石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

マタイ12章から

2009-07-29 13:50:04 | Weblog
「そのころ、イエスは、安息日に麦畑を通られた。弟子たちはひもじくなったので、穂を摘んで食べ始めた。すると、パリサイ人たちがそれを見つけて、イエスに言った。『ご覧なさい。あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています。』」

パリサイ人たちは弟子の行為を見てイエスさまを責めた。安息日は神と人の喜びの日だと思う。幸せのために備えられた安息日をネタにして、縛りつけ、裁きの道具とすることが、どれほどみこころをねじ曲げていることだろう・・、イエスさまは律法を全うするために来てくださった安息日の主。

「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。」
イエスさまがどういうお方かいつも覚えていたい。人は罪の中で、絶えず誰かをいけにえにしてしまうから・・
「主のあわれみの中に存在しているのだということを、私が忘れないように守ってください。」と祈ろう。私はとても忘れっぽいから・・・。

「彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない、公義を勝利に導くまでは。」
人は、誰だって痛んだ葦であり、くすぶる燈心。それでも主が勝利にみちびいてくださるのだから、主に拠り頼んで居る者には望みはある。主が切り捨てない者を、私が切り捨てることがないように祈ろう。

イエスさまが片手の萎えた人を癒されたとき、群衆は「この人は、ダビデの子なのだろうか。」と言い、パリサイ人は「悪霊どものかしらベルゼブルの力で、悪霊どもを追い出しているだけだ。」と言った。

群衆の中で「ダビデの子なのだろうか」と言っていても信仰の告白ではない。
パリサイ人に働いたように、サタンは人の肉の心にささやく、意に添わぬ者を指して「あいつこそ悪魔だ」と・・、こんな声を聞いたならイエスの血によって即座に洗ってもらおう。なにしろ彼はまったくの嘘つきだから。こともあろうにイエスさまをベルゼブルと教えるのだから。

信仰生活に入り、クリスチャンとして清い生き方をしようと出発をしても、どうして私たちにそんなことが出来得よう・・生まれながらの罪の血筋。心に沸き上がる罪を私たちはどうすることもできない。
そんな事実に、取り繕って目をふさぎ「誰かのようではない」と言うとき、白く塗った墓となる。七つの汚れた霊の住み家となって、心の中に主の嫌われるものがとぐろを巻いて住み着き、十字架を知らない良心は、責め、さばき続けるだろう。
イエスさまが成し遂げてくださった十字架の救いに安息しないで、何かを自力で付け加えようとすることはあまりにも愚かなこと・・。


 みことばを持って彼女の家に伺ったとき、いつものようにきちんと居住まいを正して、美しく着替えてみことばを開いて待っていてくださる。
そんな彼女から学ぶことは多い。女のくせにそういうことに無頓着な私も、ちょっと鏡の前に立って身支度を整えてから伺うようになった。やはり美しくしている彼女は心地よかったから。

みことばを学んだ後は、いつも言われる。「ここは一番大事なところやね。」
彼女には、聖書を開くたびに一番大事なみことばが増えてゆく。私にもその感動が流れてくる、みことばをおなさ子のように信じて聞き、一年生がはじめて開いた教科書を、喜んで丸ごと覚えてしまうかのように吸収して・・。

「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」
まるでこのみことばを見ているよう・・・。

彼女は、「教えて」と付きまとうように求められたときの贈り物攻撃はすっかり止んで、伺ったときも、美味しいお番茶を準備してくださっているだけで余計なものはない。時々は茄子や、キュウリを頂くけれど・・それは主の祝福のお裾分けと、頂く私にも喜びと平安がある。

「兄さんに教えてあげたら励まされた。『良かったな、しっかり勉強せえよ』って、兄さんの分も祈っているからと言ってあげた。」友達、親族、近しい人たちになんとかイエスさまを知った喜びを伝えようとしておられる。神の平安を知ってしまったから・・。

