石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

「幸福論」(第2部)から③

2008-08-30 10:21:00 | Weblog

「罪と憂いとは密接なつながりを持つ。だから、ここでも、それらは幸福への道をさえぎる連合した障害として諸君の前に現れてくるのである。
通常、まず罪を生活から取り除かねばならぬ。そののちに初めて、憂いを追い払うことも本気で考えられるのである。

なぜなら、真に憂いのないただ一つの状態は、人間の生得の素質ではなく、また、なにか幸運な外的境遇の所産でもない。それは苦しんで獲得した、よりよき幸福である。ヨブは、以前の偶然の幸せな境遇から、このようなよりよき幸福へと導かれるのである。詩編第23編に美しく描かれているような、永遠に変わらぬ確実な幸せへ導かれるのである。

詩編23編に美しく描かれているような、そのような永遠にかわらぬ確実な幸福へ、われわれすべての者が、一人の例外もなく達すべきであり、また達することができる。すなわち、罪と憂いとが門番として立っている門をまず通り抜けさえずれば、直ちにそこへ行くことが出来るのである。」

「人間は、罪の重荷を負うことがなくなると、たちまち、どんなに多くのことに耐えうるようになるか、また、その反対の場合は、どんなにわずかのことにも耐えられないか、不思議なほどである。人間の最上の力を消耗させるものは、実に罪である。」

「この詩編23編のすぐ前に、あのよく知られた厳粛な内容を持つ第22編があるのは理由のないことではない。」

詩編22篇

わが神、わが神。
どうして、私をお見捨てになったのですか。
遠く離れて私をお救いにならないのですか。
私のうめきのことばにも。
わが神。昼、私は呼びます。
しかし、あなたはお答えになりません。
夜も、私は黙っていられません。
けれども、あなたは聖であられ、
イスラエルの賛美を住まいとしておられます。
私たちの先祖は、あなたに信頼しました。
彼らは信頼し、あなたは彼らを助け出されました。
彼らはあなたに叫び、彼らは助け出されました。
彼らはあなたに信頼し、彼らは恥を見ませんでした。

しかし、私は虫けらです。人間ではありません。
人のそしり、民のさげすみです。
私を見る者はみな、私をあざけります。
彼らは口をとがらせ、頭を振ります。
「主に身を任せよ。
彼が助け出したらよい。
彼に救い出させよ。
彼のお気に入りなのだから。」

しかし、あなたは私を母の胎から取り出した方。
母の乳房に拠り頼ませた方。
生まれる前から、私はあなたに、ゆだねられました。
母の胎内にいた時から、あなたは私の神です。

どうか、遠く離れないでください。
苦しみが近づいており、助ける者がいないのです。
数多い雄牛が、私を取り囲み、
バシャンの強いものが、私を囲みました。
彼らは私に向かって、その口を開きました。
引き裂き、ほえたける獅子のように。
私は、水のように注ぎ出され、
私の骨々はみな、はずれました。
私の心は、ろうのようになり、私の内で溶けました。
私の力は、土器のかけらのように、かわききり、
私の舌は、上あごにくっついています。
あなたは私を死のちりの上に置かれます。
犬どもが私を取り巻き、
悪者どもの群れが、私を取り巻き、
私の手足を引き裂きました。
私は、私の骨を、みな数えることができます。
彼らは私をながめ、私を見ています。
彼らは私の着物を互いに分け合い、
私の一つの着物を、くじ引きにします。

主よ。あなたは、遠く離れないでください。
私の力よ、急いで私を助けてください。
私のたましいを、剣から救い出してください。
私のいのちを、犬の手から。
私を救ってください。
獅子の口から、野牛の角から。
あなたは私に答えてくださいます。
私は、御名を私の兄弟たちに語り告げ、
会衆の中で、あなたを賛美しましょう。

主を恐れる人々よ。主を賛美せよ。
ヤコブのすべてのすえよ。主をあがめよ。
イスラエルのすべてのすえよ。主の前におののけ。
まことに、主は悩む者の悩みをさげすむことなく、いとうことなく、
御顔を隠されもしなかった。
むしろ、彼が助けを叫び求めたとき、
聞いてくださった。

大会衆の中での私の賛美は
あなたから出たものです。
私は主を恐れる人々の前で私の誓いを果たします。
悩む者は、食べて、満ち足り、
主を尋ね求める人々は、主を賛美しましょう。
あなたがたの心が、いつまでも生きるように。
地の果て果てもみな、思い起こし、
主に帰って来るでしょう。
また、国々の民もみな、
あなたの御前で伏し拝みましょう。

