石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

外はもう秋色

2009-08-31 16:36:40 | Weblog
無数のツバメが乱舞する田の面
波打つ稲穂に低く低く、白い雲に高く高くと飛び競う
「これなら長旅も大丈夫さ!」そんなことを確かめ合っているのかい
赤とんぼも今日は彼らに追われて姿も見えず、黄金色の田を独り占め

秋の初めのお花畑は、コスモス、ひまわり、高砂百合に、百日草、
咲き残りの花々ははんなり優しい色合いで、枯れ葉さえも綺麗に見せる
昔はよく居たんだけれど、紅だけ差して
よく食べ、良く働き、良く笑う、そんな健やかな娘を想わせる

隣の家から縦笛が、ピーピーピーヒャラピーピーと同じフレーズを繰り返えす
とても、明日までに仕上がるとも思えないけれど・・・

昔子どもがいた頃は、今夜は「夏休みさよならパーティ」だった
ささやかなご馳走並べて、これにて夏は終了とそっとお尻を叩いたものだった
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睡魔

2009-08-27 13:17:48 | Weblog
「ユテコというひとりの青年が窓のところに腰を掛けていたが、ひどく眠けがさし、パウロの話が長く続くので、とうとう眠り込んでしまって、三階から下に落ちた。抱き起こしてみると、もう死んでいた。
パウロは降りて来て、彼の上に身をかがめ、彼を抱きかかえて、『心配することはない。まだいのちがあります。』と言った。
そして、また上がって行き、パンを裂いて食べてから、明け方まで長く話し合って、それから出発した。
人々は生き返った青年を家に連れて行き、ひとかたならず慰められた。」使徒20章から

「ひどく眠気がさして」という言葉にゲッセマネの祈りを思い出す。十字架を目前にされたイエスさまと共に祈り続けることは誰も出来なかった。

「それから、イエスは戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。「シモン。眠っているのか。一時間でも目を覚ましていることができなかったのか。
誘惑に陥らないように、目を覚まして、祈り続けなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」
イエスは再び離れて行き、前と同じことばで祈られた。
そして、また戻って来て、ご覧になると、彼らは眠っていた。ひどく眠けがさしていたのである。彼らは、イエスにどう言ってよいか、わからなかった。(マルコ14:37~40)

 強烈な悲しみ、肉の弱さを抱えて生きることの悲しみを感じて言葉を失う。睡魔というけれど、それが弱い肉を襲うとき人の力ではどうすることもできない。
私も、重要な場面で突然襲う眠気を経験したことがある。なぜ、こんなに緊張する場面で眠くなるのか信じられなかった。また、深い悲しみに泣き疲れてぐっすり眠ってしまったこともあるから、イエスさまと共に祈ることが出来なかった弟子たちの悲しみが伝わってくる。

イエスさまが私たちの弱さを知っていてくださる事はなんと感謝なことだろう。目を覚ましているためには、主の助けによらないと人にはできない。
どんな時も主と共にいて、いつもみことがを聞いて,
「絶えず祈りなさい」と命じられた祈りの中にいないと、いつ睡魔に襲われるかわからないということだろう。

 ユテコを抱きかかえたパウロの言葉「まだいのちがあります。」その言葉をその場にいた人は皆信じた。そうして、彼らはふたたびみことばに戻っていった。
そのことは「もう死んでいた」ユテコを見ても、目の前での見えることに留まって、ユテコを死人のように扱って泣き叫ぶようなことはしなかったということ。見たことではなく、パウロの語るいのちを選び取り聞き続けたから、「ひとかたなぬ慰め」が残された。それは永遠の希望でもある。
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ないがしろ

2009-08-25 14:52:34 | Weblog
 ないがしろにされたと思った時があった。そんな時に主は寄り添ってくださり静かにみことばを語ってくださった。雅歌のように甘い交わりに導いてくださるから、そんな時は甘ったれて「あなただけを見ています」と私も答えた。
会堂を追放された元盲人を探し出してくださったように、サマリヤの女に来てくださったように、ザアカイを見上げて呼んでくださったように・・主は心配をして来てくださる。

