石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

今、老後という日々

2008-06-27 14:04:51 | Weblog
  今は結構忙しい季節、今年は良い梅が手に入らなかったから梅干しは漬けずに、梅ジュースだけ作った。これはどんな梅でもたいして差し支えない、息子も好きだし・・。
畑から主人が紫蘇を取ってきてくれたので、きれいに洗ってこれもジュースにする。
ドラッグストアまで単車を飛ばしてクエン酸を買い、紫蘇を上げて、あら熱を取った煮汁の中に入れると、パッと一瞬に鮮やかな色になる。この一瞬が快感。紫蘇ジュースは疲れているときに飲むと体の中にさわやかな元気が戻る。ただ、結構お砂糖を使うのでちょっとこわいけれど。

 先日収穫したタマネギやジャガイモの世話?をする。去年も一昨年も腐らせた。主人が汗水流して作ってくれたものを、今年は腐らせたくないので注意深く見守る。
息子の所に送ろうと宅急便の取り扱いをしている酒屋さんに持って行ったら、まだ若い兄ちゃんは、「『呉れはる人は、自分は屑ばっかり食べて、ええ物を選ってくれたはるんやで。せやさかい感謝せなあかんよ。』って言われたことがありました。」そんなことを言ったのでちょっと私は感動をした。今でもちゃんとそんなことを若い人に教える人がいるんだ。

 年のせいか夜中に目覚めることが多くて、いつでもラジオ深夜便が聞けるようにしている。夜中にジャズを聞くこともあるけれど嫌いじゃない。ものによっては聞き入ってしまって完全に目が覚めることもある。ひとりで「夜中に遊ぶな!」と思いつつも「年寄りは良いの」と楽しんでいる。
私は結婚して家庭をもってからは、夜は寝るものという考えを頑固に持っていて、子供の高校受験の時でも「11時には寝なさい。」と口やかましく言ったものだった。

 そんな先日、「こころの時代」にヒルティの「幸福論」を聞いていて興味を持った。とても健全な信仰が語られているように思ったし、聖霊のことがきちんと語られていると私は思ったから読んでみたくなった。(私ごときにこう言われても・・だろうな)

 早速インターネットで購入した。なんて便利な時代だろうと、こんな時は本当にそう思う。注文したら次の日には読むことが出来る。それは素晴らしいけれど、本当にこの便利さは良いことばかりだろうか?との疑問も残る。生活の中に、普通に「待つ」という忍耐の時間がどんどん少なくなることはちょっと心配。こんな便利さを当たり前と成長する時、いったい忍耐力をどのように育てるのだろう・・。

「普通の人が哲学とか、宗教とかと呼んでいるものは総体に、たいがいの人にとっては飾りであり、せいぜいのところ、その実践生活になんら直接に影響を与えることのない知識に過ぎない。」この言葉は痛みを持って読んだ。これじゃ生けるキリストを味わうことはないだろう。でも、これが「普通」ということは知っている。

「キリスト教は元来、個人の幸福を眼目とせず、いな、第一に個人の完成すらも問題とせず、むしろこの地上の王国、その財宝とはぜんぜん異なった、ある霊の王国の実現のために働くことを主眼としている。そして、これは、人間の肉的性質を一変せしめることによってのみ達成されるのであるが、しかもこの変化さえも、なを自分の仕事ではないのである。」アーメン。
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十字架

2008-06-24 10:19:54 | Weblog
手の中で泣き叫ぶ孫を 嫁が微笑んでがっしりとだいている
主人も私もこの家族写真が大好き

私も十字架のイエスさまの中で いだかれている
私もあのとき 泣き叫んでいた

「ああ、どうしょう。どうしょう・・」と
目に映るこの世におびえて泣いていた 

イエスさまの御手の暖かさを知って 泣くことをやめ
私はだんだん静まり・・うっとりとして眠ってしまった

嵐の音に目覚め 荒れ狂う世の光景を見るとき
聞こえるイエスさまの御声

「よく見てごらん。お前にはあれはただの映像だよ。
髪の毛の一本も失われることはないのだよ」

轟音のような嵐の音ではなく
イエスさまの細い御声を聞き分けることができるようになったから

何を見ても どんなに大きな声を聞いても
私は 私を抱きしめる主の御手を感じ 主のことばに眠る

私はただ イエスさまをキリストだと知らされて
自分の罪におびえて 逃げ込んだだけ・・

私が 十字架に来たのではない
「主よ私もあなたと十字架に・・」なんて言った覚えはない
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「兄弟サウロ」

