石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

御名を呼びつつ

2010-01-28 22:05:32 | Weblog
 問題の最中にも主への信頼があり、心の深いところで静まることができて、「イエスさま、イエスさま」と御名を呼んでいたけれど、問題は驚くほどあっけなく終わったと、試練の中におられた姉妹が話してくださった。いつまで続く苦しみかと思っていたのに、まるで潮が引くように問題は解決してすっかり解放されなさったとのこと。

「イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ。」と言われた。すると風はやみ、大なぎになった。」(マルコ4:39)

 私も信仰に入ってまもなくの頃は、今よりもはるかに試練が多かった、そんなことを思い出させてくださった。試練によってみことばを求め、すがりつき、イエスさまという避け所に身を避け、その砦の確かさを知る。
だから、何も問題がないよりは信仰は成長すると思う。体験によって信仰の技術を会得することが出来ることは大きいことで、信仰のベテランは問題の度にすかさず主に逃げ込む技術に長けてくるから、何時までも苦しまなくてもよくなる。

最初の一歩は自力による戦いから身を引いて、主の砦に飛び込む必要があるのだけれど・・みことばのご真実を経験することができるなら、苦しみは何倍もの価値を生むことになると思う。主が私のことを心配してくださっていることを知るのは、永遠の約束に対しても信頼が深まっていくことだから。

「あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」(1コリント10:13)

そのような問題は、たいてい信仰に入る前に潜んでいたものが、表に現れてきたもので、解決のために主の御手かのべられたことから表面化してきたものであったりする。それは後になって知ることだけれど・・。

それに、やはり自分自身の問題を取り扱われたりすることもあるけれど、それだって愛する者に加えられる鞭は矯正のためであり、お側に近しく置いてくださるための教育でもあるから、主のお后教育のようなもの。素晴らしいことなんだ。

 親戚の端々まで深く関わって、私たちの生活は何処で何が起こっても、普通のおだやかな日々というものが脆く崩れてしまうもの。平凡な日々は、主が遠く私たちの知らないところにまで、御手を伸べて守っていてくださったからだと私は思っている。
今日、貴重な穏やかさの中に過ごさせていただいたことに、深い感謝もって主を抱きしめる。

「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」(イザヤ53:5)
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冬晴れ

2010-01-27 15:39:16 | Weblog
 朝は寒くて、息子を送り出した時は真っ暗な道が凍り付いていたけれど、今日は雲ひとつない上天気。
湿度なんと40パーセント!この絶好のチャンスに家中を開け放し、タンスの引き出しも、押入も開けっ放して、家の中はまるで泥棒が大騒ぎをしているような状態。
布団や毛布などをこれでもかと放り出して、このお日様をどん欲に利用しようと二階と下を一日中バタバタ。みんな放り出したついでに、息子の部屋にも掃除機をかけてすっきりした。

 先日ご近所のワンちゃんのお世話を一週間ほど引き受けたことがある。今、しきりにそのワンちゃんが鳴いている。気になって仕方がない・・私の役割はもう終わったのだからと思っても、飼い主さんの忙しいことが分かっているので、もっとおせっかいをしようか・・などと迷う心をワンちゃんは知って呼んでいるみたい。

この間も、リードを付けたままうろうろしていると知らせてくださる方があって、名前を呼ぶとすぐに側に来た。リードをすばやくつかんで、「ハウス」と引っ張ってみても、足を踏ん張って嫌だという。それで少し散歩をつきあってしまった。もう、老犬で毛も抜けていたりしてかっこはよくないけれど、それでも散歩の時に誉めると、一生懸命に前を歩く姿は愛おしい。

世話をする私を見て、お隣のご主人は「昔は側にも寄れなかったな。」と言われた。確かに、今も飼い主さんが「噛みませんでしたか」と言われるほど気のきついワンちゃんなのだけれど、老いてきたことで誰に身を任せるのかを心得たように頼りにしているようすが痛々しい。入院をしておられるご主人様が早く帰ってこられるといいね。

 
私はイエスさまにこの身のすべてをお任せしている。私の家族もノアの家族のように、ラハブの家族のように、イエスさまの赦しと守りの中にある。
それは、主に身を避けたということ以外一切私たちの何かには依らず、一方的な主のお約束に依ること。たとえ嵐の前触れの中にあろうとも、主のご真実によって保護されていることは、なんと心強いことだろう。

