石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

居場所

2009-10-30 16:10:30 | Weblog
この間息子とちょっと議論になった。
創世記4章、カインとアベルの兄弟の捧げ物の箇所。
彼は、「カインはアベルをねたんだということは、それだけ神を愛していたということではないのか、聖書にも、『冷たくもなく、熱くもないよりは、冷たいか、熱いかであってほしい。』って書いてあったろう」と言った。私はそれはちょっと違うと思うと・・。

「アベルは彼の羊の初子の中から、それも最良のものを、それも自分自身で、持って来た。主は、アベルとそのささげ物とに目を留められた。」
主はアベルの行為とその捧げ物とに目をとめられた、ということだと思う。捧げ物だけを見られたわけではなくアベル自身をも見ておられた。

「だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。そこで、主は、カインに仰せられた。『なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。』」

主はカインに、正しいことは何かと教えておられ、自分自身の罪を治めなさいと言われた。謙遜になりなさいと・・。でも、カインは自分の罪を治めることなどできなかった。このことには人のどうしようもない罪の深さ、その罪の性質がのぞいてみえる。十字架であがなって頂くほかどうしようもない、自分では治められない罪を持ってしまった者の悲哀・・。

カインの神様への愛が本当にねたむほどのものであったなら、そのことをもって神様はカインを見られただろう。でも人は、愛していなくても自己中心からねたむ者なのだから・・。
しかし、主はカインを「命には命」とは裁かれずに守ってくださったことから、カインの中に幾らかの主の愛を慕う思いを酌まれたからなのかもしれないと思う・・。

もっとも大切なことは、主が私に何を望んでおられるのかをわきまえ知ること。これは「カインとアベルのどちらが神の愛を勝ち取るか」という競争の物語ではないということだと思う。
ねたむ必要もなく、ねたまれることを恐れてもいけない。恐れないで主が立てられたところに着くことはとても大切なこと。自分で自分の価値を決めないで、人と比べて決めないで、すべて神のみこころに委ねることこそが救われた者居るべき場所だと思うから。
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水の上を歩く

2009-10-29 12:06:34 | Weblog
 火曜日の人とみことばを共に開くとき、私が初めて気づかされることがいろいろとある。
彼女がよく感動されるので私も触発されるのかもしれない。

今日は、マタイ14章後半。イエスさまについて行った群衆を、イエスさまは飢えさせなさらなかった。信仰の中身を問うこともなく平等に十分に養われた。このことの主の豊かさ!それも、この世のもの、信仰者の小さな小さな捧げ物(でも、捧げた少年にはすべてだった)を主が祝福されると、それはどんなにでも大きなものとなり、無限と思えるほどの、多くの人を養うことができる。
主が共にいてくださる時、私たちはすべてに飢えることはない。愛にも食べ物にも着物にも、すべての必要は満たされる。


 弟子たちは、暗闇の嵐の湖で波と戦って疲労困憊し、水の上を歩いて来られたイエスさまを幽霊だとおびえてしまった。私にはこのことはとても良くわかる。
だって、イエスさまと一緒なら何も恐くはなく、いつも平安があるけれど、世の荒波、吹き付ける風ばかりを見ていると、混乱しておびえるようになってしまう。まだ何も起こっていない将来を悲観したり、人の顔色を伺って自由を失ったり、枯れ尾花さえも幽霊だと恐れてしまう。ここに脅しがあり、すべての宗教が入り込むのだと思う。
でも、イエスさまにしか平安はない。十字架にしか解決はないから。

 ペテロは、今までとはまったく状況は変わらない嵐の暗闇の中で、イエスさまの御声を聞いただけで勇気百倍になってしまった。それがイエスさま!それこそ信仰。
ペテロは即座に挑戦して「水の上を歩かせてください」と願った。そうして、事実嵐の湖の上を歩く経験をした。舟から、暗闇の荒れ狂う水に降り立つペテロを想うとき、信仰の無限の力をうらやましくも感じる。

彼は結局風を見てしまって失敗をするけれど、主は御手を伸べてつかんでくださる。必ず主はつかんでくださるお方。倒れても、沈みそうになっても恐れることはない。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」そんなお言葉も叱責というよりも、憐れみに感じてしまう。だって、誰でも人は信仰の薄い者、そんなことを主はとっくにご存じだから・・。信仰さえも主から頂くものだから。

