石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

雨あめ 降れふれ

2009-02-25 14:44:53 | Weblog

朝床の中で、ホーケキョ ホーケキョ ケキョ ウグイスの声に気づく、 
まだ下手くそだけど、ちゃんとウグイスやっている。

さっそく上着を引っかけて、階下でコーヒーを飲んでいる主人に
「ウグイスが鳴いていたよ」
「いつもの裏山のウグイスやなぁ」二人ともなんだかちょっと嬉しい。

濡れた歩道に漂っている満開の白梅の甘い香り。
梅は5分咲きくらいが凛として一番綺麗だけれど、
この甘い香りはいいなあ・・胸一杯に吸い込んで「ごちそうさま!」

早めの菜種梅雨とのこと、連日シトシトと雨が降って
草も木も道も乾く間もなく濡れている。

カラリと晴れて欲しいけれど、この雨が杉花粉をずいぶん洗い落としているように思えて、
これはこれで良い、春の日照り続きは苦しいから。

ありのままを受け入れることが易いのは、時間に余裕ができたせいだろう。
子育てからも解放されて、洗濯に追い回されることもないから。
時間がゆっくり流れ、若い頃には気づかなかったことを、弱さの中で味わう日々が待っている。

いつでも主が置いてくださったところが恵みの場所。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

お葬式 Ⅱ

2009-02-23 23:38:26 | Weblog
 あなたはお年を召してからイエスさまに出会われましたね。
お嫁さんと共に教会に通ってこられて、イエスさまがあなたの債務証書を身代わりに引き受けてくださったことを知って信仰を持ち、洗礼を受けられたあの日を思い出します。お商売をして居られたあなたには、そのたとえがよく分かっておられたと聞きました。

 美しい花々に囲まれたあなたのお写真を見上げた時、私は思わず微笑んでしまいました。今まで、献花という行為にためらいがあったのですが、昨夜は、自然な飾らないお写真に親しみを込めて、懐かしく見つめることができました。
「長い闘病生活、本当にご苦労様でした。イエスさまの御許は素晴らしいでしょうね。」そんな気持ちで・・。

 私がちょっとアルバイトをしていた時も、辞めてからお店に買い物に伺った時も、少しも変わらずにいつもニコニコと迎えてくださって、ストーブの側でたわいもないお話をしましたね。本当についこの間の事のようです。

 今まで一度もイエスさまが語られたことのない地域の集会所で、沢山の方々が集まって、美しい花々があふれ、主を賛美する歌が流れるお葬式が執り行われました。この地域であなたが先駆けとなってくださったのですね。主が備えて下さったことです。

主がどんなにあなたを愛して居られたのか、これらのことを通して知りました。主は私たちのすべての必要に責任を持ってくださり、最後を美しく飾ってくださる御方だと教えて下さいました。あなたのお葬式を通して、私はイエスさまの御名を心からあがめました。

「主は情け深く、正しい。まことに、私たちの神はあわれみ深い。」(詩篇116:5)
コメント (2)
この記事をはてなブックマークに追加

山上の垂訓

2009-02-19 15:33:32 | Weblog
「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」
 今の私にはこのおことばはなぐさめに満ちていると思った。私の中にはイエスさまのほかには何もなく、イエスさまを取ったら空っぽになるだろうからと・・。でも、それはイエスさまをもっているということ。それは、すべてをもっていること。天の御国はその人のものとはそういうこと。

「 悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。」
 一番悲しいことは、人がこの世の事柄にこだわって、イエスさまご自身に飛び込めずに救い主を避けてしまうこと。
そんな悲しみを、慰めてくださるということなのかしら・・、「大丈夫、主のお導きがある」という望なのかしら。

「 柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。」
 柔和には犠牲が伴う。「私」というものが死ぬ時、柔和が生まれるから。それはイエスさまのご性質。柔和をもって、王なるイエスさまから地を相続するのだろう。

「 義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。」
 神の義を待ち望む者が満ち足りる時が来る。この戦いは主の戦い。