「イエスさまを伝えることは嬉しいでしょう。同じように、私もあなたに伝えることが出来て嬉しいよ。」と話すと、「ああ、良かった。いつか『もう終わり』と言われたりしたらどうしようかと思っていたから。私はこの日を楽しみにして一週間を過ごしているから。」
そんな言葉に私は厳粛な思いにさせられる。こんな何の取り柄も、知識もない者の働きでも喜んでくださる方が居られる。まさしく、彼女を愛する主が働いておられるのだと、主の通りよき管でありたいと願いつつ、その時その時、今日交わるみことばを導いて下さいと祈る。私もいつでも一年生だから。

「あなたがたは、わざとらしい謙そんと天使礼拝とにおぼれている人々から、いろいろと悪評されてはならない。彼らは幻を見たことを重んじ、肉の思いによっていたずらに誇るだけで、キリストなるかしらに、しっかりと着くことをしない。このかしらから出て、からだ全体は、節と節、筋と筋とによって強められ結び合わされ、神に育てられて成長していくのである。(コロサイ2:18)
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イエスの生涯 21

2009-07-21 15:38:38 | Weblog
マタイの福音書11:2~30 

11:2 さて、獄中でキリストのみわざについて聞いたヨハネは、その弟子たちに託して、
11:3 イエスにこう言い送った。「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか。」

バプテスマのヨハネは獄中でイエスさまの何を聞いたのでしょうか。
イスラエル人がそれまで思い描いていた救い主とは違っていたということでしょうか。人は誰でも、自分の目で見ていないと不安になる弱さを持っています。
「見ずに信じる者は幸いです。」と聖書に書かれていますが、イエスさまはこのとき、信じることが出来ないトマスのために、わざわざ十字架の傷跡を見せに来てくださったのです。
私たちはイエスさまのお側にいて、主の助けをいつも見ていないと不安になる者です。


11:4 イエスは答えて、彼らに言われた。「あなたがたは行って、自分たちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい。
11:5 盲人が見、足なえが歩き、らい病人がきよめられ、つんぼの人が聞こえ、死人が生き返り、貧しい者には福音が宣べ伝えられているのです。
11:6 だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。」

「わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい。さもなければ、わざによって信じなさい。」(ヨハネ14:11)
イエスさまはこのようにおっしゃいました。ヨハネはイエスさまのわざを直接見ていないし体験もしていません。そのことはヨハネの弱さだと思います。
どんなに小さな事であっても、日々の生活の中でイエスさまの助けを体験することができることはとても感謝なことです。


11:11 まことに、あなたがたに告げます。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。しかも、天の御国の一番小さい者でも、彼より偉大です。
11:12 バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。
11:13 ヨハネに至るまで、すべての預言者たちと律法とが預言をしたのです。
11:14 あなたがたが進んで受け入れるなら、実はこの人こそ、きたるべきエリヤなのです。

ヨハネは旧約聖書と新約聖書の間に出てきて、その橋渡しをするような立場でした。彼は揺れる心を持っていたのですが、そのことによって彼の価値がおとしめられると言うことはありません。イエスさまは彼を評価されました。
不安になったり、疑いが生じることは悪いことではないのですが、即座にイエスさまに聞くことは大切です。今、私たちは祈りつつ、聖書を繰って確かめ主のお約束を確認することができます。このことこそ、イエスさまを何時も見ていると言うことだと私は思っています。


11:15 耳のある者は聞きなさい。
11:16 この時代は何にたとえたらよいでしょう。市場にすわっている子どもたちのようです。彼らは、ほかの子どもたちに呼びかけて、
11:17 こう言うのです。『笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってやっても、悲しまなかった。』
11:18 ヨハネが来て、食べも飲みもしないと、人々は『あれは悪霊につかれているのだ。』と言い、
11:19 人の子が来て食べたり飲んだりしていると、『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ。』と言います。でも、知恵の正しいことは、その行ないが証明します。」

救い主が来られ、救いのためのわざを行っても、いろんな屁理屈を並べて、真っ直ぐに事実を見ようとしない人々のことを、イエスさまは嘆いておられます。
「あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ。」ヨハネが聞いたのは、このようなうわさだったのではないかと思います。
イエスさまが、罪人たちの家に入られ、彼らの仲間となって一緒に食事をされることは、人々には理解のできないことでした。
彼らにとって人格の清さとは、人を見下げることによって「私は、このような者ではない。」ことで成り立つものだったからです。

