石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

「オカァサン」

2009-06-25 20:36:52 | Weblog
 最近はセールスマンも、銀行員も、テレビのアナウンサーでも、いとも親しげに他人に向かって「オカァサン、オカァサン」と呼びかける。私にはとても抵抗がある。私以外にも「嫌だ。」と言われる方を何人も知っている。

初めてセールスマンからそのように呼ばれたときには、親しげにすり寄り、おもねるようなその言葉を私は嫌悪した。あなたにも唯一のお母さんがあるでしょう。誰かれかまわずにそんな大切な言葉を使って良いのかと・・。

 私は12歳で母を亡くし、その言葉を封印した。親戚の人に、叔母のことを「お母ちゃん」と呼びなさいと言われた時、その命令を無視した。そのように呼んだ方が、上手く行くことに気づかない年ではなかったけれど、取り引きできる事ではなかった。

それは私のアイデンテイティに関わること。私を目の中に入れても痛くないほどに愛してくれた人が居た。私の存在を完全に受け入れてくれた「お母ちゃん」という言葉は決して売らないと・・。両親を失って、私を否定する人々の中で唯一の拠り所だった言葉。


 長男の嫁さんに、初めて「お母ちゃん」と呼ばれた時、私はとても感動し嬉しかった。「お母さん」ではなく、長男と同じように呼びかけられて、心の底にすんなりと「うちの娘」と落ち着いた。もし仮に、今後なにがあろうと家の子だと・・。

今、孫達ができて、彼女たちも「お母ちゃん」と嫁さんを呼ぶ。おしゃれな呼び方もあるだろうに、我が家流の呼び方を伝えてくれたことに、彼女のやわらかな愛を感じている。

私は、「お母ちゃん。私も『お母ちゃん』になりました。そして、今、孫たちの内にあなたも生きていますね。」そう言える喜び。そしてこのことにも神様の深い憐れみを感じている。

父なる神様は、私たちを「父ちゃん」と親しく呼ぶことができる者としてくださった。この家族の関係には、イエスさまのいのちという犠牲が払われている。
私たち家族の呼び名にも、色々な犠牲や深い愛、思いがこもっている。


「 しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。」(ガラテヤ4:4~6)
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信じることができますように

2009-06-22 15:22:45 | Weblog
 今日は日本の梅雨らしい、むぅっと蒸せるような暑さ。そして、私は最高血圧81・・あり得ない。こんな天候には特につらい。しかし、頭は痛いけれどこの間のようにはしんどくない。数字と実際の気分の悪さとは必ずしも比例しないとわかった。数字をあまり気にしないようにしよう。血圧なんて、ある瞬間の状態を捉えたのに過ぎないのだろうから。

 昨日次男とヨハネ9章を読んだ。ふたりで癒された盲人の試練と成長を考えた。
彼は、自分からイエスさまに癒しを求めることさえできないような者だった。一方的なイエスさまの憐れみによってすべては始まった。

彼はイエスさまにされるままに身を任せて目に泥を塗ってもらった。「顔に泥を塗る」という言葉があるが、誰だって泥を塗られて喜ぶことはない。彼が後に泥を塗られたと告白しているが、見えない目でどうして塗られた物が泥であると分かったのだろう。きっと、近くにいる人たちのあざけりでそのことを知ったのだろう。

彼は言われるままにシロアムに向かって、泥を塗られた顔のままで歩いて行った。たぶん、嗤われながら・・。
彼はなぜ従ったのだろう。なぜ信じたのだろう。彼にはイエスさまにすがりつくより他に、人生になんの希望もなかった。このまま死ぬまでものごい。その事実に真正面から向き合い、イエスさまの憐れみに出会ったその瞬間の「救い」に、彼はすべてを賭けてシロアムに向かったのだろう。

 時に何もできないと言うことが祝福の入り口になる、あれこれと手段があるとき、片手で祈り、片手で次の手段を準備していて、「あなたの信じたとおりになるように」と言われてしまったら・・・。弱さの中に完全に働く主なのだから。

 彼は素晴らしい成長をしてゆく、繰り返し「なぜ見えるようになったのか」という同じ質問をされながら、今まで恐れていた人々の愚かさ、事実を語ることの強さに気づいていったのだろう。彼は真っ直ぐな心で、ねじ曲がった者に立ち向かって行くことで成長していった。神のなさったわざをねじ曲げようとたくらむその愚かさに、彼は指導者をたちを恐れることはなくなった。

