石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

吉野で礼拝

2009-11-30 15:35:47 | Weblog
 saltさんご夫妻が来てくださって家で集会を持てることはとても感謝なこと。家を主に用いていただける喜びは、五つのパンと二匹の魚を差し出した少年のような喜びかなぁ・・私はついつい、うろうろしてしまって後で息子に「じっと座っていろ」注意された。確かに聞き漏らしたことが多くて残念。saltさんごめんなさい。マルタになってはいけないなぁ・・。

 私が何かをしようと思うと、まず、すべてに主人の許可を必要とする。時間も制限を受ける。主人はお酒も飲まず、賭け事もせず、まじめ一方なので羽目を外したことがない。「あまり楽しくてつい・・」なんて言い訳は通じない。しかし、そのことは聖書から逸れてはいなことが感謝。

パウロは
「妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。」
「教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです。」(エペソ5:22.24)
「妻たちよ。主にある者にふさわしく、夫に従いなさい。」(コロサイ3:18)
と言っている。

 妻にとって夫に従うことは、時に非合理的で、バカバカしくて、窮屈で、理不尽である。でも、これってキリスト信仰そのものだということに気が付いた。だから、「キリストに従うように・・」なのだと。これは、決して時代によって変わることではなく、信仰を守るために、日常生活の中で主から受ける訓練なのだと。

 主が命じられる規制は、愛するゆえの守りであり、成長のための養育、そのことを守り行うとき、結果は主がすべての責任を取ってくださる。女が男よりも多くの規制を受けているということは、その弱さのゆえに多くの守りの中にいるということだろう。エバの失敗を繰り返さないようにと・・。

そう思えば少々の不自由さはむしろ安心につながっているのだと思え、家庭の平和を楽しむことになる。
そうこうするうちに「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」この主の約束の成就が、家庭や親族の中に広がってゆくことになるのだと・・。

 集会に来られていた姉妹は、洗礼のことについてsaltさんに話しておられた。彼女の恐れは良くわかる。信仰生活では主にあって、みことばによって夫に従うのであり、イエスさまに従うことはすべてに優先する。

信仰の順序において、夫に立ち向かう勇気が必要になることがあるけれど、それも後に振り返るとき、すべては家庭の祝福のためであったと知る、彼女を主はどんなときも守ってくださるけれど、初めにみことばへの従順を選ぶことは彼女自身に任されている。

出席してくださった長い間の友である姉妹は、ご自身の信仰生活を証ししてくださって、彼女を励ましてくださっていた。
saltさんはすべての言葉をみことばから導いてくださり、確かな神の約束をやさしく語ってくださって、「私たちの幸せは死んでからのことだけではなく、今この世で主と共に生きて幸せであること」この言葉が嬉しかったなぁ・・。

モーセの詩編
どうか、朝には、あなたの恵みで私たちを満ち足らせ、私たちのすべての日に、喜び歌い、楽しむようにしてください。
あなたが私たちを悩まされた日々と、私たちがわざわいに会った年々に応じて、私たちを楽しませてください。
あなたのみわざをあなたのしもべらに、あなたの威光を彼らの子らに見せてください。
私たちの神、主のご慈愛が私たちの上にありますように。そして、私たちの手のわざを確かなものにしてください。どうか、私たちの手のわざを確かなものにしてください。」(詩編90:14~17)
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紅葉はふかふかと・・

2009-11-27 19:33:08 | Weblog
 朝、妹から電話があって、紅葉がそろそろ終わりだから山に行かないかと誘われた。ちょっと戸惑ったけれど、これぞ気分転換と急いで洗濯物を干し、主人の昼食を準備、身支度して愛車(原付バイク)に飛び乗って、黄金色の銀杏の下を通り妹宅まで走った。

「私、足が痛むかもしれないので、散歩になるかもしれないよ」「アハハ・・まさか3歩?」「足の薬指一本で体全体が不自由になるなんてね」「じゃあ、単車でのぼる?」「そんなのつまらない。3歩でも10歩でも歩こう。ラジオでガン予防のために一週間に3時間歩けって言っていたよ。」
足が動くよりも口が良く動く。口なら一日3時間だってこなせるんだけれど・・・。

