石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

栗み~つけた

2008-07-31 13:58:22 | Weblog

 栗の木はもう、小さいながらトゲトゲの実をいっぱい付けている。私は毎年、栗の実の誕生を見たいと目を皿のようにして、花が咲いた木を見上げているのだけれど見つけるのは残念ながら、ちゃんと栗になってから。あの長い花と丸い栗はなんだか結びつかないし、トゲトゲのイガがいつ出て来るのか興味があって私にとって栗はちょっと不思議。

 おお!田圃は鮮やかに盛り上がる緑の海。濃い緑から浅い黄緑までグランデーションを描きつつ、揺れて波打つ・・・美しいというより、圧倒されるような力強さ。
「 地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実がはいります。」(マルコ4:28)を思い出す。

 でも、主を知らない人は言うだろうな「とんでもない、私が苦労をして育てたんだ。」と。そう言いつつも何かの神々を祭り、本当は当てにも頼りにもしていないけれど一応奉る神。信じてはいないことは彼らの言葉が語っている。

 
 救われた喜びとは居場所を見つけたと言うこと。罪を犯してしまっても、失敗をしても、たまたま成功をして自分とは思えない評価をされた時にも、安心して戻っていける場所。イエス様が備えて下さった私の居場所。


「主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身を避ける。主の真実は、大盾であり、とりでである。あなたは夜の恐怖も恐れず、昼に飛び来る矢も恐れない。また、暗やみに歩き回る疫病も、真昼に荒らす滅びをも。 」(詩篇91:4~6)
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種は腐らない②

2008-07-30 10:14:32 | Weblog

 イエス様をお伝えしたときは何時も同じ事を感じる。それは放蕩息子を迎える父の大盤振る舞いのような祝福。生まれたての子のように上手く言葉にも表せない祈りに、打てば響くように応えてご自身を証ししてくださる主。

 一週間ぶりで彼女の家に行って聖書を開いた。顔を輝かせて迎えてくださって、待っていて下さったことが分かった。一週間前とはずいぶん様子が変わっていて、もう、人のことをあれこれ言ったり、暗い思いを口にされることもなかった。

「本当に楽になった。あれからいつでも祈るようにして、家族のこともお祈りしている。」と言われた。「でも、このアーメンっていうのは誰かの名前?わからへんから祈るときに私は言ってないよ。」といわれて自分のうかつさに平謝り。主はこんな伝え方さえ用いなさるほどに人手不足なのだ。

彼女の祈りはそれでも主に受け入れられていて平安を頂いて居られた。先週はあれほど「私は何も間違っていない。」と言い続けて居られたのに、彼女の口から悔い改めのお祈りをしたと聞いたとき主が導いておられることを知った。この主がいてくださるから私は安心して何でも出来るんだ。

 主の大盤振る舞いを頂いても、いっときお腹がいっぱいになっただけで去って行かれる人もある。主のご真実さに気づいて主を求め続けて行くことは本当に難しいようだけれど、お伝えするときにはいつでも誰であっても、私は此処は良い地だと信じて期待をしてしまう。

関わりたくないという思いが来るのは、この自分のお人好しさが愚かしく思えるからなのだろう。でも、こんな時のお人好しは神様譲りなのだと知ることができたことで、これで良いのだと平安を得た。


「収穫は多いが、働き人が少ない。だから、収穫の主に願って、その収穫のために働き人を送り出すようにしてもらいなさい」(マタイ9:37~38)
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「石ころ」

2008-07-29 10:26:25 | Weblog

 石ころを書き始めて丸2年になることに気づいた。事の初めは帰郷していた長男に軽い乗りで「ブログをしてみたいんだけど・・」と話したことから。彼がホームページを作る仕事をしているから相談してみたのだけれど、気軽に専用のアドレスを作ってくれた。

私には未知の世界へのちょっとした恐れもあり、実はこのとき私はブログというものを読んではいなかった。だから、誰かに相談する必要があると思った。彼はなんといっても親子だから私を知っているだろうし、職業柄ブログというものもよく知っているだろうからと思って言ったのだけれど、その反応に許可を得たような気持ちで安心してスタートすることが出来た。