見ていた弟子たちの「確かにあなたは神の子です。」という告白と、実際にイエスさまの力強い手でつかまれたペテロの告白とは違うだろう。聖書から得ただけの知識と、人の証を聞いただけの知識と、失敗をしながらも自分自身で実際に体験したイエスさま経験とでは違うと思う。
イエスさまは、付いて行く時、誰にでも満腹するばかりに必要を満たしてくださるお方だから、ペテロのように、その御声に我を忘れるほどの喜びをもって応答したいと願った。
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「Windows 7」だよ

2009-10-28 15:04:59 | Weblog
息子が「Windows7」を土曜、日曜のほとんどを費やしてインストールしてくれた。まず第一印象は、「綺麗だね」独特な透明感のある明るい画面。次は「滑らかだね」ページがすべるように開かれてゆく。
でも、ちょっと使ってみたら違和感を感じた。息子曰く「慣れるしかない」とのこと。字体が変わったからか・・雰囲気が違ってしまった。

でも、でも、息子は大変な労力を費やしていたんだから、彼には感謝はしている。インストールが終わったということで、土曜日にPCを立ち上げようとスイッチを入れたところ遅かった!これはどう見ても前のXPよりも落ちている。こんなのってないだろうと、よく考えもしないで「これ変だよ。遅いよ。」と息子に言ってしまった。

それから、彼の試行錯誤。日曜日もほどんどPCに縛り付けられた状態。さすがに私も「いいよ、いいよ。無理をしなくても。私は1週間くらい使えなくてもどうってことないから、少し休めば・・」と言ってみたけれど、そんなことで止める子ではないことは分かり切っている。
さすがに反省。明日からまた、仕事で疲れるだろうに・・と。
私はだいたい、いい歳をして考えてものを言うとことができなさすぎる。事実だからと空気も読まず人の気持ちを考えもせずに、ズバッと言ってしまうんだから・・。

それでも、完全な状態で使うことができるように月曜日には完成していた。不調の原因は「マザーボードの設計に欠陥があって完全に動かなかったんだ。」とのことだけれど、それがなぜ動くようになったのか、説明を聞いてもよくわからん。ただ、立ち上がりも速くなり、動きも滑らかになったことは事実。
「すまなかったね。」というと「いいや、これでWindows 7が良くわかったからいいよ。必要なことだったから・・」と言ってくれたのでホッとする。

うまくいかなくなった時、まずはお祈りから始めるべきだったと、彼を誘ってお導きと祝福をお祈りした。けれども、それからも延々と時間を要し彼は苦闘していた。
私は為す術もなく、はらはらとその背中を見ていただけ・・。

主はすべての知恵をもっておられることを私は知っている。イエスさまは最高の教師。だから、お祈りをすることによってすべてOK!私の考え方はものすごく単純なのだけれど、事実はこのように、それほど単純じゃないのかな・・。彼はいつもいつもこのように、祈りつつも会社で苦闘しているのかな。そんなことを、先に入った布団の中で眠れないままに考えていた。

終わったときに彼は「良かったね、イエスさまに感謝だね。」と言った。その言葉が私にはとても嬉しかった。彼がそのように謙遜に導かれたことが嬉しかった。お祈りをして始めることは、この謙遜をいただくためだったことに気づかされた。やはり、イエスさまは最高の教師。
いつでも祈りからすべてのことを始め、すべての出来事の中にイエスさまの授業を受けてゆく幸いを、これからも私たちがいっぱい経験できますように・・。
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「帰りたい!」

2009-10-22 13:49:05 | Weblog
私はよく夢を見る。それはいつも同じパターンで同じ結果。
夢の中で私はたいがいとても焦っている、埃っぽく広い田舎道で、来ない帰りのバスを待っていたり、
電車の中で、乗り換えを一生懸命に考えていたり、ホームで切符を買おうと右往左往していたり、うろ覚えの道で、帰るべき方向を探し回って歩き続けていたり・・、

たまには、来た乗り物に乗れないこともある、それは一緒にいたはずの息子を見失ってしまって乗れないからだったり・・。
あまりにも多くの荷物を持っていて乗れなかったり・・。

