石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

笑う

2010-04-22 11:22:49 | Weblog
 昨日の夜は苦しんでいた。心の中で戦っていた。それは、真実に主を求める姉妹に、試練がますます激しく次から次へと襲いかかっているから・・
「私は一生懸命に祈っているし、何があってもイエスさまを信じているけれど、それでもこういうことが続くというのは、私がなにか間違っているからなの?」そう聞かれたとき、

「間違っていることがあるよ、その、あなたの『私が一生懸命に祈っている』が邪魔だと思う。祈ってイエスさまに問題をお任せしたのならそれで終わり、もうそれでよいの。あなたが一生懸命だからイエスさまがよくして下さるわけではなく、イエスさまが憐れみ深いお方だから、真実なお方だから良くして下さるのだから、完全にお任せしたらいいよ。大丈夫だから・・・。

あ、今大丈夫と言った意味は、あなたの思い通りにして下さるという意味ではないよ。イエスさまがすべてを知っていて下さるから大丈夫ということ。永遠を見通しておられるお方だから、目先の方法ではなく、私たちの思ってもみないようなことさえ出来るお方だから、それが仮にどういう結果であっても大丈夫と言うこと。」

 そんなふうに、まるでぽんぽんと啖呵を切るように言って帰ってきたけれど、そうして、自分の言葉が間違ってはいないと思うけれど、それでも彼女の苦しみや葛藤は否応なく分かり、一日中何をしていても心の中には、主に問うように渦巻いているものがある。

「主よ。あなたが真実なお方であることを知っています。だから、私のような者が彼女を心配することは僭越であることは分かっています。けれども私は弱い人間ですから、気持ちが分かってしまうのです。人はそんなに強くありません、心がどんなに揺れる者であるか知っていますから・・」
そんなつぶやきを繰り返している。でも、私なんかよりも主が心配をしておられることも知っている。主は人となって下さった。人間をよくご存じなのだ。

 ああ、そうだ。私はこういうときに詩編91編から力を得たと、印刷をして彼女の家のポストに入れておく。
人間的な言葉を繰り返したくはない。そんな所にはまりたくない。主に委ねるほか私に何が出来得よう・・もう、彼女に話す言葉はない。
夜、みことばが来た。エレミヤ29:11
「 わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。・・主の御告げ。・・それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」

ヘブル12:5~11
「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。
訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。

さらにまた、私たちには肉の父がいて、私たちを懲らしめたのですが、しかも私たちは彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。
なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。
すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」

 これは彼女へのみことばかと明日届けようと思っていたけれど、みことばを読むうちに私に向けて語って下さったのだと、私はすっかり落ち着きを取り戻して希望と平安を得ていた。

 
 今日、スーパーでいきなり後ろから抱きしめられた。私はそういうことがひどく苦手なので驚いて振り向くと、彼女が満面の笑みを浮かべておられた。きれいにお化粧をして「昨日はありがとう。何度も読ませてもらって・・わかったよ」と、詩編を届けたことのお礼を言われた。
言葉を聞く前から彼女の笑顔がすべてを語っていた。問題は少しも動いては居なくても問題からの勝利が見えた。

「また、この石の上に落ちる者は、粉々に砕かれ・・」(マタイ21:44)イエスさまに落ちるなら粉々に砕かれる。そうして私が見えなくなったらイエスさまが勝利を取って下さる。イエスさまに落ちることは常に勝利。問題がなければどうしてイエスさまに落ちることが出来るだろう。自分で解決できるならどうして主により頼むだろう・・だから問題なんていくつ重なっても、それはいよいよ主を深く経験することになるだけなんだ。

 今夜はずっと安息している。そうして、ちょっと可笑しくもある。彼女がなぜあんなに満面の笑みで笑うことが出来たのだろうと・・、主はやはりご真実だと・・私たちの今居る所は問題だらけの辛い所かもしれないけれど、私たちは勝利の主と居るのだと、世の嵐の中でその主にあって笑うのだと・・。
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2010-04-15 18:00:06 | Weblog


それから、イエスが宮にはいって、教えておられると、祭司長、民の長老たちが、みもとに来て言った。「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。だれが、あなたにその権威を授けたのですか。」
イエスは答えて、こう言われた。「わたしも一言あなたがたに尋ねましょう。もし、あなたがたが答えるなら、わたしも何の権威によって、これらのことをしているかを話しましょう。
ヨハネのバプテスマは、どこから来たものですか。天からですか。それとも人からですか。」すると、彼らはこう言いながら、互いに論じ合った。「もし、天から、と言えば、それならなぜ、彼を信じなかったか、と言うだろう。
しかし、もし、人から、と言えば、群衆がこわい。彼らはみな、ヨハネを預言者と認めているのだから。」
そこで、彼らはイエスに答えて、「わかりません。」と言った。イエスもまた彼らにこう言われた。「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに話すまい。(マタイ21:23~27)


