石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

祈りつつ

2009-04-27 22:30:33 | Weblog
今日は5時起き。息子に「自分でトーストを食べて出かけて」と言ってあったけれど、昨夜遅くまで仕事がらみのことで起きていたので、何かできることをしようと朝食を作ることにした。

特別サービスはピザトースト。口内炎ができているらしいから、新玉ねぎとピーマンを少し多めにする。ちょうど焼き上がったところへ、寝不足にもかかわらず、わりに元気に起きて来てほっとする。主に感謝。食べた後も出かける前に、慌ただしく昨夜の続きをしている。門を開けて自転車を出すところまででサービスは完了。この時間の電車に乗り遅れたら遅刻間違いなし。でも、もう私にはどうしようもない。腹を括って静かに見ていることにする。

ギリギリになって、「後は会社に行ってからにする」と言って、新緑にもかかわらず、ひやりと冷たい早朝の道を勢いよく飛び出していった。やれやれ、部屋に入ってから祈る。大丈夫、平安がある。

家から通勤するようになって一ヶ月、ずいぶん慣れてきたけれど少々どちらも疲れている。何より、睡眠時間がどうしても短くなってしまう彼の体がいつも気がかり。もうすぐ連休、彼はそれでも黒部へ2泊3日の撮影旅行に行く。そうすると私たちもちょっと休めるだろう。


もう、眠れそうにもないので、明日の学びの準備をする。マタイ7章。有名なみことばが次々と出てくるところ。
「豚に真珠」「求めよさらば与えられん」「狭い門から入れ」この言葉がどんなに無意味に使われていることだろう。何を求めるべきかが分からないで、空しく乱用されているみことば。せめて、求めるべき御方のことを聞こうとしてくださる方に、正しく伝えることができるようにと祈る思いで準備をする。


長く福音を伝えて来ているけれど、退職された後趣味と実益をかねた新しいお仕事に打ち込んでおられて、交わりの遠ざかっている方が先日電話を下さった。そのとき、ちょっときついことを言ってしまったので、気になっていたから手紙を書く。
そして、サービスとして、彼女にも朝から準備をしたマタイ7章を送ることにする。彼女が喜んで読んでくれることは知っているから。

だったら、いつもそうすればよいのかも知れないけれど、そうしていた時もあったけれど、今はちょっと違うような気がするから、時間を取って来られるのを待っている。ちょっと時間を割いて欲しいから。ちょっと世から静まって欲しいから。いつも受け身ではなく、ほんの少しでも自分から求めて欲しいから。

「求めなさい。そうすれば与えられます。」これは、同時に二つを求めることは出来ない。ただひとつのこと、ひとりの主を求めて欲しい。此処が勝負と祈りつつ待っている。
コメント (4)
この記事をはてなブックマークに追加

ことばなる方

2009-04-23 13:59:28 | Weblog
言葉が恐くなることがある。でも、言葉に拠らないと何も伝わらない。言葉は剣にもなり、癒しにもなる。
言葉を失うことがある。絶句するときは我を失うとき、自分が消えて無くなってしまった時。

言葉に拘ることがある。探り求め、ぴったりな言葉を見つけ出すまで苦しむこともある。見つけ出した時の喜びはとても大きいから・・また、ぴったりを探すのだけれど・・語彙の貧しさは悲しい。普段着しかないシンデレラのよう・・。

言葉は心を語るから恐い。言葉は偽ったり、飾り立てたりもするから恐い。信仰を言葉にするとき、それは露わになり、具体的に本性が現れるから恐く思うことがある。無知も、愚かさも、弱さもさらけ出て書くことは、主に覆っていて頂かないと、まるでストリップショーを演じているような惨めさを感じてしまう。避ければ書かない言葉によっても現れる。言葉は語って人を現わし、語らないことででも現れる。

主に知らされた真実を、常に語れるかと言えばほとんど語れない。そんな場所に無言で居ることに意味はあるのかと考えた。でも、イエスさまを持っているなら、イエスさまは語られる。主と共に居るなら真のことばが現れる。人の雄弁ではない、主の存在から出ることば。それこそ、天地さえも創造することば。人の深いところに唯一届く救いのことば、それだけが私の望み。

