石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

喜びの芽

2009-01-30 15:19:24 | Weblog
雨が、ポロポロとこぼれ落ちるような空模様の中を、今の内なら歩けると、小さな傘を手にしてとび出してゆく。教えられた腹式呼吸で歩き出すと、すぐに体はぽっかぽか。

冬枯れの道にも、イヌフグリの細かな青い花がぽつんぽつんと咲いている。もう少しすると群生して、空を映しているかのように咲くのだろう・・。

ただ、梢のみの桜の木も、栗の木も、細かな枝にはぷっくりと、赤っぽい小さな芽を並べて、準備万端整ったと春風の吹く日を待っている。

でも今日は、少しからだが重たくて、少し歩みが遅くなる。これも生きていると言う証拠。体だって晴れたり曇ったり・・、今日は体も雨模様。

それでも、心は弾んでいる。先日からのあれこれを思い出したら嬉しくて、自然に感謝があふれるから・・。

手術をしてくださった先生が「順調ですね」と言ってくださった時、「毎日、感動しているんです。」思わず主人の後ろから言ってしまった時の、とても嬉しそうな先生の笑顔。主が喜ばせてくださったのだとそれが嬉しかった。

保険会社の人に問い合わせた時、「保険は出ますよ。」と手続きを教えてくださった。電話を切る前に、「とても良く見えるようになったんです。ありがとう」と伝えると、「それは良かったですね。そのように使って頂いてとても良かったです!」事務的な声が一変して、真っ赤な血の温もりを感じるように弾んだから、すべてのことに主が共にいてくださり、一緒に喜こばせてくださったのだとそれが嬉しくて、ちょっと体は重いけど心はずっと弾んでいる。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

種は腐らない 12

2009-01-27 22:06:17 | Weblog
 今年になって初めてお会いするし、1ヶ月以上も何のコンタクトもとっていなかったので少し気がかりだったけれど、以前と少しも変わらない様子で主に感謝する。美味しいお茶を頂いて、お祈りをしたあと、マタイの福音書1章を拡大したプリントを一緒に読んでゆく。

「名前ばかりなのでびっくりした。これ覚えられるのかなぁ・・・」私はあわてて、「いや、いや、覚えなくても良いよ。私が読むから聞いていて」
今年はちゃんと聖書を読みたいだけ。どんどん一緒に読みたいと思っているだけ。後はどうなるのかわからない。知っていること、気づいたことはお伝えしていくけれど、私はイエスさまにすがる思いの、ただの管でしかあり得ない。

主人の目のことなどもお話しして、途中で部屋に入ってこられたご主人とも楽しくお交わり。そんな中で、彼女から最近の出来事をお聞きした。
その話の中で、「私は間違っていないでしょう!」との自己主張を聞く。そして、それは彼女がもの凄く正しい。けれど、聖書は「義人はいない。ひとりもいない。」と言う。いつかそのことがわかってくださるようにと祈る。

 
「私たちは人をだます者のように見えても、真実であり、人に知られないようでも、よく知られ、死にそうでも、見よ、生きており、罰せられているようであっても、殺されず、悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っています。」(Ⅱコリント6:8~10)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

ハンナの涙

2009-01-23 19:01:27 | Weblog

 今朝、「明るい!光っているなあ。」主人の感動。
「まあ、数日だと思うけどね。その感動も。」なんで私はよけいな一言を・・・と心の中で思いつつ、いつもすぐに冷やしてしまう。

 仮に、どんなに素晴らしい癒しを頂いたとしても、私たちの体は必ず土に返るものだから、癒されたことだけが嬉しいのではない。その癒しに至る過程がしみじみ感謝として残り、主が手を取るように導いてくださったすべての経緯が宝のように残り、私の深い所に刻まれてゆく主ご自身が最も嬉しい。


 ハンナはよっぱらいと思われるほどに、身も世もなく主の前で泣き崩れ訴えた。それはかっこよい姿ではなく、剥き出しの自我のようでもあるけれど・・。
でも、それは「なぜ、主は私を顧みてくださらないのですか?」という悲しみの大さだと思う。信仰者にとっては、誰のお気に入りであるよりも主のお気に入りでありたいもの。

