石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

罪のど真ん中に

2010-02-26 18:34:05 | Weblog
 先日Aさんから「会いたい」とお電話があった。昨年、私は彼女に失望(生意気に・・)していたので、その時は旅の疲れもあって、「ちょっと今日は・・」とお断りをした。「では、また来週電話させてもらうね。」で終わったのだけれど・・、

きっちり一週間目にお電話を頂いたとき、彼女の本気が伝わってきて、再び喜んでお迎えすることが出来た。
彼女は向かい合うと、「前に聖書を読んでから来てと言ったでしょう。だから、ルカの福音書を繰り返し読んできた。」と話された。
そこで、わからないことや疑問に思ったことを書いてきたから教えて欲しい。と言われ、以前のように宗教の議論を持ち出すこともなく、開いた聖書の箇所を一緒に読み、私の知っていることをお話しすると「やはり自分で読んでおいてから聞くとよく分かるわ」と喜んでくださった。

 私は恥ずかしかった。主が送って下さった方に対して性急に失望した自分の傲慢さ・・どうして私はこうもわがままなのだろうと・・本当に、主に忍耐されているのは誰でもない私自身。
主は人手不足なのだと思う。だからこの者をも忍耐の中で導きつつ、用いて下さるのだろう。
でも、このことは本当に喜んで良いのかどうか・・私には感謝だけれど・・だって、主を知る喜び、感動、そんな様子を見る時はとても嬉しいから。

 メッセージで教わったラハブのこともお伝えした。主が彼女を評価されたのは、ただひとつ人を恐れずに神を恐れる信仰、それこそが私たちの目指す行いだと。
このことは、私には目から鱗だったので誰彼に伝えたかった。私にはちょっと苦手だったヤコブ書の、大切なことがわかった気がして嬉しかったから。

イエスの系図の中に売春婦であったラハブの名がある、人間的には恥ずべき経歴の人物もありのままに書き込まれている聖書。
でも、ノアもアブラハムもダビデもみんな罪人ではないか・・誰が誰よりも清いなんて、誰が誰よりもマシだなんて系図が語っているはずはない。「罪人も居た」なんて思ってしまうけれど、聖書には「義人はいない。ひとりもいない。」と書いてある。
私は、あの系図は罪人のど真ん中にイエスさまが来てくださった事を語っているのだと思った。


イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マルコ2:17)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

「こまったなぁ」

2010-02-25 10:51:00 | Weblog
最近は故もなく何かと沢山のものを受け、助けられ、赦されることが続いていて、どうして良いのかわからず、言葉もなく「こまったなぁ」とつぶやくばかり。


「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」(詩編22:1)
十字架上でのイエスさまの叫び、
「これはわたしの愛する子」と言われた御子を、父なる神様はお見捨てになった。
それは身代わりに負ってくださった私たちの罪の故。

御子の受けなさる祝福を、今、私は受けている。
「 まことに、主は悩む者の悩みをさげすむことなく、いとうことなく、御顔を隠されもしなかった。むしろ、彼が助けを叫び求めたとき、聞いてくださった。」(詩編22:24)
「悩む者は、食べて、満ち足り、主を尋ね求める人々は、主を賛美しましょう。あなたがたの心が、いつまでも生きるように。」(詩編22:26)
イエスさまにいのちを頂いて生きる。

何故に私が受けて良いのか・・これほどの「こまったなぁ」はない。
しかし、私は叫び、求め続け、何時もいつも此処に、この方に居る。
「こまったなぁ」を脇に置いて・・
「ありがとう」だけを抱いて・・
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

「どうぞよろしく」

2010-02-16 20:33:26 | Weblog
私は大腸ポリープの手術のために息子の家で数日暮らした。とにかく腹の中のものをすべて出し尽くすことに専念。終いにはミルク飲み人形のように、飲んだものが透明なままで出てくるようになる。ここではじめて手術が可能となる。腹の中に水分以外、何にも入っていないということはなんだかとてもすごいことだ。

孫や嫁さんに見送られて、予約の時間に息子にクリニックに連れて行ってもらった。「タクシーでひとりでも行けるよ。」なんて強がりを言ったけれど、嫁さんが「無理、無理」と言ったように、大きなショッピングモールの一角にあるクリニックは、私のイメージとは全く違っていて、いったいどこから近づいたらよいのかさえわからず、きっと迷子になっただろうと思った。