まことに、王権は主のもの。
主は、国々を統べ治めておられる。
地の裕福な者もみな、食べて、伏し拝み、
ちりに下る者もみな、主の御前に、ひれ伏す。
おのれのいのちを保つことのできない人も。
子孫たちも主に仕え、
主のことが、次の世代に語り告げられよう。
彼らは来て、主のなされた義を、
生まれてくる民に告げ知らせよう。

詩篇23篇

主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。
主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。
主は私のたましいを生き返らせ、
御名のために、私を義の道に導かれます。
たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、
私はわざわいを恐れません。
あなたが私とともにおられますから。
あなたのむちとあなたの杖、
それが私の慰めです。
私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、
私の頭に油をそそいでくださいます。
私の杯は、あふれています。
まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。
私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。

 
私は、罪とはイエス様が十字架で成就してくださったことを、差し引かずにそのまんま受け取らないことではないかと思う。
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「幸福論」(第2部)から②

2008-08-29 15:16:52 | Weblog

「絶え間ない憂いから逃れる道があることは、これでわかったであろうが、それと同時に、個々の、また、ひんぱんに生ずるある憂いは、われわれの生活に必然的なできごとだということも明らかに知らなければならない。・・・憂いなしに人間生活はありえない。」

「キリストすら弟子にこう言っている。『あなたがたはこの世では、なやみがある』と。彼は弟子たちに、ただこの悩みに満ちた世に打ち勝つことだけを約束している。

「われわれが憂いを持たなければならないのは、三つの主な理由からである。
第一に、傲慢や軽薄にならないためである。憂いは時計の振り子であって、人間という時計の進み方を正しく調節するものである。」

「その上、不幸は、多くの場合正しい道を踏んでいない人たちを救う唯一の手段である。」

「憂いを持ちながら、いや、しばしば多くの憂いを負いながら、こころ憂うることなく生きること、これこそわれわれが修べき生活技術である。
たいていの人の考えによれば、富は憂いから解放するものとされているが、富にはそうした力はない。キリスト自身がそう呼んだように、それは一つの惑わしである。」

「第二の理由は、他人に対して同情を持つことが出来るためである。」

「第三の理由としては、神を信じてその助けを求めることを力強くわれわれに教えてくれるのはただ憂いのみだからである。

なぜなら、われわれの願いが聞き入れられ、その結果憂いから解放されることこそ、神の存在を確信せしめる唯一の証明であり、同様に、キリスト教が真理であることの実証であって、キリスト自身そうするようにすすめているのである。

従って悪い日が実はよき日である。悪い日がなかったら、たいていの人は決してまじめな思想に到達することはないであろう。」思想ではなくて、真理を求めることはないということだと思う。

「だれでも、何かを持っているときは直ちにその様子で分かるものだ。その人自身に敬虔でない表情を与えるのである。」(ブルームハルトの言葉)

「さらに憂いからの解放、すなわち、人が山のような重荷を肩から下ろした勝利の日は、疑いもなく人生の最も幸福な瞬間である。神が、神を信ずるものに対して真に恵み深くあらせられるならば、そのような幸福の瞬間を必ず彼らに与えたもうにちがいない。」

「スパージョンがこう言っているのは正しい。『もし、神に本当に信頼するならば、神の初めのうちは、われわれが恐れていたよりもよい方であり、次にはわれわれが希望する以上によい方であり、最後にはわれわれが願う以上によい方である。』憂いは、常に、神に従う者に取っては、それが彼らにとって果たすべき使命を持つ間だけしか、続かないものである。」
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「幸福論」(第2部)から①

2008-08-28 15:49:19 | Weblog

「罪と憂いという二つの禍のうち多くの人は憂いを取り除きたいと願うのではあるまいか、けれどもそれはまちがいである。罪はしばしば憂いの真の根本原因であるばかりでなく、人間の幸福、および精神的肉体的な健康を甚(はなはだ)しくそこなうものである。」

「生きていけないという切実な憂いが罪をおかす第一の原因となっている場合、多少の悪事や策略暴力を用いず、あまりに厳しい良心をもってしては、生存競争をやりとげえないだろうという心配があって『他の人も皆そうやっているのだから』と考えるわけだが、こうした根強い考えは『迷信』」