2008-06-19 11:06:36 | Weblog
 今日の通読は使徒の働き8章から9章を読む。
聖霊に満たされて、まっすぐにイエスのことを語ったステパノを石で打ち殺した人々の仲間だったパウロ(サウロ)。それがその時のパウロの正義だった。なをもキリスト者を捕らえようとダマスコの途上にあるパウロは、イエスによって地に倒され自分の正義が誤っていることに気づかされ回心した。

そんな、パウロをアナニヤは主のことばに従って受け入れる。簡単に書かれているけれど、それは、ステパノを殺した仲間であり、イエスに従う人々を片っ端から捕らえる敵である。アナニヤの正義によると許せるような相手ではないだろう。

しかし、アナニヤは主に「行きなさい」といわれると、誰に相談することもなくすぐにパウロに会いに行き、「兄弟サウロ。あなたが来る途中でお現われになった主イエスが、私を遣わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです。」(使徒9:17)と言ってパウロの目を開いた。

「兄弟」開口一番アナニヤはパウロをこう呼んだ。ひとことも非難することなく、疑うこともなくこう呼ぶことが出来るのは、主に従うことによってのみ出来ることだと思う。イエスが赦されているのに、私たちは自分の正義を振りかざしたい衝動を持っている。

アナニヤの内にある聖霊の働きを思う。イエスが兄弟とされたから「兄弟サウロ」だと、アナニヤがイエスに服従した言葉。敵であった者に大切な聖霊を分かち合うこともイエスの命に従順してである。それも時間をおかず即座に従った。自分のすべてを躊躇することなく抹殺して従うことの大切さを思った。

 唯一正しいお方、イエスに自分自身を有無を言わせず従わせることが、主の計画の実現のためにはとても重要なのだと。主は私たちに「兄弟」をお与えになる。そしてその教会を通して主の計画を実現なさる。その関係は、ただ神の意志だけがすべてであり、私たちには選ぶ権利はない。

誰であれ、どんな過去を持っている人であれ、主にあって「兄弟」とまっすぐに呼びかけて祈り、パウロが受けたように聖霊を分け合い、食べさせ、元気づけて成長させ、主のために備えるようにと。私は今まで「兄弟」という教会用語のような呼び方に馴染めなかったけれど、今日この「兄弟サウロ」にその言葉の深さを知った。
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誰を思って生きるのか

2008-06-13 10:54:06 | Weblog


 「私だけが救われること」に責められて、教会を去って行かれた方のことを聞いたことがあった。それは違うと言ってあげたかった。その考えは人間中心から出ており、神様が中心のクリスチャンの考えではないと・・・。

「すべてのことが神から発し、神によって成り、神に至る。」(ローマ11:36)神に選ばれことから発し、救いを受け、そこから神の計画は動くのだから、信頼して悲しみも苦しみも葛藤をもお委ねして、主の働きを待ち望むべきと・・・。

 信仰生活は主が高くされるなら、どのような者であれ高く上げられなければならないし、主が低くされるときにはそこから落とされればよい。落ちてゆくところは必ず主の御手の中、そこで涙と共にゆっくりと主と交わればよいのだから。そこは誰も知らない甘美ななぐさめと交わりの場所。主の御手によって新しく造りかえられ、生まれ変われる所、少しもおそれるべき所ではないのだから。その神のご計画は人々の救いにむけても働くのだと思うから。

 この世で、その置かれた場所は主を知るための過程に過ぎないと思う。勝ち組といわれる者であっても、盲人がすべての動きを杖に頼るように、主により頼んで生きることには変わりがないはずであり、負け組とされている者には、それはもっと易しいことであろう。主の導きだけが常に最善であり、主は逆転の主でもある。

 ひとり一人主に依存して、神様のみこころを聞きつつ生きることが永遠に変わることのない幸いな人生であり、決して人と一緒に仲良く滅びの中に安住してはならない。それは、キリストが恥と苦痛の十字架を負いいのちを捨ててくださったのだから。神の御子が、あなたのためにこれほどのことをしてくださったのだから。何よりもそのことを一番に考えてほしい。


「下がれ。サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」(マルコ8:33)
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「居ても良いんだよ」

2008-06-12 00:35:41 | Weblog


 秋葉原の事件を人ごとと思えず、「なぜ?」と問い続けていた。故もなく凶刃に命を奪われた方々のことを知るにつけ、その理不尽さに言葉もない。犯人に対して憤ってみてもなぜか心が落ち着かず、「なぜ?」という思いに至るばかり。