「 あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。」
 私が、イエスさまのお憐れみを一方的に受けているだけの者であることを、決して忘れないようにお守りください。

「 心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。」
 十字架からしたたり落ちるイエスさまの血潮によって、洗い清められて私は神を見ます。
今は覆いを通して。そして御国に行ってからはリアルに、永遠に。ああ、それはなんということでしょう!
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

肌ざわり

2009-02-18 23:51:48 | Weblog
真っ青な空の下を歩いた。
買ったばかりのシルクのブラウスを着て歩いた。

私はシルクが好き。
なんの違和感も感じないから好き。

私が生まれた頃には、常に真っ白なシルクを惜しげもなく使っていたと、
叔母がちょっと悔しそうに話していた。
それは悉皆屋という職業柄、身近にあったと言うことにすぎないのだけれど。

物心ついた頃には、戦争で家も財産も失い、父も亡くして私には何の関係もないことなのだけれど、不思議なことに体にはシルクの肌触りが刻まれているようで、自然に馴染んで心地よく、貧しさの中にいても時々買っては普段に着ている。
格好良さとか、デザインとは無関係で、まさしく肌が好むというレベルのことなのだけど。

真っ青な空の下。
過去をやさしく癒されて、大きく深呼吸をしつつ胸を張って歩く幸い。
すべてのことが、十字架の血潮に洗われて、光の中にさらけ出されることの自由さ。

今、私が触れているこの優しさは、シルクよりももっと温かく、柔らかく、すっぽりと包み込む、そんな不思議な主の感覚。決してすり切れることも汚されることもない真っ白な衣。主が着せてくださった義の衣。


「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

「いいえ!神が人に」

2009-02-13 00:05:33 | Weblog
イエスさまのことをお話ししていると、
「そうして、イエスさまは神様にならはったんやね。」という彼女の言葉に
「いいえ、いいえ。イエスさまは初めから神様なんだよ。」と私はちょっと慌てて言った。
「えっ?」彼女にはその意味が分からないらしい。

「ほら、創世記の初めを読んだ時、『初めに神は天と地を創造した。』ということばに、すごく感動したでしょう。」
「そう、そう、だから、きれいな花を見たり、鳥の声を聞いた時に、これは神様が造ってくれはったんやと思うと感動するわ。」

「そう、その創造は、すべてイエスさまによって造られたと聖書に書いてあるよ。
人は、努力をして頑張り、自分の力で神様に認められるようにならなければならないと思っているから、出来る限り完全を目背して、神のようになろうと、上に上にあがって行こうとするけれど、イエスさまは神様なのに、神の権威、力を捨ててご自分が造られたもののひとつである、この地上の、マリヤのお腹に小さくなって来てくださり、それも臭い家畜小屋にまで下って来てくださったでしょう。

人間の中ででも、最も低いところに来てくださって、誰でも恐れずに近づけるように、どんな人でも、親しく自分の所にお迎えすることができる御方となってくださったの。
すべての力を持った神様なのに、完全に人となって、弱い私たちと同じように弱さを持ってくださり、罪は犯されなかったけれど、私たちと同じように生きてくださった。

そして、十字架で私たちのすべての罪を負って、ご自分の命を与えてくださったの。神様がびっくりするほどへりくだってくださって、あり得ないことが起こったということなの。」

「それやったら、まったく逆やね。」
「そう、事実は真逆。人の思いとは逆だから謙遜にならないと、想像できないほど謙遜なイエスさまを知ることはできないのだと思うわ。そして、なんとイエスさまはこんな私たちの中にまで来てくださったの。だから、弱さを経験したということは感謝やね。弱さの中でなら謙遜になれると思うから。」


「この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」(ヨハネ1:2~3)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

交わり

2009-02-09 23:08:57 | Weblog

 またしても、JRにしてやられた。保線工事のために運休ということで、乗り換えの駅で呆然。年末の前回は注意していたので、迎えにきてくださるようお願いしていたけれど、今回はまったく想定していなかった。そういえば、年末に運休を知らせる駅の小さな張り紙に2月8日という字もあったような気もする。