「あの方が私の目に泥を塗ってくださって、私が洗いました。私はいま見えるのです。」
これ以上に強い言葉はない。だから主は、主に飛び込むときに私たちに経験与えてくださる。
「あの方が目に泥を塗ってくださって、私が洗いました」「あの方がチャンスを下さって、私が従って掴み取りました」「私は今見えるのです」「私はあの方を経験したのです」彼の誇りや喜びが手に取るようにわかる。

彼は尋問で、イエスさまのことを「あの方が罪人かどうか、私は知りません。ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」彼は経験をしたことだけを語っている。でも、これ以上の証言はない。

コミュニティーを追放された彼を、イエスさまが探し出してくださったとき、
「あなたは人の子を信じますか。」とのおことばに対して、「主よ。その方はどなたでしょうか。私がその方を信じることができますように。」
彼は癒しを体験をしただけで、イエスさまを知っているなどとは思っていなかった。彼の謙遜な言葉は胸を打つ。

 
イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える。』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」(ヨハネ9:41)
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ぴかぴかのジャガイモ

2009-06-19 15:46:00 | Weblog
 私が朝食を取るころには、いつもの事ながら主人はとっくに朝食を済ませている。
息子が昨夜かなり疲れている様子だったので、ちょっとピザトーストでも作ってやろうと5時に起きて、彼が出かけてから寝ようとしたのだけれど、ウトウト・・としただけで目が覚めてしまった。

毎朝、息子の朝食を作っているわけではない、最近はほどんど放りっぱなし。さっさと自分で食べて出かけているし、「早くしたほうが良いよ」などと余計な事を言って苛立たせるだけなので、仮に目覚めていても部屋から出て行かないことにしている。

 私の食事が終わった頃に、主人はお祈りをしようとみことばのカレンダーを持ってきてくれた。一緒に祈って今日のスケジュールについて話す。「今日はジャガイモを掘ってしまおうか。」「そうだね、来週は雨が続くと言っていたし、掘ってみよう。」と決まった。
主人が先に出かけて、私は詩編を読んでから、帽子、軍手、長袖のシャツと準備を整えてお茶を持って出かける。家から畑が近いという事は最大のメリット。

 私が、カンカン照りの太陽の下で作業をするなんて収穫だけ。鍬なんて振り上げたら何処に落ちるか分からないから、私は小さなスコップで・・と幼稚園児並でないと無理。でもこれは何時もワクワクする作業。そっとジャガイモの根本の土を取り除くと、中から白い芋が姿を現す。今年は耕作面積は少なかったけれど、掘るタイミングは最高だった。傷つけないように丁寧に掘って行く。もう少し植えて置いたら良かった。ちょっと惜しいことをした・・なんて今頃欲が出る。

 「植えるのに時があり、植えた物を引き抜くのに時がある。」心の中で繰り返すみことば。
今年はお天気続きだったので、土はサラサラとして堀った芋の肌が光っている。タイミングというものがどんなに大切か・・痛んでいる芋もわずかだった。ちょっと遅れると肌が汚くなって大きい芋から腐ってゆく。ちょっと早すぎると、小さい芋が多くて美味しくないし勿体ない。雨が続いてしまうと掘るタイミングを失って、腐らせてしまう事になる。農作業は神様の恵みがとても分かり易い。主と共に働くのだと・・。

大した時間もかからずに芋掘りは終わって、キュウリや茄子を見回る。でも、キュウリも茄子もたった3株、良くできればこれでも食べきれないのだけれど、キュウリは病害虫に襲われて、発育不良でまだ2本取っただけ。茄子は良く育っているけれど取るところまでは行かない。糠床を作って待っているのだけれどなぁ・・。

 私はさっさと家に戻り、長男に発送するための準備をする。適当な箱と宛名を書いて、ちょっとひとこと「じいちゃんのジャガイモだよ。カレーでも炊いてね。」と手紙を入れて、先日買っておいた孫達のTシャツなどを準備して、主人が昼に持って帰ったジャガイモからきれいなものを選んでさっと洗って干し、玉ねぎはちょっと失敗で小さいけれど、一緒に箱に詰めて宅急便に持って行く。

 すべてが終わって、ふたりでお茶をしながら「驚くね、今朝まで畑にいたジャガイモが、明日の晩にはさくらのお腹の中かも・・」なんて笑い合う。
主人は氷金時を突きながら、つくづくと「感謝やなぁ。こんなふうに好きなことをして過ごせるというのは・・」という。私も「ほんまに、穏やかで幸せな老後やなぁ。もう他には何もいらんなぁ。」と相づちを打つ。イエスさまが居てくださるからと、私たちは心から喜んでいる。脳天気に満足している。
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今日は快晴