 「あれ、あの犬居ないね」いつも飴など与えてちょっと遊んでから登った、あの犬小屋もなくなっている。「死んだんだって」「・・ちょっと淋しいね。」と、いうよりなんだかとてもつまらなくなった・・。妹は猫のなっちゃんの思い出を話し、私は兎のとこちゃんの思い出を話しつつ、しっとりと朝露に濡れた落ち葉を踏んで登ってゆく。

「ね、ね、あそこのもみじ綺麗やろう・・この前の台風で根が傷んでね、去年はほとんど葉を付けなくて駄目だったけど、今年は綺麗に色づいているよ。」
木にもドラマがあるのだ・・回復する木もあれば、痛々しく病んだ白い幹を骸骨のようにさらして林立している桜もある。

「もみじをライトアップしているんだよ。ほら、」電球をいくつも木に向けてセットしてある。「可哀想に夜は木も眠りたいだろうにね・・」人間のどん欲で酷使されている。弱った桜の間にあるもみじまでと、ちょっと辛い光景。本当は桜も紅葉が綺麗なんだけれど、弱っているから色づかないうちに散ってしまう。

 
 それでも空気は清々しくて、向うに広がる山々は、緑や黄色、紅、オレンジ色のモザイク模様が広がっている・・しっとりと潤してくれる空気を感じつつ、紅く柔らかい落ち葉をゆっくりと踏みしめて登る時足の痛みもほとんど感じない。

どこからかエナガの群れがやってきて、紅葉の小枝をさかんに飛び交い小さな体で葉つついては散らしている。
妹が頬をふくらませてプーッと吹く。私も同じようにプーッと吹く。
「駄目だね。これも年の所為だね、若い頃にはこれで山中の紅葉を散らしたものだよ。」二人で笑い転げつつ・・神様のプレゼントを満喫した。
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祈られて

2009-11-26 14:45:59 | Weblog
 今日はすっかり体調も良くなって本当に感謝。祈っていただけることはクリスチャンの特権!先日、ブログに夢のことを書いてから、あの切ない夢を全く見なくなってしまった。「・・しまった。」というところに、ちょっと私の微妙なところがあるのだけれど、もっと今をポジティブに生きるようにという励ましだと思うことにした。
 

 息子に「お母さんは年寄りだから、罪に対して楽なんだよ。」と言われたことがある。彼の言わんとすることはわかるけれど、それは罪のごく一部に対してであり、誰であっても、罪は身近に絶えず待ちかまえている。罪人は死ぬまで罪人だから、罪から逃れることはできない。

肉の思いから言葉をコントロールできない事もある。オブラートをかぶせてやんわりと語っても、含まれている毒を主は知っておられるだろう・・。
自分を守ろうとする計算の数々も、裁き続ける心も、怠け癖ややっかいなことから逃げようとする思い。どれもこれも真っ正面から立ち向かったって勝てる望みは全くない。自分を少しの間偽ることはできても・・。

ただ主の守りの中で、「平安」を目印として今日を生きよう。間違ったときには、ざわざわと鳴る聖霊の警告を無視しないようにして。


裏山はすっかり秋色。静かな小春日の午後に、彩り豊かに木の葉はきらきらと風に揺れる。
主は、どれほどの豊かさを備えてくださっているのだろう・・
私は、どれほど知っているのだろう・・


御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。(ローマ8:26)
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体と霊

2009-11-25 18:07:51 | Weblog
 今朝、頭を枕から上げたとたん激しいめまいに襲われた。最近出なかったのだけれど、困ったなぁとゆっくり、そおっと起きあがり、酔っぱらいのようにふらつきながら慎重に階段を下りて、息子の朝食だけ準備をして再び床に入る。

10時頃に目覚めるとかなり落ち着いたので、近くの医院で薬をもらって飲む。それでもまだまだ体調は頼りない。でも、こうなるとかえってあきらめも付く。
実は、先週からしつこい蕁麻疹や、足の指の痛みなどで自分の思うようには動けないでいる。お医者さんいわく、「これらはストレスや過労」それは違うだろうと納得できない。

私は最もストレスの少ない立場であり、過労とも縁がないはず・・。
でも、これでもストレスだと言えば、ストレスのない状態になるためには死ぬよりほかなく、ということは放っておくよりしかたがない。時がくればなおるだろう・・私の体はそういうものなのだと、ちょっと不自由な時があるけれど、対処療法があるのだからそれで良いと思うことにした。