 
主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身を避ける。主の真実は、大盾であり、とりでである。
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心配しない

2010-01-24 14:39:25 | Weblog
心配事がないのではなく、何をみても心配をしないということ。この世を生きていて煩い事のない人がいるだろうか?何一つ思い通りに行かないのがこの世。
でも、イエスさまを知ったときから、そんなこの世を生きる生き方が変わった。

救われる前に心を占めていた心配事や思い煩いを、今は主の助けによって聖絶した。もう、そのようなものの姿を見はしない。

どんなに幸せに囲まれて暮らしていても、その幸せに気づくことがなければ、その人は幸せじゃない。
脅すように、不幸せな出来事が押し寄せてきても、主の約束だけを見ている人には、いよいよ主の御真実を味わうときとなる。

あらゆる問題は主に隠れてはいない。主の許しなく起こりはしないのだから、必ず良き方の良きご計画によるものだから大丈夫だよ。すべての事は主が心配をしていて下さる。なんと、神様がこの者を心配していてくださるのだ!これほど安心な事が他あろうか。

逆境の中で味わう平安こそ、主をもっとも近しく感じるとき。
打ちひしがれることが起こったときは、信仰告白のチャンス。愛する我が君を、涙の代わりに賛美する時、応えてくださるみことばの甘さを知っていることは、最上の幸せだから・・ほら、結局何があっても幸せの中に住んでいる。
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愛する方へ (手紙)

2010-01-21 11:13:08 | Weblog
「私は、こう思います。神は私たち使徒を、死罪に決まった者のように、行列のしんがりとして引き出されました。こうして私たちは、御使いにも人々にも、この世の見せ物になったのです。」(1コリント4:9)

私はこの身に起こるすべてを書き連ねて主を賛美しています。
それは、すべては私だけの祝福ではなく、主には伝えたい人々があることを知っているからです。今、私たちが受ける恵みはすべて誰かのために受けているのだということを知っています。

「イエスは答えて言われた。『わたしは、あなたがたに言います。もしこの人たちが黙れば、石が叫びます。』」(ルカ19:40)このみことばが「石ころ」の語源です。叫ぶのは私の務めなのです。

 大人の賢さは信仰を阻みます。信仰には子供ような単純さが必要であり、パリサイ人や律法学者は立派な大人だったので、いくら神の業を目の前で見ていても、その愚かとも思えるイエスさまの手法のために、神であることを認めることは出来なかったのです。彼らの常識がイエスさまを拒否したのだと思います。このことは神が設けられたわなです。

「しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。」(1コリント1:27)

聖霊は私たちを賢くするのではなく愚かにします。人生で身につけてきた大人の分別を捨てさせます。海千山千の年寄りをまるで世を知らない子供のように無防備にしてしまいます。もう、自分でやりくりする必要はないことを知らせてくださり、主の知恵と賢さ、備えにより頼めばよいことを知るからです。
それができるのは、聖霊によってうながされるままに、なにも付け加えず、差し引かずに主を受け入れることによるのです。そうすると完璧な主の守りを日々の生活の中で経験してゆくことになります。

もう、ニコデモのように「どうして子供に戻ることが出来るのか」と言う必要はないのです。聖霊が働くときそのことが私たちのうちに起こるからです。

もしもイエスさまをいくらかでも知るなら、どんなに利口な人でも、いかに自分が無知であるか、取るに足りない者であるかを知ることになり、人間の知恵などに信頼しなくなってしまうことでしょう。
このことを私たちに知らせてくださるのは聖霊、この方によらないと人の言葉では決して伝えることは出来ない事柄であると私は知りました。このことは主の選びによることなのでしょうか・・。私は考えています。いや、主に聴いています。

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楽しみ!

