかにかき曇り激しい雷雨となり、札幌から新千歳空港までの列車は運行停止という事態になってしまった。

結局、その日に帰ることは絶望的となり、札幌にもう一泊することとなってしまった。しかし、そんなハプニングの度に、聞こえない彼は多くの処世術を学んでいて、すんなり事が収まるよりも、良かったのではないかと私には思えたりする。
急遽、航空チケットの解約を聞こえる方にお願いをして手続きをしてもらったり、ホテルを飛び込んでいって取ることなども、どうってことなくできるようになっている。こういうことが障害を乗り越えることだと思うから。

会社を一日休まなければならなくなって、上司への連絡をとってくれと頼んできたけれど、親が上司の方とお話しをするなんて、普通はそんなチャンスがないのだけれど、今回上司の方の「それで彼は大丈夫、元気なのですね。」という温かいお気遣いの言葉を聞くことが出来て、そのようなひとことで、彼の会社での居場所を垣間見ることができホッとしたりもした。

もちろん、彼はその休んだ分の仕事を、残業、残業でこなすこととなり、理解はしても甘くはないという現実をたっぷり味わったのだけれど・・、ラベンダーは今も豊かに香っている。
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沢ガニ

2010-07-20 15:06:16 | Weblog
 梅雨明けの青空の下、昨日は家中の冬布団を干し、今日はシーツの洗濯日。
糊が無いことに気づいて、スーパーまで行こうと単車のエンジンをかけるがどうしても上手くかからない。

長雨でずっと乗っていなかったからなぁ・・。単車屋さんに電話をしても通じないし、仕方がなく「エイヤァ!」とギンギンの太陽のもと日傘を差して歩きだす。どうしても洗濯糊が要る、まだ、ストックがあると思っていたのに・・単車が動かないなんて・・まあ、こうして無理矢理歩かされないと、この暑さ絶対に歩かなかっただろうけど・・、人気のない町中をできるだけ日陰を探しつつ歩く。

帰ってきて念のためと、日向で暑くなっている単車のエンジンを掛けてみるとあっさりとかかった。やはり私への強制運動だった。でも修理費が掛からなかったのだからまあ、いいか。

シーツに糊を付けて抜けるような青空の下に並べたとき、ふっと何かが動いた気がして足下を見ると、沢ガニがのんびりと歩いている。この焼け付くような地面を、その速度で歩いていては死ぬぞ・・とすぐに保護することに決定。

右手に沢ガニをつまんで、左手で洗濯挟みのかごを持って家中をウロウロ・・。保護はいいけれどどうしょう・・。取りあえず風呂桶の中にそっと入れる。驚いたのか恐いのか固まっている。たぶんありがた迷惑なんだろうなぁ・・・。保護じゃなくて獲物?ペットとか・・

 
 子供が小さい頃は民宿が流行っていて、一度新鹿の民宿に泊まったことがあった。そこでおじさんがシオマネキを捕まえてくれて、見たこともない大きなハサミをもったカニに子供たちが喜んで居た。

朝目が覚めると家はもぬけの殻の開けっ放しだった。一体どうなったのかと捨て去られたような気分で、近所の人に聞いてみると「浜にいる」ということだった。
みんなで行ってみると、浜には魚市場があってサバを満載したトラックが、勢いよく魚をばらまきながら走っていた。私は落ちた魚を「もったいないなぁ」なんて思ったことを今も覚えている。

市場から帰ってきたご家族と朝食を頂いて、支払いを済ませ近くの砂浜で遊んでいると、奥さんが熱々のおむすびを持ってきて下さった。そして「あとで、家によってお風呂に入って帰ってください。」と言ってくださった。

甘くて赤い豆が入った餅米のおむすびはめずらしくて、わざわざ炊いて下さった心遣いが身に染みた。今も主人とそのことを話すとき感動してしまう。
砂に汚れた体でお邪魔すると、ちゃんとお風呂が沸いていて、子供たちの体も綺麗に洗うことができて、なんとお礼を言って良いのか分からなかった。
沢ガニを見ていると、そんな在りし日のことが思い出された。
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下がれサタン