2009-06-16 15:52:55 | Weblog
 今日は朝から、毎週聖書を一緒に読んでいる方とマタイ9章を読んだ。
彼女はいつも「此処は一番大切なところだ」と感想を話されるけれど、今日は、「新しいぶどう酒を新しい革袋に・・」という17節を選ばれて、またも、私は驚かされた。

「私にはよく分かるよ。イエスさまは、今までいろいろと聞いてきた宗教とはまったく違うから。」そういうことを彼女は身をもって感じて居られるのだろう。いつも新鮮な心で聞かれて、みことばを繰り返して読むと言われるそんな姿勢は見習わなければ・・と思う。
聖書を閉じると一緒にお祈りをして、私は直ぐに帰る。世間話に時間を潰すことはほどんどしない。そこに立ち入ることはしないと決めているから。

 良く晴れているので先日から気になっている、夏布団を出してカバーを掛け風を通す。しなければと思ってからいつもちょっとずつ遅れる。でも、出来るときには何でも無く出来ることが、出来ない時にはどうしても出来ないのだから仕方がない。マイペースで生きること。主がさせてくださる分を出来るときにすること。自分を責めることも恥じることもしない主義。

この間も、梅雨前にしようと思っていたお風呂場のカビ取りと、冷蔵庫の掃除を遅れて済ませたばかり。手がけたらどうってことはないのに、取りかかるのに時間がかかってしまうが、綺麗になった冷蔵庫は気持ちがいいし、真っ白になったお風呂場は清々しいから、やれば満足を味わうことが出来る。
こんなことが出来るのも、本当にとても感謝なことだと思う。必ず何時かどんなにしたくても出来ない日が来るから。

 以前、1ヶ月ほど入院をしていた時にしたいことは家事だった。食事を作り、お弁当を作り、洗濯や掃除をしたいだけだった。家族の世話、日常の何でもないことが、私にはそれほど大きな価値を持っているということにその時初めて気がついた。
時にはとても面倒になる、この、普通のことが出来ないということが、どれほど悲しいことであるかということを知った。

 
 遠くで雷がゴロゴロと鳴り出したので布団を取り込み、それぞれの部屋に運び入れてから、急いでスーパーに行き、新鮮な鰺があったのでそれを買った。
塩焼きにし、今夜は茶粥でも炊こう。ああ、旬にビン詰めにしておいた竹の子と、家で取った干し椎茸が水に戻してあるので、それも入れて筑前煮も作ろう。

今日はどんどん仕事が進む、色々な日があるんだ。何しろ生きものだから・・。気候によっても変わるし、体の状態によっても、状況によっては心も変わる。
でも、決して変わらない御方、イエス・キリストのみことばの約束があるから、私がどのように変わろうとも、人の評価がどのように変わろうとも心配なんかしない。自分自身をイエスさまの愛の中にお任せして、心はいつも、のほほ~んとのんびりしているばかり。
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乗り越し

2009-06-15 09:28:44 | Weblog
 土曜日は、血圧最低45最高90ぎりぎりで、体がふらふら、頭がぼ~っとしてまったく動きたくない状態だった。食事の準備中も、目の前をいろんな光が交錯して良く見えないような時がある。食事の段取りがどうにもまとまらず、冷蔵庫の中の目に付いた物を片っ端から作ってしまい、

量がどうだとか・・味がどうだとか・・てんでに苦情を言われて、でもそのことは私が一番分かっているのでいよいよ落ち込む。この体調の悪さは誰にも見えないし、自分でも理解できないのだから。

さっさと食事の後かたづけをして・・その元気は怒りからだと思う。時に、怒りはエネルギーを生み出すから。「もう、切れた!」と、いつもは遠慮をしている一番風呂にさっさと入り、部屋の戸を締めて、暗い床で横になるとすぐに眠ってしまったらしい。

普通、土曜日は明日のために食事の段取りがあるのだけれど、すべてを投げ出して寝てしまった。
日曜日の朝、良く眠ったのだから気持ちよく起きられると思ったけれど、どっこいそうはいかなかった。体の状態は相変わらず最悪。一応起き出して朝食は作ったけれど、だるさと頭痛、寒気さえする状態。

それでも、材料は準備していたのでカレーを火にかけて、またゴロゴロ、ゴロゴロと床でのたうっている。血圧が低いことに付ける薬はない。計って見ると昨日と同じ。自分に「大丈夫、80台じゃないんだから」と言ってみても、体が首を横に振る。
主に、
「礼拝に行く元気を下さい、下さらなかったらこのままです。今、私は何も出来ません。それに礼拝に行かせてくださるなら、この状態を見ている家族からも、何も言われないようにもしてください。」と訴える。