「子供が欲しい、ペニンナに負けたくない、」だけではなかったと思う。だから、「子を授けてくださったら捧げます。」と誓うことが出来たのだ。彼女が本当に求めたものは子どもではなく「主」じゃないかなぁ・・。

主の御愛を知ったらサムエルを捧げることが出来る。主を知らない者が、エリにサムエルを預けることは絶対に出来ないだろうと思う。
主を求めるハンナの涙なら流したい。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

愛の証人

2009-01-21 15:33:54 | Weblog


 今日は病院には行かないと伝えてあったので家でのんびりしている。明日は退院なので、また普通の日々に戻るのだから今日だけひとりを楽しもうと、ゆっくりすることを選んだ。「覗きにも来ないのか。」なんて主人はちょっと不満そうだったけれど、目も良く見えるようになったのだし、少しくらい病院生活の退屈さも味わってみたら・・そんな気持ち。

でも、早速電話がかかってきた。「明日帰れるから頼むわ。」「わかった。支払いの金額が分かったら知らせて。私が持っていかへんかったら出られへんよ。」「ああ、保釈金がないと出られへんからな、アハハ・・」主人は良く見えるようになって上機嫌。たいして退屈もしていない様子。あれこれあって、二人部屋にひとりで入っているから、気を使わなくても良くていたって元気。本当にイエスさまは憐れみ深くご真実。主人の言っていたとおりに一緒にいてくださっている。


 ウオーキングで冬枯れの道を歩きつつ、エマオの途上にイエスさまが弟子たちとご一緒してくださったことを思っていた。私たちの霊の目が閉ざされ悲しんでいる時に、イエスさまはそっと側に来てくださる。私たちに歩を合わせて私たちの嘆きをもすべて聞いてくださり、みことばを解き明かして、目を開いてくださる主。本当に、主は、私たちを目に入れても痛くないほどに愛してくださっているんだ!事実、御からだを裂いてくださった。私たちはそのイエスさまの愛の証人。
コメント (2)
この記事をはてなブックマークに追加

手術の成功

2009-01-20 20:07:46 | Weblog

 主人の白内障の手術はとてもスムーズに終わった。また今回もイエスさまのご真実を知る。何かある度にイエスさまのお憐れみを経験することになる。それに、祈られていることを感じることが出来る、その時、心がやわらかくなるから。
他の人と比べて、主人の手術はとても早く終わった。イエスさまの御手が、お医者さんを導いてくださったと信じている。

 手術を申し込んだのが9月だったのに手術日は年を越してからだったり、入院が一週間だと言われたりで、本当に大丈夫なのかと、病院の選択を間違えていないかと不安に思うことがあった。あまり良くない噂を聞くこともあり、偶像を証する病院で手術された方が、手術後一日で帰れる上に術後も良いという話を聞いたり、そのたび私はいくらか動揺していた。

 でも、でも、偶像を証する病院を選ぶことなんて出来ない。主人も幸いそんなことを望んではいない。私たちにとって、生きることはキリスト。どんなときもイエスさまを証する者なのだから。でも、心は揺れるから、私は弱いとつくづく思う。そんな弱い信仰を、抱きかかえるようにして主は運んでくださった。特に、新年からの多用な日々に、すべての事がスムーズに進んでゆき、そんな時私たちは主を近しく感じることが出来た。

 入院当日持って行く荷物をまとめると何だか胸がいっぱいになってしまった。私はひとりで家に居たことがなかったんだった。私が家を空けることは時々あったけれど、主人はいつも側にいた。そんなことに気づいたから。

でも、絶対そんな気配は見せまいと荷物を両手に持って、「長々お世話になりました。」とふざける主人に、「しっかり、お勤め」と厳しく言ってみたものの、慌てて後を追って付いて行ったり、外泊をして病院に戻る主人に「明るいうちに早う帰り、あばよ」なんて威勢良く追い出したけれど、一晩ほとんど眠れなかったり、言葉と心がちぐはぐな私。まったく、夫婦とは一心同体だったんだと今頃気づく事が出来た。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