 人を恐れればイエスさまを知ることは出来ない。イエスさまから答えを頂くことが出来なくなるから、問われれば即座に自分が思っているとおりに答えるしかない。なりふり構わずに・・よく考えてから答えることなんてできない・・
信仰はいつも真剣勝負、状況を判断すればするほどそれこそ、敵の思うつぼにはまってしまうのだから。
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山菜摘み

2010-04-14 14:59:44 | Weblog
 火曜日の人と学びを終えて、香ばしいお番茶を頂いているとき、
「本当はね、『今日は用事があるから』とお断りしょうかと思ったよ。昨日の雨も止んで、すごく菜摘に行きたかったから。」
彼女の菜摘好きはとっくに知っていたので、
「そんなことなら、用事があるなんて言わないで『菜摘に行くから休もう』でいいのに。」
「でもね、私はイエスさまにこんなに良くしてもらっているのに、菜摘なんか選んだら申し訳ないなぁと思ったの」
「そうね、その気持ちはとてもよく分かるわ、それは素晴らしいことだよ。」
「イエスさまが、菜摘に行ったからって罰を当てたりしないと分かってはいるけれど、やっぱり・・イエスさまのお話を聞くことにしようと決めて菜摘をあきらめたから。」
「大丈夫よ。今から行ってくればいいよ。イエスさまが一緒だからとても楽しいと思うよ。」
「いや、今頃からだったら・・」

そう・・菜摘は誰よりも朝早く行かないと誰かが摘んだ後に行っても骨折り損。10時頃から行ってもあるはずもない・・普通はそうだけれど・・
「私はね、イエスさまのことを先にして、手遅れになったことなんて今まで一度もないよ。数限定の特売の品物だって、ちゃんとひとつ残して下さっていたことが何度もあるよ。そんなときは倍嬉しい。」
「そうそう、確かに私も最近そんなことを経験しているわ。」
ということで彼女はそれから山に行かれた。

 今日とても興奮した様子で話して下さったことは、なんと辺り一面いっぱいの山菜に出会って、イエスさまイエスさまと喜んで、楽しんで採って来たとのこと。
彼女が喜んでいるのは山菜だけではないことが分かる。山菜だけなら私に話すことはないから。彼女はこのように備えて下さったイエスさまが嬉しいのだ。顧みて下さったお方を喜んでおられる。

 私までご真実な主に感動していた。こんなに小さな者に、このような卑近な事柄にさえ、ご自身を現して導いてくださるお方がとてもとても嬉しい!まことに主は生きておられると・・・。小さな事柄を通して永遠のいのちを信じる信仰に導いていてくださる。みことばをリアルに味わうことを導いて下さる。ハレルヤ!

 
「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。あなたがたが早く起きるのも、おそく休むのも、辛苦の糧を食べるのも、それはむなしい。主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる。」(詩編127:1~2)
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もう少し・・いちじく

2010-04-13 08:44:06 | Weblog

実のないいちじくが「今の教会」と言い切って終わることに、ちょっと不安を感じてしまう。「教会とは・・」と考えないと・・。

「あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。」
イエスさまはこのように言われたのは、何も出来ない私だから・・それでも実を結ばなければならないから。それは人には出来ないけれど神には出来るのだからと、このようにひとり一人の私に求めよと言われたのではないかな・・。

「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」私にはない御霊の実を結ばせて下さいと主に求めて、私に主の必要を満たすようにと・・そんな気がして祈った。
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愛の対象

2010-04-12 21:08:27 | Weblog
 神様は人を愛するために造られた。みことばによって知っているはずのことが、自分という者を見つめているうちに、信じられなくなったり、あやふやになってしまったりする。
創世記に書かれている事実。神様の素晴らしい創造物のすべては私たちに賜るためのものであった。

「神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。『生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。』」(創世記1:28)

神様は園で人を求めて呼ばれた。
「そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。『あなたは、どこにいるのか。』」(創世記3:8)

しかし、神様は人をご自身のみと交わるものとはされず、男と女とに造られて人間同士で喜びを共有することが出来る者とし、また繁栄するように造られた。
また、いのちの木と善悪の知識の木を園に置き、彼らに選択の自由も与えられた。それが危険であることは分かっておられたと思うけれど、それほどまでに人が意志を持って応えることを求められたのだろう。神様を愛し、慕う人の愛を・・。

 
 甘えてまとわりつくペットはたまらなく可愛いくて、彼らを失った時は心に大きな穴が開いたようになるほどだけど、それらは時には反抗もする。犬なら噛んで怪我をさせられることもある。
今は、ロボットのペットも売っていて、甘え、命令に従うこともある程度できるらしいけれども、それらは絶対に反抗しない。それは決められた通りに反応しているだけ。それらは意志を持っていないから、何十年一緒にいても愛の応答は生まれない。