そして、ちょっと思っていたことを書いてみた私の初ブログが2006年7月29日。ブログタイトルは、ずっと心の中にあったみことばルカ19章から「わたしは、あなたがたに言います。もしこの人たちが黙れば、石が叫びます。」から自然に決まった。生活のど真ん中でいつも主をほめたたえ叫びたい気持ちからだった。

 生活の何処を切り取っても、金太郎飴のようにイエス様の憐れみが見える私の日々、それをそのまま書きたかった。
最近になって、「ありのまま」ということの大切さを思うようになった。幼い信仰、浅い知識、早呑み込みや思いこみ、時に臭くもある私の信仰。それをそのまま書きたいと思うようになった。

 私が主の御手の中の土塊として、今どのような形なのかを書き記すことは、私が取り扱われて行く中に主の憐れみの深さが現れることになると思う。どんなことを考えて、何をしているのか、今のレベルを記すことは、この先、主が御手の内に練り、かたち造ってくださる事柄の実況となるだろう。それは失敗も成功も関係なく、主にだけ望みを置いて生きたひとりの普通の人間の記録となれば嬉しい。

 御国に行くまで完成することはないだろうから、私はずっと主の御手の中。だからこそ主の忍耐とご愛の深さだけが現れることになると思う。今は堅い石ころではなく、柔らかな粘土でありたいけれど、私がどんな素材であってるとしても、今、私自身が喜んでいる主の御手の中で、実況するようにありのままに書き記していたい。

だから、saltさんのメッセージという価値あるものから、普通な孫との会話、日常で感じたこと等、すべてを混ぜ込んでそのままに書き連ねててしまうことになる。読んで下さっている方にはちょっと迷惑かも知れないけれど・・・。

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家にいて聖日

2008-07-28 17:05:39 | Weblog
 
 土曜日の夜に電話があり、日曜日も主人が仕事に引っ張り出された。土曜と日曜は休みだと思っていたのでちょっとあわてた。なにしろ、朝は4時45分には絶対に起きて準備をしなければ間に合わない。山仕事は真冬ならまだ真っ暗な内から電池を持って登る。

とまどいのなかで、いろいろと考えて日曜日の礼拝を休もうと連絡をする。無理をすれば行けるけれど無理はしたくない。主人が家を出て行った後、少しでも寝ようとしたけれど結局眠れなかった。昨夜はあまり眠れなかったのに・・。私は主人の山仕事の時にはどうしても朝のことを考えてしまって熟睡できない。

 午前中に息子と共に静まって、彼の通読箇所使徒27章を交互に読み祈る。
 パウロに良くしてくれたユリアスも、航海の危険を知らせるパウロの言葉には耳を貸さず、世の権威による航海士や船長の言葉を信用した。人間的な親切と信仰は別もの。そして、目の前の穏やかな南風と共に船出する人々といっしょに出て行く。

 パウロの預言通り船は嵐に遭い、人々の生きる望みも絶たれようと言う時、パウロは立ち上がって「誰も死ぬことはない。神様があなた方の命を私に与えられたから」すごいことを伝えている。神様から聞いたことばをそのまま人々に伝えることにおそれを覚えて、少し変えてしまうことがあるけれど、そんなときは必ず後で平安を失ってしまう・・・。

 福音を伝えるべきクリスチャンは、神様から身近な人々のいのちを任されているということかな。会社では取るに足りない者であったとしても、クリスチャンが置かれているということは、とても深い意味のあることだから、「そこに居て祈ってね」と息子に話した。それが私たちの初めの仕事だと思うから。

 嵐に遭ってはじめて、ユリアス達もパウロの言葉に従うようになった。神様の証は神様がしてくださる。無視されたからと言って気落ちすることはないし怒ることもない。神様の警告を無視する人々と同じ船に居ることも恐れなくてもよい。信仰のない人々の運命に否応なく巻き込まれるように見えるけれど、そこで神様のご計画が進むのだから、黙って信じて時を待てば良い。

パウロは時を得て人々を導き、感謝の祈りをして食事を食べさせ生きのびる力をつけさせた。パウロはリーダーとして働くけれど、その時のパウロの立場は殺されかける囚人であった。主のみこころを行うときには自分の立場を心配する必要はないということかな・・神様の権威によって導かれて行い、語るべき事を語るということ。