 動けなくなると静まることになる。そこで今日は、先日から読み返したいと思っていた「キリスト者の標準」を読む時間ができて、とても恵まれた時を過ごすことができた。
 
 
「ヨハネの第一の手紙『御子イエスの血が、すべての罪から私たちをきよめるのである』
この罪とは包括的な『あらゆる罪』ではなく、犯した『一つ一つの罪』を指しています。ここに、目を見はるべきことがらが隠されています。神は光の中におられるので、私たちが神と共に光の中を歩めば、すべてのものが光に照らし出されます。したがって、神はすべてのものをごらんなることができます。しかも、その血は、そのすべての罪からきよめることができるのです。」とあった。

 神の光の中で、その360度の光の中で、私の罪はすべて隠れることなくさらけ出されており、明確な罪も、罪の意識さえないものもその一つ一つを、イエスさまが十字架で流された血潮によって、きっちりと罪の対価が支払われていること、あがなわれているのだということに改めて思いが至った。
そうして、その事はこれからも絶えることなく、御国に行くまで繰り返されてゆくのだと思い、改めて深い感謝の時を主の御前に持つことができた。

 
「こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。」(ヘブル10:19)
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信仰③

2009-11-19 16:18:33 | Weblog
 アブラハムがイサクを捧げる決心をしたとき、アブラハムはイサクを焼くための薪とイサクを殺すための刀を持って山に登った。その準備を始めたときに、アブラハムの思いの中ではすでにイサクを殺し、全焼の生け贄としていたのだと思う。そうでなければそんな準備はできないから。

「神ご自身が全焼の生け贄を備えてくださる。」という告白は、「だから何も心配はいらないと信じる。」ということではなくて、「最善の主、真実なお方の方法に、完全にお委ねしていれば良いのだよ。」ということだと思う。事実、彼はイサクに刃物を振り下ろそうとした。

 主の方法に従順するには、私にだって死の経験が必要。それは自分で選び取るので自殺のようなもの。十字架の恥と嘲りと損失の覚悟が、たとえどんなに小さな事柄であっても必要になる。だって、そんな選びは世の人にはただの馬鹿にしか見えないことだから・・。

そのようにして捧げ、「後のことはどうぞよろしく」と主の最善にすべての望を託すことが、「主の山の上には備えがある」の信仰だと思う。
 
 アベルの捧げものは、初子のそれも最良のものだった。どれほどにか愛着があっただろう・・それも「最良」は唯一でふたつとはないもの。アベルにとってはかけがえのない大切な子羊。大切なものだから主が求められるのだ。かけがえのないものだからこそ主に捧げる価値がある。

イサクも子羊も主ご自身が備えてくださったもの。そうして、ひとり子イエスさまを・・。


「今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。それはあなたがたを、聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためでした。ただし、あなたがたは、しっかりとした土台の上に堅く立って、すでに聞いた福音の望みからはずれることなく、信仰に踏みとどまらなければなりません。」(コロサイ1:22~23)
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問題②

2009-11-13 15:10:55 | Weblog
 困難な問題だと思っていた。覚悟が必要だと思っていたけれど、そのことは、疎遠になっていた人の助けが得られ、結果その方をも喜ばせることができて、途切れていたひとつの人間関係が回復するきっかけとなって終わった。

 日が迫り、問題が差し迫ってきても一向に動きのない主人に、今までとは違う解決を主が私に導いておられると感じた。今までは、問題を主人に完全に委ねると決めると、それは主人によって自然に動いて行った。私は黙っているだけで良かったけれど、今回は手放すだけではなく、よく話し合いつつ進めることが求められていた。放っておいてはいけないと・・。

でも、その方が難しい・・。問題を真っ正面から見て、主人の願いを大切に、リスクも承知の上で、みことば第一、イエスさまに仕えるように主人に仕えつつ、問題に介入して事を進めるとは・・。その時、私は自分を治めなければならない。損得ではなく、賢さでもなく、この世のものではない価値によってこの世のことを処理するなんて・・。

それらの問題のど真ん中で思い知らされたのは、本当に私は肉の者で、自分の中にあれこれと言い張りたいものを握っているということ。それは非常に執拗だということ。
でも、主はみことばによって導いてくださった。主は、親切で忍耐強く、私を待ってくださり、何度でも何度でも教えてくださるお方。

 キリスト者に起こる問題は何のためなのか、あれこれの困難は何のためにあるのか・・それは主と交わるためにあるのだと。その度にみことばを頂いて、主を新しく知るためにあるのだと。もっと深く、もっと新鮮に・・聖書は誰にでも同じだけれど、その学びはその時私だけに準備された個人授業。なんという贅沢だろう!