毎晩のように見る夢は、細かい設定は違うけれど、いつもいつも切なくて、目覚めたときはとても悲しいのに、寝るときは再びそのような夢を思って眠りに落ちてゆく。
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十字架の重さ

2009-10-20 11:13:19 | Weblog
 イエスさまは十字架を負ってくださった。神様の私たちへの良きご計画の成就のために。イエスさまが私の身代わりとして、罪を負って罰せられてくださったという、その十字架の事実を信じた時、私は、造り主である父なる神様に「お父さん」と祈ることで出来るという驚くような交わりを知った。そして、サタンに過去や今日の罪を責められ、どうにもならなくて罪の中に縛り付けられている自分自身というものから解放され、私の良心が責める痛みからの回復も頂いた。

 けれども、私はイエスさまのその十字架を知らない。どれほどのイエスさまの苦痛が支払われたのか、痛みが支払われたのか、そのことを私はまったく知ることができない。
罪の中に生まれて、罪を持って生きている私には、罪をまったく経験されたことのないお方イエスさまに、私の罪がどれほど深い痛みとなったのか、どれほどそれはおぞましいものであったのかを想像することは出来ない。

まして愛する御父に、身代わりに負った罪ゆえに捨てられなければならなかった時の恐怖を、どうして私なんかに想像することができるだろう・・。
御父の悲しみも、御子の苦痛も、私は何も知らないで、脳天気にその実を日々食しているだけ。

 でもね、妻が苦痛の中で子を産むとき、たとえどれほど側にいても夫はその苦痛を知ることはできない。彼に出来ることは妻と共に、生まれたいのちを喜ぶこと。共に育て、その成長を共に喜ぶこと。妻にとってもこれこそが、産みの苦しみに報いてくれる一番のことであるから。

 主の十字架を私は知ることはできないけれど、主が与えてくださった新しいいのちの日々を単純に喜んでいる。絶えず思いの中で祈り、主との交わりに居らせて頂いている。だから今は、すべてのことを無条件に感謝せずにはいられない。
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転んだこと

2009-10-19 18:47:51 | Weblog
 教会に行くには三つの駅で乗り換えをする。その3駅とも電車はもう着いているので、階段を走り上って、通路も小走りでないと間に合わない。だから、いつも最も都合の良いドアの一番前に陣取って、飛び降りるようにして駆け出す。

 昨日は、開いたドアから飛び出して走るつもりが、降り立った足にまったく力が入らず、そのままたたらを踏むようにホームに転がってしまった。恥ずかしいよりも、自分の体を自分の意志で支えられないことの怖さを思い知った。

膝小僧を見て「ズボンが破れていない」とほっとし、立ち上がってみるとしっかり立つことも出来たし、痛みもなくて、投げ出されたリュックを背負い直して、声を掛けて下さったおばあさんに頭を下げ「大丈夫です。おおきに!」と言って、乗り換えのホームへと階段を駆け上り無事に乗り換えに間にあった。

 電車の中で、次の乗り換えにちょっと恐い思いが頭を過ぎったとき、
「主が~わたしの手をとって~くださいます
どうして~こわがったり~逃げたりするでしょう~」
賛美歌が心の中に広がった。「ああ、そうか!」今も、真っ逆さまに倒れはしなかった。ちっとも怖がることはないと平安が戻ってきた。

 でも、今日は初めから体がなんだか頼りなくて、足にも、ずうっと違和感があった。私の怖がるべきはこのこと。
最近、血圧が不安定であり、でも何かと忙しくちょっと疲れ気味だったから、何もしたくなくてウオーキングも怠けていた。そのことがきっと禍しているのだろうと、主がそのことを警告されたのだろうと気づいた。

 メッセージで語られた言葉の中に、私たちが失敗をして低いところに落ちても、主はもっと低いところに降りてくださって、私たちの失敗を受け止めてくださると語られていた。私が転んだとき、主はもっと低くなって私の体を受けて下さったのだと、嬉しさと平安が静かに心に満ちた。

だから、今日はいつものウオーキングコースを歩いた。カラッと青い秋空を見上げつつ、なだらかな坂道を登って行った。年を取るとちょっとしたことで体はガタンと弱る。自分を甘やかさないようにしなさいと言われたような気がした。
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間違いのお詫び