 昼食を取った後、息子は手を挙げて元気に戻って行った。後片づけが済んだところで私は暑さと寝不足でぐったり・・・、今日は格別に暑い!この部屋の気温は今、33度。ちょっとでも寝ようとしたけれどお昼寝が下手で眠れない、時計ばかり見ている。やはり教会での礼拝を思ってしまう。2時だ。教会の様子を思い浮かべながら聖書を開いてひとりで読む。ひとりで祈る。やはりメッセージが聞きたいなぁ・・・。

 
「昨夜、私の主で、私の仕えている神の御使いが、私の前に立って、こう言いました。『恐れてはいけません。パウロ。あなたは必ずカイザルの前に立ちます。そして、神はあなたと同船している人々をみな、あなたにお与えになったのです。』ですから、皆さん。元気を出しなさい。すべて私に告げられたとおりになると、私は神によって信じています。」使徒27:23~25

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主の備え

2008-07-24 11:12:07 | Weblog

 主人が仕事で出かけるために朝5時前に起きる。そのお陰で疲れるけれど時間はたっぷりある。主人が出かけた後、畑に行ってキュウリ4本、オクラを3本取ってくる。茄子は今日はナス・・いや、ナシ。昨日小振の物を取ってぬかずけにしたところ、つやつやの紫の皮がやわらかくてとてもおいしかった!それにしてもまだ小さすぎるので明日にする。

 夏野菜はこうして毎日毎日収穫させてくれる。太陽のエネルギーを受けてどんどん成長する。夏野菜は体を冷やし、冬野菜は体を温めるという。神様の愛深い備えを感じる。それをわざわざエネルギーを使って、冬にキュウリやトマトを作って食べる愚かさ。それが人間の進歩だというが・・・。

季節ごとに旬のものを、また地域で採れる物を頂くことは神様への従順だと思う。同じ物を食べ続けることもあるが、本当に空腹な時に食べると美味しく食べることが出来るし、そこにこそ食文化としてのいろいろな食べ方の工夫が、本当の知恵が生きてくるのだと思う。主婦の腕の見せ所。

 かぎりなくどん欲になって、お腹が空いても居ないのにどうすればもっと美味い物を食べられるかとなどと思うから、不自然で無駄なちぐはぐなことをしてしまい、神様が分け合うように備えられた食料を、貧しく弱い者から奪ってしまうのだと思う。

 ウグイスの透明な声を聞きながら、桜の木の下を歩いていると、ひんやりとした緑色の風が過ぎてゆく。本当に桜の木の下は気持ちがいい。まだ日も差さず空気は涼しく癒しに満ちている。早朝の空気と夏野菜、なんて感謝だろう!


 今日のみことばはマタイ6章。宝のことが書かれていて、突然の
「からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。それなら、もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう。」(マタイ6:22~23)
このことばに?ちょっととまどう・・・。
ああ、ひょっとしてこれは「お金に目がくらむ」ということかなと気づいた。結局19~34まではこの世の過ごし方が導かれているのだと思う。

 私は信仰を持って間もなくの頃、主人にお金のことで「イエス様が下さる。イエス様がくださった。」なんて言い方をして「俺が稼いできた金やろ」と怒らせたことがあって、さすがに私もこれは済まないことを言ったと反省をしたことがあった。

そのことが忘れられないで、決して主人に向かって「いくら必要」だとか「足りない」なんて言ったことはない。いつも私はひとりで計算をしてきた。その計算方法はいつも同じ「主は気前の良いお方ですべてを持っておられる。」と言う計算。この主といるかぎり私は困ることがない。必要なときには、直接主に申し上げて必要を満たして頂いた。

だから、今、年を取った主人に無理をする必要はないと言うことができる。けれども、主人に健康の回復が絶えず与えられ、仕事が適当な間隔で与えられることはとても感謝なこと。男は仕事が出来ることで誇りを保っていることが出来るみたいだから。
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種は腐らない

2008-07-22 14:32:39 | Weblog

 祈ろうと思って座った時、突然思い出したのは「連休が終わったら・・」という先日の私の思いだった。「連休が終わったら、彼女の家に行きます。」それは半分言い訳だったのだけどいきなり突きつけられた。

 なかなか眠れず、夢にもうつつにもこのことが離れずに、もう疲れて、もう祈る言葉さえ無くなっていたので私は仕方なく、押入から星野さんの本を1冊持ち出して出かけていった。ご主人が喜んで迎えてくださったので、ちょっとほっとして、誘われるままに台所に入れていただいてお話をした。女が台所に人を通すのは気を許しているということであり、私は一番落ち着く。

