石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

この方をどれだけ知っているのだろう・・

2010-03-29 16:05:53 | Weblog
イエスさまの話された十字架にペテロはつまづいた。
「その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。

するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。『主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。』
しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。『下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。』」(マタイ16:21~23)

ヤコブとヨハネも躓いた。
「『さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは人の子を死刑に定めます。そして、あざけり、むち打ち、十字架につけるため、異邦人に引き渡します。しかし、人の子は三日目によみがえります。』

そのとき、ゼベダイの子たちの母が、子どもたちといっしょにイエスのもとに来て、ひれ伏して、お願いがありますと言った。イエスが彼女に、『どんな願いですか。』と言われると、彼女は言った。『私のこのふたりの息子が、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるようにおことばを下さい。』」(マタイ20:20~21)

十字架の前では人はうろたえる、そこでは、イエスさまがわかっていないことが暴露される。
「あなたは、生ける神の御子キリストです。」そのように告白してはいても・・
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事実

2010-03-28 11:44:16 | Weblog
 
「そのとき、あなたは心の中で言おう。『だれが私に、この者たちを生んでくれたのだろう。私は子に死なれた女、うまずめ、亡命のさすらい者であったのに。だれがこの者たちを育てたのだろう。見よ。私は、ただひとり、残されていたのに、この者たちはどこから来たのだろう。』
神である主はこう仰せられる。『見よ。わたしは国々に向かって手を上げ、わたしの旗を国々の民に向かって揚げる。彼らは、あなたの息子たちをふところに抱いて来、あなたの娘たちは肩に負われて来る。

王たちはあなたの世話をする者となり、王妃たちはあなたのうばとなる。彼らは顔を地につけて、あなたを伏し拝み、あなたの足のちりをなめる。あなたは、わたしが主であることを知る。わたしを待ち望む者は恥を見ることがない。』
奪われた物を勇士から取り戻せようか。罪のないとりこたちを助け出せようか。

まことに、主はこう仰せられる。『勇士のとりこは取り戻され、横暴な者に奪われた物も奪い返される。あなたの争う者とわたしは争い、あなたの子らをこのわたしが救う。
わたしは、あなたをしいたげる者に、彼ら自身の肉を食らわせる。彼らは甘いぶどう酒に酔うように、自分自身の血に酔う。
すべての者が、わたしが主、あなたの救い主、あなたの贖い主、ヤコブの力強き者であることを知る。』」(イザヤ49章)

圧倒するみことばの前に鳥肌が立つ時、いったい私となんの関わりがあろうかとさえ思えることがある。
しかし聖書のことばは、すべての人の「私」に語られている。それが約束。
この世を取り巻く現実に居続けないで、みことばに安息しよう。
私は、「良くなりたい」と叫ぶ信仰さえもないことに、このようなみことばに出会うと気づくけれど、主の方から近づいて下さってこう言われる。「シロアムの池に行って洗いなさい。」
シロアムに向かって歩こう。それだけでよい・・
「 私を義とする方が近くにおられる。」アーメン
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普通な結婚記念日

2010-03-19 16:26:36 | Weblog
 3月16日は長男の誕生日。そうして17日は私たちの結婚記念日。長男は40歳だから41回目になる。
別に忘れていたわけではないけれど、なんとなく普通に過ぎて行った。

 その日は、新鮮な初鰹が目に付いたのでお店で3枚に下ろしてもらって、片身はたたきにし、片身は角煮にした。
もちろんたたきも身がしまっていて美味しかったけれど、意外に角煮が好評だった。たっぷりショウガを入れて、秘伝の大蒜酢を少々効かせたのが良かったのだろう。素人の料理はとても旨いときがあり、失敗してどうしようもないときがある。
プロは、不味い人は必ず不味く、旨い人は必ず旨いのだって・・頷ける。

 誕生日には、赤飯を炊くことが多いけれどそれもしなかった・・。考えてみれば40年間一度も結婚記念日を祝った覚えがない。なんてことだろう。
それはたぶん、主人は完全に覚えていないから、私さえ気にしなければ誰も何も言わないからだろう・・。私はこういうことにあまりこだわらないからなぁ・・。

 ターサイの蕾と春菊の胡麻酢和えも上手くいったし、手作り味噌の野菜たっぷり豚汁も美味しかったので、まあ良いか・・という感じ。
季節感いっぱいでちょっと上等な普通が一番じゃないかと、大雑把な性格もあって一人で満足。主人は未だにその日がどういう日であったかなんて気づいていない。

 でも、26日の誕生日には赤飯を炊いて心ばかり祝ってあげよう。
長男宅は、確か結婚記念日が一緒にだったはずだから、なんかお祝いをしたのかな・・。
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馬鹿みたいに素直

