石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

すべて

2008-10-28 15:39:29 | Weblog

 ノアの箱舟について、聖書を読みながら話し合っているとき、息子の「すべての生き物と書いてあるけれど・・・、それはこの地方にいる物だけだろうね。」と、もらした言葉に私はカッとしてしまった。「でも、聖書にすべてと書いてあるからすべてでしょう。そうでないと洪水で絶滅しているよ。」「それって盲目的じゃないのか?物理的に無理だろう」と議論になってしまった。

「神様の大きさが人間にわかるわけないじゃない、無理矢理自分の小さな頭で神の業を限定して、理解しやすいように処理すべきじゃないよ。自分の頭に入りやすいように、聖書を縮めて、歪めて入れてもなんの意味もない。そんな読み方なら読まない方がましだよ。」なんて言ってしまった。

 すべてと書いてあるからすべてなんだと思う。たとえ、小さな頭には理解を超えて、「どうやって?」という疑問が残っても、それは、それでいいけれど、造られたものにすぎない人間に造り主のすべてがわかるわけはないのだから、分からない部分はそのままにしても、真っ直ぐに読まないとみことばを曲げてしまう。

 せっかく箱舟に入れられて神様の救いが家族に成就しても、箱舟の中で神様の約束をそのまま信じて安息する150日がなければ、外の大水の滅びの恐怖を、そのまま箱舟の中で体験することにもなるだろう。

せっかくイエス・キリストの十字架のあがないによって救われ、みことばの約束を頂いても、自分の小さな頭で肉的な判断をして、みことばをひとつ一つ否定していっては、私にとってみことばは何の力なく、十字架もその完全な救いの意味を失ってしまう。

彼とは言い合ったりもしたけれど、祈りの時「仕事のことでも、自分の考えで物事を決めつけてしまわないお導きをください。」と祈っていたことに主に心から感謝をした。

「神はノアと、箱舟の中にいたすべての生き物と、すべての家畜とを心にとめられた。神が風を地の上に吹かせられたので、水は退いた。」(創世記8:1)
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正倉院展への導き

2008-10-27 22:02:00 | Weblog

 今日はご近所の方と約束をしていたので、星野富弘さんの個展を見ようとごいっしょに出かけた。奈良駅を下りて、さて、文化会館はと、ちょっと不安になって通りがかりの女性に尋ねてみた。彼女は即座に「星野さんのでしょう。あーあ、今日はお休みですよ。お休みは今日だけなのに・・・。」とても気の毒がってくださって「そうだ。月曜日はたいがいの所はお休みだけど、正倉院展に行かれると良いですよ。今日も開いていますよ。是非そうしなさい。」

「この交差点を渡って真っ直ぐです。」その熱心さにつられて、素直に交差点を渡って歩き出してしまった、あっという間の方針変換。
「なんてうかつなんだろう、ちゃんと前売り券にも書いてあるのに、二人とも読んでいなかったなんて・・・」と嘆きつつ歩くうちに、なんとなく、まんざら悪くもない気分になってきて、そのうちに

「この辺のホテルに泊まって、主人に明日帰るからお金振り込んでなんてね・・・」そんな冗談を言いながら、観光の人混みに紛れてゆっくりと博物館の方に歩いていった。人慣れした鹿を見ながら「もう少し先だったら、紅葉がきれいだろうね」などと、いつの間にかすっかり観光客気分。

 博物館について中高年の来館者の多さに驚いた。ご夫妻でこられている方々も多くてほほえましく思った。まず、講堂でボランテアの方からスライドを使っての説明を受けて、混雑してはいたけれど一つひとつガラスに顔をくっつけるようにして見て回った。

平螺鈿背八角鏡、赤や薄緑色の鮮やかさ、螺鈿の美しさ。丹念な細工、どうしてこんなものが作れたのかと、本物の迫力に圧倒される。

金銅幡、細かな細かな完璧な細工。美しいデザイン。1センチほどの小さな鈴が沢山ついていて、その一つひとつを誰かが手作りしていたのだろうと思うと、なんだかちょっと懐かしいような、いとおしい様な気持ちになる。

紫皮裁文珠玉飾刺刺繍羅帯残欠、こんな帯で装っていたのかと、天平人のおしゃれは今をはるかに凌ぐと思う。小さなガラスや真珠、水晶などの玉を飾り付けて細かな刺繍がとても美しい。それにしても、繊細な絹がこんなにも長い年月に耐えるものであることに驚く。保存の技術もすばらしいのだろう。

