石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

親と子

2008-09-30 14:49:52 | Weblog

 息子達が来ると、一週間近く家族いっしょにリビングで過ごす。何処かに遊びに行くわけでもなく、とにかく一緒に生活をして私たちはたっぷり孫の成長を味わう。嫁さんととりとめのないことを話し、一緒に買い物に行き、ふざたり・・私は「おかあちゃん」と呼んでくれる娘を味わう。

 息子達はテレビをあまり見たがらないのだが、ちょっとニュースを見たいからと私がつけてしまったことがで、「お母さんが子どもを殺した。」そんなニュースを6歳の孫が見て「かあちゃんが?」と聞き返した。

「しまった」と思ったけれどもう後の祭り。彼女は親の愛を信じ切っており、繊細で優しく妹を細やかに可愛がる子だから、こんなひどいニュースにはどれほどのショックを与えてしまったか分からないと私は狼狽した。

 なぜ彼らがテレビのニュースからあえて遠くに居たいのか分かった。息子夫婦は、後でそのニュースをパソコンのインターネットで見ながら、頭を寄せるようにして何かを話し合っていた。子どもの前では話せないことが多すぎる。けれども隠せば済むことでもない、子どもが人を信じることがとても危険な時代。


 アダム以来の罪の血筋をもって、不完全になった人が生きていくことは傷だらけになることでもある。傷つけられたり傷つけたり。どんなに優しい人でも誰かを傷つけたことのない人などはいない。時には人の優しさにさえ傷つくこともあるから。

なんだか絶望的にも思えるけれど、しかし以外に子どもは強い。そんなにやわじゃない。きっと神様がそのように造ってくださったのだろう。何でもない普段の家族の交わりの中で、そのような傷は癒され優しい心は守られる。じいちゃんの畑で、力一杯引っ張って堀上げた大きなさつまいもを、得意げに見せている写真を見ていてそう思った。

 大人は「傷つけられた」というけれど、子どもは「傷つけられた」とは言わない。なんだかそのことが子どもの強さのような気がする。
親がみんな何時も強いわけではないから、時には、小さな子どもにかばわれることも子育て中に経験すること。このニュースのお母さんには、私はそんな意味で深い悲しみを感じた。
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隣組のお手伝い

2008-09-29 10:41:50 | Weblog
 子ども達が帰っていった後、その余韻をゆっくり味わう間もなく、ご近所で58歳のご主人が突然死された。我が家は副班長ということで、夫婦で丸二日間緊張感のあるお手伝いとなった。

 訃報を聞いたとき誰もが「エッ、誰が?どうして?」と、隣組の一軒一軒にお手伝いの連絡に伺っても話がなかなか進まない。起こったことがあまりに突然であり、起こるべき順序ではないのですんなりとは受け入れられないのだろう。この田舎町では老人が多くお葬式の連絡も少なくはないけれど、突然寿命は年じゃないと、死というものを改めて目の前に突きつけられたような感じだった。

 ご主人を亡くされた奥さんにお悔やみのご挨拶に行っても、憔悴されているお姿に言葉がない。お葬式で挨拶をされている間、台所は静まりかえって、誰もが奥さんに心を合わせて、ただ悲しみを共有するだけ。

 お葬式は助け合い。隣組のみんなで集まってすべてを取り仕切って送る。近所ではあってもそんなにいつも出会っているわけではないので、こんな時は交わりの場ともなる。けれども、だんだん昔のように必ず出席とは行かなくなっている。仕事が休めない人もあり、老齢で手伝えない人もある。

 隣組の役を、年を取って果たせなくなくなってはいけないので、今の内にできるように順序を変えて欲しいと話す人が居られた。「そんなに先々を心配しなくてもいいんじゃない。」と言ってあげたけれど、いつまでこのような形で助け合うことができるのか・・・きっと出来なくなる時が来ると思う。こんな形を支えるにはいろいろと余裕がないと困難だと思うから。

 無事に二日間のお手伝いを終えて、主人と小さな缶ビールを分け合いながらほっと一息吐いた。「お天気が守られて良かったね」なんて話しつつも、何時か来る自分たちの時のことも思ってはいるが、どのように時が移ろうとも、すべての恐れや思い煩いをイエス様にお委ねして、主に身を避けることの出来る幸いの中でくつろぐ。

 
「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。
しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」Ⅰペテロ1:24、25
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「ハレルヤ!」