 その前は、同じ方向に行きたいというお爺さんをつまえて、割り勘で一緒にタクシーに乗ったのだけれど、今回はすぐにタクシーに乗ることに決まった。ひとりでタクシーに乗るなんて、よほど重い荷物を持って、それも知らない土地を行く時くらいしかないのだけれど。
今日は、サッサと客待ちのタクシーの最前列に歩いていって颯爽と乗り込む。イエスさまが勧めてくださっているのを感じたから!
タクシーに乗って行き先を言う時、よくわからないでウロウロされるのが嫌なので、ケチな私は駅名を言ってそこから歩くのだけど、今日はなにしろ主に奢られるのだからと気が大きくなって、たぶん分からないだろうと思いつつも、「天理カナンキリスト教会」と告げた。

行き先を無線で調べながら、「カナンはカタカナですか、」と聞かれたので、「そうです」と答えると「プロテスタントですか」と聞き返された。「え、そうです。どうして知っているのですか。」「実は、私はカトリックです。こんな仕事をしているので、あまり日曜のミサにも出られないので不良信者です。」「私はこうして日曜日に働いてくださる方に、運んで頂いているのですから・・・何とも言えません。でも、いつでも聖書は読めますし、お祈りをすることも出来ますね。」それから聞かれるままに、カナンの教会のことや、家族のことなど、信仰のことをお話しして、車の中は思わぬお交わりの時となった。

教会が見えるところまで来た時、「ありがとう。此処で結構です。」と、下りようとしてメーターを倒した後も、「教会はどれですか。」と教会の側まで乗せてくださった。
私は教会に入って静まっている時も、賛美をしている間も、主に愛されているその運転手さんのことを思っていた。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

saltさんのメッセージ

2009-02-09 15:20:48 | Weblog
saltさんのメッセージはこちらからどうぞ、音声で聴くことも出来ます。
http://www.thewayofthespirit.jp/cgi-bin/diary/diary.cgi
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

特別

2009-02-06 18:59:23 | Weblog
 親戚に県議会議員をしている人がいた。私は彼が地域の選挙に初めて出た時、一緒に選挙カーに乗ってマイクを持って運動をしてきた。彼には幾らかの力があること、彼にどのように親族が頼っているかもよく知っていた。

 次男が高度難聴と言うことで地域の学校に入る時や、進学時などに問題にぶつかった。けれどもどんなに悔しい思いをすることがあっても、私は決して彼に頼ることはしなかった。それが誇りだった。

障害者でも、健常者と同じ環境で教育を受けることができるべきだと、私は特別を求めず、ただ健常者と同じ扱いを求めた。でも、それこそが一番難しかったのだけれど・・。特別なルートに頼ることなど子供に恥じることだと思ったから、子供の手を引いて、体当たりで正面からぶつかっては、ひとりで頑なに苦労をしていた。


そんな私がイエスさまに出会ったとき、「特別」な恵みを知った。
そして、その「特別」が私にどんなに必要なのかを知った。
負いきれない罪を、十字架であがなわれた「特別」
霊の目が開かれ、みことばから平安を得た「特別」
一人ひとりに頂く、イエスさまの「特別」な愛。

聖書を学び始めた方が
「友達が、『あんた変わったね。明るくなって。』と言われて、自分では全然気づいていなかったから驚いたけど、嬉しかったわ。」
そのようなお話しに、私もイエスさまに出会った頃に同じ事を言われたことがあり、その時の喜びを思い出した。彼女もイエスさまの「特別」に出会っているんだ。

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43:4)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

もうすぐ春だよ

2009-02-05 15:31:30 | Weblog

 桜の木が、道路側の枝を無惨に切り落とされていた。太い立派な枝がばっさりと何本も切られていた。切り口が裂けているものもあってその荒っぽい扱いが痛々しく、姿の良かった木々は、なすすべもなく不格好に並んでいた。