犀角魚形、横3.6センチ縦1.5センチの魚形のアクセサリーは鱗やヒレまで削ってあって金色に光っていた。二つあったので、クリスチャンには「2匹の魚」を思わせる。それは貴族が腰に下げたものらしいのだけど、その小ささと細やかな細工に、この当時の貴族の繊細さを感じた。

白瑠璃椀、古墳時代に来ていたかもという最古の正倉院宝物ということだけど、そのペルシャ製のカットガラスは電気の光を受けて美しく丸い模様が透けて見えていた。今までどのような時代の中で、どんな気持ちで、どんな人々がこのガラス椀を見てきたのだろう・・・。

次々と現れる1000年以上も昔のロマンを思わせる品々に、二人ともすっかり夢中になっていたけれど、終わりごろにはさすがに疲れてしまった。そこに、ユーモラスな椰子の実の人面の容器に出会って、正倉院の宝物にもこんなものがあることにちょっと親近感を覚えてほっとする。

 それらの宝物は、お金の嵩では計れないものばかりだった。生の人間が丹精込めて手作りしたものばかり。きっと、何代にも渡り研ぎ澄ましてきた技を持って、生まれた作品なのだろう。だから、見る人をこんなに感動させるのだろう。それを大切に大切に伝え守ってきたのだろう。私は物にはあまり関心がないのだけれど、今日は物の中に人のすばらしさを知った。神様が備えてくださった人の多様な能力に感動した。

帰り道も「感動したね。」「とっても満足だったね。」「失敗だったのに神様はちゃんと喜ばせてくださったね。」といっぱい喜んで話し続け、食事も、お茶のいっぱいさえも飲むことも忘れて帰り、迎えに来てくださったご主人に、「なんてことや」とあきれられてしまった。
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永遠の愛

2008-10-23 14:35:46 | Weblog
 アダムとエバは善悪の知識の木の実を取って食べた瞬間から、ありのままに受け入れていた純粋な愛を失ってしまい、お互いが信じられなくなって互いに取り繕い、恥ずかしいものを隠し合うようになった。造り主の神様の愛さえ信じることが出来なくなってしまって、逃げ隠れするようになった。

 それから人はお互いの中に愛を探し求めて、もろい断片的な愛にすがりつこうとした。でも、それらは、探ればとても儚い瞬間的な愛に過ぎなくて、どこかに取り繕いがあり、誤魔化しや、無理があるのは仕方がない。あの時に失ってしまったものなのだから。

 そんなことが続いて、人はいつの間にか愛とはそうしたものだと思いこんでしまった。本当は「永遠に変わることのない愛」というものをすっかり忘れてしまって、今では想像することさえ出来なくなっているのじゃないかと思う。もし、想像しても、それは瞬間瞬間を無理矢理つなぎ合わせた蜃気楼のような愛の姿。

だから、イエス・キリストがわからないのじゃないかな・・・。
神は「愛」だといわれても、人は自分の経験から嘘くさくて信じる気になれないのだ。エバをそそのかしたあの時の蛇(サタン)は、そこまで計算していたのかな・・・。

しかし、それでも、永遠の愛の主をそのまま信じる者は守られている。ハレルヤ!


「永遠に変わらぬ愛をもって、あなたをあわれむ。とあなたを贖う主は仰せられる。」(イザヤ54:8)

「・・・また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。」(エペソ3:17~19)
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種は腐らない⑦

2008-10-21 14:38:00 | Weblog
 彼女は、お料理がとてもお上手で、特にいろいろな種類のおもちやおだんごは玄人はだしの腕前。佃煮もちょっと真似が出来ない完璧な出来上がり。こんにゃくでも手作りされる。色々な方から頂いたことはあるけれど彼女のようには出来ない。

私はみことばを開いた後はお祈りをして、たいがいはすぐに帰ってしまうのだけど、今日は昨日作りたてを頂いたあん餅のお礼から、漉し餡の作り方に話が及んで聞き入ってしまった。あまりの煩雑な手順と、そのきめ細かな心配りとを聞いていて、ただ、食べ物を作ることが好きだ、と言われる言葉の奥にあるものに気づいた。

 彼女はそれらを作るときには、嫁いでおられる娘さんを呼んで一緒に作り、技術のすべてを教えている、と言われた。
そこで、私が「早くにお母さんを亡くされたけれど、お母さんから受け継がれたことだったのですか。」と問うたときに彼女は涙ぐまれた。