そんな旨みを知ってから、ないがしろにされることは絶好のチャンスと、こんどはなにを語って聞かせてくださるのだろうと期待で胸がふくらむ。だけれど、何かの間違いでほめられそうになったら、慌ててそこから逃げ出したり、混ぜっ返すようなことを言うのは、ある意味貧乏性なのかしら・・。
「サタンはたたき落とすために持ち上げる。」なんて恐ろしい言葉を聞いたことがあった。そして、ある教会で事実そんなことが起こるのを経験した。

 私たちのすべてをご存知の聖霊は、人をほめることばを聞かれたとき、ご自身の真実さのゆえに私たちのうちに居場所を無くされるのかも知れないと考えてしまう。ほめられることが悪いことであるはずはないけれど、キリスト者なら、すべて、ほめる対象はその人の中に良き働きを備えて下さったイエスさまであるはず。
もしも、ほめられることがあったなら「あなたにそのように働いていて下さる主は、なんて素晴らしいお方でしょう!」と、そんな賞賛が聞けたらとてもとても安心なんだけれど・・。

もっともないがしろにされたお方はイエスさま。今も、もっともないがしろにされているみことば。
「あなたがたは、自分たちの言い伝えを守るために、よくも神の戒めをないがしろにしたものです。」(マルコ7:9)
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冬瓜

2009-08-21 13:24:08 | Weblog
 最近スロージョギングを始めた。これが、なるほど心臓には負担を感じないけれど、結構足に来る。きっと、どんなにスローであろうと、歩くときとは違う筋肉を使っているのだろう。昨日は真面目に走り通したので、ずっとふくらはぎや向こう脛が痛む。こんなところが痛むのは初めて、あまり痛むのでサロンパスを張ろうとしたらちょっと腫れていた。

それで、今朝はどうしようかとグズグズしている間に日が昇り、洗濯物を干した後で暑いことは覚悟の上と、帽子は嫌いなんだけれどかぶって家を出る。一足毎にズキンと痛む。でも、筋肉痛って私の浅い経験だけれど、使い通した方が早く治るように思うから、がまんがまんで乗り越えるしかないと自分に言い聞かせる。歩くとき何でもない坂道でも、走るとかなりきついことを体験している。

歩いたり走ったりを繰り返しながら、暑い日差しをなるべく避けて木陰を選んで進む。「なんでこんなことをするのだろう?」と考える間を与えないようにしてひたすら前へ。
だって、もし私は自分にこの問答を始めたら説得することはできない。「もう少し痩せないとみっともない」なんて言っても、「なにを今更、第一痩せることで美しくなるとは限らない。皮がたるんでもっとみっともないさ」と言い返すだろうし、体は聖霊の宮だから健康を維持する責任があるといっても、「痩せたら健康とは限らない。私の友は細かったのにもう居ない。」というだろう。

このことが結構きつい。息子が細いのにカロリー計算なんかしていると「止めろ」といってしまう。あまり細い女(ひと)を見ると私は不安になってしまう。華奢な嫁さんに不安を感じないで居られるのは、彼女が結構喜んで料理を食べてくれるから。頑張っているのかな?

唯一説得力があるのは、単純に「自分の体を、自由に動かせなくなるのは困るよ」ということ。このことが今の原動力。
でも本当は、この景色は魅力的だし、家でじっとくすぶっているよりは汗を流す方が気持ちがいいという事実。


 ゆるいカーブの折り返し地点を向こうに見たとき、道ばたに野菜が置かれているのが見えた。無人の販売所が出来たのかと思い目を凝らすと、どうやらその大きさから冬瓜らしい。「冬瓜なら欲しい。でもお金を持っていないなぁ」そんなことを思いつつ近づいてみると、お金を入れる入れ物がない。
盛り上げて置いた冬瓜の前にボール紙が立ててあり、「一度食べてみてください。冷たくしたらおいしいです。無料。きよばあちゃん」と書かれていた。