ああ!先日も駅で同じような光景を見た。その桜はもっと酷くて、太い枝を全部切り落とされて棒杭のように突っ立て居た。
あのとき、「こんな事をするのなら、初めからこんな所に植えるな。」そんな怒りが沸き上がってきたなぁ・・。

やがて必ず、枝が邪魔になることは分かっているのに・・・。邪魔になれば切り捨てれば良いだけのことなのかな・・。木を植えたり、花を植えたりするのは、心を慰め、和らげ、優しい感動を味わうためだと思うけれど、この木々の姿は、人間の本性を露わにしたようで辛い。本当は、桜なんて人には相応しくないのじゃないかなあ・・。


ふっとうつむいた道ばたには、空色のイヌフグリが今日は沢山咲いていた。春のようなやわらかい日差しがその草むらを暖めている。
空はやわらかな青。雲ひとつない。
風は穏やかに吹いている。
洗濯物は良く乾くだろう。
お布団はふんわりとおひさまの匂いだろう。
今夜はその匂いに包まれて、主のふところを思って眠ろう。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

車の中

2009-02-02 16:17:04 | Weblog
 いつも礼拝の後「帰り道だから」と回り道をして、私には便利な駅まで車で送ってくださる姉妹。年も近いことから言葉が通じやすくて、私は車の中でのおしゃべりがとても楽しい。

 今日は、ダビデは王となるべくして、神様から油注がれているにもかかわらず、サウル王から命をねらわれて逃げ回り続けたこと。その時、ダビデはチャンスが2度もあったのに、サウル王を討たなかったこと。そんなダビデの信仰についておしゃべりをしていた。

ダビデはその時、気違いを装って逃れるほどに恐怖を感じていた。サウル王を討てば王になれる、邪魔者はすぐに取り除くことができる。そんな時、部下は「今こそ神があなたにチャンスをあたえられたのです。」なんて言う。

 私だったら「そうかな・・」と飛びついてしまうかも知れない・・。試みの時は確かにある。と・・ダビデはその時に手を下さないで、神様にサウルの命をお任せした。それは自分の命も自分で守らなかったと言うこと。

もし、この時にサウルを討っていたとしても、それがダビデの弱さからだったら神様は罰しないと思う。だって、アブラハムに対しても妻のサラを妹だと言って、王に差し出すというとんでもないことをした時、それが彼の弱さから出たことなら神様は彼を罰してはおられないから。

でも、ダビデが神を畏れてサウルに手を下さないということで、神様はダビデに義を得させて下さった。試みは、神様が私たちに義を得させるチャンスとして、置かれているだけかもしれないね。なんて話ている間も、車はもう暗くなった道をひた走る。

 聖書は、信仰のない普通の人には馬鹿げた本でしかないだろう・・。だってこのような信仰は絶対に理解できないと思うから。
ダビデは決して自分の力を使おうとはせず、逃げることしか出来ないような弱い者となり、まるで愚かもののように自分で判断をせずに、ただ、ただ神様にお任せしている。

「私は、信仰の初めに聖書を全部読んだ、その時はなんか不思議な本やなあと思った。それでも続けて読むことができたのは、守られていたからだと思う」と姉妹は話された。聖書は理路整然となんかしていない。人間の知恵や知識では知ることは出来ない。どこかで自分の判断を捨てて、飛び込まないと絶対にわからないいのちの世界。でも、そこに連れて行ってくださるのは主だけ。そんなことも良く通じ合って、一致できるおしゃべりがとても楽しい。

 夢中になって話している間にもう40分も走っていて、いつもの明るい駅に着いていた。お礼を言って車から降りた時、主にあるいのちの交わり、そして、いつも助けられている感謝が混じり合って、2月の寒風の中ででも私の内はホカホカとしていて、自然に感謝があふれてくる。ずっと、私たちはふたりではなかった、主が共にいてくださった。
コメント (2)
この記事をはてなブックマークに追加