石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

祈りつつ14年

2009-09-30 11:14:15 | Weblog
 次男が月曜日の朝、出かけに突然「仕事で今日出る結果が恐いんだ、祈ってくれ」と言ってきた。こんなことを言われたのは初めてのことだ。よほど緊張しているのだろう。システムオペレーターというその職は、彼にとって1日としてのんびりと働ける場所ではないのだろうけれど・・。

私たちは祈り、彼の帰りを待った。上手く行けば早く帰れるだろう。やっかいなことになれば帰りは遅くなってしまうだろうと・・。ほとんど定時に帰宅した姿を見て、黙って食事の準備をしつつ、私は主に感謝をした。主が憐れんでくださったと・・。

 先日チラッと見た彼のメモの端に、誰かの字で「この職場にはめずらしく、あなたはお若いですね」という文字を見つけた。まあ、彼は若く見えるのだけれど、新入社員の時に配属された職場なので、この会社ではよくある例ではない事を知った。その後新入社員が入ってきたという話も聞いたことはなかった。

なぜ、このようなところに置かれたのか・・?「主が置かれた」としか言いようがなかった。主が導かれたのならこれがベストなのだと思う。彼にはしんどいことだろうけれど、そのしんどさの中に居るから、主を忘れ去ることはできない。主に祈らなければやってはいけず、1日、1日イエスさまを頼りとして生きるという信仰が守られているのだろう。

1日としてのんびりと出来ないところとは、実は完全な守りの中に主によって守られているという事なのだろう。大きな会社であっても会社が守るのではなく、しっかりとした労働組合が守るのでもない。キリスト者の守りは、心許ない身の上にどんな時も共に居てくださり、永遠の知恵を持って導いてくださる主によって守られているのだ。


何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。(ピリピ4:6~7)
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平安があなた方にあるように

2009-09-29 16:00:25 | Weblog
 何時も火曜日に伺うお宅で、今日もふたりでみことばを開く。
いつでも信仰はこの世での真剣勝負。彼女もきれい事では済まない問題を抱えていると話された。ほとんどお付き合いの無かった、親戚の方の最後を看取るようにと迫られているとのこと。そんな問題は年を取ると共に増えてゆく、こちらの力もなくなって、自分の身だけで精一杯といえる状態で、執拗に求められるその苦しみはよく分かる。

 私は、小さい頃に父を亡くして、母は私を連れて里に帰っているので、顔も知らない叔父が破産をして亡くなったと、財産の相続放棄をするようにという弁護士からの分厚い手紙を受け取ったことがあった。
そして、私には痛い弁護士費用の分担金を求められたことがあった。それから数年後には、その叔父が保証をしていたというマンションの未払い分、数千万円の請求が銀行から来てびっくりしたことがあった。これはすでに相続放棄がされていることを知らせることで無事に済んだ。

けれども、そのとき私はこの世の中には理解出来ないような災難があるものだと、自分たちさえ、きちんとやっていれば良いというものではない現実を知った。
それは、神様の恵みも憐れみも、私のまったくあずかり知らぬ所まで届いてくださってこそ、今日の平安があることを知ることであった。

 
 私は、彼女にその問題をそのまま主に祈るようにお勧めをして、負えないものは負えないけれど、祈るとそのことが出来るかも知れないと話した。負えない重荷を負わせることを主はなさらないけれど、主がその力を与えてくださるなら、どんなことでも出来ると思うから。必死で自分を守ろうとしなくても大丈夫よと・・。

私は、義理のある人の要求を言われるままに受け入れていた時がある。彼らの子どもたちは何もしなかった。パートの仕事というバリアーで武装して一度も親の看病をすることはなかった.。でも、私は彼らには何も言わず自分に出来ることをした。
また、経済的な助けが必要になったときも、「何にもしてないお前に言うのは筋違いやけど、お前にしか頼めへんねん。」と、尋ねてくる人を追い返すことはしなかった。それができたのは、私は主の備えを知っており、憐れみを受けている身として逃げられなかったからだった。