 行き詰まった社会の仕組みの問題もいくらか分かるけれど、やはり、犯人はとても大きな、とんでもない勘違いをしていると思う。彼が職場を転々としたことはテレビで知る限り自分から辞めたようであり、最後の会社も自分から辞めているのであって、契約が切れて辞めざるを得なかったわけではない。彼は、正社員でさえあれば居心地の良い安定した職場が与えられると勘違いをしていたのかもしれない。

 次男は正社員だけれど、会社が急激な事業の拡張によって職場に大規模な移動があった時、仕事を研修の人たちに取り上げられ、職場で失業してしまい数日間ただ耐えるだけの日々を過ごしたことがあった。聴覚障害を持っているということもあって、コミュニケーションが上手くいかなかったのだと思うが、会社が大きな岐路にあるような時には、そんなことは誰にでもありうることかもしれない。

辛い時間を過ごしていることを週末に帰ってきて聞いたとき、私は胸がいっぱいになった。主に祈るという脱出の道があることは本当に大きな助けであった。長男の助言で「とにかく上司にきちんと説明をしてもらうこと」にして、次男は私の前では平静を装って会社に戻っていった。そのときの次男の一番の気がかりは「会社に私が居ても良いのだろうか、本当に給料だけの仕事をしているのだろうか」だった。

私は「もし、あなたの人格が否定されるような状態だったら辞めても良いよ。でも、よく考えてみてね、あの会社に入れたのはどう考えてもあなたの力だけではないと思うよ。受験も、入社試験のときもすべてのことを通して、ずっと神様の導きがあったとしか思えないでしょう。だから、神様が置かれたところならそこに居るべきだと思う。もし、会社から辞めるように言われたのなら、それはそれでしがみつく必要はなく、ちゃんと次の導きがあると思うけれど・・」と信じるままに話した。

 彼は上司から会社や職場の現状を説明していただき、「仕事は自分で探してやってください」と言われたという。それも決して簡単なことではない辛いことだけれど、話を聞くことによって、「・・・やってください」という言葉を得た。それは「居ても良い」ということである。針のむしろに座るような思いをして成長することもある。「どうか働かせてください。」と我慢をして頑張らなければならないときだってある。

「働くと言うことは、自分がいかに駄目な者かを見続けること。」こんな言葉を聞いたことがあった。働くことは辛いのは当たり前だけど、若者が「居ても良いんだよ」この言葉が聞けることを願わずにはいられない。

 
「また、アダムに仰せられた。『あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。」(創世記3:17)
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トマトのおたより

2008-06-09 20:28:52 | Weblog


さくらちゃんの うえたトマトが、こんなにおおきくなりました。
もう あおい ちいさな みをつけています。

「はやく おおきくなれなれ まっかになれ」っていいながら 
えいようたっぷりの おいしいおみずをあげています。

さくらちゃんがくるまで がんばって いっぱい みをつけているといいね。
でも、もしこられなくても まっかになったら おくってあげるね。
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梅雨だけどさわやかで・・

2008-06-06 20:27:29 | Weblog
 一時血圧が80~90台まで下がってしんどかったけれど今日は大丈夫。洗濯物を取り込もうと外に出ると、あまりに風がさわやかだったので「歩こう」と家を飛び出した。

なだらかな坂道を登ると大きなゆるいカーブを曲がってUターンになる。この道は不思議な道で、めったに車も人も通らない広々とした道。おなじみの税金無駄遣いの道だと思うけれど、私はこの道で自転車を覚え、単車に慣れ、子供もこの道で自転車の練習をした。私たちには疑問を持ちながらも結構な?道。

 田は整然と早苗が植えられていて、いつものことだけど本当に感心する。なんて美しく植えるのだろう・・。どんなに歪な形の田圃であってもきれいに並べて植えられている。アメリカ人が庭の芝生にこだわるように、ヨーロッパの人が窓辺を花で飾るように、日本人は田圃を景色としてこだわっているんだろう。

決して収穫だけが目的で終わらない、これって精神的な豊かさだと思う。美意識かな・・。姉妹に聞いたことだけど、彼女が自分の田で不慣れな植かたをしたとき、本職のお百姓さんに植え直されたと聞いて一緒に笑った。それほどのこだわりがあるんだ。