 「○○さんこんにちは。○○です。どうぞよろしく。遠くから来られましたね。でも、それだけの価値はありますよ!」
笑顔でお医者さんに挨拶をされたことにはとても驚いた。
人生70年近くになるけれど、お医者さんにいきなり名前を呼ばれたことも、ご自分から挨拶をしてくださったこともはじめてだった。ご自分からお名前を名乗ってくださったこともかってなかったから。

とても微妙な箇所の治療なので、どんなに看護師さんが優しく、ちょっとユーモラスに接して下さってもどうしても緊張してしまうのだけれど、いきなり名前を呼ばれたことでなんだか安心することができた。
名前というものは不思議だ。見知らない所においても、一度で私を判別して知られているという気持ちにさせる。「病気や患部だけではないですよ、あなたを知っているのですよ。」そんな言葉を聞いたような気持ちになる。
何度通っても一度も名前も呼ばれず、カルテだけを見て薬を書き込むだけの治療には不安がつきまとう。

 イエスさまは、私を名前で呼んでくださるという。そのとき私はすべてを知っていてくださる親しいお方であることがすぐにわかるだろう。主の御声を聞くことはどんなにか嬉しいだろうなぁ・・。

 治療はあっという間に終わり、写真を見て説明をしてくださった。ポリープを1個切除したこと。盲腸まで診たところ腸はとてもきれいで、出血の原因となるようなものは何もない。直腸に少しストレスで荒れているところがあるけれどそれは問題ないとのことだった。嬉しくて、今日まで守っていてくださったイエスさまに心から感謝。

 
 この三日間ばかり孫のあかりは両親の腕の中でないと眠らない。息子は大切な壊れ物のように、胸に抱きかかえて昼も夜も部屋の中を歩き回っている。少しでも下ろされると、熱のある赤い頬に大粒の涙を流して泣く。そうして、時々「いちゃい」と訴える。この「いちゃい」の意味が中耳炎だったということが後でわかったのだけれど・・。

夜中に何度もトイレに通っていると、リビングの窓の明かりの中に子供を抱いてゆすっている息子と、側でパソコンに向かって仕事をしている嫁さんを見た。それは小さい子供を抱えて、人生のど真ん中で世の荒波と戦っている姿。
そういえば嫁さんの仕事が今週は忙しいのだと言っていた。彼らはぴったりと寄り添い、助け合って子供達を守っている。そんな中で一生懸命に、私をも支えようとしてくれているのだと、今受けているものの大きさを心に覚えさせられた。

お姉ちゃんのさくらと折り紙を作って遊んでいるときに、「とうちゃんはさくらの小さいときも、いつも遅くまでだっこしてねんねさせてあげていたよ。ズボンの中にさくらの足を入れてたよ。」「知っているよ。とうちゃんの中はあったか~いよ」そんなさくらの言葉を聞いて胸が熱くなった。そうなんだね、知っているんだね、だから出来るんだ。

 手術の翌日には新幹線の駅までみんなで送りに来てくれた。そのときにはあかりも「どーなっちゅ」と私に小さなぬいぐるみをもらって喜ぶほど回復していて、それが何よりも嬉しかった。
手術前には、嫁さんが「急いで帰らない方が良いよ。」と心配をしてくれていたけれど、お医者さんの言葉を伝え腸の写真を見せたら安心したらしくて、もう何も言わないで食べられるものを選んでお弁当を作ってくれた。

おいしい御番茶を何度も何度も入れくれた。わざわざ土鍋で炊いてくれたおかいさんはとっても甘かった。
あかりを病院に連れて行く玄関先で、嫁さんが履いた靴を脱いでまでフリースを取りに行って、パジャマ姿の私に着せてくれた。当たり前みたいに着たけれど、私にはそのような細やかな心遣いが絶対に出来ない者だから、彼女に愛の細やかさというものを教わった。

 イエスさまは今回沢山のことを教えてくださった。私の自分自身に対するどこか投げやりな部分をご存じで、いっぱいの愛で包むようにして教え導いていてくださるのだと思う。
痛いからいやだと以前に行った病院から逃げたときから覚えてくださり、今日に導いてくださった。
私は、自分がその弱さを主に覆われた者であることを覚えていよう。弱い者なのだからせめて人の痛みに細やかでありたいと願うけれど、まだまだ、これから学んでゆくことなのだろうなぁ・・。
コメント (6)
この記事をはてなブックマークに追加