 神様は、人が善悪知識の木の実を食べてしまって、神様を離れ、自身のやりくりで生きるようになった後、いのちの木の実を食べて永遠に生きることがないようにと園を追い出された。けれども、その後も救いの計画を立て人に関わり続けて下さった。

 創造されたものを人に与えられた神様は、私たちの反抗の結果、ひとりの子の御子をもあがないのための十字架に下さることとなる。
「これは、わたしの愛する子」このみことばは母である私の心に染みる・・。そのみ声に父である創造主の温かい愛を感じることが出来て、近しく感じてしまう。
それほどの愛によって救われた私たちは、御子の十字架を通ることだけを条件として、神様の愛の対象として存在することを求められているのだと思う。

 私には主のご愛がどれほど分かっているのだろう・・。すごい経験ではなく日々の静けさの中で、もっともっと近しくいて下さる主のご愛を感じ取りたい。穏やかな日々の中ででも、ご真実なお方の愛に敏感でありたいと願う。

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。」(イザヤ43:4)
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とこちゃんの写真です。

2010-04-07 11:47:09 | Weblog

これはとこちゃんが庭に巣を作っているのです。紫陽花の木のそばに、ものすごい勢いで穴を掘り、始めに小枝を拾い集めて運び、次に藁束から思いっきり引っ張って藁を抜き、最後に自分の胸の毛を口で引き抜いて運んでいました。
そうして完成した巣は、驚いたことに完全に蓋してしまったのです。小さな足で何度もトントンと踏み締めて封印していました。ずっと目が離せなくて見ていた私たちは「???」でした。

具合が悪くなって、動物病院で診察を受けたとき「このこ、妊娠していますね。」といわれて仰天、「それは絶対にないと思います。」というと「じゃあ、想像妊娠でしょう。兎にはよくあるのです。」といわれ、なんだかとっても可哀想になりました。
そいえばとこちゃんは、子供が大好きで近所の幼い子どもとよく遊んでくれました。鬼ごっこみたいに、つかず離れず時々足下にまとわりついて子供たちを喜ばせていました。
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いちじくの実

2010-04-06 11:33:14 | Weblog
 マタイの福音書
翌朝、イエスは都に帰る途中、空腹を覚えられた。道ばたにいちじくの木が見えたので、近づいて行かれたが、葉のほかは何もないのに気づかれた。それで、イエスはその木に「おまえの実は、もういつまでも、ならないように。」と言われた。すると、たちまちいちじくの木は枯れた。
弟子たちは、これを見て、驚いて言った。「どうして、こうすぐにいちじくの木が枯れたのでしょうか。」
イエスは答えて言われた。「まことに、あなたがたに告げます。もし、あなたがたが、信仰を持ち、疑うことがなければ、いちじくの木になされたようなことができるだけでなく、たとい、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言っても、そのとおりになります。あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。」(マタイ21:19~22)

 マルコの福音書
翌日、彼らがベタニヤを出たとき、イエスは空腹を覚えられた。葉の茂ったいちじくの木が遠くに見えたので、それに何かありはしないかと見に行かれたが、そこに来ると、葉のほかは何もないのに気づかれた。いちじくのなる季節ではなかったからである。(マルコ11:12~13)

聖書のこの箇所はとても不思議だった。
「季節ではなかった」とあるのに、イエスさまがかんしゃくを起こして木を枯らすの?
お弟子の質問も、イエスさまの答えもとんちんかん。弟子が聞くなら「なぜ今、木を枯らされるのですか?」だと思うし、イエスさまが突然「山に向かって『動いて海に入れ』といってもそのとりになります。」という言葉もなんだか突拍子もないと思った。


「季節ではなかった」という言葉からこのみことばを思い出した。
「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」(Ⅱテモテ4:2)
いつでもイエスさまの必要を満たしなさいという命令なのだろうか・・
イエスさまは「わたしの必要を満たさないと、このいちじくのようになる。」ではなくて、「あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。」とおっしゃった。

いつでもイエスさまの必要を満たしなさい。そのためにイエスさまの必要を祈り求めなさい、ということなのじゃないかなぁ・・、そうすればまるで、とても私たちには無理難題、突拍子もないように思えるようなことでも、信仰を持って疑うことがなければ、主の必要によってそれは与えられますなのかな・・

主の必要は何時か私たちにはわからないので、いつでも主の必要を祈り求めていなさい・・なんだ。
自分自身にがっかりすることがあったので、ああ、このことにも主の必要があったのだと思えた。
何でも備えて下さる主に、いつでも願い求め続けることはみこころ。そうすれば誰であっても主の空腹、必要を満たすことができるという約束。