 罪の話をして一緒に祈り、示されるままにイエス様の十字架を話すと、「ああ、それでわかった。」と感動したように言われた。「私はなんでキリスト教の人が、十字架なんかで死んではる教祖さんを拝まはるのか不思議やった。」

 彼女の具体的な求めに、直接応える事が出来る方は主だけであることを話して、すべてを祈りによって解決できることを伝えて1時間ほどで帰る。ともすれば人の愚痴や非難になる、暗闇のドロドロの問題のなかにあっても、主は決して汚されることのないお方だから、まっすぐにみことばを伝えてさえいれば、私はどんな時も恐れなくて良いことを教わった。

「もし、集会なんかがあったら行くから教えて。」と言われた。もう十年以上も前にトラクトや手製の証のチラシを地域に入れ続けていた。その時、彼女にはトラクトを断られた記憶がある。神様の種は、永遠単位の救いのことなので気長い仕事なのかも知れなと思った。たとえ、今までなんの収穫もないとしても、それで種が腐ってしまったと言うことではないのかも知れない。

「あなたは、他の人とは違うと思っていた。キリストを信じたはるから心が綺麗や。」その言葉に私はあっけにとられた。一体私の何を見てそう思ったのかしら・・。愛想の悪い気ままな私のことを。けれども、家に帰って祈った後ハッと気づいたことは、彼女は私のうちにおられるイエス様を見たんだろう。表面の私ではない奥に居られるお方を!だとしたら、すべては主のみこころに違いない。そこに私は安息しよう。


「また言われた。『神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。』」(マルコ4:26~27)
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義人はいない

2008-07-19 14:27:01 | Weblog

「私が正しいことを聖書から語って」と言われていたんだった。「いいえ、あなたは間違っている」と言ってしまったから、私は閉め出され親しい友を失った。

どんなに多くの時を費やして、どんなに楽しい時を共に過ごしても、ただひとつのこと「十字架」を共に味わえないなら、すべてが虚しいことに思えて今は動けない。

幾度このようなことを繰り返してきたのだろう・・・。
しかし、このような思いのなかで、私は十字架を見上げていよう。惜しまれる主。気落ちしている私の中で、なお、主の忍耐は重く感じられる。


「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。」
「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。(ローマ3:10~12、23~24)
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惜しまれて

2008-07-18 15:52:14 | Weblog

 夕べは、なんと8時過ぎにお風呂から出てきて、あまりにだるいのですぐ床に倒れ込むと、ラジオを聞く間もなく眠ってしまった。時々目覚めるけれど、すぐに寝込んでしまってはっきり目覚めたのは7時過ぎだから、10時間近くも寝ていた。おかげで体はずいぶん軽くなって、頭の痛みもヘルペスの痛みもなくなった。

 6枚切りのトースト1枚ぺろり、コーヒー牛乳を飲んで元気になった。真っ赤に熟したトマトを収穫してきて丸かぶり。口の中にひんやりとした朝取りトマトの香りが広がる。う~ん完熟甘い!この味を知っているからトマト作りは止められない。今年はさくらが来なかったら作っていなかったかも・・やっぱり作って良かった。ご近所の人と話していて知ったことだけど、丸かぶりが出来ない人がいる。ちゃんと皮をむいて切ってでないと駄目な人。聞いた私は残念な気持ちになった。とはいえ、息子が丸かぶりしているのは見たことがないな・・。


 「私が楽になれるように信仰のことを聞かせて」と言われていた。けれども私はずっと躊躇している。彼女の求めるものが幾らか分かっているからためらう・・。今日も言われた。私は追いつめられている。主がすべてを備えて下さらないと私になんか何もできない。いや、本当は私が何もしたくないのだ。しかし、彼女が今何を求めていようとも、イエス様を知らないことはいのちに関わること。どのように接近されるかその方法は主が決められること。私は逆らえない。私が「とうごま」(ヨナ4章)を惜しむように主は彼女を惜しまれるのか・・・そして、私もそのように惜しまれた者だった。
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弱さ