2010-01-20 13:22:36 | Weblog
 以前大腸内視鏡の検査を受けたときあまりに痛くて、ポリープをとるようにと病院から手術の日まで決められたけれど、逃げてしまってそのままになっていた。
私は確かに痛みに弱いと思う。痛いことは大嫌い。そんなことをしてまで長生きなんかしたくないと、イエスさまのところにさっさと逃げ込もうと企んでしまう。

だからあれ以来放りっぱなしだったけれど、ちょくちょく腸のトラブルが起こり、そんな時は、できるだけわからないようにと誤魔化しているけれど、どうしても顔色の悪さなどで主人に知られてしまって放って置くなと責められていた。

 ある時、インターネットで名医の記事を見つけて、そこに無痛の大腸内視鏡検査ができる病院があることを知った。しかも、そこは息子の住まいの近くでだったので、軽い気持ちで息子にそのことを話した。

息子から、夫婦で働いているので都合のつく良い日を知らせてきた。その日は一つの例として挙げてあったのだけれど、病院に連絡を取ってみると、その計画ですんなりと予約がとれた。なんだか事がとんとんと進んでしまって、躊躇する暇もなかった。

 何よりも孫に会えるという強力な餌が目の前にあり、痛くもないとも知ればもう絶対に止められないことになった。
しかし昨夜その病院のホームページをみるようにと心に促され、なんとなく眺めているとき、初診を受ける日が休診になったとの文字を見つけた。

どうしても、この日でないとこの計画は成らないことはわかっているので、「これはいったいどういうことだろう」と、そもそも名医なんて私には似合わないよねとも思い、もう一度この計画が主の御手を通して精査されるのだと思った。
主から始まったことなら、どのようになっても最善なのだからお任せしようとそのまま眠ってしまった。

今朝、病院に連絡を取ってみると「急に医師会の会合が入ってしまい申し訳ありません、」とのことで、必要なものを郵送してくださることになり、つまり計画はそのまま実行となったわけ。

 計画が決まった時、息子は「平日だから何処も空いているよ、行きたい所はあるか?」と聞いてくれたけれど、下剤に弱いのでとてもそんな気にはなれないと答え、嫁さんが「なんかして欲しいことがある?準備しておいて欲しいものはなに?」と聞いてくれた。私の注文は「布団とトイレ」、「じゃ四日間みんなで付いていてあげるよ。」と言ってくれた。わーい孫といっぱい遊べるぞ!!

 恵みを受けるべき何の価値もない者が、無条件に顧みられて、その上あやされているように感じるときがある。主のお憐れみを受けたことを心にしっかり刻んでおこう忘れないように。


わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。 (詩編103:2)
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主は避け所

2010-01-19 18:29:49 | Weblog
 今年も、火曜日に二人でみことばに触れる時が始まった。彼女は激しい試練を新年早々受けておられたことを聞いた。
年を取るとそれだけ濃い人間関係も多くなり、悩みも多くなる。沢山の気苦労を抱え、老いて自分たちだけではどうすることも出来なくなって、心配と悲しみに命を削るような事が起こる。

 私は今日まで何も知らされなかった。お正月早々そんな話を聞かせたくなかったと言われた、私はかばわれていたのだ。でも、私は主のうながしを感じて彼女の信仰を祈っていた。私のしたことはそれだけ。
彼女は二日間泣いてイエスさまにすがっていたと言われた。「私は試されていると感じて、『イエスさま、私はあなたを信じています。』と祈っていたと言われた。

「もし、イエスさまを知らなかったら、私は生きていけなかった。私だけではなくてすべてはどうなっていたか分からないと思う。でも、不思議に良い方向に事が開けて行って、今はこうして落ち着いて話すことが出来るようになったよ。イエスさまに本当に感謝している。」と明るい顔で、重い証をしてくださった。

 長い人生には、足下から崩れて行くような理不尽な悲しみに、突然襲われることがある。自分の非力を思い知り、怒りと悲しみにまんじりともせず、眠れぬ夜を過ごすことがある。
そんな悲しみの中ででもイエスさまの御名を呼べることは幸いだ。彼女はそのことに気づいていた。そんな嵐の中で、主は彼女の信仰を守り育てていてくださった。

 
民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、われらの避け所である。 (詩編62:8)


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旅立ち

2010-01-18 16:03:42 | Weblog
 息子のトワイライト・エクスプレス個室ロイヤルによる北海道旅行は、一日有給をとって金、土、日という強行軍、しかも釧路まで行って丹頂を撮るという。
しかし、天気予報は大雪を告げていて、雪に弱いトワイライト・エクスプレスが運行できるとは思えず最悪だった。
せっかくすべての日程を組んで切符も購入してあるのにと、出発の前夜は旅の準備をするべきか中止をするべきか・・暗い顔で悩んでいた。