2010-07-19 15:51:31 | Weblog
「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」
サタンの巧みさは、人間中心、ヒューマニズムにあふれた言葉を用いること。それは、人にはとても優しく心地よい言葉に思えるから、ペテロも嵌められた。

イエスさまに対してさえ、弟子の口を用いて誘いかけるサタン。まして、私たちの日常にどれほど言葉を尽くして、働きかけていることだろう。サタンは光の御使いにさえ変装し、みことばをも操る。彼の言葉は人の肉には納得しやすくて、いつもいつも甘さと優しさに満ちているだろう。


今日は「聖絶」について息子と話した。
私は、十字架を思うと聖絶がなんであったのか分かり易いと思っている。人はそもそも、アダムが犯した罪によってすべて死刑囚なのだ。それは理不尽だというけれど、十字架以上の理不尽はないのだから人は何も言えない。

正義とは神そのもの。だから聖絶は正しいことである。神は「愛するひとり子」を十字架で見捨ててまで、ご自身の私たちに対する愛をあかしされた。
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見いだす者はまれ

2010-07-18 16:05:36 | Weblog
十字架は自虐的に見えても、イエスさまが開いて下さったいのちへの道だから、実はちっとも恐くない。
「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」と書いてある。

しかし、十字架に自動的に到達する人は誰もいない。それは人が選び取るものだから、
「いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」と書いてある。

イエスさまのいのちと引き替えに与えられたいのちを、今、得たいと「主よ。目が見えるようになることです。」と私たちが叫びますように・・。
十字架はイエスさまの勝利の場所なのだから、開かれた霊の目を持って、今はっきりと見てみたいと・・。
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初ヒグラシ

2010-07-16 19:30:42 | Weblog
雨の後のひやりとした風と共にヒグラシの鳴き声。今年初めてなのに、薄暮の山々から一斉に鳴き始める。「せーの!」って感じ・・
ヒグラシの声を聞くと涼しい風を感じる。
主人がぽつんと「ヒグラシが鳴き出すと日が短くなってくる。」とつぶやいた。

最近、ホトトギスの声を聞くことが少なくて寂しい・・ウグイスも賢くなってそうそうは騙されて子育てを引き受けなくなったから・・なんて、どこかで読んだけれど・・。しかし、ウグイスの声そのものが少なくなっている。どうしたのだろう・・。

カワラナデシコが雨に打たれ倒れては起き上がり、倒れては起き上がって、優しいピンクの花を沢山つけている。弱々しそうな切れ長の花弁だけれど、しなやかにしたたかに天を見上げて咲いている。

長雨が嫌だとか、強い雨に叩きつけられたとかつぶやくことも嘆くこともない。身を寄せ合ってしっかりと天見つめて咲いている。
幼い頃に着せられた絽の水色の浴衣には、ピンクのナデシコの花が描かれていた。他のことはみんな忘れたけれどナデシコの花は覚えている。
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捧げもの

2010-07-15 13:29:59 | Weblog
「ですから、私たちは、この安息にはいるよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。」(ヘブル4:11)
安息に入るのに尽くす力とは・・と昨日から思いを巡らせていた。

「彼らが安息にはいれなかったのは、不信仰のためであったことがわかります。」(ヘブル3:19)
それは、力を尽くして信仰を・・ということなのだろう。しかし、所詮私たちの信仰は不完全なもの、完全な信仰はキリストの信仰のみ。
それでも、このように命じられているのだから、私の力を尽くす余地があるはず。

 
「主の前には、何も持たずに出てはならない。」(申命記16:16)このみことばが、浮かんでくる。律法だけれど、今もこのことば生きていると思う。
今、主の前に持って行くものとは何だろう。今、望まれる捧げ物とは何だろう・・。


御前に出るときの信仰は「必ず望みの通りになると強く信じる。」そんなこととは違う。それは単なる願望の押しつけ。此処に主のみこころなんて何もないから。

「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」(ヘブル4:12)