彼らは罪人に近づいて、仲間と見なされ自分たちの値打ちが下がるようなことは決してしません。だから、むしろ罪人を省みなさるイエスさまの行動は理解できなかったのです。
そこで彼らは、イエスさまは飲み食いすることが好きなのだろうと考えたのでしょう。罪人の罪を身代わりに負うために来られたなどとは、彼らには理解できなかったのです。
第一、罪人に救いが必要だとは認めてはいなかったのでしょう。彼らは罪のために裁かれるべきであるし、自分たちは彼らのようではなく、罪のない清い生活をしており、誉められることはあっても罰せられることなどないと思っていましたから。でもイエスさまは、そんな高慢で冷淡な罪を憎まれたのです。


11:25 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。
11:26 そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。
11:27 すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません。
11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
11:29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
11:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」

賢い者や知恵ある者が信仰にいたるよりは、幼子のような単純な者にイエスさまはわかるのです。そのような信仰がみこころにかなったことでした。直ぐな心でイエスさまを受け入れ、そのまま信じる者にイエスさまは共に居てくださいます。

イエスさまのくびきは、固い鉄や木でできたくびきではなく、温かい主の血の通ったくびきです。イエスさまと共にこの世を生きることは信仰に縛られた、堅苦しいものではありません。だって、イエスさまは律法の重荷から私たちを解放してくださったお方だからです。
主に出会ってから私の人生の荷は本当に軽くなりました。イエスさまはへりくだった心優しいお方ですから、私たちはいつでも、安心して安らぎを得ることが出来るのです。(一部割愛)
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主の選び

2009-07-14 13:11:56 | Weblog
 イエスさまは、サマリヤを通っていかなければならなかったと書いてある。そして、ご自分から女に「水を飲ませてください。」とへりくだって声を掛けられた。なぜこれほどまでにしてこの女を選ばれたのだろう。夫を5人も変えて、今は夫ではない男と住んでいるふしだらな女に・・。一見、奥義を伝えるにもっとも相応しくない相手ではないか・・。

女はイエスさまに質問をしている。
「私たちの先祖は、この山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。」

女の質問にイエスさまは、今も大切な信仰の奥義を教えられた。
「イエスは彼女に言われた。『わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。』」(ヨハネ4:20~21)

この世ではありえない。このような女の、このような問いにまとも答えてくれる人はいない。取り合ってもくれないだろう。イエスさまを見るとき、それは人の傲慢さからなのだろうかと思う。

 ちゃんと向き合ってくださるイエスさまに、彼女も臆することなくどんどん質問をぶつけている。わかるまで聞いている。
自分の罪深い生活を暴露されても、卑屈になることもなく、逃げ出さないで質問をしている。そして、彼女は今の私たちにとっても、とても大切なことを教わった。自分の立場をすっかり忘れて・・。
イエスさまに向き合うとき、私たちは自分の罪から解放され自由にされる。主のお側は恐れなくても良い、とても居心地の良いところ。

 イエスさまは誰に対しても、なんとまぁ、御真実に答えてくださる御方だろう。主を試みるパリサイ人に対しても、きちんと答えて決して無視はなさらない。それは、イエスさまがそれほどに謙遜な御方だからだろう。たとえどんなに厳しい言葉であっても、いつも親切に教え、解き明かし、悔い改めに導こうとしてくださった。

 サマリヤの女の価値とは何だろう。イエスさまがわざわざ尋ねてまで、彼女を選ばれた理由は何だろう。それはきっと、主から良いものを得るべき資格が何もなかったから、彼女には、自分を誇るべきものが何もなかったから・・。でも、彼女は主を知りたいと願っていたから。それ以外に考えられない。

何の資格もない者、何の働きもない者であると、自分でそのことを知っている者がイエスさまを求め、主が応えてくださった時、女は嬉しくて、驚きで、それまで恐れていた町の人々に伝えるために走りだして行った。イエスさまは求める者には、誰に対してもとことん応えてくださる、奥義を惜しむことなく話してくださる御方。

