石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

国民生活基礎調査

2009-05-29 13:13:10 | Weblog
厚生労働省による、国民生活基礎調査という封筒が届いた。全員に対する調査かと思いきや、無作為による抽出調査であるという。しかし、この無作為とはどういう方法なのだろう?
だって我が家に来られた調査員は、お隣のお嫁さんだった。無作為の意味がはっきりしないと釈然としない思いが残る。

誰か、この無作為という方法をご存知の方は教えほしいと思う。
何しろ質問の内容が収入や支出、労働状況など非常にプライベートな事柄であるから、こんな方法にかなり驚いている。
まあ、主にあってすべてのことは光の中にさらけ出していけば良いと、サラサラと記入はしたのだけれど・・。
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怒り

2009-05-25 18:50:47 | Weblog
イエスさまのこと、みことばを嘲笑われ悪し様に言われたとき、その人のために取りなすことも、聞かなかったことにすることも出来ない。私は主がその人を正しく裁いてくださるようにと祈る。
それが、私のことを言われたのなら、聞き流してしまうこともできる。たとえありもしないような非難だって、よく探れば当たっていると言えなくもないだろうと思うので・・、そんなことも何度かあったけれど、それでも、私は彼らを嫌うことも憎むことも出来なかった。

私が主に代わって怒るようなことは、分をわきまえない僭越なことだとは知っているけれど、主が、御自身を証ししてくださるようにと求めて叫ぶ。主の裁きによって変えられ、その方が主にひざまずくチャンスとなるようにという願いを持って祈り、 その祈りを最後として、彼らに対する怒りを忘れることが出来るようにさせてくださいと祈った。


ところがその直後、その人が私の重い荷物を持ってくださるということが起こった。その直前に、私は助けられるのだという予感がした。だから、あわてることもなくお礼を言って家の前で荷物を受け取った時、私の感情のしこりは完全に消えてしまった。

イエスさまの微笑みを感じ、主に執りなされたのだと思った。あなたは平和の主、私もあなたの忍耐の中で穏やかに居らせて頂いているだけの者。
人は誰でも主のみ前に、その時その時いろんな言葉を発し、気ままに振る舞い、直ぐに怒り、無知でわきまえのない者・・。ただ、ただ、主の忍耐の中、赦しの中で居らせて頂いて居るだけ、口でののしらなくても、心の中で不平不満を漏らす者。イエスさまに赦されていることの感謝、執り成し続けていてくださるから平和の中で住むことができる。

私は怒りを長続きさせることが出来ない。反発も、不満も長続きさせることが出来ない。主に取りなされた途端に、ふにゃっと心が解けてしまうから・・。
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今日は環境衛生の奉仕

2009-05-24 22:32:47 | Weblog
今年、我が家は当番制の班長なので、地域の行事が手落ちなくスムーズに終わるようにと気を使う。
昨夜主人が、「明日の天気は大丈夫かなぁ」と言った。すかさず私は「大丈夫、祈ったから」でもそんな答え方に、内からザワザワとした感覚が広がっていった。そこで、天気予報を見て確信を補強した。やっぱり大丈夫、雨は午後らしいからそれまでに終わるだろうと・・。

朝、起きてきてカーテンを引いて見ると、すでにポツリポツリと雨粒が道を濡らし始めている。「これくらいなら出来る。」と主人は言い、皆さんが早い目に取りかかって下さって地域の掃除が始まった。
一時止んでいた雨が、大きな雨粒となって落ちて来て、作業をしてくださっている皆さんの服を濡らしてゆく。それでも誰も帰ろうともせず、濡れながら草刈りや道掃除をしてくださっている。たまりかねて主人に、「もう、置いて貰ったら・・」と声を掛けて早い目に終わった。

ひとり一人に「風邪を引かないでくださいね、本当にご苦労様です。」と心から頭を下げる。「これくらい大丈夫、大丈夫」と言ってくださるけれど、私は責任を感じている。この今日の天候には、きっとザワザワが教えた私の信仰の問題が何かあると思えて・・。