 私は終始「イエスさまが備えてくださったチケットだから進め!」と言い続けていた。そう言いつつも、彼の悩みがピークに達した時、そっと彼を導いてくださいますようにと主に祈った。
そもそもこの切符が手に入ったのも、主のお導きではないかと私は信じていたから・・。しかし、それには疑問がたくさんあるけれど・・後にそのことに気づくことになったけれど・・。

そんな時、彼に尋ねて「仮にどんなことがあっても、イエスさまは共にいて下さることを信じるか。」「分かっている」その言葉にほっとしていた。
私は「進め!」という言葉とどこかがちょっと矛盾しているなぁ・・と、なぜこんな事を聞いているのだろうとも思っていた。

 その直後「行くことに決めた。」とカメラを持ち出してきて飛行機の中に手持ちで持ち込める鞄の準備などを猛然と始めた。何を置いてもカメラは離せないらしい。一々測り限りあるサイズに苦労をしている。
そんなバタバタとした荷造りの後あまり眠る間もなく、まだ明けやらず真っ暗な凍てつく道に旅発って行った。

携帯電話のメールで札幌空港から快晴だと知らせてきた。釧路からは「丹頂鶴、オオワシ、オジロワシ、キタキツネの写真が撮れた。神に感謝」と知らせて来た。
しかし、その夜「明日のトワイライト・エクスプレスは運行中止が決定。これからどうするか考えないといけなくなった。」というメールが来た。

 私は自分の信仰を息子に押しつけたことをやっと認識した。主にひれ伏す思いで祈り、初めから落ち着いて思い返した。すべてのことがはたして神より発したのかと・・そのことを。
そして「イエスさま。もう二度とあなたと息子の間に割って入って、あなたのお邪魔をしないようにします。自分の信仰を押しつけて、あなたから息子を守ろうなどとはしません。」と悔い改めた。

息子にはメールで謝った。
「私の信仰を押しつけてしまって、申し訳ありません。
イエスさまとあなたの間に割って入ってしまったのだと反省しています。
主にも謝りました。迷惑を掛けてしまったと思っています。」

その後は、不思議な平安を主に頂いて眠ってしまった。その後PCのディスプレーが映らなくなって、携帯を持っていない私は彼と連絡がとれなくなってしまった。
翌日の午後、「明日の飛行機のチケットは取れないので今日帰る。」という一方的に話す彼の電話を受けたあと遅くに元気な笑顔で戻ってきた。

 彼は着替えもそこそこに、千歳空港に向かう電車のトラブルで搭乗がとてもきわどい状態であったことなどを興奮して話してくれた。
貴重な写真を沢山撮ることが出来て満足そうであり、「スリルの無い旅なんて、スパイスのない料理のようなものだよね。」なんて無責任な私の言葉にも笑っていた。

 主はいつもすべてを益としてくださる。憐れんでいてくださる。味方である。どんなことがあっても私はそのことを疑わない。事が成らないのには、必ずそこにも主のご愛があるからだと知っている。
一日早く戻れたことですっかり疲れを癒し少しは写真の整理も出来た。トワイライト・エクスプレスにはまた乗れるだろう。
本当は、妻を得てカップルで乗れることを願うけれど・・。その前に私は息子から旅立たなければ・・彼は自由に妻を決められないね。
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2010年

2010-01-07 10:11:23 | Weblog
 行き詰まれば方向を変えて進もうと思った。当たり前のことだけれ、進む方向は決して元のエジプトではない。
本当は真っ直ぐに進み続けたい。だから、方向を変えるには信仰による勇気が必要。でも、このほかに今、私には道がなくなってしまったのだから・・。

水の流れが水路に沿って流れるように、あちらに行き詰まればこちらに進み、こちらにぶつかればそれを避けて流れる。それはとても自然にそうであって美しい風景となってゆく。
道を開かれるのは主。先立つ雲の柱、火の柱。

 一体お前は何処に行こうとしているのか、と問われれば「主のみこころのままに・・」としか答えられない。そこは、イエスさまの備えてくださった所。
今私には、まるで先が見えないから暗闇に向かって行くようだけれど、みことばは私の足のともしび私の道の光。
光はやみの中に輝いているから・・やみはこれに打ち勝たなかったから・・。このやみは必ずあけぼのを見るだろう。