 
 拙い祈りが応えられたとき私は驚く。何度でも驚く。なぜ応えてくださったのか、なぜ祈りがきかれたのかが、私の理解を超えているから驚く。そして走り出したくなる。誰かにこの驚きを伝えたいから・・。
そんな私とは、何の良いものもなく、いやむしろ負い目ばかりの者だからこそ、この病人に医者であるイエスさまがお心に掛けてくださったのだとすんなりと理解できる。主はそのようなお方なのだと深いところから感動する。

 
「しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ4:23~24)
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イエスの生涯⑳ 

2009-07-13 15:06:44 | Weblog
マタイの福音書10:21~11:1

10:21 兄弟は兄弟を死に渡し、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に立ち逆らって、彼らを死なせます。

イエスさまを信じた者たちは、神さまを父とした兄弟姉妹と聖書に書かれています。イエス・キリストは長兄です。でも、弟子のユダはイエスさまを裏切り死に渡しました。

信仰によって家族の分裂は起こりうることです。人は簡単にはイエスさまを認めることは出来ないからです。でも、初めに信じた人から家族の救いは始まり、家族の救いによって分裂は修復されることを私は知っています。


10:22 また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人々に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。
10:23 彼らがこの町であなたがたを迫害するなら、次の町にのがれなさい。というわけは、確かなことをあなたがたに告げるのですが、人の子が来るときまでに、あなたがたは決してイスラエルの町々を巡り尽くせないからです。

「蛇のように聡く、鳩のように素直でありなさい。」とイエスさまはあらかじめ言われました。迫害に対して、助け主である聖霊は知恵を与えて導いてくださいますから、その声に注意しつつ働くことが大切です。人間の熱心と賢さ、勢いですることではありません。進むときも退くときもやわらかい心と、みことばに従う素直さが必要です。


10:24 弟子はその師にまさらず、しもべはその主人にまさりません。
10:25 弟子がその師のようになれたら十分だし、しもべがその主人のようになれたら十分です。彼らは家長をベルゼブルと呼ぶぐらいですから、ましてその家族の者のことは、何と呼ぶでしょう。
10:26 だから、彼らを恐れてはいけません。おおわれているもので、現わされないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはありません。

 イエスさまはありもしない悪口を言われて、捕らえられ十字架で死刑に処せられました。
私たちはイエスさまの弟子であり家族ですから、信仰によってイエスさまと同じように、迫害や、誤解や、ありもしない悪口を言われることは、ある意味当然であり、師でもあるイエスさまのようになれたのなら喜ぶべき事です。
そのような非難を恐れる必要はありません。信仰によることから出ているのなら、噂を恐れることはないのです。イエスさまの十字架の罪のあがないを信じた私たちは、すべての罪をすでに赦された者であり、もう、神様でさえ、
わたしは彼らの不義にあわれみをかけ、もはや、彼らの罪を思い出さないからである。(ヘブル8:12)
このように約束をしていて下さるからです。


10:27 わたしが暗やみであなたがたに話すことを明るみで言いなさい。また、あなたがたが耳もとで聞くことを屋上で言い広めなさい。
10:28 からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。
10:29 二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。
10:30 また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。
10:31 だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。

イエスさまのお話を人々にしなさい。こそこそ隠れて話すのではなく、恥じたり、人を恐れたりしないで、言い広めなさいとすすめられています。
十字架のお話を正しく伝えることはイエスさまを先に知った者のつとめです。

イエスさまは、すべての人のために十字架で罪を負ってくださったのですから、ひとりでも多くの人にそのことを知らせることは、イエスさまの願いでもあります。人の評価を気にしないで、ただ主から導かれるままに話すのです。教えるのは助け主なる聖霊です。主を畏れるゆえに語ります。

何をも、誰をも、恐れる必要はないのです。神が私たちの味方です。雀でさえ神の知られずに死ぬことはないのです。まして、私たちは神の子とされすべての必要をすでに備えられている者です。