「聖書は、いたずらに思い煩うなと助言するだけでなく命令さえした。」

「生存の目的のためにも人間はただ自分のなすべきことを、すなわち神が人間に期待することだけをなすこと。
そうでないと、人間は自分一人でしかもその限られた力をもって、いのちをつなぐための糧を得ると感じる限り、憂いは際限のないものとなり、物質豊かでありながら烈しい競争の世界がまるで砂漠のようにさえ見えてくる。」

「物質的困窮についての想像上の、または実際上の憂いのゆえに人が、道を踏みはずすことを防ぎ、神の法則の実現を保証するものは、ただ神への無条件の信頼のみである。明日のことについて神に信頼することを学ばない者は、長い年月の憂いのために、ついに神および神の法則から離れる去るであろう。」

「神の友愛を自覚している人には、あらゆる人間の努力が不十分なものだというまさにその意識が、帰って快い眠りを与えてくれる。こういう人はどんなに自分が全力をすり減らしてみても最後に神の力添えがなければ何事も成就しないことを知っている。けれども、このような指図は、神に対する信仰をその前提としている。だから打ち勝ちがたい憂いは、たいていひそかな、ひそかな無神論の証拠である。」

「神は誠実であり、頼りになる岩・・・このことはわれわれが最も確実に知ることができ、またもっともたやすく経験できることである。」

「誠実はいうまでもなく、相互的なものであって、われわれ側の誠実は、何らかの行いや懺悔にあるのではなく、むしろ、この人生のさまざまな艱難や不正に出会って疑惑がわき起こりそうなとき、そのたびごとにそれ(疑惑)を断固として拒むことにこそあるのである。」

「信仰によって憂いから解放されうるという完全な確信は、たしかにただ経験によってのみら得られるのである。」

「聖書の確約を文字通りに受け取ることの許される人は、神の約束のほかに、別の不適当な助けを求めない者、いや、人間の助力さえも、さきだっては求めようとしない者に限るのである。」

「神に身をゆだねた人の幸福はただ一つの支えしかいらないのに、かかる浮き世の幸福は多くの支えを必要とする。」

「われわれが日々神を必要とすることを願わず、むしろ毎日神の助けをかりずにすむように、神から一度にごっそり資本をもらいたいと願うことも、憂いを生ずる原因である。」私は、これこそが放蕩息子の願いなのだと思った。
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種は腐らない④

2008-08-26 14:02:16 | Weblog

 みことばの準備をして、お宅に伺うとちょっと上気した様子で迎えてくださって、開口一番「私すごく元気になってね、もう、狭心症も全然出なくなってこのごろは薬も飲んでないよ。」と嬉しそうに話してくださった。

 初めてお話ししたとき、「時々死にたくなることがある。」そんなことを言って居られた事が嘘みたい。イエス様はとてもご真実だから。と二人で感謝のお祈りをする。
「なんでも、イエス様にお祈りをしてからすると余計なことを忘れられて、そのことに集中すること出来るから失敗が無いねん。」「そのことが終わった時、感謝のお祈りをしてね。」「ああ、それを忘れていた。」で二人で笑う。まあ、私だってよく忘れているけれど・・・

「主人が時々つまらないことを言うから、『人のことはもう言わんとき』っていうねん。自分がそんなことでこの間まで苦しんでいたのにね。」と明るく笑われる。もう、すっかり板に付いた様子でイエス様の恵みの実感を証しされた。

 今日は十戒とヨハネの1章の続きをお話しするが、やはり十字架に話しがもどって彼女も感動をしながら聞いてくださる。
「律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。」(ヨハネ1:17)
「アーメン」


「あなたがたは、『刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある。』と言ってはいませんか。さあ、わたしの言うことを聞きなさい。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。」(ヨハネ4:35)
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曇りのち晴れ

2008-08-25 23:02:53 | Weblog
 今にも降り出しそうな空を仰いで、「主よ。どうか、この洗濯物をよろしくお願いします!」と主に晴れ間をおねだり。昨日の内に洗って軒端に干して置いたのだけど、天気予報はあまり良いことは言っていなかった。こんなに洗ってしまったことに少々後悔をしている。今週は、息子がいつもより多く持って帰ってきたし、うっかり洗濯物を溜めてしまったから・・・。

 最近は、本当にうかつなことばかりしている。去年の梅干しをもう一度干そうと思っていたのにあまりの暑い日々に、暑さの中で作業をする気になれなくて、このギラギラ太陽が何時までも何時までも続くように思えて結局時を逃してしまった。遅ればせながら干したときにはもう手遅れだった。