2010-03-17 11:29:37 | Weblog
 火曜日、久しぶりに共に聖書を開くことができた。彼女に追い打ちをかけるように次々と起こる試練の中で、ご一緒に静まる時を持つことが出来なかった3週間。私は事情を知っていたけれど、ただ祈りつつ主に期待をして待っていただけ。主に彼女のことを放っておいた。私には何も出来ないから。

「大丈夫、誰にも祈ってもらう必要はないよ。イエスさまはあなたの祈りをちゃんと聞いていてくださるから。」そのことを知っておられるから、私に祈って下さいとも何かを願うこともされず、ただ、現状を話されただけで、主にのみより頼んで乗り越えてこられた。
久しぶりにお会いして、私は彼女がちょっとまぶしい。

その後の様子を話されたとき、
「私はずっと祈っているから本当に大丈夫。何もかも助けられているし、自分のするべきことはちゃんと出来た。疲れているけれど、体も元気。でも、一番心配だったのは、もうこのような時を持てなくなるのじゃないかと言うことだった。」

この言葉に驚いた。そして、自分が恥ずかしくなった。私はこれほどイエスさまのことを知りたいと願っているだろうか・・。
そうして試練が信仰を躓かせるのではないことも知った。主がぴったりと共にいて下さるなら、少しも心配をする必要はない。試練はむしろ信仰を強め、イエスさまの助けを多く経験して信仰を深めていた。

 
今日は、マタイの福音書20章のぶどう園の箇所を読んでいて、神様のルールを学んだように思えてひとりで感動している。
ぶどう園に働く労務者を雇いに行った主人は、朝一番に雇った人とは、一日一デナリの約束をしてその通りに支払う。これは普通に労働に対する対価として払われたもので契約通り。

でもその後の人たちにははっきりとした対価が示されなかった。ただ、行き先を示しただけで「それ相当のものをあげる」というあいまいな約束。この人より遅く雇われた人には、ただ行き先を言っただけでその一言さえもない。

後から行った人たちは主人を信頼して従ったということ。最後なんか、実際にぶどう園まで行って働いた人はとても素直な人だと思う。もう、日も暮れようと言う時に、のこのこと出かけるなんて実際勇気がいるもの。常識を破るほどの素直さと勇気。
これって信仰にとても大切なものだと思う、だから主人は彼らを評価して、後に来た者から支払うことにしたのじゃないかな・・。
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桜み~つけた

2010-03-12 15:35:35 | Weblog
 久しぶりの晴れ間。洗濯物を干していると裏山で「ホーホケキョ、ホーホケキョ」ちゃんと整ったウグイス語で鳴いている。小さな体からなんて透明な声が出るのだろうといつも感心してしまう。もっと上手になったら、谷の向こうまでとどくほどによく通る声が出るようになるんだ。

 先日保健センターから保健師さん?が来られてメタボの指導を受けた。ちょっと口答えをした。
「でも、血圧は低いし、コレステロールもほらぎりぎりでしょう。善玉も多いでしょう。中性脂肪もそんなにないし、内臓脂肪だって低いのですよ。油肉なんて嫌いで、魚と野菜が好きで・・まあ、夜、甘いものを食べるのはよくないけれど・・。」

「今は治療を受けるほどではないですけれど、メタボ予備軍と判定されており、明らかに腹囲がオーバーしています。まず体重を1キロ減らしてください。
お年寄りの方がよく言われるのですが、料理を捨てるのがもったいないのなら、作る量を減らすようにしてください。」

 そこで、ああだ・・こうだ・・と心の中で思いながらも、せっかくの良いお天気なのでウオーキング。年をとって身が軽いと言うことは確かに良いこと。でも、痩せることと健康が直結しているというのには私はちょっと?早死にした友人は皆とても華奢だったよ・・。
まあ、歩くと気持ちがいいし、可愛いタンポポにスミレ、レンギョウにユキヤナギ、甘い香りもどこからか流れてくるし、もう春が来ていることは全身で感じる。
主に思いを巡らせつつ歩くことも楽しくて、心も体もリフレッシュできる。ああ、ラジオでリンパ液がよく流れるから、癌予防にもなるとも言っていたなぁ・・。

 桜が咲いていた!ほんのりと桜色の花びらが、梢でちょっと頼りなげに風に揺れている。しばらくウォーキングの足を止めてながめていた。どうして桜の花を見つけると嬉しいのだろう・・なんだか心がわくわくしてくる。

 帰りに畑によって、ターサイとチンゲンサイのつぼみを摘んできた。雑草引きをしている主人に「ほら、オリンピックの花束」と掲げて見せると「あ、ほんまや」まさか、野菜の花束なんてそんなわけないけど・・。
長雨の間にどんどん伸びて、つぼみが付いてしまったけれど、今なら美味しく食べられる。つぼみは栄養の宝庫、主人が「春菊も摘んで行けもう引くから。」でも、そんなには食べられないよ~。
野菜をいっぱい取って、さてこれをどう料理しようかと考えた時、保健師さんとのやりとりを思い出した。