問題は結局なんの損害を被ることもなく、数年来のイライラから解放されるという結果となった。
でも、終わってみればそんなことが嬉しいのではなかった。主に新しくお出会いしたことが何よりの喜びであり、主人に対して穏やかに話し合うことができたことに私の勝利がある。問題に対して、イエスさまが主人に平安を与えていてくださり、主人もイエスさまに終始信頼をしていた様子が、今、私の心をほっかりと暖めている。


「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。」(ガラテヤ6:14~15)
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夕食

2009-11-07 10:31:39 | Weblog
 旬に冷凍しておいた剥き栗を熱湯に通し、冷凍特有の臭いを取ってざるに上げておく、人参は銀杏に切り、油揚げも熱湯に通して細く切る。そうして主役の舞茸を適当に切り、洗い上げた米に出汁を注ぎ入れて水加減。味を付けるのは炊く直前、ちょっとそのまま米に出汁を吸わせておこう。これで準備OK。

この出汁は丁寧に自家製の干し椎茸と、昆布と削り節から取ったもの。いつもこのように出汁を取るわけではないけれど、化学調味料では絶対出せないコクがあって、味の違いはすぐに分かってしまうからできるだけ一手間かけるようにしている。
しかし、削り節が高くなったなぁ・・以前は特売もあったのに最近はまったく無くなってしまった。わざわざ出汁を取る人が減ったことも関係があるのかもしれない・・。

豚ヒレ肉をちょっと厚めに切ってトンカツの準備。この肉は特売で安く買えた。国産だということで安心して買ったのだけれど、最終的にはお店を信じるほかなし。
ちょっと肉を延ばして塩、胡椒、小麦粉をはたいて、溶き卵、油をあまり吸わないと言うパン粉。量がしれているので短時間でできた。

 しかし、このように書いていくといともスムーズに仕事をしているかのようだけれど、実際は歳と共に、慣れた仕事なのにやたら時間が掛かるようになってしまって、その度に、そんな自分の疎さにイライラしてしまう。

でも年を取ったからだと、現実に起こっていることを認めなければならない。手際が悪くなって仕事が遅くなってきたこと、力が無くて布巾をキュッと絞ることがちょっと大変だったり、瓶のふたを開けるのにわざわざゴム手が必要だったり、目の端に入らなくてコップをひっくり返してしまったり、落ちると分かっても即座に手が出なくてみすみす割ってしまったり、動作が鈍くなって本当につまらない失敗をする。そしてその後始末にまた時間がとられる。

 個人差は大きいと思うけれど、自分自身の老化は否応なくわかる。解決はあっさり現実を受け入れて、だからどうしようかと対処法を考え出すしかない。
どんな対処法を考えても、今までより余計に時間が必要になったことは事実。だから、私は若い頃よりも時間が無くなってきた。だから、ついつい焦ってしまう。もっと落ち着いて、やりたいことをするための時間がほしい。このことについて祈ることが、今いよいよ必要なのだろうなぁ・・。

 夕食は秋色の吹き寄せご飯。トンカツは息子だけにして、老人は目刺しと、もやしいため。大根と小芋、人参、榎茸のおみそ汁にする。どうも重くて、トンカツは食べる気がしない・・念のために主人の意向を聞いたみたが同じだった。

栗はほんのりと甘くて、餅米を混ぜたご飯はとても美味しかった。舞茸はほんとうに良い味が出るなんて話し、息子はまだ仕事をしている頃だろうとちょっと同情しつつ・・外はもう真っ暗。
日中はとても暖かかったけれど、夜には冷えてくるだろうと風邪気味の息子を思い・・それでも今日も穏やかに暮れたことに、心からイエスさまに感謝。
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2009-11-05 14:13:01 | Weblog
Aさんからお電話があり「また、お話が聞きたいから・・」ということで午後の約束をする。そんなときいつでも私の心はちょっとわくわくする。食事の後、学びのための準備をして、ちょっこっと部屋を整えて待つ。