少女時代には、お母さんのそばで何時も見ていたけれど、それからすぐにお母さんは体が不自由になられて、とてもきついお嫁さんに辛く当たられ、彼女はお兄さんの子どもを背負って、体の不自由なお母さんのお世話をするばかりの娘時代であったと話された。その頃あまりに辛くて、お母さんを疎ましく思ってしまったと涙を流された。

 私は、手八丁口八丁の彼女しか知らなかった。彼女の弱さによる深い後悔、その悲しみを知って胸を打たれた。彼女の作る料理にはそんな人生の深い味わいがある。一生懸命に生きてきた人の、細やかで熱心な試行錯誤が形になって、人を喜ばせる味となっている。

 人は弱くて、その弱さの故に後悔や傷をいっぱい持っているけれど、それらを、その悲しみをイエスさまはすべて知ってくださるために、人となってマリヤのお腹に来てくださり、いっしょに生きてくださったのだと思った。そして今も、そのように弱い者と共に生きていて下さる。

そして、イエスさまは荒々しく過去のかさぶたを引きはがすような触れ方ではなく、薄紙を剥がすようにゆっくり、でも、確かに私たちの傷を癒してくださるお方。だから、もう大丈夫!
彼女は、今の幸せをおかあさんの写真に向かって「安心してや」と言っていると、とても良い笑顔で話して送りだして下さった。
 
「彼は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な迷っている人々を思いやることができるのです。」(ヘブル5:2)
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神への愛こそすべての愛

2008-10-18 12:30:17 | Weblog
 

「すべての人間の心は、いや、さらに一歩を進めていえば、いのちある一切のものは、愛に飢えているのだ。
神でさえも、神自らの本性であるこの生命の大法則に従うものだとも言えるであろう。
このことを信じない者は、根本的に人間を誤解するのである。

ところが、神を愛することは、すなわち神において、神の力によって、すべての人間を愛することであって、
実にこの神への愛こそは、口うるさく説かれるばかりでほとんど実行されない、いわゆる「人間愛」のただ一つの真実の根本であり、可能性である。

神への愛がなければ、人間は人を愛する力がまったくない。どんな人も、利己心は常に、単なる人間的な愛情よりも優勢である。」
ヒルティ著 幸福論(第2部)より

 ずっと疑問であったことが解けた。「近しい人をも愛せなくて、どうして神を愛することが出来ようか。」と悩んでいたけれど、それは逆だった。
これなら私にも望みはあることになる。神は求める者の必要を、必ず満たしてくださるお方であることを知っているから。

 
「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」(マタイ7:7)
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応答

2008-10-17 10:12:35 | Weblog

何があったからでもないのに、
ピーカンの秋についていけなくて・・・
薄暗い庭にうずくまって草むしり。

「なにをやってるんだ」と、真っ青な空の下へ引き出して、
大きく手を振って歩いてみたけれど・・・
黒き自分の影が目に映る。

心が揺れて時に反転するのは、生きているんだからと言い訳をしてみても、
赤とんぼの群さえ喜べぬ。


「わたしに何をしてほしいのか。」と主は問われる。
「主よ。あなたを愛する『愛』をください。」

主の愛は常に満ちあふれているのに、
私の愛はたよりなくて秋風のよう・・・

「愛は応答するから甘いのです。」
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青鷺

2008-10-16 10:52:34 | Weblog
 忘れられた軒端の風鈴が、ひんやりとした秋風にチリリンと鳴るのはさびしい。
1年中同じ道を歩くのだけど、今は鳥の音もなく、ただ遠慮がちな虫の声がリリリリ・・とするばかりで、秋の野山は静かなのだと気づいた。

すでに桜の木はほとんどの葉を落とし、梢まで現れて冬の景色を思わせる。田の面はすっかり刈り入れが終わり、黒い土に切り株が並んでいるばかり・・・そんなあぜ道に、つくねんと青鷺が居る。

 ご近所のお年寄りが青鷺にいつもパンを与えていた。青鷺は受け取ったパンをくわえると真っ直ぐに川へ飛んでゆき、パンに集まる魚を取って喰っているという話を聞いた。
なるほど、それはうなずける。青白い天才のような姿で、何かをじっと思いめぐらし、いかにも計画や魂胆を秘めているかのような鳥だから。

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大台ヶ原

2008-10-15 14:17:21 | Weblog
 
罪の罰が三代四代に及ぶということは、神慮がまだその間はこれらの世代の人達の上にはたらいているという意味でもある。
およそ人が出会う最悪のことは、このような神罰ではなく、神がその人を見捨てて今後まったく彼ら自身の本性と意志とにゆだねることである。
従って、神罰は悪人にとっては常に恩赦令であり、幸福の連続こそ永劫の罰である。ヒルティ