高齢化は、このような問題が終わることなく続いてゆくことになる。自分たちのこともあるけれど、身近にも「今日は無事だったけれど・・」という問題を、私たちもまだまだ引きずっている。もし、自分で自分を守ろうとするならどれほど重いことだろう。

今は、1日、1日みことばをそんな心の奥底の悩みにまで降ろして、すべてを主にお委ねするときにはじめて安息が得られる。
イエスさまは、そんな私たちに近づいてくださって、「平安があなたがたにあるように」と御手をのべてくださる。
ああ、主よ。どうぞこの身にみこころがなりますように。
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2009-09-21 10:53:30 | Weblog
根は暗闇に向かって伸びる。私の内、心の暗闇に向かってイエスさまのみことばが根を張ってゆく。誰も知らない、決して明るみには出さない部分に触れてゆく。清め、健やかに癒し、望みに変えてゆく、それは十字架から流れてくる生けることばの力。

心の深い闇にみことばが根を下ろす。漏れなく、隅々にまでみことばのネットワークを張り巡らせて、みことばに身を任せそこに安息する。
うわべの綺麗に取り繕った部分でみことばを受け取っているなら、たちまち人は干上がってしまうから。

イエスさま言われた。
「自分のうちに根がないため、しばらくの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。」(マタイ13:21)

私の罪は主を求める渇きとなり、私の傷は主の愛を味わい知る素材となる。
そうして、信仰は健やかな芽を出し、光に向かって伸びてゆき、「あるものは..倍」と私は私に相応しい実を結ばせてくださる。

主がむすばせてくださる実なら素晴らしいに決まっている。人は知らない、私も知らない実、でも主はご存知の実。
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ありのままに

2009-09-16 11:15:17 | Weblog
不信仰を見ることはとても心が痛む。けれど私は自分自身の不信仰に心を痛めることあるのだろうかと不安になる。自分自身のときには、いつもちゃんとした理由があって不信仰に気づかないだろうから・・そんな者だから。

人はたいがい神を必要とはせず、出来ることなら自分で完全な生き方をすることを望んでいる。でも私のように本当に何も出来ないということで、信仰という方法を生きるために見つけだし、すがっているだけなのだとしたら・・・

そんなことは主が先刻ご存知、人となられたイエスさまはそんな人々をいつもお側に置いくださった。このことにこそ私は安息する。
でも、愚かさゆえ勘違いをすることもあって、それはいつもとても恐い。だから、主が共にいて下さるように絶えず祈りつつ、聖霊により頼み、みことばの光を頼りにする。

人に完全な信仰はあり得ず、主の一方的な十字架の購い、愛による忍耐によって赦されているに過ぎない人間。
信仰の偉人伝に胡散臭さを感じるのは、人間というものが白く塗り込められ、そのありのままの姿が見えず、視点がイエスさまから人間中心に寄っている時、その人の歩み自体まで信じがたくなってしまうからだと思う。

聖書には信仰者の不信仰がそのまま書かれていて、そんな人間を主が愛されたのだと、そのことが深い感謝、感動になっている。それは人間というものの事実を浮き上がらせて、神のご真実を知らせている。

Ⅱサムエル記11章には、ダビデの愚かさや、弱さや、自己中心性や、残酷さが克明に描かれている。その上新約聖書の初めにも「ダビデに、ウリヤの妻によってソロモンが生まれ、」と明確にその罪が書かれている。

しかし、このことによって聖書が損なわれることはない。それは、聖書が人間が中心ではなく、神の愛が中心であるから
「しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。」(ローマ5:20)と、むしろそのことにより神の目的が達成されたのだから、あかしというものを間違えたくないと思う。
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あなたがたの信仰

2009-09-14 14:06:39 | Weblog
「○○ロバ先生」という本を信仰に入って間もなく読んだことがあった。そして、ひとりの牧師先生に「つまずきました。」と話をしたところ、「この本でつまずいたという話は聞いたことがありません。」と言われた。その理由を聞こうともされなかったので、二度と話すことはなかったのだけれど・・

それは、有名な牧師先生のお話だった。その先生が教会堂を建てるために大変なご苦労をされて、奥様も貧しい食事のために何度も流産をされたという記事があり、私は此処で「これは、なんだか変だ。」と思った。
私もひとりの女として、また、子を持つ母として、この記事から受けたショックは大きく、何十年経っても忘れ得ないで考えてしまう。