大喜びで一番前の冬瓜を一個抱え、一礼して頂いてきた。突き出た腹の上に乗せるように冬瓜を抱えて歩く。もう、ウオーキングでもジョギングでもない。蟻のごとき運び屋。欲と二人連れで大汗を流しながら頑張る。帰って計ったら4キロもあったから、そりゃ重いはず。これが本当の「腹に一物」なんてひとり笑っている間に、ふと気が付いたら足の筋肉痛をすっかり忘れていた。苦痛を取り除くには、違う苦しみを与えることだった。今はひたすら重さに耐えている。

 家に着いてすぐに4分の1に割り、ワタと種を取り除いて、うっすら翡翠色を残してきちんと皮を剥き、大きい目のサイコロに切って煮干しを入れ煮物にする。何か美味い物を添えたいけれど、それは後で買ってこよう。取りあえず煮て置いて味を含ませ、今夜のおかずに冷やしておこう。

また、もう一品は細かく切って汁物にする。これが私の好物。夏の体にとても優しく適当に体を冷やし利尿作用もある。半分は冷凍にしておこう。神様はちゃんと夏には体を冷やし、冬には体を温めるものを準備してくださっている。なんと細やかな備えだろうとその優しさに感動しつつ、残りは明日のお楽しみ揚げ煮にしようかなぁ・・。

調理してみるとこれが早く煮える、新鮮なんだろう。とても嬉しい。だって新鮮な冬瓜を買うことはなかなか難しい。何しろマイナーな野菜で、スーパーの棚の隅で色が変わっていたりする。野菜は例外もあるが、新鮮なうちに調理することが大切。冬瓜とは冬まで保つ瓜という意味らしいけれど煮え方は違う。
作ってくださった方に報告したくなった。「美味しかったよ!ありがとう」って、明日はひとことお礼の手紙を冬瓜の下に置いておこう。でも、もうすっかりなくなっているかなぁ。
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ラスカルの所為?

2009-08-20 19:11:31 | Weblog
「やられた!」と顔をしかめながら畑から主人が帰ってきた。イノシシにさつまいもがほとんど掘られてしまったと言う。
子どもたちが来る夏に取れるようにということで、早めに苗を指して楽しみにしていたのだった。先日数本、大きいものだけ探り堀をして食べさせ、「もう、そろそろ掘ろうか」と言っていた矢先だった。本当に、いつもこのことは感心してしまうのだけれど、彼らは収穫時を間髪入れず見事に心得ていて、人間の方が後手に回ってしまう。

 トマトでも美味しそうに真っ赤に熟したと手に取った瞬間、指先に感じる嫌な感覚、裏側に大きな穴が空いていてトマトの汁が滴り、一足お先に味見をされていたりする。悔しいけれど、大きなトマトをこのまま捨てるに忍びなくて、「じゃ、最後まで食べてよ。」とばかりに側に置いておいても、なぜか決してもう食べることはない。翌日また、新しく熟した実を突くだけ。「なんて奴!」と、このことの方が腹が立つ。

 それでも畑を良く調べると8本ほど残っていたと、きれいな赤い芋を籠に半分ほど持って帰ってきた。「ああ、良かったね。これだけあれば充分だよ。」そう、ちょっとは息子に送ってやれるし、残りも天ぷらなら数回出来るだろう。
イノシシの残し芋は主のお取り置き芋なんだ。「最悪な時でも、これだけあって良かったね。」主人もちょっとほっとしたように「そうやなあ」と肯いてくれた。

 自然が不自然になっているのだろう。翌日話すと、お隣のご主人も「うちもやられた!」と心底悔しそうに言っておられた。我が家のように少しではなくて、沢山作っておられるから被害も大きいのだろう。
あちらこちらで毎年獣の被害が話される。鳥や鹿やイノシシだけではなくて、最近ではアライグマの被害がこの地域でも出ているという。なぜ、この日本でアライグマなんだと自然にはあり得ない事実にあきれてしまう。
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朝露