2008-09-18 13:37:07 | Weblog

 息子達がいよいよ明日到着する。精を出して台所や洗面所トイレを掃除をする、雑巾の水をこまめに取り替えないと、雑巾が汚れていては何にもならない。

 主が、私という部屋を完全にきよめてくださった。それは至聖所とするほどの聖さ。せっかく完璧にきれいにしてくださったのに、それを自分の自信や満足感、誇りや見栄のために薄汚れたものを上塗りしてしまうことの罪深さ、愚かさを考えてしまう。


「神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。それはあなたがたを、聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためでした。
ただし、あなたがたは、しっかりとした土台の上に堅く立って、すでに聞いた福音の望みからはずれることなく、信仰に踏みとどまらなければなりません。」(コロサイ1:22、23)
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祝福の彩り 

2008-09-16 15:52:53 | Weblog
 夏バテで血圧も下がっていて、何もしたくなくてしばらくウオーキングをさぼっていた。運動をするように言われていたお医者さんの言葉が耳に残っていて、今日はどうしても動かないとと思い切って家を出た。まあ、歩き出すとどうってことはない。やる気がないということが問題なだけ。歩き出して実際、後悔したことは一度もないのだから。

 メガネを変えてずいぶん慣れたけれど、遠目がもうひとつしっくりこなくて、それゆえに出かけることに気が重かったこともあったのだけど、歩いていてその理由が分かった気がした。ただ慣れるしかないのに、ほとんどを家の中で居るから遠目に慣れる機会なかったのだ。歩き出したときの不安感は、青い空や白い雲を見ながら歩いている内にすかっり慣れてしまった。

 朝からいっしょに学んでいる方と創世記1章を読んだのだけど、神様が創造された空は青く澄んでいるし雲はふんわりと白い。山も地も多彩な緑で覆われて、コスモスはやわらかな彩りで風に揺れ、彼岸花はちょっと妖しく真っ赤な花をのぞかせ始めている。

薄紫のシオンは本当に秋らしい花で野や畑が似合うと思う。金色と黄緑に彩られた田では、重たげな穂はみんなまあるく垂れ下がり、金彩で描いた青海波のようで、息をのむほどに豪華絢爛。思わず歩をゆるめて見とれてしまった。
風はちょっぴりひんやりと汗ばんだ肌に心地よい。今日は出会った秋に感動してしまってペースはちょっとゆっくりめ。

 それにしても、なんて神様は優しいお方なのだろう。なんて神様は感性の豊かなお方なのだろう。なんて神様は気前の良いお方なのだろう。罪を犯した私たち、救い主を信じる者にも信じない者にも、こんなに美しく豊かな自然を残していてくださる。

「そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。」(創世記1:31)
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失ったもの

2008-09-13 09:20:52 | Weblog
 孫達が来るからと、毎日少しずつ普段しない所の掃除をしている。昨日はカーテン、のれん、クッションなどの大洗濯をした。部屋の中が少し明るくなったみたいで、働いた私が一番気持ちよく嬉しい。

 コップ立てを洗っていて、本当にこれは丈夫で扱いやすいなぁ・・といつも感謝をする。裏を返して見てみるとやはり「Made in Japan」。買ってからもう30年近くなるはず・・・。塩素消毒も簡単に出来る。

こんな製品を作っていた人たちは、きっとこのような生き方をしていたのだろう。学校を卒業してすぐに小さな町工場に勤め、真面目によく働く青年で、近所のかわいい女性と知り合って、社長に仲人になってもらって結婚をして、やがて子ども達も就職をして親元を離れてゆく。そんな普通の穏やかな人生の様子を思い浮かべることができる。

 しかし今、河原の掃除をしていると、そこには大量のゴミが捨てられてあり、それらの中にはバーベキューの道具一式や、布団などがそっくりそのまま捨てられていたりする。それらはあまりに安く手に入るから、買った人にとってはわずかなお金の価値だけの物であり、楽しんだ後は邪魔になるだけなのだろう。そこには、作った人との関係は何も無い。

 昔は何処に行くにも、お重箱に料理を詰めてそれを持って行き、家族で母の手作りを楽しんだ。いつもだいたい同じような料理でそれがお袋の味だった。何も言わなくても、みんな母が早くから起きて作ってくれた物であることを知っていたので、綺麗に食べて、残り物はちゃんと持って帰って夜も食べた。家のお重箱は大切に親から子へと代々使ったものだった。そこには、物にもその家族の生活や人生が染みついていて、懐かしくもいとおしく、ゆったりとした時の流れが刻まれていた。