子どもは、主が「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」と命じられたのであり、
「見よ。子どもたちは主の賜物、胎の実は報酬である。」とも言われ、その祝福を受ける事の方がなによりも大切なのではないかと思ったからである。

主はなんの働きもない者にも豊かに恵むお方。私のような者にさえそうなら、それが、主にとって本当に必要ならば、どうして主御自身が教会の必要を備えて下さらないことがあろうかと私にはそのように思えた。繊細な主のご計画にいけにえは要らないと・・・。


そこで、イエスは彼らの目にさわって、「あなたがたの信仰のとおりになれ。」と言われた。(マタイ9:29)
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さくらの絵本

2009-09-13 10:47:10 | Weblog
さくら ぶん・え

ゆっくりひらくからゆっくりよんでね
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秋刀魚

2009-09-09 09:34:37 | Weblog
 お米はシャカシャカと研ぐ、そのリズムや音が好きだけれど、最近の米はとても乾燥しているので「研ぐ」と割れそうだし、買った米はかなり糠が落ちていて、そんなに頑張らなくてもよいと洗い方を変えた。
正直言うと無洗米を買うことも多い。冷たい冬は重宝するし、扱いを間違えなければ味が悪いと言うこともない。

米の水加減をして、赤い綺麗なサツマイモを選び、これ実はイノシシから主が守って置いてくださった物、それを流水でゴシゴシと洗って、小さなひげを丁寧に取り除きサイコロに切っておく。これでサツマイモご飯の準備は完了。後は時間を見て、間際に少し塩とサツマイモを投入しスイッチオンとなる。

 今が旬のピカピカの秋刀魚、くちばしが黄色いのは新しい証拠。呆けが恐い老人には青魚のEPA、DHAなどの栄養素がありがたい。
息子ははらわたが苦手なので丁寧に取り除く。サッと洗って塩をして、これで今夜のメインは準備完了。焼きたてにカボスをジュッと絞って香りも楽しもう。

この秋刀魚出始めは一匹500円もしたのに、今、丸々と太って100円。主人は「秋刀魚が泣くぞ」と言う、私も100円以上の価値はあると思う。
89円で売っているチラシも見た。ニュースでは無料で配っていた。
安ければ安いほど良いのだろうか、無料ならもっと良いのだろうか・・私はなんだかちょっと恐い。今は、色々な物の安さにずるずると引きずり込まれて行くみたいだけれど、季節毎の神様のプレゼント、相応しくいただく頂き方があるのだろうなぁ・・。

 お隣のご主人が玄関に置いてくださった20センチほどもある取り立ての茄子。主人に「すごいね。」と見せる。主人は「ほんまにええ茄子やなぁ」と素直に感心している。私のちょっぴり意地悪な意図もぜんぜん解していない、アハハ・・私の負け。
主人が普通の茄子を作ることはまぐれみたいなもので、たいがいなぜか非常に芸術的な出来上がり。市場に出すわけでもなく、楽しくやっているのだからそれで良いけれど・・。

2本の茄子の皮を剥き縦に割って、長めの斜め半月に切りにして水に晒す。昨日の残りの赤いパプリカも短冊に切る。それに人参も。これで麻婆茄子の準備も完了。
サラダのレタスやトマトは間際に切ろう。

 開け放った窓から、台所をひんやりとした風が通り抜て行く、ちょっと汗ばんだ身を撫でるように・・。
イエスさまの備えとお守りによって、無事に過ごさせてくださった今日を感謝して、今夜の舌の上の秋を一缶のビールを分け合って乾杯しよう。
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葛の花

2009-09-07 14:18:40 | Weblog
 激しい倦怠感や脱力感から体調が戻ってきたら、自然に歩きたくなってきて、今日は体を慣らそうと、地面を踏みしめるようにわっしわっしといった足取りでいつものコースを回る。ゆっくり歩けばいつもとは少し違った景色が見えてくる。

