石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

落ち葉

2008-11-30 14:45:27 | Weblog
 我が家の前には橋が架かっていて、今の季節は、放っておくと吹きだまりのようになってしまう。出かける前に落ち葉を掃いて、きれいになった橋を渡るのはとても気持ちの良いものだから、落ち葉掃きもそれほど嫌ではない。青葉も落ち葉も神様の作品、私にはいとおしい。積もった葉をカサカサと踏んで歩くのも本当は好きだけど、それは場所によるのであって家の前はちょっと困る。濡れ落ち葉が溜まると見苦しい。

 掃いている所をご近所の方に見られると、人によっては大層なことになってしまう。お礼を言われ、今度は声をかけてくれたら一緒にすると言われたり、掃いても仕方がないだろうとつぶやきつつ手伝われたりする。そんなとき、せっかく一人で楽しくやっていたのに・・・と、人の世の住み難さを感じたりもする。

 別に善行を積もうとしているわけじゃないし、人の為にと考えているわけでもない。今私には暇があり、掃いたら自分自身が気分がよくなるからやっているだけ。
だから私は、ご近所の方が掃いて居られるところを見ても、必ずお手伝いをするわけではなく、自分の都合に合わせて「ありがとう」だけで済ませるときもある。自然なお互い様で良いと思うから。

 主人は雪が積もった朝は飛び出して行って雪かきをする。それは主人が好きでやっていると私は思っている。地域に一緒に暮らしていれば、色々な人が居て、色々な特技を持っていて、暇な人も忙しい人も居て、それぞれが今出来ることをやっていけばよいのだと思う。今、忙しくて地域のことが何も出来なくても、何時か暇な時も来るのだからと、余裕をもって暮らせるところが住み良い地域なのだと思う。

黄金色の銀杏の落ち葉
真っ赤なもみじ
雑木林のカサカサと音を立てる葉
モザイクのような柿の赤、緑、黄色
落ち葉は秋の包装紙
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種は腐らない ⑨

2008-11-25 15:49:27 | Weblog

 「私には何も伝えられません。」と祈る。「わたしがする。」と主は言われる。だから、準備をしていたプリントを印刷して出かけた。
やはり十字架、マタイ27章から。

 彼女は、「昨日、とっても忙しくて、もう、くたくたに疲れてしまった。明日、来てくれはるのに起きられるかと心配で、寝る前にちゃんとこうして座ってお祈りをして7時頃に床に入った。そうしたら、今朝は何事も無かったみたいに起きられたよ。感謝やね。」と言われる。

 聞く人を、主が備えて下さっているんだと思った。聞きたいという彼女の願いを、主を知りたいという彼女を、主が守っていて下さる。主が喜んでいて下さると嬉しかった。でも、なぜか主を語ること、聞くことにはしんどさがつきまとう。人は、本当は主のことを聞きたくもなく、語りたくもないのだろうか・・。

「どうして、神様は可愛い子どものイエス様をこんなふうに十字架にかけたの?」
「私たちを救う方法が他にはないから。自分に全く罪のない完全な人だけが、人の罪を負うことが出来る、だから、罪のないイエス様がマリヤのお腹に来てくださって、私たちと同じ人としてこの世で成長してくださった。

でも、イエス様が十字架で全人類の罪、私の罪、あなたの罪を負われた時、神様は父と子の関係を断ち切って、罪人となったイエス様を捨てなければならなかった。このことは、神様とイエス様のご計画。それほどに私たちを愛しておられたから。

罪を赦し救って、今のあなたのように喜んで、いつも祈って感謝して神様と共におらせるために。そして、永遠のいのちを与えて天の御国に迎え入れるために。」
そんなことを話ししつつ交わった。彼女からは相変わらず、喜びと感謝がいっぱいあふれてくる。主が彼女を喜ばせておられるのだと思った。

「イエス様を十字架につけた人たちはみんな地獄におちたんやろうね。」
「いや、それはわからない。イエス様は十字架で彼らを赦すお祈りをされたから。」
「それは、すごいことや。そんなことは人間には絶対にできない。やっぱり神様やね。」

彼女が十字架に感動されたら私も感動をする。ちょっとしんどく始まったときも、主を共にわかちあう交わりには、いつも新鮮な感動があり、確かに主の臨在がある。

「そのとき、イエスはこう言われた。『父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。』」(ルカ23:34)
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和解

2008-11-18 15:56:37 | Weblog
 7月に書いていた『義人はいない』という一文を見て、「わたしのこと?」と尋ねて来てくださった。「ある方から教えられて知った。」と言われて・・・