 今は、グローバル化か何だか知らないけれど、どこからかいろいろな物が溢れるように、押し寄せてきて、何が何だかわからなくなってしまって、物からも感じることができた「人」が完全に失せてしまって、すべてはお金の価値でしかはかられなくなってしまった。
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信仰 ②

2008-09-11 12:01:55 | Weblog
 福音に接して、イエス・キリストの御恵みを溢れるばかりに受ける祝福の時、それは信仰の入り口。でも、このときに主は良いお方であることを知り、信頼できるお方であることを体験することはとても大切なこと。だから、主は手放しで気前よく願いを聞いてくださる。それはまるで、赤ちゃんがお腹いっぱいおっぱいをもらって、甘やかされて、抱っこしてもらって、お母さんの絶対の愛を知るのと同じよう。

でも、生きているものは成長しなければならないから、生きた信仰もいつまでもそのままにはいられない。主の一方的な愛の注ぎから、自分で主の御愛に応答するときが来る。私たちが信仰を選びとることが必要な時が必ず来る。選び取るためには、まず、それまで積み重ねてきたものを捨てることから始まる。

 イサクを捧げたアブラハムのように、ヨブのように・・・。信仰によって得たものさえも捨てて主のご計画通りのもの、その2倍のものを受けなければならない。「2倍はいらないのでこのままで居させてください。」それは不従順以外の何物でもない。それは主との断絶を意味することだと思う。

なるほど、主はそのままにされることもあるけれど、振り返ってみれば「あなたが、今抱きしめているものを捨てなさい。」と繰り返し、何度もいろいろな出来事を通してうながされ、先に進むようにと、忍耐強く導かれていたことに気づく。

 ヨブは、結果から見れば無理矢理のように見えるけれど、
「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」(ヨブ記1:21)
と高らかに告白している。彼には、常日頃から主にすべてをお委ねする祈りがあったのだろうと思う。

「どうか主の時に、私たちがあなただけを選び取ることができますように。あなたは私たちを良くご存じですから、必ず強い御手で導いてくださいますように、この身をお委ね致します。私たちが健やかに成長することが出来ますように。みこころ通りに成長して、あなたの備えていてくださっていますものを、しっかり受けとることができますように。アーメン」
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種は腐らない⑥

2008-09-10 11:04:01 | Weblog
 夕方に電話がかかって来た。どうせ、何かのセールス電話だろうと憮然とした返事をしていたのが、「メガネが出来ました」という声に、一変「ありがとう」に変わった。一週間後と聞いていたので、覚悟していたのだけれど早くできてホッとした。それでも、主婦だから夕方から出かけるわけにも行かず明日までがまんする。

 次の日の朝は、一緒に聖書を学んでいる女性との約束の日なので彼女の家に行く。先日、マリヤの処女懐胎にとても感動して居られたので、きちんと聖書からと思って、今日はルカ1:26~56、マタイ1:18~25を準備していた。何をするかは彼女が選んでいるという結果になっている。

 もう、彼女は自分の体調のことに触れることはなくなった。熱心に準備をしたプリントを読んで、「何でも聞いてごめんね」と言いつつよく質問もされる。
「ここで、『はしため』ってあるけど、『はしたない女』ということ?」「いいえ、下女というよな意味、つまり女中さんというか・・マリヤが自分は神様には何でもお従いするする立場にいる者ですといっている。『はしたない女』とは全く違うよ。」そんなやりとりもある。

私は彼女が何が分からないのかを知ることが出来るし、私の準備の不備もよく分かるからありがたい。何よりも、次に何を準備するべきかがわかる。昔、聴覚障害の息子に、私流に準備して小学校の勉強を教えてきたことが思い出された。何か役立っているのだろうな。主はすべてを益にしてくださるお方だから。

 今日はヨセフに感動をしておられた。彼を支えたものは信仰だったと思うと話す。マリヤはヨセフに相談もなく神様に従順した。私たちも信仰を持つときは、誰にも相談をせずにひとりでイエス様を信じる。それによって家庭のいろいろな問題が起こることもあるけれど、イエスさまは決して家庭を破壊することなどなさらない。むしろ「あなたもあなたの家族も救われます」と約束をしてくださり私たちの家庭を守ってくださると話す。

 ヨセフは神様への信仰も篤い人だったと思うけれど、マリヤをも信頼していたのだと思う。また、神様もヨセフとマリヤを信頼してくださったのだろう。神様が人を信じてくださったということに驚く。イエスさまのいのちを預けてくださったのだから。イエスさまは彼らに30年間従順してくださった!人と神の完全な愛の形を見せてくださった。だから本当は知ることのない神様に向かって「アバ、父」と祈ることが出来る。だって、愛のない私にも家族の愛はわかるから。