隣組

2009-01-10 21:26:16 | Weblog

私たちは今年は隣組の班長として働かなければならない。
今夜はその引き継ぎで、皆さんが共に集まり共に飲みお食事をする。でも、その親睦に入る前に決め事があり、その時に少々ゴタゴタすることがある。話がなかなか噛み合わなかったり、てんでに自分の良いと思うことを言うものだから、何が何だか分からなくなったりして、やたら時間がかかり、もうどうでもよくなってしまって、結局押しの強い人の意見が通ることになる。筋が通っていることもあれば、変だなと思うこともある。

私は2時間ほど前から行って部屋を暖め、席の準備などをする。今日は雪も降っていたから、皆さんの帰り道の足元が悪いことを心配していたけれど、幸いなことに雪も雨も止んで、ちょっと寒かったけれど無事に終えることが出来てよかった。

出席しない人のお料理をお宅に届ける時、今年から、お父さんと入れ替わったお隣の息子さんが手伝ってくださって頼もしく嬉しかった。若い人がほとんど居ない田舎町のこと、嬉しくはあったけれど、彼がこれから背負って行くものを感じて気の毒にも思う。

「主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。」(詩編127:1)このみことばを握って、イエスさまは仕えることの最高の先生なのだから、すべてのことをひとつ一つイエスさまに教わろうと祈ってスタートをした。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

不甲斐ない

2009-01-07 23:27:00 | Weblog

 今日も主人に付き添って病院に行く。
「白内障くらい」と言われていたけれど、手術前のインフォームドコンセントという、あの説明を聞き終えて部屋を出る時、私は気分が悪くなって倒れそうになり、なんとかドアにたどりついて、椅子にかけてもめまいがして吐きそうなのをなんとかこらえていた。

気遣う主人に返事をすることも出来ず、これではどちらが付き添いなのかと、本当に不甲斐ないと悔しかったけれど、あまりに恐ろしい、受け入れられない例を列挙されて、自分の中にそのような事実に対する備えがなかったこともあり、混乱してしまった。

 でも、本当にあれが良いことなのか・・なんの予備知識もない者に、いきなり最悪の事態をすべて並べ立てて、その事実を納得して手術を承諾するようにと言うことが、本当に正しいことなのか・・。それは一体誰を守ることになるのだろう・・。

 なんとか回復して吐き気もおさまり落ち着いて話せるようになった時、遠縁のご夫婦が前を通られて「おう、どうした」と、明るく声をかけられ、白内障のことを話すと笑われた。年は主人に近い方だけれど、胃ガンで手術を受けられたことをあっけらかんと話してくださり、奥さんもニコニコと明るい様子で一緒に話しておられる。

「たくましいなぁ」と尊敬し、私は彼らから沢山のことを教わった。車の中で彼の手術が成功して良かったと話していると、「俺らにはイエスさんがいたはるやないか。」と主人に言われてしまった。主人の言葉にも、遠縁のご夫妻に会ったことも、そこに主の優しい備えを感じて深い慰めを受けた。私は強くなくても良いのも知れない。
コメント (2)
この記事をはてなブックマークに追加

初仕事

2009-01-05 14:55:54 | Weblog

 新年の初仕事は主人の病院に付き添うこと。白内障の手術を昨年から申し込んであるのだけれど、まあなかなかのことで、あちらこちらと探れば出てくる年齢からの弱さ。
今日は年末に取った心エコーの検査結果を聞くようにと言われていた病院に出かけた。

新年初めての診察日なので思った通りに混んでいた。駐車場が一杯なのでわざわざ近くのスーパーまで行って停めておいて歩く。病院には元気でないと通えない。もっと年を取って弱ったらどうしよう・・なんて考えないことにする。

最近は病院でも丁寧に「・・様」で呼ばれる。以前は「・・さ~ん」って大声で呼ばれていたけれど。それに受付も親切で人当たりが良くなった。中待合いは診察が終わってから入れているので、以前のようにプライバシーゼロ、診察の様子が筒抜けと言うことはなくなった。これはすごく良いことだと思う。

 主人の心臓はちょっと人とは違っていて、脈拍は普通に50台。今通っている内科の先生が、以前チラッとペースメーカーの話をされたことがあったので、嫌な予感がしていた。人の体は一人ひとり色々であり規格品ではないのだから、数値なんかで判断されてはたまらない。主人はこの心臓で今までとても元気に生きており、今頃、ペースメーカーなんかで調子を変えられたらとんでもないことになるのじゃないかと、素人的に考えて不安になる。

