石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

息子のアルバイトのこと

2009-03-30 19:35:04 | Weblog
 今年は何かと忙しく、ゆっくりいつものウオーキングコースを歩くことも出来なかった。久しぶりにいつものコースを歩いてみれば、なんと野山は花盛り。ウグイスはまだぎこちない鳴き方だけれど、それなりに鳴いている。「がんばれ!」

桜の花は一日違いで満開になっていた。ソメイヨシノは華やかだけれど、チラホラ咲き始めた山桜には楚々とした風情がある。真っ黄色いラッパ水仙に菜の花、レンギョウ、タンポポ、本当に春は黄色い花から始まる。ああ、ミモザも見事に咲いていた。

 コースの途中に、椎茸木を山と積み上げて作業をしている人がいる。これは、雑木に椎茸の菌を植える作業。長男には大学生時代、1年分の小遣いを稼ぐための重要な仕事だった。なにしろ我が家で出してやれたのは、学費と本代くらいだったから。

 主人が働き出した長男を心配して、そっと見に行ったことがあった。「あいつはすごいわ。見事に手早くやっていたよ。」誇らしげにその様子を話してくれた。
椎茸の原木は生木で大変重くて重労働でもあるし、木に穴を空けて、菌を詰めるには素早い動作が求められる。

でも、男は一度は力仕事をした方がよいと私は思っていた。彼は情報関係なので,たぶん一生デスクワークになると思えて、アルバイトは、体を使う仕事をすることに賛成だった。

 ある日、長男を連れて椎茸屋の奥さんが血相を変えて玄関に飛び込んで来られ「大事な息子さんに怪我させてしまって、本当に申し訳ないことをしました。」と、平謝りに謝られた。
側に立っている長男の腕には、痛々しく包帯がグルグルに巻かれていた。機械に服の袖が巻き込まれて、腕を傷つけてしまったとのこと。

病院でちゃんと治療を済ませて送ってくださったのだった。それからも手厚く面倒をみてくださった。幸い怪我は大したことはなく、腕には傷が残っているけれど、今では勲章のようにも見える。男だものね、傷のひとつくらいね・・。

今でも、そのお家の人たちに出会うと「息子さんはお元気ですか」と親しく話しかけてくださる。大事に使ってくださったし、長男も精一杯汗をかいて働いたお付き合い。

 この季節、椎茸木の山や機械の音を聞くとその頃のことを思い出す。その長男も今では2児の父。彼にはほとんど優しくできなかった・・。でも、孫を目に入れても痛くないほどに、優しく育てていることが嬉しい。
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「主よ。この目をあけていただきたいのです」

2009-03-27 11:31:03 | Weblog
「しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。」(マタイ6:29~30)

 主は、野の草の一日のいのちにさえ、美しく装って備えて下さっている。その一本はちゃんと覚えられている。
まして、イエスさまから永遠のいのちを頂いた者の、その価値を誰よりもよくご存知の主が、本当にどれほどにか、よくしてくださらないわけがあろうか。
知ってはいても、折々に安息し得ないこの信仰の無さはなんだろう。

 私は本当に、ソロモン宮殿の人々の優雅な衣よりも、野の百合の方が美しいと思うのだろうか?野で百合の花を見つけた時には、それは心を打たれるけれど・・・、歴史と伝統によって、技術とセンスを磨いて作り出された一枚の着物に、それ以上の美や価値を見ているというのが私の事実。
イエスさまと私の目は違う、イエスさまの評価と私の評価は違っている。

永遠のいのちに相応しい神の備えは、野の百合をイエスさまの御目で見るように見ないと私には見えない。きらびやかな物や、世の嵐に心を奪われるから、明日の心配から逃れられない。このことが、主が備えて下さった祝福の美しい日々を汚している。

「イエスはかわいそうに思って、彼らの目にさわられた。すると、すぐさま彼らは見えるようになり、イエスについて行った。」(マタイ20:34)
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隙間のスミレ

2009-03-26 15:26:53 | Weblog
 主人は膝を痛めてから、歩くことに臆病になっしまって、どんなに近くに行くにも車に乗って移動している。私はついつい、「車の乗らないで歩かないと駄目だよ」と口うるさく言ってしまう。すると家は主人にとって安らぎのない、居心地の悪い所になってしまう。

 そんなことを考えながら歩いていたら、道ばたの舗装の間に、濃い紫色のスミレが数本咲いていた。「ど根性スミレ」なんて名付けられそうだけれど、それはあまりにも似合わない。スミレに根性があるわけがない。スミレのいのちにそんな汗臭い混ぜものがあるわけがない。

主が備えられたプログラムに従って、隙間があったから芽を出し、蕾を結び、花を開いて、小さな小さないのちを輝かせている。誰も知らない隅っこで、いのちの主をほめたたえている。いのちによってそうせずにはいられなかったから・・すべては主のなさったこと。

 物事が思うように行かない時には、何もしないのがいいのだと思った。私には祈ることが出来る。祈り終えれば黙って、ただ、普通に暮らして待とう。
主は、最善に導いてくださる御方。時が来れば主はなすべきことを導いて、その力をくださるから大丈夫。そのとき、その力が自分から出ていないことを知るなら感謝が生まれる。このことは主の助けであると、はっきりと知ることが出来ることが、それが一番大事。