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年頭の悩みとは・・

2010-03-10 11:45:11 | Weblog
 「ひねくれ者」という、たったひとつの言葉が嫌だった。
その言葉は、早くに両親を亡くし、味方のいない孤独な人生のなかで、なにがあろうともひねくれ者にはなりたくないと、ことさらに愚かしく思えるような選択さえして、抗してきた過去、しんどくてあまり振り返りたくない過去を思い出させたから・・。

 でも、メッセージの間しらけていたわけでもなく、のめり込んで聴くこともあったのだけれど、時々どうしようもなく嫌になることがあった。そのような感情を引きずっていたのだけれど、きちんと向き合わずに放置していたので、年末にはもう動けなくなってしまった。

 お前はイエスさまではなく人に頼ろうとしている、組織に頼ろうとしている、礼拝に通うその行いにおいて結局は宗教をしているだけではないかと、巧妙な罠のような思いに囚われていった。

疑問に勇気を持って真っ正面から取り組み、忍耐強く話し合おうとするよりは、私はさっさとその場を後にして問題から逃げ出すことが多かった。コミュニケーションの不器用さもあって、話す言葉の力が信じられず、人に信頼することができない弱さをもったいたから。

 これからはひとりで居よう・・ひとり主に聴こう・・主だけを頼りとして、その日その日を過ごそうと決めてみたけれど、一方で私はちっともひとりではないことにも気づかされた。
家族に助けられ、許され、わがままさえも聞き入れられている状況の中だったので、「何がひとりで・・」なのかと考えさせられ、主がこんな者の家庭さえも守って下さることへの恐れもあった。

一方で、主にある家族とは誰なのか・・。それは誰が選ぶのか・・。そのような問いかけが深いところで広がっていった。

 そんな折り、教会の姉妹が訪ねて来てくださった。礼拝を休んでからずっと会いたいと思っていた方だったのでとても嬉しかった。ひとりでいるのは正直寂しかったから、お顔を見たら一度に心が緩んでしまった。
人は本当に一人では居られないことを今更再認識させられ、頂いた百合の花が日ごとに大きく開いてゆくのを見ていると、主の備えて下さったやわらかな愛を見るような気がして、無条件に心がほぐされて行った。

私は、主の忍耐によってこんな時でも守られているではないか・・私は決して「心の直ぐな者」ではない。私はどこから救われたのかそれを考えようと・・
ひとり一人にいろいろな言葉を用いて語りかけることは主のお導きであり、それはすべて主の赦しの中にあることなのだと・・。

 私には机からこぼれ落ちるパンくずをいただくだけの者であることをわきまえなければならないと思う。
saltさんはよく言われる「メッセージを吟味してください・・」と・・、みことばのパンは完全で純粋であるけれど、机からこぼれたパンくずには、塵や埃がつくことがあるだろう。また、拾う私の手も汚れている。

聖書の文脈の中に、すべてのみことばを通して流れるイエスさまを、互いの足を洗い合うという中で受け取らなければいけないのだった。
メッセンジャーに一方的に依存してしまうと、自分で埃を払うことさえしないで、パンの味も分からなくなるほど一片の塵にかき乱されてしまうこともある。

いつの間にか、自動的に私好みのメッセージを口に入れて下さるという、そんなことを期待していたのかも知れない。
また、聖書の翻訳にもいろいろと問題があるという・・、そんな不完全な言葉を通してイエスさまのあがないは伝えられるのだけれど、私たちにはイエスさまを明かしてくださる助け主がいてくださる。
すでに、イエス・キリストの十字架によってバベルの呪いは解かれているのだから、自分の傷なんかに閉じ込められていないで、積極的に礼拝に参加して行こう。

しばらく礼拝を休んでいたけれど、出席した日そんな私をsaltさんご夫妻は笑って赦してくださった。
礼拝後に、京都に引っ越しをされた聾のご夫妻のお宅にお祝いに行かれると言うことで、私も姉妹方に付いて行かせていただいた。ご馳走になり、時の経つのも忘れて盛り上がってしまって、k姉妹が家まで送って下さらなかったらシンデレラになってしまって主人に怒鳴られるところだった。どこが「ひとりで・・」なんだろうと、我ながらあきれる結末となってしまった。
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「アルジャーノンに花束を」

2010-03-02 15:03:08 | Weblog
 妹が箱いっぱいの本を持ってきてくれたので、最近はせっせとそれを取り出しては読んでいる。それらの本は幸いなことに、実に種々雑多で、時代物あり、サスペンス、SF、最近のベストセラーあり・・だからその時々の気分でジャンルの違うものを掛け持ちで読んだりしている。