2009-08-15 10:29:11 | Weblog
 自然は季節により、時刻により、天候によって千変万化する。同じ道を日々歩いていても、決して飽きると言うことはない。神様の創られた物はそのようなのだろう。
今日の空はトルコ石のように青い。雲のひとつなくすっきりと冴えて、深々と蒼い木々の葉は枝を広げて、あざやかに空を分け合っている。

足元では葛の葉、猫じゃらしの葉がいっぱいの朝露を置いて、小さな水滴のひとつ一つがキラキラと太陽を映して光っている。これは驚き!見えないくらいに小さな水滴が、あのでっかい太陽を映しているなんて!朝露はでっかい太陽を映して空に帰ってゆく。

 私は小さな小さな水滴かも知れない。どんなに小さくても主を映して輝く瞬間があるのならなんと素晴らしいことだろう!
でも、実際の私は臆病で、もし、誰かが「光っているよ」と教えたら、その瞬間に消えてしまうだろう。
すべては主のなさることだから心配はいらない。草も木も朝露も何も知らずに輝いているのだから。
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「憎まない」

2009-08-14 00:05:39 | Weblog
 山のようなお布団を熱々に干して押入に入れたら、翌日も押入の布団は蒸しパンのようにほかほか。
早朝に起きだして歩き、暑さに負けずに押入を空っぽにして布団干しや洗い物に熱中・・。
それにしても今日は湿度も高く、気温も31度以上と不快指数は高かった。

 我が家のエアコンは2階だけ。リビングに付けるようにと息子に何度か勧められ、「買ってやろうか」なんてことまで言ってくれたけれど、私たちは頑固に「いらん」といって片意地に頑張っている。どうにも身分不相応な気がしてならないから。それに本当に大変なのは少しの期間であり、それも昼間の数時間で、ヒグラシが鳴き日が落ちると涼しい風が通り抜ける家なんだから・・なんて思ってしまう。


 朝は、ひとりで1ヨハネを読んでいた。
「愛」と「憎しみ」ということで、心にひとつの葛藤があり、自分ではどうにもならなくて以前から祈っていた。憎むことに早い自分の心を制御出来ないままに、ずるずると引きずられてゆく・・でも、ひとつのドラマがきっかけとなって、はっきりと決断することが出来た。

 「私は誰をも憎まないでおこう」と決めた。主が裁いて下さるのだからお任せしよう。そう決めたら、長い間抱えていた問題から解放された。あっけないほど簡単にそれは私の中で終わった。私は彼らのために祈るべき者。日々、イエスさまの憐れみと恵み、そして忍耐を頂いている私は誰であっても憎むことはできないのだと。
憎むことは私の心にサタンの足台を準備し、イエスさまに敵対することだから。

 イエスさまが究極の無実の罪を負ってくださったことにより私は救われたのだから。イエスさまに比べれば、どんなに私がありもしないことだと言っても、きっとそこかしこに罪や、愚かさがみつかるだろうから・・。

そんなことを時々考えながら、一日中汗を流していると元気なつもりだったのに、免疫が落ちると痛むヘルペスの痛みがやってきた。ちょっと疲れたみたい。体も心も明日はちょっとゆっくりしよう・・。

私には愛する自信は全くないけれど希望はある。なぜなら、私は、愛そのものであるイエスさまといつも居るのだから、きっと似てくる。主は私の中に愛を満たしてあふれさせてくださるだろう。

「私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。」
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緑の海峡だよ

2009-08-11 11:17:08 | Weblog
 山々も木々もしっとりと濡れていて、緑の海峡を泳いでいるような感覚・・ひやりと瑞々しくて、心の隅々まで洗って流れてゆく・・そんな滴るような緑一色の中を主に思いを巡らせつつ回遊する。

先程、主人が言っていた言葉
「地震で高速が通行止めになったけれど、さくらたちが無事に戻れて良かったなぁ。自分たちのことだけで喜んで良いのかどうかわからんけれど・・」
聖書には「わたしは、自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ。」と書いてある。
主の憐れみを受けたのだと、私は単純に主に感謝をした。