スカイ.ブルーにぽっかりと白い雲が浮かんでいる空を眺めつつ、なだらかな坂道を登って行く。まあるいイガイガの実をたわわに付けた栗の枝が、通せんぼをするように道の端にまで枝を伸ばしていて、その勢いに圧倒される。今までこんな枝には気づかなかったなぁ・・。

草むらからは京紫の葛の花が幾つも顔を覗かせている。葛の花ってこんなに美しかったのかと新しい発見。
藍色の露草も側溝沿いに枝葉を広げ今を盛りと咲いている。清楚なその色は、いつも幼い頃の色水屋さんにつながっている。

たわわに実った黄金色の田圃では、田の周りに杭を打っている人がいる。田の周りにはネットの柵が張り巡らされて、刈り入れの終わったはぜかけの稲も、すべて丈夫そうなネットで覆われている。

景色とは不釣り合いな物々しさによく見てみると、刈り入れた田圃の中に、荒々しく掘り返したような傷跡があり、それは引っ掻いた道のように田を横切っていた。今まで、こんな田を見たことはない。それはとても異様な光景。

帰って主人に話すと、「イノシシが米を喰い荒らしているらしい」という。せっかく作ってやっと刈り入れになったのに、無惨さに言葉もない。
今、本当に獣に農家は悩まされている。イノシシにも、鹿にもサルにも天敵がほとんどいない。彼らは栄養たっぷりな農作物を食べてどんどん増え続けている。
それは神様が創造された地の姿とは遠い。悲しむべき事が起こっている。


「そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。」創世記1:31
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夏バテ?

2009-09-04 14:21:18 | Weblog
昨日からダウン。
この間からちょっと変だなぁと思っていたらやっぱり・・体調を壊すと即座にやってくるのが日和見低血圧。食欲不振は良いけれど、脱力感と倦怠感、力が抜けて動けない。好きなゲームをする根気もなし。薄いお粥をすすってごろごろ・・。
でも、ちょっと頑張って野菜スープを作って飲んだら、少し体がほっこりとして来た。野菜はすごい。こんな時はみことばを読むことも、祈ることも出来ないので主の懐にすっぽり包まれていよう・・。
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2009-09-02 14:23:59 | Weblog
 イエスさまは、カナンの女がひれ伏し、「主よ。私をお助け下さい」と、娘を救ってくださるように求めた時、「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」と言われた。
子どもたちとは、神の約束の民イスラエルのことだと以前教わったけれど、そのときは、イエスさまとは思えないような侮辱的な言葉に違和感を感じていた。

 今週、旧約聖書のダビデとメフィボシェテの記事を学んで、その言葉が希望を与える言葉であったと知った。
メフィボシェテは、ダビデ王の前で自分のことを「死んだ犬のような者」と表現をした。ダビデ王は、その死んだ犬のような彼を養い、いや、敵の血筋であるから禍かも知れない彼の命をも惜しんだ、と書かれてあった。

 死んだ犬と、小犬には大きな差がある。死んだ犬を拾う者はいないだろうけれど、小犬なら、私たちでさえ自分の子どもの食べ物を少し削ってでも、投げてやりたいと思うから・・
「子どもたちのパンを投げてやるのはよくないことです」ということばのイントネーションはやわらかくて、女にすがりつく余地が備えられてあったのではないかと私には思えてきた。

イエスさまは女の、「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」という言葉に、
「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」と、待っていましたとばかりに誉められ、その願いに応えてくださった。イエスさまはすべてを準備をして彼女の信仰を導き育てて下さったように私には思える。

 イエスさまが私たちの信仰を導かれるとき、時には冷たく感じられることがあったり、無理な要求だと思えることがあるけれど、あっさりとあきらめて世に妥協するなら、カナンの女が、金持ちの青年のように主を去ってゆくことであり、それは、娘のいのちを惜しまれるイエスさまの悲しみとなり、イエスさまをお喜ばせすることはできなくなってしまうだろう。

「その願い通りになるように。」とイエスさまはいつも気前よく祝福したいと願っていてくださるのだから、死んだ犬のような者にもそのように応えてくださるお方なのだから、主が備えられた信仰の成長のお導きに、応えることが出来ますようにと祈る。
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