 彼女とこのことがあったのは冬。そう、雪が降っていたことを思い出した。そして、文に現したのは夏。
その半年の間に私の中でふくらんでいったものがあったのだ。悲しみや、怒りや、いらだちなどの罪が、ふくらんでいった。

そして、私の書いた言葉は、彼女が言った言葉とは違っていた。
「私が正しいことを・・とは言わない。」と彼女は言われた。ずいぶん以前のことなのに次々と思い出されて、
「ああ、そうだった。確かに『正しいこと』なんて言わなかったね、ごめんなさい。『間違っていないことを・・』そんな感じだった。」
「そう、そのときあなたは『違う、違う』って言っていた。」
「なんかが微妙に違っていたから。それがちゃんと伝わらないと、言葉が通じていないと感じ続けていた。だから私はすぐに、『閉め出された』と感じ『失った』と思った。」
「閉め出したんじゃない。私は忘れて出かけただけ。でも、そのままにしておいて本当にごめん。ずっと謝りたいと思っていた。けれども、イエス様を信じている者はみんな、十字架は共に味わっているでしょう。」
「確かにそう・・。それは私が間違っている。ごめんなさい。でも、なぜそう思ってしまったのかなあ。私の中で膨らんでしまったものがあったから・・・だと思う。」
それから、沢山話して交わり、祈ってから、振り返り、振り返り帰って行かれた。

 尋ねてきてくださった彼女を見て、私はとても嬉しかった。正直「もう知らない」と思っていたのに、顔を見た途端にそんなことは消えてしまった。でも、私の愛はもろい。私の器はとても小さくて、すぐに受け入れることが難しくなってしまう。
今朝祈りの中で、和解は十字架によるものなのだと知ることが出来た。十字架は無限だ。
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晴れたり曇ったり

2008-11-15 10:49:07 | Weblog
 体の調子は今あまり良くはない。昨夜は腰が痛くて薬を飲み、今日も肩が痛くて薬を飲んだ。スロー筋トレは休まず行っていて、体重はほとんど変わらないけれど、体脂肪率が1ランク下がった(内臓脂肪はもともと安全圏)すごいことなんだけど、今、体がとても重い。

ちょっと疲れたのかな、昨日は新しい掃除機でしゃかりきになって、家中の細かなところを掃除したから・・・。付属のブラシがとても使いやすくて、pc周りのコード類がごちゃごっちゃになっているところも、コンセントの周りもきれいに出来た。これはとってもいい。
お天気がしばらくは良くないという予報だったので、フルに使いたくてお布団を干し、洗濯をし、あれもこれもと手を出して、夕食の準備時には腰の痛みはピーク。

今夜は息子が帰ってくるから手抜きはしたくない。ウナギ丼は簡単、ちょっと焼き直すだけでよい。主人が取ってきてくれた水菜とスモークサーモンの芥子マヨネーズ合え。これが水菜を洗うこと、茹でたなべの湯を捨てること、そんな何でもないことが苦痛。ジャガイモとワカメのみそ汁。取ったばかりの春菊も入て。これがジャガイモを剥くことも、春菊を洗うのも辛い。何か煮物を作りたいけれど、もう限界なので冷凍してあったカボチャを煮ることにした。馬鹿だなあ・・これは誰かのためではなく、ほとんど自分の頑なさでやっていると思いつつ・・。

それでも、息子は「美味しかったよ。」と満足そうに言ってくれた。いつもこの一言に操られているように思うけど・・・。彼が今は仕事の上で大変なことが分かっているので、こんな形で励ましたいのも事実。そのことではずっと祈ってきた。会社のことも祈ってきた。そして、最悪の状態を知った。でも、なぜか少し前から重荷はなくなって、ちょっと引いたところから客観的に見る余裕のようなものが出てきていた。

 この世では色々なことが毎日起こり、明日はどうなるのか誰も知らない。絶対安全圏なんてこの世の何処にもないことは誰でも知っている。皆、考えないようにしているのか、不安を何かで誤魔化しているのか・・。でも、私は主に在って今凝視している。主に信頼して見ている。主は必要なことを見せ、見る必要がないことは、箱舟の戸を閉じてくださるように社会から私の目を遮断してくださる。でも、祈ったことはその顛末をしっかり見ていよう。どのように主が介入されるのか、どのように主が助け、また、裁かれるのか。