早くから気を付けて段取りもぬかりなく準備をしてきたつもりだった。けれど、ぬかりなくやったと思う心に落とし穴があり、その自信が信仰を粗雑にしてしまっていたのだろう。イエスさまと地域の人たちに申し訳ないと思った。「朝からこの降りやったらできなかったのに、出来て良かった。良かった。」と言ってくださったけれど・・。

それでもイエスさまの憐れみによって、高い梯子に登って作業をしてくださった方も、危険な崖で作業をしてくださった方も、怪我もなく終わることが出来て本当に感謝。
心から「どなたも風邪を引かれませんようにお守り下さい。」とお祈りをした。
そうしたら先程から私は、グズグズとクシャミと鼻水。ああ、でも私で良かった。
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ホトトギス

2009-05-23 14:45:34 | Weblog
 良く響く、あのホトトギスの声を今日聞いた!そう、もう夏なんだ・・出しっぱなしのストーブを終おう。そんなことを考えながら、40センチ以上に育ったトマトの鉢に、しっかりとした支えを立てて、沢山のススキの葉を刻んで敷き、脇芽を取り除いた。

通る人ごとに声を掛けてくださる。確かに今年は非常に元気でたくましそうに育ったが、これがくせ者で、本当はもう少し細い方が扱いやすいし、実も付きやすいのだけれど・・。人間と同じで太りすぎは危険。毎年育てていても、一度として「上手くいった!最高。」なんて時はない。まあ、まあ・・の連続。

それでも「いつも上手ね」とお世辞をいってくださるけれど、それはきっと「この小さな鉢で・・」とずいぶん甘く割り引いて言ってくださるのだろう。
「大事にしているね。」それは事実。楽しみだから自然にこまめに手を掛けるようになる。すべてを楽しんでいるのだから。


 でも、なぜ、もっとイエスさまを知ることを楽しめないのだろう。こんなつまらないものになら、自然に手を掛け、時間を掛けることができるのに・・。どれほど無条件に慕い求めても、受けた恵みには決して及ばないことを、幾らかは知ってはいるのだけれど・・。

 イエスさまに付いて行く前に「父を葬ること」を先にさせて下さいと願った人に、イエスさまはそれを許されなかった。そのことはずっと心に残って、
「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。」このみことばがあまりに鮮烈だった。

それほどに、イエスさまに従うということは切迫したことであるんだと、「直ちに」でないと時は持ち去れて、「私も死人たちのひとりになってしまうことがありうる。」ということなのかと、心に焼き付いて離れない。

 主は、確かに忍耐強い御方で時を遅らせて下さっている。しかし、それは主の憐れみであって、私にとって主は、父の死をも捨て置いて直ちに従順するべき御方であるのだ。その「時」は毎日の生活の中で、日々起こるすべての事柄の中で問われ続けている。


「イエスは別の人に、こう言われた。「わたしについて来なさい。」しかしその人は言った。「まず行って、私の父を葬ることを許してください。」すると彼に言われた。「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。」(ルカ9:59~60)
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主に飛び込む

2009-05-20 10:23:04 | Weblog
主が、私たちに最良のものを与えようと働いてくださるためには、今私たちが、持っている計画の中心を主に譲る必要がある。主だって働く場がなければ、どんなに祝福したくてもそのチャンスがないということになる。

私たちが自分で守っている場に主をお迎えしてお任せしようとする時、最大の敵は私たちの賢さである。知恵や知識があるので大切なことならなおさら誰にも任せたくないと、自分の支配の中に握りしめてしまう。

不安を持ちつつも握りしめている愛するものを、主の前に震えながら置くとき、主はどれほどいとおしく思ってくださることだろう。それは決して主を試みることではない、主に負ってくださいと願うことはみこころにかなっている。私たちの主はそういう御方である。

それは主が私たちをふるいに掛けるためではなく、もっと御自身との深い交わりに導き入れようとの切なる愛の故である。この世の苦しみを共に負いたいと願ってくださる愛の故である。

イサクをモリヤの山に連れ言ったアブラハムを思うとき、そのことが主への捧げものであることに、喜びを覚えることが出来る。飛び込んだ主の御手がどんなに温かく心地よいかは、聞いても見てもわからない。体験して初めて知る主の体温である。

「どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜び、平和に満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。」(ローマ15:13)
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マスク

2009-05-19 19:20:47 | Weblog
息子は会社に新型インフルエンザを持ち込まないために、通勤にマスクを使っている。私も電車に乗るときは、マスクを使おうかな・・と思ったけれど、この年ではウイルスにも相手にされないように聞いていたので、なんとなく付ける気はしなくて鞄に入れっぱなしだった。でも、近くで高校生くらいの男の子が咳いているときは、正直ちょっと緊張した。あわてて付けるのも、どうかなあ・・ということで後悔。

我が家にも数枚のマスクはあるけれど絶対量が足りないので、すごく遅ればせながら買い足しておこうと、ドラッグストアとか、スーパーとか、めぼしき店を尋ねてみたけれど、みごとに何処も棚ごと空っぽ。入荷の見込みもなしとの張り紙が一枚。こんな田舎町でも・・なのか、と分かり切っているといえば、まあ当然な結果。すごい出遅れ。そもそも、準備にあまり本気ではなかったから・・。

仕方がないのでガーゼを買ってくる。いざとなれば手作りしようと決めた。使い捨てのマスクを繰り返し使っているよりも、ガーゼのマスクを毎日洗って使う方が絶対に良いと思う。テレビでも同じようなことを言っているのを聞いてちょっと安心。しかし、私が作ったマスクを息子が使うことは絶対にないだろう・・そんな気がする。

新型には今までのインフルエンザの予防注射は役に立たないのだろうな・・。今年の冬はどうすることになるのだろう・・。分からないことが多いけれど、イエスさまがすべてをご存知なのだと知っているので、臆病な私でもやたら不安になったり取り越し苦労をすることもないのは、いつものことだけれど本当にとても感謝。


「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」(ヨハネ14:27)
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青々と、緑、みどり・・

2009-05-15 14:43:51 | Weblog
実は、最近ほどんど歩いてなかった。ウオーキング0。というのも血圧低下でものすごく動きたくないから。体がなまりになって私がなまけになっている。

でも、でも先日、いつもみことばを教えているつもりの彼女が、
「私は自分が今日しようと思っていることは、痛みをこらえてでもするよ。もう、この年になったら、毎日、何処かが痛いし、しんどいから、そんなことをかまっていたら何も出来ない。」
このひとことにお尻蹴飛ばされた。私よりだいぶ年上なのに、いつも行動的な彼女の努力を教わり、甘ったれな自分を反省した。

それでも、それから数日経過して、やっと今日クリスチャンなのに御神輿があがったというわけだけど、それでもなお玄関先で、主人が取ってきた破竹の子が、「私を始末してから行けばどう?」なんて誘惑してきた、さすがに心で蹴飛ばして家を出た。この手で、昨日も一昨日も歩けなかったんだから・・。

歩き出すとたちまち足、腰が痛い・・。体がやっぱり鉛化している。足が思うように上がらない・・。でも、この間、柳本駅から教会まで歩いたときには何ともなかったのはなぜだろう?この不思議はなんども経験している。

今日は体が一足ごとに「止めて。止めて」と言う。「帰ろう、帰ろう」と言う。ブツクサブツクサ言う体と格闘しつつ、ふと目を上げると、そこは緑、みどりの世界。それぞれの木々の小杖に、ピッカピッカの若葉が幾重にも重なって、木々ごと微妙に色を変え、かたちを変えて若緑。目が眩むほどに鮮やかでまぶしい。

感動で心の中まで緑になってしまったよう・・。桜の木の下は特別気持ちがいい。ひんやりとフィトンチッドがしたたり落ちてきて、体を包みこんでくれそうな心地よさがある。
それに、大好きなアザミの赤紫の花に沢山であった。そう、そうアザミの季節だったんだ。ジャーマンアイリスにも出会った。矢車草にも・・。
つぶやきは感動になり、体の痛みは忘れてしまっていた。
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生活の中で