毛布も洗いそこなってコインランドリーで乾燥までする羽目になってしまった。そのうえ、乾きが不完全だったのに太陽で仕上げようと計画したけれど、それからは天候は不順で太陽は元気がない。積んだ毛布を見ては「乾いてはいるけれど・・・もう一度干したいなあ」とため息。

 今日はそんなこんなでちょっと心がしぼんでいたけれど、沢山の洗濯物はからっと乾いてくれた!こんな事でも私には十分な喜び。元気回復。イエス様に感謝をすることに出会うと心がやわらかくなる。温かくなる。

 雨が降ることが嫌いな訳じゃない。庭が雨に濡れると苔は瑞々しい緑色になるし、泣いているような庭石も艶やかに光る。千両の葉っぱも茗荷の葉っぱもしずくを滴らせながら一番綺麗な色をしている。それに高砂百合はしずくに濡れていよいよ清らかに見えるから。

 晴れた日には心地よい活動があり、雨の日にはゆったりとした趣がある。そのままに受け入れて過ごすことが出来る年となった私なのに、ちょっとした事で心に落ち着きを失ってしまう。感謝がなくなったら心がさまよいだす。自分を責める心の裏ではつぶやいている時間がある。
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「花嫁」

2008-08-24 19:16:56 | Weblog
 職場の先輩のお誘いを受けて駅に着くと、彼女は自転車で待っていてくださった。自転車を押しながら並んでたわいもないことを話しつつ歩いた。両側に広がる景色は私が住んでいる所とは違って、広々とした田や畑が広がっていた。

明るい2階の部屋に通され窓からは心地よい風が入っていた。でも、机の横の本立てにずらっと並んだ本に、私は一瞬にして虜になってしまった。そこには「ひまわり」「ジュニアそれいゆ」あこがれの本が並んでいた。

 出されたお菓子も果物も上の空で夢中になって本を読んでしまった。どれくらいの時間が経ったのか覚えていない。彼女に送られて駅までの道を歩きながら「また遊びに来ても良い?」と聞いたとき「もう会えない。私はもうすぐお嫁に行くことになっているから。」そう言った彼女の決意をこめた様子を今もはっきりと覚えている。

私はドキッとして次の言葉がなく、取り返しのつかないことをしてしまったことにやっと気がついた。駅で別れるとき渡された美しい組木の小箱を手のひら抱いて、電車に揺られている間も「もう会えない。」と言う言葉が繰り返し、繰り返し呆然とした頭を巡っていた。

 その日限り彼女の姿を会社で見ることはなくなった。小さな小箱を開けて中に入っていたコンペイトウを一粒ずつ食べ、「中原淳一の画のような花嫁さんだろうな・・・」と彼女の白無垢の花嫁姿を思い、でも、本当は何を私に話したかったのかしらと思いを巡らせた。
もう、50年近くも昔のこと。彼女も今はいいおばあちゃんだろうなあ・・・。
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2008-08-22 14:08:22 | Weblog

 私は子どもの頃読んだり書いたりすることが好きで、活字を見るとそれがどのような種類のものであろうと片っ端から読んでしまうので、母が「困ることがある」と話しているのを聞いたことがあった。

 難しくて内容が分かろらなくても、とにかく手にすると片っ端から読んでしまった。そんな私の子どもの頃の夢は小説家になることだった。たわいないお話などを藁半紙に書いては、手作りの本を作って遊んだ。

 でも、「小説家になりたかった。」などと人に話すのはこれが初めて。絶対に口に出して言ういことはなかった。それは、うっかり話して笑われ、否定されることを恐れていたからだろう。母ならちゃんと聞いてくれただろうけれど、話す暇もなく亡くなってしまったから。

 私の心の中には、「小説家になることって学校を出ていなくても、紙と鉛筆があればできるじゃないか。」そんな安易な思いがあったので、一人で生きてゆくことに追われているときにも完全に絶望はしてはいなかった。

 しかしある時、ちょっとは売れた私小説を書かれた方の講演を聞いた後で、その方を囲んでの茶話会に出席をし、その方の様子を間近に見ていて私の夢は完全に消えてしまった。

 その方には空っぽで虚ろな雰囲気が満ちていて、イライラと煙草をふかし、孤独で淋しそうで少しも幸せそうではなかった。一番悪い例に出会ったのだろうけれど、自分の心の中にあるものをすべてを書いてしまったとき、自分が空っぽになってしまうのだろうということは想像ができた。