 彼女は突然「『神様』がよくわからない、私は神社の社に向かって祈る神が浮かんでくる。」と言われた。天地創造の神だと創世記を少し話しただけで、「すごいことだ」と言われたので来週は創世記を準備することを約束をする。

「友達に『イエス・キリストがどうして十字架にかかったかわかるか』と聞くと『そら悪いことをしたからに決まっている』と言ったので、『違うで。それは私らの罪の身代やねん。私もまだ教えてもろうている途中やけど・・・』って教えてあげた。」と話された。ただ、知った喜びを友人にも分けてあげたいという気持ち。神様が準備してくださった言葉なんだろう、自然だなあ・・・。

 
 家に戻って主人の昼食を手早く準備をし、すごい晴天なので先日の毛布を干して、やっとメガネを取りにデパートに出かけることが出来た。遠近両用の新しいメガネにはさずがにすぐに慣れることは出来ないでちょっとふらつく。「度がちょっと進んでいるので、慣れるまでは気を付けてください。」と言われたけれど、景色が明るくなった事も事実。

でも、勧められた鏡をのぞいたとき、はっきりと見えたものは自分の目の下の深い皺だった。なるほどよく見えるということはこういうこと。孫が来るのでおもちゃなどをついでに買い、昼食がまだなのでよけいにふらつくのかと先日入ったお店で「ちゃんぽん麺」を食べる。何か美味しい物を食べようとはほとんど私は思わない。いつも面倒くさくて手早く適当にすませてしまう。

 新しいメガネで歩き回ったせいで無理矢理かなり慣れたけれど、やはり疲れ夜はお風呂を出て8時過ぎに床に入ってしまった。床の上での祈りの中でメガネを感謝して、それでも新しいものが手に入ったからといって、それだけで幸せになることはできない。主の愛の中にいるときこそ、本当の安らぎを得て幸せであることを再認識をして感謝をする。


「神にとって不可能なことは一つもありません。」
マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」(ルカ1:37~38)
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ああ!メガネ

2008-09-05 18:09:52 | Weblog
 先日からメガネががたついていて、体調まで良くなかったのだけど、今朝とうとうメガネのつるが元からポキリと折れてしまった。だから早く新しい物を作らなければ・・・と思っていたのに。こうなったら私はどうにもならないよ~。頭はボーとして体もフラつく。

 昔から作っていた近くのお店のご主人が亡くなられて、初めてのお店には行きたくない・・・と今日までぐずぐずしていたのだった。でも、もう逃げていられない。どうしても作らなければならなくなった。

 祈りつつ、ちょっと躊躇しつつ、息子がメガネを作ったデパートに行くことにした。一緒について行ったときの対応が良かった記憶があってそれは安心だけど、けっこう高くついたことが心配でもあった。なにしろ私は遠近両用なので、息子よりもっと高くつく覚悟が必要だった。

 出かけるにもメガネ無しでは動けないので、セロテープで応急修理をして格好をかまわず掛けて行くしかない。情けない気持ちとあきらめの気持ち。それに腰が痛くて昨夜から体調最悪。本当は何にもしたくない。それでも、薬を飲んで駅まで行くとそれなりにシャンとしてきてデパートに着くことができた。

 覚悟を決めて、私には大金をキャッシュコーナーで引き出して、ゆっくりとメガネ売り場に向かう。私は人と交渉することがとても苦手だけれど、お祈りしているのだから安心してと自分を励ましつつ近づく。
「遠近両用のメガネを作りたいのですが、幾らぐらいで出来ますか。」
「もっと大きな枠が欲しいのです。とにかく読書に適した実用的な物が欲しいのです。」「こんなに高価な枠はいらないのですが・・・」と、こちらの希望を並べてみる。
「今は、以前のような大きな枠は無いのです。」と言う店員さんのお話も聞く。

 相手をしてくださった中年の男性の店員さんは、ちょっと思案しておられたけれど1個の枠を出してきてくださって「これならどうでしょうか。大きい方ですが・・」と勧めてくださった。他の店員さんもいくつかの品物を持ってきてくださったけれど、係りの方が「これが良いですよ。」と言われて、レンズを付けた金額を計算して見せてくださった。そして、本来の金額も計算機の中で数字を見せて「ずいぶんお安くなっています。」