2009-05-14 19:22:52 | Weblog
主のお恵みによって、あり得ないことが起こったと感謝にひれ伏しても、立ち上がった時には台所に立って、献立を考えジャガイモの皮を剥く。
ペテロのしゅうとめも、イエスさまに熱病を癒された時、すぐに台所に立ってパンをこね、お茶を入れてイエスさまをもてなした。

死からよみがえらされた少女の両親に、イエスさまは食事をさせるようにとおっしゃった。死んでいた娘がよみがえったという、そんな驚きと喜びの非常時に、少女の母は台所でパンを焼き、肉を調理したのだろう。イエスさまはそのように、日常に戻るようお導きになったのだろう。

女は、たとえ国が戦争に負けた日でも、昨日と同じように夕食を考え台所に立ち働く。そんな絶対の日常を持っている。
涙を流しながら野菜を刻んだり、喜びにふるえつつも危なげなく魚を捌く。私が聖霊のバプテスマを受けたのも台所でだった。手に布巾を持っていたこと覚えている。

みことばを思い巡らせる時も、座って聖書を読んでいるときではなくて、掃除機を掛けているときだったり、洗濯をしている時だったりする。
そのことは、私の日常のど真ん中に主がいてくださるということだと思う。家庭の真ん中にいて下さり、家族の細々とした事さえ、すべて知っていてくださり、地域にいつの間にか影響を与えてくださるお方。
私は此処で主に守られ、教わり、恵まれてきた。私は本当に泥臭い、こてこての生活派?クリスチャンなんだろうな。
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衣替え

2009-05-13 17:04:14 | Weblog
今日は、タンスの入れ替えをした。これが一仕事、合い物もあって、暑くなったり涼しかったりでどちらも必要な今日この頃だから。

時間のかかる仕事なので、エンヤのテープを聞きながらのんびりと片づける。以前はエンヤを聞くことがちょっと辛かった。このテープはずっと以前に長男から貰ったもの。一度聞いてたちまち好きになったけれど、だんだん切なくなって聞くことから逃げていた。
心に染みる彼女のメロディは、至らぬ子育てしかできなかった長男への申し訳なさにつながって聞くのが辛くなってきたからだった。

次男のことでいっぱい、いっぱいで、体も心も疲れ果てていたあの頃。小学生の彼に「我慢をしてね。」と言いつけ、私は彼の子育てから手を抜いてしまっていた。だから、彼のわがままを一度も聞いた記憶はなく、泣き言を聞いたこともなかった。ひとりで勉強をして、ひとりで悩んで、ひとりで成長していった。そんな日々が鮮やかによみがえってくるから・・・。

でも、いつの間にか楽しんで聞くことが出来るようになっていた。
思い出は、時には悔いを運んできて、鋭い痛みを伴うことがある、そして、過ぎ去った日を取り戻すことは出来ないから、いつまでも責められ続けることがある。

けれど主に逃げ込んだ時、主に身を避けてすがった時、十字架であがなってくださったものがどのように大きいものか、深いものか、広いものかを教えてくださったから、私は平安を得ることができた。
また、目の前に、彼が穏やかな父となり、娘達を慈しんで育てている姿を見せて、安心させても下さったから。

ウォーターマークが流れている。これは特に大好き!
私にエンヤを楽しむことを取り戻してくださったので、息子の優しさを味わうことが出来る幸いに浸っている。

ずいぶん片づいて来た。いっぱいに開いた窓から緑色の風が吹き込んでくる。イエスさまの香りがするよう・・
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赦しの中で

2009-05-12 13:43:43 | Weblog
静かなことばは心に染みこんでゆく・・。

「私は信仰を持って選んだ」などと言うな。と・・
わたしがその選びに追い込み導いたのではないか。

自分で選び取ったなどと勘違いをしてはいけない。
まして、そんなふうに人に強いてはならない。

わたしはいつも待ったではないか
いつもいつもどんなにか待っているではないか
わたしがどれほど忍耐を持って待ってきたのかお前は知らないのか

細い御声で静かに解いてくださった。
恥をかかせないように、怒らせないようにと・・
主が語ってくださったように私も話すことができますように。

主はふれてくださる
「わたしの心だきよくなれ」
主よ。感謝します!
あなたの御側に、失敗をした時も居ても良いのですね。
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