 みことばは、私にはいつも今を生きるための導きだから、日ごとの「今」をみことばによって生きよう。それが繋がった時にできあがるもの、それが「主の作品」でありますようにと願いつつ・・

 
「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」(マタイ18:20)
此処が私の居場所 ハレルヤ!
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新年おめでとうございます

2010-01-01 12:12:55 | Weblog
 昨年は年明けと共に主人の目の手術が待っており、不安を持ちつつ、主に飛び込むようにすべてをお委ねして出発した。
年寄りには重責の隣組の仕事も、そのことを通して今までふれ合うことのない人々と、少しの良い関係を築くことが出来るようにもなった。互いに笑顔で「ご苦労様」と話しかけ、親しくなることができたことは、支払った気苦労以上の嬉しい収穫だった。

こんなことがなければ何の接点もなく、互いにほとんど無関心なままで終わっていただろう・・。近隣にいて無関心な関係ということの恐ろしさをに、気づかされたことが大きいのかも知れない。
住まいとする地域は主が置かれた場所であり、主にあって私のテリトリーなんだから無関心はあり得ないことであろう。

 親しい関係が多くなるということは悩みも多くなり、煩雑にもなり、そこで自分と言う者の不信仰、冷淡さ、短気や、無力さを幾度も味わうことになるけれど、そんな中でひとり格闘をしてゆくのも、それはそれで成長に繋がるのかも知れないから・・。
目を背けていては成長はないだろう・・。この歳になってやっと本気になるなんてあまりにも・・いや、主の導きには遅すぎるということはないのだから。

 もう一つ主がくださった関係の修復、とても親しいくしていたのに、ちょっとした気持ちのずれから行き違ってしまったまま年月が流れ・・そんな関係が意外な方法でしかも自然に、互いに待ちかねたというふうに修復されて行くのを経験した。それはもし私の方法を押し通していたら得られなかったことだった。主にお任せしてぎりぎりまで待った結果だった。

 
 この年の暮れ私は息子の風邪を貰ってちょっとした熱を出してしまった。元気でもおせちの準備には忙しいのに、30日に出勤する息子の朝食を準備をした後寝込んでしまった。それでも31日にはずいぶん楽になって、ほどんど例年通りにおせちをお重に詰めることができて嬉しかった。

そうして年越しそばを食べるというところまでは家族仲良くやってきたのだけれど、主人が手を付けたお風呂の掃除を、息子が横から奪ったことで主人が切れた。
「俺がやっているのに、あいつは俺のすることが気にいらんのか!」と私に向かってどなったことで「私は関係ないでしょう、私がさせたことでもないのに。なんでいつでも私に言うの。」と私も言い返す。私もぎりぎり疲れていたということ。

 それでも、お風呂上がりの息子に「お父さんに、『ごめんなさい。お風呂に入ってください。』と言っておいて。」という。
息子は自分の職場での苦労も話して、「お父さんを傷つけたことは分かるよ。私も職場で、一生懸命やっていた仕事を横から取られてしまうことがあるから・・でも、それは効率第一主義だからなぁ・・」人の心を省みるには、いろいろな余裕が必要であることを話して大晦日の夜は過ぎてゆく。
私は遅くまで待っていたけれど主人は寝してしまったらしい。

 生きているからいろいろなことが絶え間なく起こる。疲れもするし、病みもする、失敗をしては落胆もする。
怒らせたり、励ましたり、慰めることもあるけれど、心ならずも傷つけてしまったり・・。でも、それが生きると言うこと。そんなふうに生きているのがヒトという生きものなんだ。

そんな私たちを愛される主。そんな私たちを覆っていてくださる主。あなたが居てくださるからなにがあっても大丈夫。ただ、あなたにあって安心をして生きることができる。

 新しい年も同じ事を繰り返すだろう、でも、主の導きの中で少しずつ成長してゆけるなら希望のあることだと心が弾む、それはいくつになっても若者と同じ。
平凡な日々の中にも今年は新しいことが起ころうとしている。それは主が計画されていること。私は恐れずに勇敢に主に向かって飛び込もう。だって、主にあってはいつも退路は断たれているのだから。

 
「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」(ルカ9:62)

「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」(イザヤ41:10)
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