10:32 ですから、わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。
10:33 しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。

私が、イエスさまを人前で紹介するなら、イエスさまも神様に私を紹介してくださいます。私が人を恐れてイエスさまのことを隠すなら、イエスさまも私を知らないといわれます。イエスの光を隠さずに高いところに置いて輝かせなさい、といわれます。


10:34 わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。
10:35 なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。
10:36 さらに、家族の者がその人の敵となります。
10:37 わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。

この言葉には驚くのですが、イエスさまに出会うまで、人はみんなサタンに支配されている状態です。私たちが造られたときに、神様から吹き込まれた霊は死んだ状態です。
イエスさまに出会ったとき、霊にいのちが再び与えられ永遠のいのちへとつながって行くのです。でも、サタンは私たちがイエスさまを知ることを嫌って邪魔をします。そこに信じる者と信じない者との争いやもめ事が起こります。

家族が仲良く暮らすことはとても美しいことですが、そのままではみんな滅んでしまうのです。最も大切なことは「和」を守ることではなく、命のある間にイエスさまを知ることです。それが何よりも重要なのです。死んでからではイエスさまを選ぶこと、永遠のいのちを頂くことはできないからです。

 今まで家族を一番大切にしてきた人が、イエスさまに出会って家族を置いて礼拝に行くようになったとき、家庭は平和を失うかも知れません。でも、イエスさまを知らないままの平和は、見せかけの一時的な平和にすぎません。何か事が起こったときにたちまち失われる平和です。

イエスさまに出会って起こる混乱は、平和をもたらせるための一時的な混乱です。家庭をイエスさま中心に切り替えるための一時的な混乱です。
イエスさまを家庭の中心とするとき、主は家族を祝福してくださいます。イエスさまが責任を持ってくださり、嵐が訪れても壊れることのない平和な家庭となるのです。

 しかし、家族でも、ひとり一人が自分でイエスさまを信じることが必要です。○○家の信仰ではありません。家庭を祝福してくださいますが信仰は個人の信仰です。個人の信仰の告白によってひとり一人救われ、永遠のいのちを頂くのです。
このことは厳粛なことです。でも心配には及びません、みことばの約束があります。
「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒16:31)


10:38 自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。
10:39 自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。

自分の命の心配をして生きてゆく人は、自分で自分の責任を取ることになります。でも、イエスさまに自分の命や自分の計画をお任せした人は、イエスさまが心配をしてくださり、イエスさまがすべての必要を備えてくださいます。

だから私は家族のこと、また自分のことを心配していません。良き方、イエスさまに信頼しているからです。だから人と争って自分たちを守る必要もないのでとても気楽です。
もろもろをイエスさまに祈るとき、すべてはもう解決したのです。祝福することも復讐することも、イエスさまがしてくださることだからです。


10:40 あなたがたを受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。また、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わした方を受け入れるのです。
10:41 預言者を預言者だというので受け入れる者は、預言者の受ける報いを受けます。また、義人を義人だということで受け入れる者は、義人の受ける報いを受けます。
10:42 わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。」
11:1 イエスはこのように十二弟子に注意を与え、それを終えられると、彼らの町々で教えたり宣べ伝えたりするため、そこを立ち去られた。

イエスさまを信じる者はイエスさまの家族だからです。神様はこれほどに、イエスさまのゆえに救われた私たちを、愛していてくださるのだと思います。
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夜の初めのウォーキング

2009-07-09 20:51:41 | Weblog
 血圧も少し持ち直している。80台にはなるけれど81迄にはならない。体が夏モードにやっと切り替わったのだろう。久しぶりに昨日歩いてみたら気持ちが良かったので、今日も歩こうと決めていたけれど、すっかり遅くなってしまった。日が落ちた農道は涼しくて、綿のブラウスを通す風が肌を撫でるように過ぎる。こんな感覚は久しく味わっていなかったので新鮮。

 逢魔が刻と言う・・昼と夜がすれ違ったこの時刻。
「宵」という言葉が天気予報から消えた。「夜の初め」といっている。宵という言葉が通じなくなってきたからだという・・本当かな?宵待草はどうするの?そんなことを考えながら歩いた。行きはまだ、薄明かりもあって豊満な紫陽花の花も見えたから。