 繰り返し読んでいるうちにしみじみ思った・・イエスさまはお腹を空かされたんだ・・。神の御子がのどが渇いたり、嵐の船で眠りこけたり、血のしずくのように汗をしたたらせて祈られたり・・、鞭打たれて痛み、あざけられはずかしめを受けられ、御父に捨てられ極限の孤独も味あわれた・・。

イエスさまは母のお乳を必要とされ、父の稼ぎによって養われることを選ばれた。そこまでの主のへりくだりは今も変わることがないのだろうか・・。
神がこれほどまでに弱い人となってくださって私たちは救われた。

 今日もいつものように火曜日の人と聖書を開いた。
終わったときに,
この平安はなにだろうと言われ「もし、あなたに助けてもらっていなかったら、私はもう死んでいたと思う。とても生きてはいけなかった。」
「今、聞き捨てならない間違いをしたよ。私じゃない。救って下さったのはイエスさまだよ。でも、私は用いられたことがすごく嬉しいよ。その気持ちもわかるでしょう。
だから、あなたも『私を用いて下さい。』とお祈りしてね。そうしたら、イエスさまが必要なときに用いて下さるから。これはすごく嬉しいことだから。」とお勧めした。
彼女はご自分が体験されたので、心から用いられたいと思っておられることが感じられた。主はきっと彼女をお用いになるだろう。
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無題

2010-04-03 10:35:12 | Weblog
  
わたしは久しく黙っていた。静かに自分を押えていた。今は、子を産む女のようにうめき、激しい息づかいであえぐ。わたしは山や丘を荒らし、そのすべての青草を枯らし、川をかわいた地とし、沢をからす。わたしは盲人に、彼らの知らない道を歩ませ、彼らの知らない通り道を行かせる。彼らの前でやみを光に、でこぼこの地を平らにする。これらのことをわたしがして、彼らを見捨てない。(イザヤ42:14~16)

わたしはあなたの前に進んで、険しい地を平らにし、青銅のとびらを打ち砕き、鉄のかんぬきをへし折る。(イザヤ45:2)

すべての谷はうずめられ、すべての山と丘とは低くされ、曲がった所はまっすぐになり、でこぼこ道は平らになる。こうして、あらゆる人が、神の救いを見るようになる。(ルカ3:5~6)
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あきらめてしまわないように・・

2010-04-01 16:14:52 | Weblog
 満開のソメイヨシノは、折からの強風に薄紅色の花びらを舞い散らせ、咲き始めたヤマザクラは、楚々としてほころびかけた花を小枝につけている。
コブシの大木は白く盛り上がり、桃は濃い紅を差したように華やかでちょっぴり妖艶。散り始めた黄色いレンギョウ、スモモは枝いっぱいに小さな花が雪のよう・・今まで何処にこれほどの木々があったのかと、この時期いつも驚かされる。

サッササッサと駆けるように歩いていたのは、ちょっと意地を張っているからだった。そんな私の肩をトントンと叩くように、春が、主の備えられた美しいものに目を上げさせてくれた。
がんばっている気持ちを花々に笑われているようで、微笑まれているようで次第に力が抜けてゆく。


 悲しい電話を切った。その後で押し寄せてくる衝撃によって「アア・・、ワタシハカノジョヲ、アイシテイタ」そのことに・・気づいた。
先日、倒れた事を聞いて驚いたけれど、「検査をしてもどこにも異常はなかった。」と明るい声の返事を聞いて機嫌良く話しこんだのだった。

けれど、でも、これは重大なことだから、「イエス様を信じて、死ぬための準備をしておきなさい。」と言ったとき、それまでの口調はがらりと変わって「ああ、イエスさまとか、そのことは私はけっこう。」ぴしゃりと断られた。

 彼女も生まれたときから祈られていた人だから、日曜学校にも行ってイエスさまを知っているのだから、まさかこんなことになるとは思ってもみなかった。いつでも伝えれば応えてくれると甘く見ていた。今までの親しい交わりはすっかり色あせてしまって、心の底から冷たいものが吹き出してくる。

主よ、と叫ぶ
彼女を憐れんで下さい
そして、私をも助けて下さい。「かっては愛していた。」と過去にしてしまわないように・・。
イエスさまの十字架はすべての人のためだけれど、群衆が救われるわけではない。ひとり一人の名を呼んで「あなたはわたしを愛しますか」と聞かれる。
羊と山羊をわけられるけれど、私たちは自分自身でどちらに付くのかを選択することが出来る。

「人はその犯すどんな罪も赦していただけます。また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。」(マルコ3:28)
イエスさまの忍耐を思うとき、私の心はいつも慰めを受ける。新しい勇気を受ける。だから「待とう!」と思った。
春の野は主の慰めに満ちている。癒しに満ちている。力に満ちている。
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