「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮んだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」(Ⅰコリント2:9)
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定期券を買うのも大変

2009-03-20 19:56:43 | Weblog
 定期を買うには、窓口の開いている時間帯に行かなければならない。先週の土曜日に息子と一緒に行ったのだけれど「障害者割引にしますか。」と問われたことから、話はスムーズには進まなくなった。
私は会社の負担を少しでも軽く出来るのだからと、「そうすれば」と勧めたけれど、彼は「ちょっと待って、会社と話してからにするから。」と購入を中断してしまった。私は理由が分からず「なぜ嫌なの。」と問いただした。
「混雑しているバスの乗り降りで話かけられるのが困るからだよ。『障害者手帳を見せてください』と言っているのか、他のことを尋ねているのかがわからないで、後の人達に迷惑をかけてしまうのが困るんだ。」それを聞いて、私は親なのに彼の障害の困難さについては何にも分かっていないと思った。

幸い会社は普通の通勤定期で良いと言ってくださったので、時間のない息子に頼まれて買って来た日の夕方、バス会社の窓口から電話がかかってきた。瞬間、何だか嫌な予感がした時、
「定期の名前を間違いました。今度書き直しますから、都合の良い時に窓口まで来てください。申し訳在りません。」とのこと。
とっさのことだったので「分かりました」と言って電話を切ったものの、あわてて定期を見てみると、氏が2文字入れ替わっている。
発券に長時間掛かり、私はすっかりイライラしてしまって、渡された時に良く確認しなかった。そのことをとても後悔した。
そのままでも使えますと言われても、名前が違うということは他人の物。まして会社が違う名前の定期に交通費を払ってくれるわけもない。

今日、息子を乗せて3度目に出かけると窓口は祭日で閉まっていた。私が息子に
「私も確認をしなかったことが悪いとは思うけれど、なんで向こうが間違っているのになんの責任も取らないで、私たちがこんなに何度もウロウロしなければならないと思う?理不尽だ」怒っている私に息子は
「落ち着け。僕は責める気持ちになれない。僕だって間違った時、みんなに迷惑をかけてしまうから・・・むしろその間違った人に同情しているよ。親近感を覚えているよ。」その言葉に私は笑ってしまった。大笑いをしてなんだか肩の力がすっかり抜けてしまった。
「明日、自分で行って来るから、もう心配しなくても良いよ。」と息子に言われてこの問題は終わり。

そう言えば今朝、
「だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」
マタイ5章後半を繰り返し読んでいて、なぜイエスさまはこのような絶対にできないことを言われたのだろう・・と思いを巡らせていた。そうして、
「ああ、だから助け主なる聖霊が私と共にいてくださるのだ。」そのことに気づいて、私にはできなくても、「どんなことでも神にはできる。」と言われているのだから、私がそのことを信じきることができるようにと祈ったばかりだった。
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種は腐らない(いのちがあれば)

2009-03-12 15:17:25 | Weblog
いつものように、共に祈って準備をしていたみことばを開く。今日はマタイ5章1節から山上の垂訓をご一緒にゆっくり読んで行く。

雑談の時に、彼女は「昔、近辺の人が沢山、大川で洗礼を受けたことがあると聞いたよ。あの人もこの人も・・。賢い○○さんに頼まれて受けたと言っていたのを聞いた。」そんな話をした後、ぽつんと「勿体ないね。」と言われた。「そうね。せっかく洗礼を受けても、イエスさまを知ることが出来なかったなんてね。」

バプテスマのヨハネから、バプテスマを受けた人々のうち、一体どれだけの人が、イエスさまを受け入れたのだろう・・。
最後にもう一度、ひとつのみことばを読み返して、イエスさまにとどまり続けることをお勧めしてお別れをした。

 
「『 心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。』

心がきよい人と言われては、『私の心はきよいです』なんて誰も言えないでしょう。
『人の心は何よりも陰険で、それは直らない。』(エレミヤ17:9)と書かれています。では、なぜ、イエスさまはこう言われたのでしょか。それは、ご自分がその陰険な人の心を十字架の上であがない、『もう、きよい』と約束してくださるからです。

つまりこのことばは『きよい者に成りなさい』ではなくて、イエスさまの十字架のあがないを信じなさいと言うことです。そうすれば神を見る、つまりイエスさまを知ることが出来るという約束です。それはとても幸いなことです。今も生きて働く神、イエスさまといつもいっしょにいるという幸いです。」
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こだわり

2009-03-10 14:58:41 | Weblog
 息子の引っ越しの荷物を取りに、土曜日は主人が愛用のトラックで行ったのだが、そのトラックの幌は寄る年波でボロボロになっていて、ほとんど役に立たない。この幌のことで私たちは幾度かもめた。新しい物を買うようにと勧めても、主人は手を尽くし費用もかけても、決して古い物を手放そうとはしない。

まるで、幼児が自分のタオルケットにこだわって離さないのに似ている、そういえば、長男は小さい頃、お昼寝のタオルケットを引きずって離さない時があったなぁ。あれは可愛かったけれど、主人はみっともないだけで、私はいつもイライラするばかり・・。それでこのチャンスに取り替えようと計って、やっと新しい物を買うことに成功!