目の前に黒々と立ちふさがる桜並木にちょっと緊張する。行きは見えた道も帰りにはほとんど見えなくなっている。むっとするような草いきれはまだ残っているけれど、昼のそれとは大違いで、フィトンチットは変わらないのかも知れないけれど、昼の心地よさとは別物。厚く茂った並木から感じるものは闇の圧迫。

同じ桜並木でも、昼とはまったく違う顔を持っているんだ。そう、それが山の自然の恐ろしさ。暮れるにしたがって家々の窓から明かりが見え、夏のことで家の中の営みが垣間見えて人恋しい。気だるい夏の宵を味わうにはちょっと遅かったなぁ。もう少し早く家を出ていたら気を許して歩けたのに・・。

 主人の言葉を思い出す。「夜はあの道は歩くな。ハビ(まむし)が出るから。」と言っていた。御使いの手を探る、手をつないでもらおうと・・なんか恐いことがあると御使いを探す癖がある。私は強がっているけれど本当はかなり恐がり。

でも、本当に御使いに守られたことがあったもの。電車の中で異様な人に寄られて、すごく恐くて逃げることも出来なかったとき、御使いが目の前に盾のように大きく立ちはだかっているのを感じてホッとしたことがあった。でも、こんな話をすると息子が嫌な顔をする。アハハ・・・。
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お出かけ

2009-07-07 15:51:48 | Weblog
 洗濯機が壊れつつあった。あちらこちらと具合が悪くなって、まだきれいなのでとか、修理ができないか・・なんて、そんな後ろ髪を引かれる思いはしなくても良くなった。
きれいに掃除をして、9年間ご苦労様とリサイクルの引き取りとなった。

 いつも電化製品は息子任せで、私はどんなものが欲しいのかを伝えるだけ。今回も、今まで使い続けてきた二槽式洗濯機ではなく全自動にしたいと伝えて、後はよろしくと任せるつもりだったけれど、どっこいそうはいかなかった。初めて息子が抵抗をしてきた。

彼はなに気に「特急に乗って大阪に行くのと、各駅停車の電車を乗り継いで天理に行くのとではどちらが楽か?」と聞いてきた。うっかりと答えた「そりゃあ、大阪だろうね」この一言で、しんどいから何処にも行けないのだと、今まで断って来た言い訳が崩壊した。だって天理に在る教会に行くときは、しんどいなんて言ったことはないのだから。

「良い機会なのだから、一度は自分で行って見てみろ」と家電量販店に連れて行かれることになってしまった。確かに、あまりにも無責任だったと反省をして土曜日に付き合うことにした。
切符を買ってもらい、乗車位置を教えられ、窓側を示されて座り、店に着くまですべてが彼の支配下にあり、「これなら、楽だろう。」
確かにまるでドア・ツー・ドア。無駄な動きは一切なしだった。
ああ、世代は変わった。昔彼は絶対窓側だったのに・・そこに私が座らされたことで立場が逆転したと実感した。

 店はずらっと並んだ洗濯機、角を曲がってもなお洗濯機。これでは何が何だかわからない。ひとりだったらパニックだろう。あらかじめ息子が選んでいたものを指さされてほっとする。一応、店員さんに質問をしてみる。店員さんは「確かにこれは良い物です。ほらっこれが電気代、これが水量、これが最小で洗える量、どれも良いでしょう。」と近くの物と比べて説明してくださったので、改めて息子の選択に満足して決定した。

私は買い物ではあまり迷わない、性格がおおざっぱな0型。面倒くさい、だから女なのに買い物があまり好きじゃない。
テレビ売り場を見ようと誘われて行ってみた。でっかいテレビがどーんと並んでいて、確かにど迫力。でも、私はたとえお金持ちでもこんなのを家に置くのはごめんだと思う。エコに、いやエコポイントに逆らうようだけれど、疲れるだろう・・。