主は、すぐに行く元気を下さった。主人は「大丈夫か。しかし、教会やなかったら絶対動かへんやろうな。」とひと言。「私もそう思う」心から、かつてなく素直に同意して出かける。

本当に主は完璧に備えて下さるとちょっとあきれる。単車に乗ってもふらつくこともなく、乗り換えの駅で小走りに階段を上り下りを繰り返しても大してだるくなく、そんなに息切れもしない。いつもの駅からも、暑くても元気に歩けた。まるで昨日からの不調が単なる気のせいだったみたい。

メッセージの間も集中することが出来たし、姉妹の娘さんがひとりで駅から歩いて、それも暑い中を迷いながらも来られたことが嬉しかった。長男がひとりで教会に来た日のことを思い出して・・。

 ところが帰りの電車で、ひとつのことを思い巡らせているうちに、車内アナウンスで聞こえてきたのは、私が下りる次の駅名だった。つまり下りるべき駅はすでに過ぎていた。でも、思い巡らせていたことに対する答えを見出したのは、乗り越してからだったので、どうしても必要な時間だったと心はむしろ晴れやかだった。
家に着いたのは8時を過ぎていたけれど、苦情を言われることもなく乗り過ごしたことをみんなで笑った。体は完全に回復していた。

 ダビデの恐れは、サウルではなく主の主権を犯してしまうことだった。そんなダビデを友のヨナタンは良く知っていたのだろう。主を畏れる中で結ばれる関係こそ麗しいキリストの香り。
主を通して知ること主がしてくださる。ダビデはいつも主を待っていた。私も主に信頼して待たなければならない。


「どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。」(エペソ3:16~17)
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セキレイの巣立ち

2009-06-12 13:46:40 | Weblog
 主人に呼ばれて表に出るとセキレイの巣立ちだった。やかましく鳴きつつ、父ちゃんと母ちゃんが必死な様子で飛び回り巣の雛を誘導しているが、あちらで墜落、こちらに飛んでも何処に行くのか分からずとにかく落ちる。危なっかしいことこの上ない。

道路に墜落した1羽は、羽を下にして不自然な様子で身動きもしない。大丈夫かなぁ・・気が気ではなくそろそろと近づいてみると、雛は恐れる様子もなく、小さな小さな黒い瞳でじっと見つめてくる。くちばしはしっかりとがっているけれど、尾は小骨のように頼りなく短い。これじゃ思うようには飛べないだろう・・。

みんなで取り囲むようにして見ていると、やかましく鳴いていた親鳥の姿が消えた。これじゃいけないと遠巻きに散って見ていると、やはり父ちゃんと母ちゃんが戻ってきた、くちばしに餌をくわえている。彼らは何時間もてんでに散った雛を呼んでいる。

もう一度雛の様子を見に寄ったとき、サッと低空を飛んできた親鳥が、アッという間に雛を伴って飛んだ。「飛べた、飛べた」私たちの歓声を後にして姿を消し、再び親鳥だけで戻ってきた。まだ巣で躊躇している雛は、飛んだと思っても不器用に元に戻ってしまう。

 親鳥の大変さを思わずにはいられない。彼らはちゃんと飛べるようになったから、巣立ったのではなく、見切り発車のように発つのだろうか・・。風の強い日をなぜ選ぶのかと思うけれど、のっぴきならない彼らのスケジュールというものがあるのかなぁ・・、それとも梅雨の晴れ間、風の強さも都合が良く、これでもグットタイミングなのか?雛には飛ばざるを得ないから飛べるようになるということなのだろう。

今夜は何処で寝ているのだろう。雛たちはちゃんと揃っているのだろうか・・。
驚くほど忍耐強く、勇敢に細やかに世話をする小鳥の夫婦には、いつも感心もし、何かを教わるようにも思う。命のプログラムに従ってのことだろうけれど、巣立ちは感動的で1日中他のことが手につかずつい付き合ってしまう。
とうぶん、あのセキレイ夫婦は力を合わせて、頼りない子ども達を必死で仕込んでいくのだろう。
お隣のご主人「『おおきに』のひと言もないやろうになぁ」
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愛で囲まれて

2009-06-11 12:52:23 | Weblog
主よ。まことに、あなたは正しい者を祝福し、大盾で囲むように愛で彼を囲まれます。(詩篇5:12)