大切なことは普通に体を動かすことが出来て、特に不自由がなければそれがベスト。誰と比べるようなことではないはず。なにしろ神様の手造りなのだから、人には、とうてい考えられない細やかな仕掛けに満ちているのだと思うから。

でも、今日の先生はちゃんとした判断をしてくださって、「確かに他の人と比べた場合異常なのですが、以前の心電図のデータと比べて変化がないのでこのままで大丈夫。エコーの検査結果も年齢的なものだと思います。」ということでokがでて本当にほっとした。今頃ややこしいことになるのはとても困るから。
主人と「良かった。良かった。しかし実に面倒」と空きっ腹を抱えてとぼとぼと車まで戻って行った。しかし、これで無事初仕事は終わり。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

呼び声

2009-01-04 17:55:34 | Weblog
 「いっこぉ」大きな声で呼ばれて驚いて目覚め、急いで階下へ降りて行って、朝の早い主人に「何?」と聞くと、主人はきょとんとして「何が?」と答えた。「呼んだから」「呼んでないよ」「そう言えば若い声やったなあ。」「なにを言うてんねん」主人はあきれていたけれど、私はそのとき、そうだあの声はイエスさまだ!と思った。

でも・・・戸惑う・・というよりは、かなりがっかりしてしまった。その呼び方は確かに私の名だったけれど、アクセントから何から、まったく主人が日常呼んでいるそのままだったから。「いっこぉ~宅急便や」「いっこ、雨が降ってきたぞ」「いっこ、あれどこにあるねん」朝から晩まで呼ばれている名。

 ちょっと変わっているかも知れないけれど、主が私の名を呼んでくださると知ってからは、どんな呼び方をなさるのかと、たぶんフルネームだろうと、どこかの受付のような呼ばれ方とか、アクセントちょっと変えたりして呼んでみて、ひそかに楽しみにしていた。けれども、まさかこんなに卑近な、たえず呼ばれ続けている呼ばれ方だとは夢思わず、かなりがっかりしてしまった。そもそもあまり好きな呼ばれ方ではなかったのだから・・。

「まあ、いいか」となるべく忘れるようにして数ヶ月。でも・・時々何だか気になる。そんな昨夜、眠れずに思いめぐらせていたら気づいた。

 サムエルが主に呼ばれた時も、サムエルは何度もエリに呼ばれたと思っている。「サムエル」という呼びかけだって、きっとアクセントも人によって幾らか違っていただろうから、その時の主の呼ばれ方が、とてもエリに似ていたのだろうと思った。いつでも呼ばれているそのままだったのだろう。だから3度もエリだと思ったのだろう。


 saltさんがよく話して居られること。「イエスさまがよみがえられて、マリヤたちに初めて声をかけられたことばは『おはよう』だった。」それはごく普通のあいさつだった。
主は、ごく普通の暮らしの中で、主人かと間違うほどにありふれた声をかけて導かれるのか・・・。

ぼんやりとテレビを見ている時も、忙しく食事の準備をしている時も、家族の普通の会話の中ででも、主は、私を呼び出し導かれるのだろうか・・。礼拝のときだけでもなく、祈っている時だけでもなく、聖書を読んでいるからでもない。

日々すべての普通の生活の中に共に居られる主。主の場所を私が分けることなんか出来ないんだ。すべてをあからさまに、すべての時を貫いておられる主を意識して主と共に生きているんだ。みことばはいつも此処で成り、従順は此処で試される。信仰は此処で実を結び。主を恐れる場所は、いつでも此処、この時、今。


「門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。」(ヨハネ10:3)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

あけましておめでとうございます

2009-01-04 14:51:53 | Weblog
 
新年のご挨拶を申し上げます。
今年も宜しくお願い致します。

 
「主は、昼は、途上の彼らを導くため、雲の柱の中に、夜は、彼らを照らすため、火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。彼らが昼も夜も進んで行くためであった。」
(出エジプト13:21)
コメント (4)
この記事をはてなブックマークに追加