 電話が壊れていたことに気づかなくて妹が尋ねてきてくれた。「いくら電話をしても出ないから、入院でもしているのかと思って」と。「死に絶えたとでも思った?」なんて大笑いしたけれど、本当にのんきなこと。こちらからはかかるし、メールで連絡することも多いので困らないから気づかなかった。早速今日、息子がヨドバシカメラに行ってくれた。気晴らしになるといいけれど・・。ケーキを買ってきてあげると言っていた。彼の買ってくるケーキは、私には高くて買えない好物のフルーツタルト、とても美味しいから楽しみ。

「しかし私たちは、私たちの神に祈り、彼らに備えて日夜見張りを置いた。」 (ネヘミヤ4:9)
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「友よ」と呼ばれたら

2008-11-13 22:40:28 | Weblog

 ユダは主であるお方、いつも身近にみことばを聞いていたそのお方ではなく、サタンに従った。銀貨30枚のために救い主を売った。
そんなユダにさえイエス様は「友よ」と呼ばれ彼が悔い改め、憐れみにすがる最後の「とき」を準備してくださった。彼がみ声を侮ってその時を逃してしまっただけ。

 ユダにはユダの考えがあったのだろう、まさかおめおめとイエスさまが、無実の罪を負って十字架にむかわれるなんて、ユダには想像も出来なかっただろうから。
「イエスが罪に定められたのを知って後悔し・・」と書いてあるから、まさか、一片の罪もない方が罪に定められることはないだろう・・と自分の想像できる範囲で甘く考えていたのだと思う。まして、死罪になるなんて・・・まして十字架刑なんて思いもしなかったのだろう。

彼が自分のしたことの結果を知ったときには、イエスさまの備えてくださった「時」は過ぎ去ってしまっていた。サタンは「知ったことか」というだけ。彼は自分の行動の結果を「自分で始末する」ほかなかった。

 主を自分なりの考え、甘い判断によって侮ることは恐ろしい。時は一瞬に過ぎ重大な「とき」を持ち去って行く。サタンは私たちの思いの中にそっと忍び込み、大したことではないとささやく。私たちは愛する方をそれだけで売り渡すことができる。そのようなチャンスをサタンに与えるものは、ユダがお金のことで頭が一杯だったように、この世の価値感に振り回されている時なのだろう・・。

ユダは財布の中ばかり見ていた。私はイエス様から目を離してはならない。けれども、それでも失敗をした時、「友よ」との御声を聞いたなら、その瞬間、恥も外聞もなく御前にくずおれよう。私の罪も、失敗も、恥さえも覆ってくださる主に。
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時を掴む

2008-11-12 13:57:00 | Weblog

 時を逃さないことの大切さを今週のメッセージで教わった。
ちょうど、今週「種は腐らない」で話している女性が、懸命に「時」を掴み取られた経緯を話してくださった。彼女はある信仰を持っておられた。そこで「○連さん」を信じていたと言われた。でも、ある時、その信仰仲間を見て「ろくな家庭がなかった。」ということで、これは違うという思いに至ったと・・

そして私の中にある、「何時も変わらない、おおらかなもの」を感じ取り、何とかして加わりたいと思い、手作りのご馳走を幾度も、幾度も持ってきてくださるというご馳走攻めとなり(絶対に何も返さないでという断りを付けて)、出会うたびに謙遜に「教えて」と攻め寄るという方法をとって、福音を聞くという「時」を勝ち取られた。

 彼女はまだ、「この生き難い世の中を生きるためにも」と言われる、それはとても正直な言葉だろうと思う。でも、創世記1:1を知って、「この神様が天と地を造られたのだということがはっきりわかった。○連さんより元からおられた神様だから本物だと信じられる」そして今、喜びの毎日を過ごし、毎週、私の準備をしたものを「繰り返し読んでいる」と言われる。

 でも、その信仰は非常にユニークで、私は聞いて時々ショックを受けることがある。
「親戚の50回忌の法要を家でしてあげないと、する人がないことがわかって、12月が命日と言うことが分かってすごくあわててしまった。知り合いに聞くと、『そんなことは1年も前、少なくとも数ヶ月前にお寺に頼まないと無理、無理』と言われて、どうしょうかと思いつつ、全然つきあいのないお寺へ頼みに行った。行くとき本当に一生懸命『イエスさまどうか宜しくお願いします。なんとかしてください。』って祈りながら行ったよ。そうしたら、初めて出会ったお坊さんが『12月○日にしてあげます。』って言ってくださって、本当にこんなにスムーズに進むって信じられないくらいでとってもほっとした。帰ってきてから心からイエスさまに感謝のお祈りをしたよ。」
 