 私もブログに自分の内にあるものを書いてある時期、「もう終わりだ」と思ったことがあった。「もうからっぽだ」と...でも、励ましてくださる方が居てくださり、主の備えによってなんとなく続けている内に、このことの主の憐れみに気づくことができた。

 ものを書くことが好きだから書くというチャンスが与えられた。主の愛は決して尽きることがないから、主の愛は日ごとに新しく満たされるから、このことの喜びを綴る限り無限に書き続けることが出来る。しかも手放しで「私はこんなに愛されています。」なんてそんなことを書くことができる。

 本当に、まだ祈ることも知らない幼い日の私の夢さえ、主というお方は見過ごしになさらず、覚えてくださってチャンスを備えて下さった。決して絶望することのない主の御手の中で、私は自由に思いを語り、主の愛をのろけることができることはなんと幸せなことだろう。いや、このお方が共にいて下さる限り、たとえ何も出来なくなっても、御手の中でうつらうつらと喜んでいることができる。
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息子と聖書を読む 2008.8

2008-08-21 10:31:32 | Weblog
 ずいぶん以前のことだけど、私が入院をしたというので親しいお方が、早速ご祈祷された薬草を持ってお見舞いしてくださったことがあった。その方のご親切や優しさを受け取って感謝はしたけれど、私にはとまどいがあった。彼は私がイエスさまを信じていることを知っているのに、偶像による祈りを込められたものによって、私が元気になるというあかしを期待しているなら、私は死んでも口にすることは出来ないと捨ててしまった。

 キリストに救われたこの体を持って、偶像の期待を込められた薬を飲むことは、一体何のあかしをすることになるのだろう・・・と考えたから。偶像に捧げられた肉を食べることで、信仰を問われることはないと知っているけれど、偶像に捧げられた肉を食べると元気になるなどと言われているなら、私には口に出来ないものとなる。私は生きるも死ぬも主のためであるはず。

 しかし、その薬を捨てたと知った主人は、その時、私の頑なな信仰を激しく怒った。まだイエスさまを知らない主人だったから、薬草に期待してもいたし、高価な薬をわざわざ買ってきてくださった親切をないがしろにする私の信仰というものに対して、受け入れがたい不信感を持ったのだと思う。

 その時は、私のしたことが逆のあかしとなったように見えて、主人との間にできた溝を寂しく感じた期間があったけれども、今、主人がイエスさまだけですべてが間に合っていることを実感し、他の何ものにも頼る必要がないことが、当たり前みたいな日々があるのは、主がそれらすべてのことを益として下さったからだと思う。

 連休中に息子とローマ14章を読みながらそんな事を話した。
「でも、本当にあのときの私の心に、偶像を恐れる心がちっともなかったのか、それが問題だけど・・・。イエスさまによってすでに勝利している私たちに対して、何の力もないものを恐れるのは違うから。それに本当に親切で持ってきてくださっているのに、あれで良かったのかとも思っているよ。」
息子が「信仰から出ていないことはみな罪です。と書いてあるね。これがすべての答えだね。」と言った。
「アーメン」

 
「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。しかし、もしこの肉体のいのちが続くとしたら、私の働きが豊かな実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいのか、私にはわかりません。私は、その二つのものの間に板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。」(ピリピ1:21~23)
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種は腐らない③

2008-08-20 14:54:09 | Weblog
 ヨハネの福音書を初めから一緒に読もうと準備をして出かける。お盆で一週は飛んだけれど、続けてみことばを学び合う時が主によって守られている。何時行っても変わることなく嬉しそうに迎えてくださることが感謝。

ヨハネ1:1「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」
創世記1:1「初めに、神が天と地を創造した。」
此処を一番はじめに読んだのは、やはり私は自分好きな所から入っているってこと。
イエスさまは神であり、天地を創造された方であることをお話しする。

1:5光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。
イエスさまが、永遠の滅びという死を十字架において打ち破り、信じるものに永遠のいのちをくださること、また、死後の裁きのことなどもお話しすることができた。

1:12しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

イエス・キリストを信じることによってのみ、神の子どもとされるということ。神の子どもの特権と共に、イエスを信じないということが人の最も重い罪であるという事をお話しして、自分の罪を身代わりに負ってくださる方を信じないのだから、結果として罪は残り、聖い神様に赦される唯一の道が閉ざされるとお話しすると、真剣にうなずいて聞いてくださっていた。