しかし、最近はいつも振り出しに戻っている状態で、再び以前に話した内容の繰り返しばかり・・、今日もやはり同じ事だった。彼女が準備をして来るものは、宗教や信仰に関する議論ばかり・・。

「イエス・キリストを神の子と信じますか、十字架でイエスさまが『私の罪をあがなってくださった。』と信じて永遠のいのちを受けますか。と言うことよ、どうする?」と私が聞くと、「信じるようになるために、話したり、聖書を読むんじゃないの?」というが「イエス・キリストを信じたくて求めている。」という清いものは感じられず、
アテネの人々が宗教の議論は楽しむけれど、復活の話をパウロがすると去って行ってしまうという聖書箇所を思い浮かべてしまう。

彼女は現在すべてに満ち足りている。
初めて出会った頃はもっと懸命に生きていて、イエスさまのお話も真っ直ぐに届いていた。彼女は以前よりも今は豊かになって、生活の余裕も得て、すっかり自分に満足して賢くなってしまった。そして、私の愛していたものを失ってしまっているよう・・。

「あなたにとって、この事は何?趣味?」と聞かれた。私は、「仕事。だからこのことだけは私の好きな人にも、そうでない人でも、頼まれたら誰にでもお話しすることにしている。収入にならない仕事だけれど、かけがいのないほどの価値のある大事な仕事。」と答えた。

彼女は、「確かに・・あなたは昔から、何時電話をしても断ったことがなかったね。」と言って突然涙を流された。そうだった・・夕食時に、「会社の帰りに寄っても良いか」と電話がかかってきても、「休みなので午前中に来てほしい」といわれても、チャンスがあれば喜んでイエスさまを伝えてきたことなどを思い出した。

でも残念なのは、彼女の涙がイエスさまへの感謝の涙だったらどれほど嬉しいことだろう・・。その涙はどれほど清い涙だっただろう・・。

 
「神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。」(Ⅱコリント5:18~20)
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問題

2009-11-02 18:33:24 | Weblog
 みことばを開き、祈り、今日はどうしても解決を得るまで此処から立ち上がれない問題を抱えている。
みことばと祈りによって、主にあって解決しなければならないこの世の問題。
みことばに従順するには、愚かにならなければならない。私は賢くはないけれど、少しの知恵があり、人の考えていることや企みが少しは分かったりする。
だから、その少しばかりの知恵をかなぐり捨てて、さっぱりとみことばに従順するには、ちょっとした格闘が必要になる。
主との遣り取りが必要になる。私の中途半端な愚かさのゆえに・・、中途半端な信仰のゆえに・・。

賢さよりも愚かさが、得をすることよりも損をすることの方が、十字架に近いような気がする。なによりも、みことばに従うには愚かでないと従えないときがある。損を覚悟でないと従えないことがある。

何を愛しているのかと問われる。「主よ。あなたです。」と答えるなら、捨てるべきものが何であるのか答えは自然に決まった。

 正しく裁かれるお方にすべてをお任せしよう。そう決めたとき、私はやっかいな問題から解放された。
どんなことでもすべては主と私自身の問題。誰の所為でもない。誰がどんなに悪かろうがそんなことはどうだってよい。主は生きておられる。そのことを私が信じるかどうかということ。
そうして、すべての問題を通して私は主の導きの中におり、すべては主への応答になるということ。
腹を括って聖書を閉じ、祈りの場を立った。

 今までは、信仰を通して本当に多くを得た。これからは少しばかり成長して、失って行くことを、信仰の中で経験をしてゆくのかな・・などと思いをめぐらせていたけれど、なんとその後、次々と受ける事が続いて、「アラ、アラ、まだまだ私はイエスさまから見たら赤ちゃんみたいな者だった・・」と、私はちょっと微妙・・。
 
  
主は御霊です。そして主の御霊のあるところには自由があります。私たちはみな顔の覆いをとりのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに御霊なる主の働きによるのです。Ⅱコリント3:17.18
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