2008-07-17 20:22:32 | Weblog

 お隣から子どものはしゃいだ声・・・家族が揃った喜びが聞こえてくる。そう、夏は子どもの季節。
夕餉の匂いが流れる。そんな何気ない田舎町に、ケケケケケ・・・・・気だるい哀愁を帯びてヒグラシの声が響く。

 ずべての主の備えの中で、それでもなんだか心に空洞を抱えて、ちょっと具合の悪い体でうずくまっている。右の耳が痛い・・・ヘルペス日和見の嫌な奴、弱ったらでてくる。無視していれば済むことだけど。

 完全に満たされることはない。この世は一時的、過ぎゆくところだから。体は脆いもので日々移ろう・・心は頼りなくて今日は沈んでいる。いや、ちょっと風邪気味で弱っているだけ・・・。私は傷を癒す獣のようにじっとして、今は主の時を待とう。

 主人の声がする「どや、ちょっと楽になったか」
「うーん、ちょっと涼しくなってきたから・・・」
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教会への道すがら

2008-07-16 15:20:13 | Weblog
 駅から教会までの道は、歩道沿いに田圃が広がっている。時折そこから涼しい風が吹き上げてくる。「主よ。感謝します」言葉にもならないけれどそう思って淡々と歩く。日傘は差しているけれど、舗装の道は照り返しが強くて顔が熱い、下からでも日に焼けるのかしら・・そんなちょっとのんきなことを思たりしながら歩く。

 時々歩きながらペットボトルの水分を取る。これは年を取ると大切なんだそうだ。体が鈍くなって必要を感じにくくなっているからという。
体だけではなく、人は自分の本当の必要を感じることにとっても鈍感なものだと思う。魂のカラカラな状態にも気づかないで、大汗をかいて世を走り回っていたりする。

 私はなぜ此処を歩いているのか・・
それは私の願いを主が許してくださったから。
真剣な準備をもって備えて下さるsaltさんのメッセージに感謝しているから。
聖書を通してもっと主を知りたいから。

それもあるけれど、でも何だかちょっと違うな・・。
「今私は、歩けるから」本当はこれだ!
「そこに山があるから登る」そんな言葉を聞いたことがあるけれど、それは彼らが山を愛しているから。そして私はイエスさまを愛していて自然に体が動く。人は愛するものに向かって行く時が幸せ。

勿論、日々イエス様と居てそれが私の日常、いわば山に住んでいるってことなのに、なを高い山にも登りたくなる。この日は非日常、そのどちらも私には必要。何をすると言うことでなくても良いけれど、主が巡り合わせてくださった兄弟姉妹の交わりの中に居たいから。

 身ひとつでウオーキングするときと違って、背中の聖書はちょっと重い。もうちょっと賢い方法があるだろうけれどそんなこと考えたくない、私は頑固。それに、「賢い」ってなんだろう・・・。「馬鹿正直」っていう言葉さえ、もうこの世から消えてしまったような現在。でも、賢くなって失ってしまうものも沢山ある。その時に失うものはほとんど目には見えないものだから人は気づかないけれど・・。それはとっても大切なもののような気がする。

 車道の前方に車が止まった。嬉しい見慣れた車。saltさんご夫妻が待って下さっている。「どうしていつも、こんなにタイミング良く出会うのだろう?」挨拶をして飛び込むとそこからは天国行き!別に死ぬわけではなく、涼しく居心地良く、何時もかずさんが早くに行って冷やしてくださっている教会へ直行。こんなことがすご~く感謝、嬉しい。

 帰りはほとんどk姉妹に近くの駅まで乗せていただいて楽しいおしゃべり!年齢が近いので話がツーカーで通じる。ただのおしゃべりなら誰とでもできるけれど、主にある姉妹でなければ通じないことがある。その上教わることがとても多い。彼女は主人の畑の先生。私は伝達係。

 電車は緑深い山間の線路を、ガタンガタンと家路に向かって走っている。
メッセージの余韻・・・。ああ、本当に良い畑しか実を結ぶことは出来ないんだ。聞き方ひとつでみことばは愚かにも聞こえ、むかつく言葉にもなってしまう。そんな人の心をご存じの神様は、お人好しの農園の主人としてたとえ話の中に出てこられる。人の目にはバカバカしいほどの忍耐を持って、私たちの人生に介入しようとされる。そのことは、私たちがそれほどに愛されているということ。
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