 この前の学びの時に「私ね、『イエスさま、私は何もそんなに悪いことはしていません。どうか分かってください。』って祈ったけどちょっとへんやなあ」と言われて大笑いをしたことがあった。ご自分で「おかしい祈りだ」と気づかれたことに主に感謝を覚えた。今日は私たちの罪意識と神様の聖さの違い、罪についても深く話し合うことが出来た。けれどもこのことが明確になるのは聖霊によるのだから主にお任せをして待とう。

 驚いたのは、もう10年も前に開いていた集会に行きたいと思って居られたとのこと。ああ、種は生きて時を待っていたのだと感動した。あのときでなくて良かった。主の時はぴったり今であると私は知った。今だから私は自分で伝えることが出来る。前から漠然とこのことの必要を感じていたけれど人を恐れてできなかった。人の与えた資格や権威を聖霊のうながしよりも第一に置いていたから。

 ご主人は機嫌良く迎えてくださるけれど、ちょっと不安と抵抗を感じて居られることが分かっていた。今日も部屋に入ってこられて「先祖がちゃんと守っていてくれてはるんや」とひとこと言われた。その時、なぜか私にはちっとも恐れがなくて「では、お祈りしましょうか」とお誘いすると、スッとご主人も側に来られて椅子に座られ手を組まれた。

お宅が聖書の学びのために開かれたことをイエスさまに感謝をして、ご家族への祝福をお祈りをした。不思議なことにご主人が真面目に「アーメン」と言われた。それこそこの前の奥さんのときのようにご主人が「アーメン」の意味を知って居られるのかどうかは分からないけれど、祈っている間ずっと私は聖霊の静かな臨在を感じることが出来た。

確かに私にはな~んにもない。ただ、主が命じられるままに、いやちょっとしぶしぶながら従っているだけ。しかし、主は本当に人手不足なんだろう。こんな動きの鈍い、何の良いものもない者を慈しんで用いてくださる。だから、私はすべてをみこころのままにお任せして目の前に置かれたことをしよう。

 
「この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」(ヨハネ1:13)
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喜びの礼拝

2008-08-18 11:02:18 | Weblog
 大勢のお客様をお迎えしてにぎやかな礼拝。ずっと笑いが絶えずなごやかで、リラックスした雰囲気だったのはLukeさんのお人柄。Lukeさんもsaltさんもこわもての文章からは想像できない雰囲気を持って居られて実際はずいぶん違う。

 天理教を見てこられて、天理教の前で皆さんで記念撮影をされたとのことで爆笑。おちゃめな一面を話され、メッセージもユーモアたっぷりで笑いが絶えなかった。聖書を忘れたなどとおっしゃいながらも、わかりやすく深いメッセージをしてくださった。聖書は、本に価値があるのではなく、みことばそのものの価値だと気づかされた。

 メッセージは
「 また、第二の垂れ幕のうしろには、至聖所と呼ばれる幕屋が設けられ、そこには金の香壇と、全面を金でおおわれた契約の箱があり、」(ヘブル9:3~4)

「それをあかしの箱をおおう垂れ幕(至聖所の幕)の手前、わたしがあなたとそこで会うあかしの箱の上の『贖いのふた』の手前に置く。アロンはその上でかおりの高い香をたく。」(出エジプト30:6~7)

新旧の聖書箇所を比較して、旧約時代は至聖所の幕の手前つまり聖所(魂)に香壇は置かれてあり、魂において祈っていたが、今、新訳の時代は至聖所(霊)に香壇が置かれてある。だから今は霊において祈っており無意識の時にも息のように祈っているのである。聖霊の祈りはイエスの祈りであり、イエスの祈りは必ず神に受け入れられる祈りである。

だから、今私たちには何も足りないものはなく、ヘブル4:3「信じた私たちは安息にはいるのです。」と、天理教の入門書を買って読まれたとのことで、「陽気ぐらし」の教えはキリスト教にこそ実現しているのだから、クリスチャン生活を楽しもうと笑いを交えて話してくださった。

また、「霊とまことの礼拝」の「まこと」とは「真理」であり、それは「イエスのなしたみわざ」による礼拝であるということ。私たちの何か、かたちのようなものではないことは深い平安であり、大きな自由があることに感謝を覚えた。 なんて今日は楽しい礼拝だっただろう!
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