やっと上手く行った。これでうっとおしいボロともオサラバと喜んで、「明日の朝は早いからと直ぐに取り替えておいたら」と勧めても、「後でちゃんとするから。」といっこうに外そうとはしない。翌日出発前になっても外す気配はない。説明を聞くと、新しい物は持って行って必要ならその時に使うと言う。

こんな時の私の強い見方はイエスさま!静まって「主人の心を変えて、執着を取り除いてください。」祈り終えるまでに変えられたのは、なんと、私の心。私のこだわりがアッという間に取り去られて、なんとなく主人の気持ちが分かるような・・しょうがないなぁ・・というような気になってしまった。参ったなぁ・・。でも、ボロボロの幌で出かける主人を、「ご苦労様」と声をかけて、機嫌良く送り出すことが出来た。
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献金のこと

2009-03-05 15:34:25 | Weblog
 今週、政治があまりに酷いから祈ろうと言われていた。でも、私には何をどのように祈ればよいのかはっきりしなくて、祈ってはいても確信がない。

「彼らが、『私たちをさばく王を与えてください。』と言ったとき、そのことばはサムエルの気に入らなかった。そこでサムエルは主に祈った。 主はサムエルに仰せられた。『この民があなたに言うとおりに、民の声を聞き入れよ。それはあなたを退けたのではなく、彼らを治めているこのわたしを退けたのであるから。』(1サムエル8:6)
を思い出して、私たちの王の王主の主は、ただ、おひとりではないか、終わり。なんて思ってしまう。

 政治献金という汚職の話題は、昔から少しも変わらないパターンの繰り返し。すべてを聞くよりうんざりが先立つ。
政治家に対して、我々のために働けとお金が支払われる。政治家から申し込んでも、業者から申し込んでも同じことで、政治という彼らの働きが買い取られることだと思う。お金は支払った業者から決して離れることはなく、受け取った者に自由はなくなり、政治家は鵜飼いの鵜となり、給料として支払われる国民の税金の詐欺師になり下がるということ。

 教会で捧げられる献金は、純粋にイエスさまに感謝と喜びによって捧げられるもの。それは捧げた瞬間に主に渡り、捧げた者には感謝と喜びの記憶だけが残る。でも、教会という組織の運営のためや、牧師に捧げられ、あるいは、自己の夢や計画のために捧げられることがある。それらはいつまでも見張られ数え続けられる。私にはそれは政治献金とあまり変わりがないように思える。


「苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。」(Ⅱコリント8:2)
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引っ越し

2009-03-04 15:00:17 | Weblog

 息子の社員寮の引き上げが週末と決まる。13年、いや14年間かも・・・、本当は10年が期限らしいのに長居させてくださった。
温々と守られた場所。朝、聖書を読むことが出来たのは、遠くから通わなくてもよくて、時間に余裕があったからだろう。経済的にもずいぶん恩恵を受けてきたと思う。

 難聴ゆえに普通のマンションでは、私は何かと心配しなければならなかったと思うけれど、入寮当時の管理長さんは細やかに気遣ってくださって、何かの時にはと部屋も近くにしてくださり、病気の時には車で病院に付き添ってくださったりと感謝することばかりだった。

 彼が家から通勤することは時間的にもちょっと大変だ。早朝に家を出ることになるだろうし、帰りは遅くなるだろう。考えなければならないことが沢山あるけれど、これもひとつの自立への道筋、自宅ではなくマンション暮らしも勧めてみたけれど、仕事が忙しくて今はその余裕がないらしい。

私たちは、平日を主人とふたりでのんびりと暮らしてきたので、ちょっとしんどいなぁ・・というところも正直あるけれど、まあ、やってみよう。長い間楽をさせてもらったのだから。

先日テレビで、懐かしい昔の映画「ジャイアンツ」を見ていて、主人公の「何ひとつ思い通りに行っていない。」という言葉と、彼の成長の軌跡から「思い通りに行かないこと、それが人生には必要なこと」だとつくづく思った。

息子達も思い通りには行かない人生を、時にはがんばって、時にはつぶやきながら歩むのだろう。そして、何時か自らの人生を振り返った時、間違いなく味わい深い何かが残っているだろうと思う。

 
あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。(マタイ6:34)
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春の淡雪

2009-03-03 14:07:10 | Weblog
赤っぽくふくらんだ、木々の芽に舞い落ちる春の雪
「ああ、驚いた」なを身を固くして、縮こまる葉芽、花芽

小鳥は小枝で、まるく羽ふくらませてふるえてる
「ああ、驚いた」鳴きつつ、常緑樹の影に引き籠もる

空き地で赤毛のイタチを見っけ!
まぁるいお耳と、まぁるいお目めで見つめ合う、
息を止めて見つめ合う、

「ああ、驚いた」ふさふさしっぽを揺らして身を翻し、
イタチはすばやく飛ぶように逃げる。
私はぼうぜんと雪の中。
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