私の不信仰が主によって取りあつかわれる。光の下にさらけ出され、しかも、そのことが観衆の前で行われる。十字架のキリストのようにさらされる。
その惨めさと敗北の中で死んだようになって、ただ十字架に居るその私こそが、捧げものなのだと気づいた。その時にこそ、主が私に勝利をとってくださり安息を賜るのだと・・。
そのことに甘んじることこそが、主の望まれる捧げ物なのではないだろうか。
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御声を聞くならば

2010-07-13 11:22:23 | Weblog
イエスさまは、ユダに「人の子を裏切るような人間はのろわれます。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」と、これ以上ない厳しいことばで叱責された。
この言葉を読んだときは、ユダはもう後戻り出来ない罪の道に居ると思ったけれど、しかし、イエスさまは最後に「友よ。」と呼びかけて居られる。

人の言葉には偽りもあるけれど、イエスさまには偽りがないのだから、主は本心でご自分を売るような、生まれてこなかった方が良かったユダに向かって、そのように呼びかけられたということ。

此処にとてつもないイエスさまの愛の大きさ、深さを感じる。
それは、私たちがどんなにか大きな罪を犯し、取り返しが付かないと思えるような時でも、厳しいみことばが心に突き刺さりもう駄目と思うような時でも、実はイエスさまの愛の中に居るのだ。

イエスさまを売り渡し、そのことを突きつけられてもなをとぼけてしまうようなユダの罪でさえ、イエスさまはなを赦そうとして「友よ。何のために来たのですか。」と話しかけて下さる。

ユダに向かって呼びかけられた言葉はそのまま、私たちが罪のどん底に落ちたときのためにも取って置かれていることばなのだと思う。
「何のために来たのか、あなたはこんなところで何をしているのか、さあ、悔い改めて自分の居るべき場所に戻りなさい。わたしはあなたのために、これから場所を備えに行くのだから。」と・・

私たちを滅びに追いやるのは主ではない。私たちの頑さなのだろう。

「きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。」(ヘブル3:15)
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蝶のように

2010-07-12 09:26:23 | Weblog
昔、小学生の息子と一緒にあげは蝶の観察をしたことがある。私はいつしか息子よりも夢中になってしまった。
それまで見ただけでゾッとした芋虫も、あげはの美しい姿を見てからは、その緑色の体のひやりとするのを楽しんでつまんでみたり、頭から角のような突起を出すようすを試してからかったりも出来るようになった。

毎日の食草を計量しており、さなぎ直前の大量に貪る様子をみて、明日はさなぎになるだろうとわかるようになったりもした。
幼虫といえどもそれなりに知恵はあり、葉の裏に隠れたり、角を出して威嚇したり、強烈な臭いを出したりして身を守る。その臭いは、食草が柑橘系なので私には威嚇にはならなかったけれど・・。

さなぎになるときは今までの住み家である食草を離れ、とんでもない所に行ってひっそりとさなぎになる。それはかなり目立ちにくい場所である事が多く、庭を探して結局見つけられないこともあった。でも、幼虫自身の知恵は此処まで。

幼虫にとってさなぎはひとつの死。もう、自分で身を守ることは出来ない。知恵を働かせることも、逃げることも出来なくなる。後は造り主である神様のプログラムの遂行のみとなる。
さなぎの敵は寄生蜂、卵を産み付けられると必ず死ぬ。しかし、寄生蜂が止まっていてもさなぎには何も出来ない。さなぎは何もしない。

蝶は死を経たことで、神様のプログラムは恐れるものではないことを知っていると思う。だからその自由さは良き方に身を任せてのことなのだろう。蝶の華麗な羽はその時に神様が着せてくださった衣装。

虫なら神様の意志によってすべては流れてゆくけれど、
主は人に自由意志を与えられた。さなぎになる覚悟は自分自身で選び取らなければならないのだと思う。

「主をほめたたえよ。すべて造られたものたちよ。主の治められるすべての所で。わがたましいよ。主をほめたたえよ。」
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