2009-10-17 09:34:06 | Weblog
「力」の記事に二カ所、聖書箇所の誤りがあったことをお詫びします。
訂正致しました。
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2009-10-16 11:01:39 | Weblog
バプテスマのヨハネは、何の「力」を使うこともなく、本当に主の靴のひもを解く値打ちもない者のように、他人の色ごとに口を挟んで牢に繋がれ、少女の踊りの褒美として首をとられてこの世を終えたのである。
母エリザベツの年老いてからの奇跡の懐妊を知っている者には、なんともその人生はあっけなくさえ思える。

しかし、イエスさまは彼を評価された。イエスさまの評価!これこそキリスト者にはすべてだと思う。
なんと彼の首をはねたヘロデは、イエスさまの噂を聞いたとき「あれはバプテスマのヨハネだ。ヨハネが死人の中からよみがえったのだ。だから、あんな力が彼のうちに働いているのだ。」と言っている。

ヨハネを軽んじて殺したのではなく、彼を恐れて殺したことがわかる。奇跡を見たわけでもなく、ヨハネはただ間違っていることを「間違っています。いけません。」と言っただけなのに、権力の頂点にいる国王ヘロデは、何を見て恐れていたのだろう。

 
「また、ほめられたり、そしられたり、悪評を受けたり、好評を博したりすることによって、自分を神のしもべとして推薦しているのです。私たちは人をだます者のように見えても、真実であり、人に知られないようでも、よく知られ、・・・」(Ⅱコリント6:8~9a)

とある。知っていてもヨハネの首を刎ねたように、その人の中にイエスさまを見ていても、人がそのことを恐れて切り捨てるなら、私たちの伝道は、ヨハネのように、「はい」は「はい」と言い、「いいえ」は「いいえ」と言う他ない。

 ヨハネの中に力を見せなさった方は、私たちイエスさまの御救いを受けた者にも主の御力を現していてくださるだろう。
それは過ぎ去って行く時の中の、人を集める手品師のような見せものとしてではなく、平凡な日々の中で、人の心の奥底に焼き付いてゆく、共に居られるキリストの証だろう。

 
「あなたがたに言いますが、女から生まれた者の中で、ヨハネよりもすぐれた人は、ひとりもいません。しかし、神の国で一番小さい者でも、彼よりすぐれています。」(ルカ7:28)
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至福の時

2009-10-12 20:08:22 | Weblog
 妹が、オルガンコンサートに誘ってくれた。チケットも買ってくれて、姪がザ・シンフォニーホールまで案内してくれるから大丈夫だという。妹は去年も行っているのに、案内がないと不安だと言うからやはり私に似ているのかも・・私はすごい方向音痴だから。

 何かと忙しい日々が直前まで続いて疲れており、風邪気味で体力的にも心配だったし、次の日には地域の溝掃除の奉仕があることも気がかりだったけれど、不思議とよく眠り元気に朝を迎えることが出来た。土曜日だったからその日の昼食と夕食を作り、日曜日の献立も考えて準備をして、それでもスムーズに出かけることが出来た。

旅行や、ご馳走にはあまり興味はないのだけれど、数日前からわくわくと楽しみにしていた。最近の、忍耐を必要とする様々な用事も、この人参を前にぶら下げられていたから、心にちょっと張りをもって望むことが出来て感謝だった。
本当に、こんなに出かけるのが困難なのに行こうと思うのはコンサートだけ。特急電車に妹と並んで座ってのおしゃべり三昧も楽しいけれど・・。

 私はパイプオルガンは初めて。そんな中で「オルガンの側で聞きたいなぁ・・引いている手が見えるところで・・」なんて妹に話していたけれど、まさかそれに近いことが実現するなんてその時は思わなかった。

姪が駅で待っていてくれて、彼女が予約してくれたお店で一緒に食事をする。ヘルシーな蒸し料理。これは興味があったので参考になると嬉しかった。今度、自分でもやってみようと・・。

 ホールの前で姪とは無情に別れて一目散にホールに・・席の案内を聞いて「えっ」と言う感じ。一番前の端。その時は「良いのか悪いのか・・」と、とまどったけれど、いよいよ、ホールが暗くなり演奏が始まったとき、私の希望がすべて叶えられていたことに気づいた。スポットライトが照らオルガニスト土橋薫さんの手元が間近に見える、指先まで見える驚き!