 
「あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。
それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、・・・」(出エジプト20:4~5)

「洪水前の日々は、ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。
そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。」(マタイ24:38~39)
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サタンは嘘つき

2008-10-10 13:34:07 | Weblog
 私たちと神様の間に割り込んできて、だまそうとするサタン。素晴らしい証さえも用いて、「お前には無理だ。これだけの信仰もないし、賢さも知恵も頂いていない。」と言う。しかし、私たちの造り主は私たちを最も良く知っておられる。どうして主が私の必要を満たすことがおできになれないことがあろうか。

 satlさんのメッセージで「長所だけではなく、欠点さえも賜物である。」と教わった。私はそのとき心からアーメンできた。長所だけが賜物であるなら、神は何のために欠点を許されるのかと思うから・・。

 すべての人が長所だけの集まりなんてつまらない、サビ抜きのお寿司みたい。もしそうなら、人は何処で許し合うことを学べばよいのか・・・何処で忍耐を学べばよいのか・・。友情さえも確かめにくくなる。神の助けさえも必要とはしなくなるだろう。欠点があるから祈る。失敗があるから赦しを請う。

 欠点さえもたまものなら、自分というこのどうしょうもない者ではあっても、恐れる必要はないのではないか。ありのままの欠点を引っさげてそのままにあればよいと思う。ただ、忍耐されていることを覚え感謝の中で・・。そうして互いに労り合い、助け合う愛を育ててゆければ、それこそみこころに叶うことではないかと思う。互いの中に、自分の欠けを補う素晴らしいものを見て、感謝をもって主を喜ぶことが出来る。

 そんな事実を語るとき主は証としてくださるだろう。事を為し遂げてくださるのは、いずれにしても主なのだから。そこには妬みもいらだちも必要ない。キリストとひとつということはそういうことなのではないかなぁ・・。

 
「 あなたがたは霊を一つにしてしっかりと立ち、心を一つにして福音の信仰のために、ともに奮闘しており、
また、どんなことがあっても、反対者たちに驚かされることはないと。それは、彼らにとっては滅びのしるしであり、あなたがたにとっては救いのしるしです。これは神から出たことです。」(ピリピ1:27)
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あなたが白髪になっても

2008-10-08 20:04:23 | Weblog
 孫の1歳のお誕生日をうっかり忘れていた。いや、実は数日前までは確かに覚えていて、何をプレゼントしようかと考えていたのだけど、瞬間忘れてしまって、今日ハッとして去年の日記を出してきて10月を見ると、6日の欄に大きな字で「おめでとう!女児誕生!!」と書いてあり、残念でしたと過ぎてしまっていた。

5日にさつま芋を送ったばかりなのに、せめて「おめでとう」の一言でも書きおくりたかった・・・。なぜ忘れたのか、それはたぶんテレビが地上デジタルに変わることで、ケーブルテレビの調査を受け、契約をしなければならないことがあったから。

しかも、その日さえも忘れていて、何かの拍子にふっと思い出して間にはあったけれど内心はうろたえていた。そうなったのも、隣組のあれこれの仕事でいっぱいいっぱいだったから・・・などと呆けの原因を遡ればきりがない。

 まったく最近、何かひとつのことに気持ちが奪われると、大切なことをコロッと忘れてしまう。一瞬思い出しはするけれど、またすぐに頭のどこかに記憶が彷徨い出してしまう。今度見つけたときには時を逃してしまっている、本当にそんな自分が恐い。

 今日ケーブルテレビの人たちが来られて、沢山の書類に記入したり捺印したり、契約の内容について説明を受けたり、疑問に対して説明を聞いたり、一部名義の変更もあって、間違えて書いてしまっては書き直し、今度は間違えまいとしてやっぱり間違えたり・・・。もっと年を取るとどうなるのだろうと不安になってしまう。

 誰に対してよりも自分に忍耐が必要になる。出来ると思っていたことが急に出来なくなっていることを知らされたり、「やった!」と喜んでいると、もっと大切なことが抜け落ちていたり。頼りないことこの上ない。それでも主はこう約束される。いよいよ、このみことばの主に身を避けるばかり・・・。主に見張って頂こう。主に取りなして頂こう。そして、人には感謝をして行こう。

「あなたがたが年をとっても、
わたしは同じようにする。
あなたがたがしらがになっても、
わたしは背負う。
わたしはそうしてきたのだ。
なお、わたしは運ぼう。
わたしは背負って、救い出そう。」(イザヤ46:4)
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