私は、その話をほとんどあきれながら聞いていたけれど、途中でニヤニヤしてしまった。イエスさまも驚かれただろうなぁ・・・と思うとおかしくてたまらなかった。家に帰ってからひとりで「アハハ・・アハハ・・」と転げ回って大笑いしてしまった。

でも、主は彼女の価値観をいきなりぶっ壊すことなんか考えてはおられないのだと気づかされた。この前「私は面白がっていればよい」と書いたけれど本当にそうなんだと、主のお導きの多様さに、私の型にはまった堅い信仰の目が開かれてゆくようだった。

 彼女は世を見てそこに祝福のないことを感じ取り、らい病人が癒しを求めたように、盲人が見えることを求めたように、ベテスダの池で「よくなりたい」とイエスさまに求めた人のように、祝福を求めて彼女の力を尽くした。

でも、これからは主ご自身を求める旅が始まる。もし、この世の祝福だけを求めたのなら、それだけしか与えられないだろう。もし、それならこの世の人々と結果は何も変わらない。そして、イエスさまの悲しみだけが残るだろう。
「わたしに何をしてほしいのか。」と主は聞かれる。答えるのは彼女自身。「どうぞ、彼女がイエスさまの喜びとなり、満足となりますように。」と私は祈る。
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バベルの塔

2008-11-11 15:32:13 | Weblog
「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」そのとき主は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた。主は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」 (創世記11:4~7)

 「われわれが・・散らされるといけないから」誰を意識して、散らされないようにと言っているのだろう。「神が立ち入ることのないように、われわれの力で天に近づこう」といっているように思える。

この時、人は互いに良くわかる言葉で一致団結し、高くそびえる立派な塔を建て上げ、われらの力を現し、われらの名をあげようと協力していたのだ。誰も反対する者は居なかったのだろう。確かに、人は大きな目標に向かって熱狂してひとつになるそんな力も持っている。

 けれども、神を忘れた一致は何処に行き着くのだろう。神を抜きにした満場一致の怖さ、完全な一致というしばり。そんな力で身動きできなくなってしまうことがないように守られたのだと思う。

言葉を混乱させられて、人が散らされたことによって、私たちは神抜きに抵抗するチャンスを得てたのだと思う。あちらこちらに抵抗する人が散らされて、この少数の者は守られている。完全にひとつでないところから、完全な一致に支配されることなく、私たちは今、神を第一にするという選択が出来る。

 伝道の難しさ、言葉が通じないように思えて不安を覚えるときがある。そんなときに私は、主が直接その方に恵みを満たし、喜びを与えておられるのを見ることで安心をすることがある。そこは神の担われるところであり、神が共に働いていてくださることを知ることができるから。

 人の言葉が不完全なのは、それが神のみこころであり、その不完全さを通してご自身が働かれるためなのだろう。神は私たちたちの人生に細やかに介入してくださり、ひとり一人の名を呼んで、その弱さの中に、共に歩んでくださるお方。私たちの多くの失敗や、試行錯誤の中で共に歩んで導いてくださるお方である。
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バプテスマの資格

2008-11-07 18:46:56 | Weblog
 

 「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。」(ローマ6:4)

 バプテスマは、もちろん死と復活に関連しています。しかしそれ自体は、死でも復活でもなく、埋葬であるのですが。ところで、だれが埋葬される資格を持っているのでしょうか。死人だけです!従って、私がもしバプテスマを求めるとすれば、そのことによって私は、自分が死人であり、墓に納まるよりほかに道のないことを宣言しているのです。

しかし悲しいことに、ある人は埋葬を死の手段として見るようにと教えられてきました。そのため、葬られることにより、死のうと努力するのです。
ここで私は、私たちがキリストにあってすでに死に、またキリストと共に葬られたということに対して、目が開かれるのでなければ、バプテスマを受ける資格がないことを強調したいのです。
・・・少しでも生きているという望みがあると思ったら、絶対に埋葬しないでしょう。


 新世界と旧世界の二者の間に、墓が横たわっています。神はすでに私を十字架につけられましたが、私はその墓の中に自分を託することを承諾しなければなりません。私のバプテスマは、御子の十字架にあって私の上に降ろされた神の刑罰宣言を確認します。それは、私が古い世界から切り離され、現在新しい世界に属しているということを確認するのです。
従ってバプテスマは軽く扱うべきものではありません。それは古い生き方からの、はっきりした意識的な絶交を意味します。これが
「罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。」(ローマ6:2)の意味です。