妹が「頭を後ろにもたせると楽だよ」とささやいてくれたので、まるで我が家に居るようにくつろいで聴くことが出来た。誰にも気を使うことのない空間で、ゆっくりと圧倒するパイプオルガンの迫力に浸ることが出来た。

オルガニストの両手が止まっているのに、低音のメロディーが流れて「?」と、妹を見ると「足で引いているよ」とささやいてくれた。そんな気楽さの中、思いっきりのびのびと楽しむ。
マイクも付けないで歌う片桐仁美さんのアルトは、全身が迫力に満ちたすばらしい楽器だと感動しつつ、原語で聖書の歌をうわれたとき、その静かな調べから詩編23編を歌われていると感じた「主は私の羊飼い・私は乏しいことがありません・・主は私を緑の牧場に伏させ・・憩いの水のほとりにともなわれます・・」みことばが溢れてきて、みことばとともに歌は終わった。

ヘンデルの劇場のオルガン
バッハのオルガンと祈りの調べ
ということで組み合わせも多彩で楽しく、最後の「パッサカリとフーガ」は圧倒的で、身を起こしてのめり込むように聞いてしまった。

 帰りの電車の中で「何だかとても疲れたね。」を連発したのは、二人ともやはりもう年なんだろう。どんなに楽しくても疲れる。心地よい疲れだけれど・・、沢山もらったパンフレットを見ると、「ああ、これも聞きたい。すごい!イ・ムジチの四季!聞きたいなぁ・・」「そんなん明後日やでぇ、行けるわけない。第一チケットなんかもう無いよ」と、火を付けた人にぴしゃりと押さえられた。
知らなければそれまでだったけれど、知ってしまったら際限なく欲望は膨らむものだと改めて思った。

妹を通して、神様が準備してくださった至福の時を堪能したのに、もっともっとと言うものが私の中にもいる。うずらをむさぼり喰うものがいる。せっかくの主の備えを台無しにしたくない。
ああ、主よ。感謝します。あなたの恵みは本当に私に充分です。あなたがいてくださいますから!あなただけが本当に私の必要のすべてを満たして居てくださいます!
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忍耐

2009-10-07 14:07:50 | Weblog
 今日もいつものように火曜日の女(ひと)とみことばを開く。
彼女は今、苦しんでいる人が身近におられて、何時もいつも救いを求めて相談を持ちかけられるという・・。その苦しみは彼女も経験して来られたものなので、イエスさまによって癒されたことをお話して「イエスさまのことを聞きなさい」と強く勧めているけれど、「そんなことで良くなるわけがない」と聞く耳を持たないことに苛立っておられた。

お気持ちはとてもよく分かる。私だって思うようにイエスさまを伝えられないことに悩んできた。「私の出来ることだけをして、結果はイエスさまにお任せ。」と言いつつも、時々苛立ったり、怒ったり、絶望しそうになったり、悲しんだりしている。


 放蕩息子に、もし父が自由を与えなかったとしたら、兄息子と同じように父の愛を知ることも、自分の罪に気づくこともなかっただろう。
パウロが自分の信じるままに、クリスチャンを迫害することを、主がある期間許されなかったとしたら、彼が「私は罪人のかしら」だと告白するほどに、罪と赦しを知ることができたのだろうか・・

 神様が愛するひとり子をこの地上に下し、イエスさまが十字架を負ってまでして私たち人の自由をゆるされた。それまでして、人が自由な意志をもって主のご愛に応答することを求められた。

人とは自分のやりたいようにやり、自分の信じることを行う者であり、そんな中で失敗して初めて罪や間違いに気づくのだと思う。自分の罪を認識しない人が、どうして赦しを求めることができるだろう。どうして主の十字架にひざまずくことができるだろう。どうして赦される喜びを知ることが出来るだろう。

 今日は毒麦のたとえの箇所を読んだ。私たち救われた者も、まだそうでない人も、複雑に絡み合い、助けたり助けられたりして生活をしている。毒麦と麦は似ているから、実を結ぶまでは分からない。
今は、時には弱音を吐いて不満をもらしたりしつつも、しっかり立って主の時を待とう。

 
「忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」(ルカ21:19)
「わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」(ローマ8:25)
「あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。」(ヘブル12:3)
「ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」(Ⅱペテロ3:9)
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