 
「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」(ヨハネ1:1)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

キリスト者の交わり

2009-04-20 06:56:39 | Weblog
主のみこころを歩むことをどれほど求めているか・・・それは、選び取れそうでいて、私たちが自分で選べることではない。いつもいつも課題を抱えて、日々の暮らしのど真ん中で互いに模索していることを深く感じた。

「兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、」(ピリピ3:13~14)

話題はありふれた仕事のこと、就職のこと、自分自身の性格のことなど・・・、そんなことをありのままに語り合って、誰もがみことばに光を見出し、拠り所として結んでおられる。
「私は主に向かい、声をあげて叫びます。声をあげ、主にあわれみを請います。」(詩篇142:1)

思い返すとき、共に語っていたその真ん中にイエスさまが確かに居てくださった。そして、私たちはみんな同じ方向イエスさまを見ていた!そのことに気づいた。
だから、本当に少ない人数で、それも孫ほども年の差のある、環境も立場もまったく違っている者同士でも共感することができた。それもこんなにさわやかに・・・
コメント (4)
この記事をはてなブックマークに追加

グーグー・・ムニャ ムニャ

2009-04-13 23:25:06 | Weblog
羊は牧場をグルグル、グルグル回っていたけれど、
主のみ前で、ごろんとひっくり返って眠ってしまった。
主が起こされるまで オヤスミナサイ・・
コメント (4)
この記事をはてなブックマークに追加

2009-04-03 18:21:08 | Weblog
 健康についての番組を見ている主人に、「私の症状とよく似ているでしょう」と言いつつも、忙しくてテレビは見ては居られない私に、主人が薬の名を書いたメモを指し出す。「ええ薬が出たらしいよ」でも、

「いらん、いらん。放っておいても直るから。」とメモを受け取ろうとしない私に、「せっかく教えてやったんやないか」と主人は怒って、自分の部屋に向かう。
「あんたはそんなことくらいで怒るけれど、せっかく買ってあげた靴を履こうともしないやないの。」自分の言葉に私は驚いた。絶妙のタイミングだったから。

 主人は絶えず膝の痛みを訴えていたから、「良い靴を買おう」と気のない主人を説得して店に行き、足にぴったり合う物が見つかるまで、次々と靴を脱いだり履いたりを繰り返した。面倒くさがりの主人は「これでええ、これでええ」と適当に言う。いつもこの手でいい加減な靴を買ってしまって失敗をしている。

今日はどうしても合う靴を見つけるまでは妥協しないぞと、ケチな私が値段は見ないで、良さそうな物を履かせ続けた。やっと「お、これは気持ちええなあ」とのひとことを聞いた。ただし、「ちょっと足が詰んだ感じやけど、靴下を薄くしたらええと思う」という。どうして靴に足を合わそうとするのかとあきれながら、もう1サイズ上をはき直すように無理に勧めると「ああ、ぴったりや!」ということで、やっと見つけた靴だった。

 これほどに苦労をして、高いお金を払って買ったスポーツシューズだったけれど、「今度どこか行く時に履こう」と下駄箱のうえに上げてげてしまった。
「治療のためだから、いつもこれを履いて、履き潰してね。」と言ってあったのに・・。私はもう怒り心頭に発す状態。一度だけ蹴飛ばして見なくてもよい所に終ってしまった。

「でも、でも・・主人の性質を知って居るではないか、無理矢理が通じる人ではないことも。祈っている、祈られてもいるのだから押しつけは止めて、すべてを主にお任せしよう。」
と、やっと主にたどり着いた直後に、あの場面が備えられていた。そして、あの一言が備えられていた。
次の日、もう一度出してきて玄関に並べて置いた靴を主人は履いて行った。そうして、今日のひとこと「足首からぴったり包み込まれるようで、これは楽や」

イエスさまの原則を知っているのに、無理矢理を通そうとしては失敗する。でも、主はいつも忍耐強く導いてくださる。私が気づくまで待っていてくださり、平和に至らせてくださる。
私も主から忍耐を頂きたい。

コメント (8)
この記事をはてなブックマークに追加