「正しい者」という言葉にいつもたじろぐ、「義人はいない。ひとりもいない」反射的にこのみことばが浮かんで・・、それならなぜ書かれているのだろうと、今日は、真っ正面から見つめていると、今の私には「ああ、十字架なんだ!」と、十字架でイエスさまがなしとげてくださった事実に居ることなんだと、喜びと感謝が広がりみことばが私のものになった。

たとえ迫害の中で信仰を貫いて磔になり、殉教したとても、その行ないによって神の前に正しいとされるわけではない。
正しいお方はひとりイエスさまだけ。そのイエスさまに身を避け、祝福のすべての根拠は十字架にあると知ること。腹の底からそのことを知ること。それ以外にひとことも付け加えない時、みことばの約束は成就する。
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邪魔にならないように

2009-06-10 15:51:49 | Weblog
 家族や、兄弟、姉妹、友人たち・・愛する人々に仕えると言うことは、まず主にいつも期待していないと間違ってしまうことがある。クリスチャンにとって、相談相手になったり、また具体的に助け続けることが、その人にとっていつも益になるとは限らないから。

誰よりも主が、彼らのことを最も心配して働いて居られるということを覚えていないと、今しも主が信仰の深みに導いて、追い込んでおられるかもしれないときに、横から安易な助けを与えてしまったり、気休めのような言葉を語ってしまって、主のご計画のお邪魔をしてしまうようなことがあってはならないと思う。

また、頼られ、頼るという依存関係にどっぷり浸かってしまって、助けることを宗教にしてしまい、それが何時か生き甲斐になったりすることもある。また、助けられる甘さを信仰の甘さと勘違いしてしまっては、その人が直接主とお出会いする邪魔をしてしまうかも知れない。

こんなことを話している私は、こんな話をするのに最も相応しくない者、愛のない者なんだけれど・・。交わりを避けて退き、黙って待っている、そんな淋しさの中で考えている。
今日はホトトギスもウグイスまでも静まっている。ただ、雨がしとしとと開きかけた紫陽花を濡らしている。

 
しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。(ヨハネ14:26)
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ちょっと酸っぱいよ

2009-06-09 15:34:01 | Weblog
息子が、キース・マンハッタンのサクランボのタルトを買ってきてくれた。大阪に行ったときは、いつも此処の季節のタルトを買ってきてくれる。
けれど、今日はケースを開けた途端にその美しさに「うわーぁ」。そして、今までで一番美味しかった。はんなりとピンク色のサクランボを数えてみたら、なんと7個も重なるように乗っている。サクランボってこんなに美味しかったかなぁと思いつつ、子どものように1個ずつ楽しんで食べた。

主人はタルトが苦手でモンブランだったから、惜しみつつも1個上げた。感想は「ちょっと酸っぱい」だったのでほっとした。だって私のように「美味しい!」と感激されたら、もう1個上げざると得ないところだったから・・。

そうでなくても荷物があるのに、いつも持ちにくいケーキの箱を、大切そうに下げて帰ってきてくれる姿に心から「ありがとう」。そうして、その後いつも、本当はもう妻や子に買って帰る年頃なのに・・というちょっと複雑な思いが過ぎる。
本人にはまったくのんきに「僕はやっぱりいちごの方が好きだな」なんて言っているけれど・・。
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必要

2009-06-07 21:18:13 | Weblog
イエスさまはご自分から十字架へ向かって行かれたのだけれど、私は自分から十字架に進んだ記憶はない。 私は十字架のイエス様を知って、自ら共に死ぬという願いを持つような人間ではない。ただ、私は行き詰まって、どうにもならなくなって、動けなくなったときに死を経験しただけ。イエスさまが私を抱きかかえるようにして十字架にかかってくださっただと思っている。

一度死んで、そのことは日常になり、ことさら自分が死んでいるのか居ないのかなんて、あまり考えもしなくなった。
でも、十字架の死を経験して居ないときは、もっぱらこの世のことばかり考えていた。
死んだ時は何も出来なくなり、そして、
イエスさまと共に蘇らされた時から、イエスさまのことを思うと平安が来て、イエスさまのことを話したくなり、みこころのままに生きたくなった。

でも、これらのことのイニシアチブは主にあるように思えてならない。自分の信仰というものが、本当に頼りないものであることに気づいているので、聖霊の助けの中でこそ守られているものなら、やはり、「すべてのことは神から発し・・」なんだと・・。

と、すれば私由来のものは何だろう、唯一それは「必要」なんだと思う。イエスさまがどうしても必要だったから、そこから主の私に対するご計画は始まったのだと思う。主はいつも主を必要とするものにこそ来てくださる御方だから。


「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ2:20)

「すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。」(ローマ11:36)
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