 なかでも今日読み終えた「アルジャーノンに花束を」は、読後に深い悲しみが残った。私の息子に聴覚障害があり、主人公チャーリィの障害と中身は違っていても、大多数の「普通」という枠からははみ出ており、その事実を受け入れる試練は主人公の家族と共通している。

 主人公の家族は彼の障害を受け入れることが出来ず、彼の母親は惚けてもなを、外聞を気にして家を磨き続け、賢くなって会いに来たチャーリィを、ナイフを振りかざして追い出そうとし、どうしても受け入れることが出来ないのだけれど・・。
チャーリィは家族に愛されたいという一心で、賢くなると言う研究に自分が選ばれたことを喜ぶ。彼が選ばれた理由は障害を持ってはいても、いつもポジティブで学習意欲に満ちているからだった。このままで彼は完璧だったのに・・。

手術は成功したかに見えて、彼は短期間に天才として変貌してゆく。増してゆく知恵に従って開けてくる事実は、今まで疑うことを知らずに信じてきた人々が、どのように自分を嘲っていたかということであり、科学者の知恵を彼が超えたときに、彼等が尊敬に値しないことを知って、高慢になってゆく自分だったり、自分自身に対する家族の冷酷な仕打ちによる心の傷との葛藤だった。そうして不信感は彼をどんどん孤独に追い込んでゆく。

知能が上がるに従って彼が失ってゆくものは人間性であり、逆に白痴の彼の中にあった素晴らしいものがクローズアップされてゆく。彼は多くの言語、多くの知識を得て同じ障害をもった人々のために懸命に働き続けるが、彼が成し得たことは自分自身の滅びによって、この実験が失敗であったことを証明したに過ぎなかったのじゃないかな・・。人にとって知能とは何なのだろうと、知恵が増すとはなんと不幸なことだろうとさえ思えてくる。

 
「実に、知恵が多くなれば悩みも多くなり、知識を増す者は悲しみを増す。」(伝道1:18)
「そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。」(創世記3:6)

 アダムとエバの昔から人は賢くなりたいという欲望をもっていたんだ。彼等はすべての生きものに名をつけるほどの賢さをもっていたのに、それでは満足しなかった。

 
 イエスさまにお出会いした今は、神様は等しく子育てを楽しむことが出来るようにして下さっていると思うようになった。障害の有る無しに関わらず、白痴であろうと天才であろうと、人と比べるというむなしい基準をもって計ることをしなければ、子育ての喜びは沢山備えられてあると思う。

覚えるのに時間のかかる子、手間暇のかかる子にじっくりと関わった親には、たった一つの事ができるようになったということさえ、大きな喜びや感動を味わうことができる。
病弱な子をはらはらと育てている親には、今日一日のいのちの重さを誰よりも知っていることだろうし、その一日はとても中身の濃い時間だと思う。


 チャーリィは彼と同じ手術をした先輩、アルジャーノンという天才ネズミを唯一の友達とするけれど、そのネズミの壊れてゆく様子を見て、自分の中に起こる脳の崩壊を予想する。彼は自分の末路をはっきりと予想できる知能をその時持っていたから。

 彼がこだわったのは白痴のチャーリィをひとりの人間と認めない者への怒りだった。科学者はチャーリィを人とした天才として生み出したと思っている。その傲慢が彼をいらだたせる。天才の彼も障害者のチャーリィも同じひとりの人間として認めて欲しかったのだ。結局どちらの彼も本当には人として認められることはなかった・・。

 人はたとえ自分の子供であっても、ありのままで受け入れることは易しくはない。自分好みの条件をいろいろとつけて、それを満たし、自分を有利にする材料を持つ者を望む。どう見ても不利に見えるあれこれを子供に見るとき、受け入れることが出来なくなってしまうことがある。
仮に、受け入れているように見えても、その心の底には「改善」という自我があり、それはそのまま人として受け入れるということからは遠い。

人はある時イエスさまに出会い、生まれて初めての無条件の愛の存在に触れ、罪にまみれたままで受け入れられるという、そのような愛があるということを知らなければ、真実に愛することなどできないのじゃないかと思う。
チャーリィの母親も教会に行っていた。しかし彼女はイエスさまに出会ってはいなかった。

「アルジャーノンの墓に花束を」と言い残して、ひとりで施設に向かう最後は胸を締め付ける。けれどその時に残した手紙
「ひとがわらたり友だちがなくてもきげんをわりくしないでください。ひとにわらわせておけば友だちをつくるのはわりとかんたんです。ぼくはこれから行くところで友だちをいっぱいつくるつもりです。」
再び元に戻り、書くこともままならなくなったチャーリィの言葉を、私も覚えておこうと思っている。
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