 幼子が乳を含ませてもらった時、誰のことも思わず夢中になって腹いっぱい飲むように、主の憐れみ、恵みを頂いた時、誰のことも眼中になく夢中になって受ける。私はそういう立場にいる者。すべてを支配し、すべての人を考えてくださるのは主のなさることで私の分ではない。私には何も出来ないから。

私は、主が含ませてくださった乳の甘さを記憶しておく。その味を覚えているから成長できる。沈黙の時間があっても、思い出がたんまり刻まれているから、いつまでも母の恵みの味を反芻して楽しむことができる。それが、ひとりぼっちのときの支えともなる。


 ピラトは、イエスさまが正しいお方であると承知していたが、人を恐れて十字架に引き渡したように、ヘロデもバプテスマのヨハネを人を恐れて、心を痛めながらも首をはねた。
彼らはその場で最高の権力を持っているにもかかわらず、人を恐れるあまり自分の信じたようには行動できなかった。

 ひとりで、主を選び取るべき時がある。誰にも聞くことができないことがあり、唯みことばに聞いて、ひとりで、目に見えない聖霊の導きに従う時、主との交わりの記憶が背中を押してくれる。主の日々の細やかな恵みは、私の信仰を導く大切な宝物だから、このことは誰にも譲れない。決して遠慮なんかしない。
25年以上そのように導かれてきたのだから、御国に行くまで主は、この年寄りに甘い乳を含ませてくださるだろう。なんということ!なんという恵みだろう!
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小休止

2009-08-04 16:21:28 | Weblog
 長男の家族が帰郷している。孫は見るたびに成長して好もしく思え、爺馬鹿、婆馬鹿で「大きくなったなぁ」と言うと親たちは即座に首を振って「いいや、同い年と比べたら二人とも小さい」と言う。そうかなぁ・・。子育て中には、比べないなんて出来ないことは分かりつつ・・体だけではなく、知恵も付いて、感情も豊かになり気配りさえ出来るじゃないと、食事の準備のあい間に一挙一動を見ているだけでも楽しい。

 私は男の子しか育てたことがないので、女の子の動きは興味津々、女は生まれたときから女なんだと嫁さんと盛り上がる。下の子はまだ2歳にもなっていないのに、人の心を引くコツを心得ているような表情やしぐさには驚き。お姉ちゃんから学ぶことが多いらしく、人の心を読むことが素早くて巧み。また、甘え上手。どうひいき目に見ても、どちらの血筋にもこのように気の利いた人は居ないのにね・・この子はほんとうに面白い。そして、先のことを考えてちょっとハラハラ・・。これこそ本当の老婆心。

 それにしても長男がこんなに子煩悩だとは・・・ああ、思い出した。彼は小さい頃から、何くれとなく弟の面倒を良く見てくれた!高校受験から突然親、兄弟離れをして、サッパリとした様子に変わったので忘れていたけれど・・
自分が疲れ切っていても、「この子も、寝たいけれど寝られないだねぇ」とぐずる子をいつまでも抱いていたこともあった。嫁と同じように積極的に子育てをしている。

大手メーカーで責任のある仕事をしており、夜も遅くなることもあると聞いていたので「ストレスもあるだろうに」と、同情するようなことをひと言いったとき「ストレスなんてない。」とぴしゃりと言われてしまった。

そうだよね。大の男が年老いた母親に同情されるなんてまっぴらだろうねと、それからは彼の子育てを面白がって見ることにしている。させられてするなら辛いだけだけれど、可愛くてたまらないからと積極的にしているのなら、むしろエネルギーを生み出しているのかも知れない。でも、ほどほどにね、父は何時か娘に捨てられるよ~。

普通に生きると言うことは、普通に出来るという事ではなく、努力も頑張りも一生懸命もいっぱい必要な時があるんだ・・と彼らを見ていて思う。今日から、彼らは南紀方面に1泊の小旅行。私はそこでちょっとゆっくりできる。来る前から気遣ってくれたいたから、この小休止は嬉しい。
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