古い世界に生き続けたいのであったなら、どうしてバプテスマを受けたのか。古い領域にあって生きるつもりであったなら、絶対にバプテスマを受けてはならなかった。  「キリスト者の標準」より
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新しい掃除機だよ~

2008-11-06 23:34:25 | Weblog
 古い掃除機がもう10年以上も経って、最近どうも故障気味なので思い切って買い換えようと息子に頼んで機種を選んでもらった。新しい物を買うということは、お金さえ出せばすむということではない。この豊かな日本では多くのメーカーと、多くの機種があり、選ぶだけでも大変。「自社製品と決まっているだけでも助かる。」とはメーカー勤めの息子の弁。

夜遅くまでPCの前で色々と調べている息子に、時々「これはどう思う?」と聞かれて、初めは真面目に、ああでもない、こうでもないと、注文を付けていたけれど、そのうちすっかり面倒くさくなって「もう、寝るよ。」と私は落後してしまった。でも、今日新しくやって来た掃除機は紙パックがいらないし、取れたゴミが見えることで汚れ具合が即わかる。それに排気が綺麗らしい。これは進歩を素直に歓迎。

 今、もうひとつ期限切れ間際がある、それはオーブンレンジ。これは選ぶのがもっと大変で、機種選びの段階で中断してしまった。とことん動かなくなるまで今のを使うことにする。というのも今の製品がいかに我が家のニーズにあっているかが、調べている間によく分かってきて手放すのが惜しくなってきたから。

 すべては新しくなるほど良くなっているのではないかと思っていたけれど、よく調べてみると10年以上前の製品が結構良くできていることに気づく。「消費電力が・・・」とか言われるけれど、古い製品を捨てるにも環境に対しては負担をかけるんだろうと思うし・・。でも、この考え方はメーカーには歓迎されないだろうな。

 確かに、新製品にはすばらしい機能はあるけれど、それは、それを必要とする人にとっては良い機能であるだけで、すべての人に必要なわけでない。少なくとも私には今使っている程度の機能で十分なのだけど・・「今のと同じ製品は造ってないの?」と息子に聞くと困ったように「ない。」と言った。なぜだろう?使っていて何の不自由もないのに。

電化製品だってリメークすればいいのに。そうでなくても高齢者が多いのだから慣れた操作の物があれば喜ばれると思う。製造コストだって安くなるのじゃないかなと思うけど・・・。「何十年も昔から使われ続けている名品です。」って誇るのも良いと思う。
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スロー筋トレな一週間

2008-11-05 11:14:25 | Weblog

 先週の夜にテレビでやっていた「スロー筋トレ」なるものがたまたま目に止まった。主人がチャンネルを握っているので、この時間は私の自由にならないのだけれど「ちょっと待って、ちょっとこれ見せて」と頼むと気前よく見せてくれた。

一目で気に入ったのは「スロー」という言葉。こういうのが私に向いていると感じたので、早速真似をしてみるが、ほとんど筋肉というものがないことに気づかされた。それでも、年寄りにとって筋肉が大切であることを知ってはいるので、次の日から続けてみた。

 スクワットも腹筋も腕立て伏せもまともには出来ないのに、ちゃんと筋肉痛はやって来た。それから4、5日あちこちがミシミシと痛んで体は重かった。そのころ心にもやって来た痛みが、なぜか互いに相殺しているようで、体の痛みが心の癒しとなるようなポジティブな感覚があり、痛くても休むことなく続けることができた。

 その痛みの感覚が昨日あたりからすっかり消えて体が軽くなり、それなりに筋トレの効果を感じるようになってきた。筋トレの後でウオーキングをすることを勧めていたので、いつもそのようにしていたのだけれど、歩く速度が速くなり、踵から足をおろしてそのまま少しもぶれることなく真っ直ぐに歩くことが出来る!今頃、筋肉が無いからふらついたんだと気づいた次第。また、歩くには足の筋肉だけではなく、腹筋も必要であることも知った。

 目標に向かって自然に真っ直ぐに歩ける、これは当たり前のことだろうけれど、それができなかったんだと出来て初めて気づいたこと。今それが出来るようになったことがちょとめずらしくて楽しい。それにしても、たったの一週間、それも指導をちゃんと受けたわけではないのでかなり怪しいものなのに、人間の体ってこんなに反応できるんだ!そんなことがびっくりで造り主の神様に心から感謝。
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