確かに、私の予算から比べても・・・。それにレンズは良い物だったので「ありがとう。これにします。」と買うことに決めた。目の検査も親切丁寧で納得できるまでゆっくり合わせてくだっさた。祈っていたから素直に要求を話すこともできて、信じて任せることができたのだと思うと、先ほどまでの緊張が解けていった。一番嬉しいことはちゃんと心が通じたこと。

 私は何をするにもイエス様!だって本当に自信がないから・・・。でも、主を頼りにして後悔したことは一度もない。メガネが出来上がるのは一週間後。それまでは、ガタガタのセロテープメガネ。何処にも出かけられないよ~。
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種は腐らない⑤

2008-09-04 17:49:48 | Weblog

 ヨハネ1:20~34から準備していたプリントをいっしょに学ぶ。此処を新しい人とするにはちょっと無理があるけれど・・・。と考えたけれど祈って出かける。
預言者のこと。水のバプテスマのこと。聖霊のバプテスマのこと。洗礼のこと。献金のこと。今日は「めくら蛇に怖じず」なんて言われそうなことを次々とお話しする。

 でも、盛り上がったのは先に学んだ箇所「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」のところでお話ししていたこと「神の御子イエスさまが、処女マリヤに宿ってくださった」と言うことだった。「これはすごいことね。私はこのことを知って本当にびっくりする。」と感動して話される。

そうだった!こんな事は人には思いもつかないことだ。彼女の喜びが伝わってきて私も新鮮な感動を覚えた。この感動を彼女に教えたお方は聖霊。彼女は「今、知っているレベルでですが、イエス様を信じます。」と信仰を告白されていたから、「イエス様が共にいて導いてくださっている。」ことをお話しして一緒に感謝のお祈りをする。

「私は今は安心してお任せしている。でも、本当に私の罪はどうしよもないってわかった。自分で良いことを思おうとしても、なかなかどうにもならんことがあって」と話される。イエス様が十字架でなしとげてくださったことだから、主に感謝をして安らぐことが出来るとをお話しする。

「このプリントを何回も読んで今日を待っていた。イエス様のことを知るのは嬉しくてしかたがない。」そのように言われ、「私がしなければいけないことがあったら教えてね。」と献金のことなどを気にされたので、
「ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。」(Ⅱコリント9:7)このみことばをお伝えした。そして、「私に関しては『あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい。』(マタイ10:8)と言われているからまったく心配しないでね。」と、そのことも付けくわえた。

 彼女は、聖書を持って家々を伝導する宗教の訪問を何度か受けていたことを話された。聖書を使っているからキリスト教だと思っていたけれど、子どもを連れて来て「学校に行かなくても聖書を読んでいるからいい。」などというのはどうもおかしいと思っていたことを話された。私たちは彼らのことを心配するけれど、主は守るべき者を守って居られ、むしろすべてを用いて益としてくださっていることを知る。彼女はそうしたところを通って、主に追い込まれていったのだから。

「神にとって不可能なことは一つもありません。」(ルカ1:37)
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素っ裸

2008-09-03 09:06:49 | Weblog

「私は、着ぐるみどころか神様の御前でいつも素っ裸。そんな私の24時間礼拝」なんて礼拝後の交わりで話してしまったけれど、帰りの電車の中で、自分の裸を想像してちょっと気持ちの悪いことを言ったかな・・なんて反省もした。けれど、やっぱりそれが私の事実だからまあ、いいか。そんなことを考えていたらみことばを思い出した。

「私は裸なので、恐れて、隠れました。」(創世記3:10)
「神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。」(ヘブル4:13)

 イエス様の十字架による義の衣を着せられている者だけが神の御前に立つことが出来る。でも、イエス様の着せてくださった義の衣は私の目には見えない。私の目には自分の全く無防備な素っ裸しか見えない。きよい神様の義は罪人の私には、いったいどのようなものなのか想像することも出来ないから・・・。

 でも私はイエス様によって、神様の御目には義の衣で覆われていることを知っている。だから、すっかり安心して自分の醜い姿をさらけ出して憩っている。イエス様のあがないのゆえに神様は私には恐いお方ではない。慕わしくて「愛する天のお父様」と呼びかけるお方。

 何時からこのように祈るようになったのか覚えていないけれど、ある時その呼びかけがある人たちと違うことに気づいて、「天の父なる神さま」と習ってみたけれど、むしろ違和感があってやっぱりいつもの呼びかけにもっどてしまった。

 礼拝の前に司会者の方が祈られたとき、「あなたは、どこにいるのか。」「主よ。私は此処にいます。」と祈られたことも思い出してちょっと嬉しくなった。
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