 疲れたというと椅子に座らされて「此処から動くな。」と言いおいて消えた。動くなと言われても、まったくじっとしているのも脳がないので、以前興味を持ったヘルシオを見つけて寄って行くと、女の子が相手になって下さった。

「どうして、水で調理が出来るの。」「湯気で手が焼けることがあるでしょう。」その一言で「ああ、なるほど!温度なんだ!」そんな私の感動に、説明をしながらしばらく相手になって下さった。楽しかったけれど、あまり邪魔をしてはいけないので再び椅子に戻る。

観察していると店の中はなかなか活気がある。エコポイント景気なのだろう。
お客の応対している店員さんは、椅子には座らずに身を低くして応対して居られる。働くことの厳しさを見る思いがした。

 帰りはデパートによって夕食のお寿司や主人のおみやげを買って帰る。夕方までに帰ったし、それほど疲れないだろうと思っていたけれど、雑踏に出かけることのない私は、日曜日は疲れがでて、出かける準備が出来なくなってしまった。やはり土曜日の外出は駄目だ。


写真は雨蛙。わかるかな?
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解放するために

2009-07-06 13:25:44 | Weblog
次男と詩編51編を読んだ。
「この詩編では、ダビデは卑屈になってはいないね。」と言って、彼はⅡサムエル12章を開いていた。
そして、ダビデの犯した姦淫と殺人の罪によって、愛する子が主に打たれて死んだ箇所から、ダビデの主の裁きに対する態度について話合った。

ダビデの罪のために病気となった幼子のために、断食をして一晩中地に伏して、主に命乞いをしたダビデ。しかし、子が死んだとき彼は
「あなたが宣告されるとき、あなたは正しく、さばかれるとき、あなたはきよくあられます。」と告白した。
彼の悔い、主への哀願は、裁きが行われるまでの間だった。裁きが終わったとき彼は地から起きあがり、体を洗って身に油を塗り、着物を着替えて、主を礼拝した。

 人が、罪をどんなに深く嘆き悲しんだからといって、罪に対してなんのあがないにもならない。悔いの深さによって再び罪を犯さないと言うものでもなく、むしろ罪は夜昼離れることなく絡みつき、より深みに引きずり込まれることさえある。卑屈に身を縮めたり、人目を避けて隠れたとしても、神の御前に何のあがないにもならない。

自分自身がどういう者であるか、その罪の実体をありのままに見て、罪に対しては何も出来ない者であることを告白し、イエスさまのあがないの十字架に身を寄せる。私に出来ることはそれだけ、いや、それがすべての罪に対して、主の備えて下さった唯一の解決法。

十字架にはどんな罪に対しても、どんな人間に対しても、罪からの解放と神との回復が備えられている。このことは何という素晴らしい備えだろう。
そこにあるのは責め言葉や裁きではなく、完全に受け入れる無条件の愛。十字架に行くとき神の愛に出会うことができる。「自分を変えて出直してこい。」などと言われることは絶対にない。
主に服従するとき、ダビデのように罪を着替えて新しくされ、主のみことばを頂いて満足し、再び光の中で自由を楽しんで生きる者とされる。

 主が求めておられるものは何だろう。唯一キリストの奴隷であるということだけ。でも、そのことは私たちの生き方を不自由にして、縛りつけるものではない。引き替えに御子イエスのいのちをくださったほどに、守られている自由なのだから。
それは、自由の中で主を選び取る喜びが準備されているということ。

 人は犬がワンと鳴くように罪を犯す者だとsaltさんがいつも話される。罪は絶えず私たちを取り巻いていて、時に鋭く主に罪を示されることがある。でも、それは改めて責め裁くためではなく、その罪が解決されていることを明確にして解放し、十字架のあがないの偉大さと、そこで与えられる完全な守りによる自由を喜ぶためであり、そして、その自由は私だけの自由ではなく、交わりの中に広がってゆく自由である事を体験するため。
私の持つ自由を知らなければ、どうして兄弟姉妹の自由を実感することが出来るだろう。
十字架のあがないがどれほどのものであるのかを知れば、それだけ自由の広さを知ることができる。

 
神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。(詩篇51:10)
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