鮮やかな緑に惚れ惚れと歩いていると、アザミの花の間にホタルブクロの花を見つけた。これは2、3本手折って帰って小さな花瓶にポンと投げ入れよう。ウグイスがごく近くで「コッチコイ」「コッチコイ」と鳴いている。今頃のうぐいすは私にはこう聞こえてしまう。

 
私は今、この言葉を思いめぐらせている。このことはすごい望みであり、課題でもある。
「肉の弱さと卑しさこそ御霊の働く領域です。・・個人ばかりではなく、教会全体としても、御父の定められたもの、御子の得て下さったものを肉に宿しているキリストの手足である者たちの中に実現するのは、ただ聖霊の不断の仲介と活動によるのです。・・・しかし、これは願い求め、期待し、信じ、望むのでなければ来はしません。」「キリストの御霊」より
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障害児の親

2008-06-04 10:49:43 | Weblog

 ある時期、息子とは一心同体のように生きてきたけれど、彼と私は全く違う人間であり、人生の課題も違う。
私にとっては、突然来たような子供の障害は乗り越えるべきもの、闘うべきものと見えたけれど、生まれたときから聞こえない彼にとってはそれが日常であり、乗り越えるものではなく共に生きるもの、だから彼は障害とは闘わない。それは彼にとっては彼自身だから。
 
 すべての事の中に私は主の愛の御手を見るし、過去を振り返るたびどこを切り取っても主の憐れみの中だったと、信仰生活は本当に一本道だと今回も気づいたけれど、それは私の人生のことであり私の信仰生活のことで、息子のことを語っているようだけど、実は「障害児を持った親」のことであり自分のことにすぎない。

 実は、「障害」なんてものは誰でも持っている。私は忘れっぽくって、字が下手で、人見知りがあって、人になかなか馴染めないという社会生活上困った障害を持っている。「障害者」という言葉は単に程度の問題に過ぎないと思う。誰にとっても障害は乗り越えるものではなく、受け入れて済むのならそれは最善だと思う。「いろんな人がいる。」それで済むなら住み良い社会。

 ただ、人生をより豊かに暮らすために、歩けないなら道具を使って移動できる方が良いし、見えないなら詳しい説明をしてあげることで知ることが出来る世界がある。聞こえないなら手話や筆記によって世界を広げること、不便を取り除くことが出来るからそれは必要だけれど、乗り越えるというものではないと思う。

まして、障害者に「乗り越えろ」ということはとんでもない間違い。受け入れるだけしかない障害だって沢山ある。たいがい年を取ると徐々に痴呆ぽっくなる。なるべくなら私は穏やかな痴呆になりたいと思うけれど・・そんなことは選べない。

 子供が障害を乗り越えようと頑張っていると見えても、それは親の方から見た感想であり、子供は乗り越えようとは思ってはいないと思う。ただ、成長しているだけ。障害があっても、いのちがあれば子供は成長するから、普通に成長しているに過ぎないのではないかと、今は思う。

親は、ただそれをちょっと工夫をして手助けすることだけ。どんな子供だって放って置いては良い成長は出来ないように、よく見ていてタイミング良く手を貸す。ちょっと導く。それは障害のあるなしに関わらないほとんど普通の子育てと同じこと。ただ、労力が普通よりは必要なことも事実だけれど・・・。

それも子育ての襞を深く刻む作業であり、親の視野を広げ、新しい価値観に出会うことになるから決して損には成らない。食べてみないと分からない深い味わいを、親はその行いに応じて味わうことが出来る。それは間違いなく神様から特別に賜った人生の価値ある果実だと思う。


 これが障害児を育てた親の味わったもの。決して障害者自身のものではない。障害者自身の人生それは私は知らない。神様は彼らにはどんなものを準備して居られるのだろう。少なくとも、はじめから「自分の弱さを知る」という素晴らしいプレゼントがあることだけは事実。それこそ主を知ることの入り口だから。
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「地を這ってつかむ喜び」

2008-06-03 17:08:26 | Weblog
 「悲哀の仕事」というsaltさんのダイアリーを見て子育てを思い出した。これは、今から20年ほど前に新聞に投稿したもの。思い出したので引っ張り出してきてしまった。saltさんが書いて居られた、「『悲哀の仕事』は、人間が自分の中に罪を認めて、罪人である自分を受容することによってはじめて神との新しい関係を構築できるとういう霊的な原則のひとつの型だとも言える。」この言葉の通り、私はこの子育てを通して神様の原則を学ばせて頂いていたのだと思う。

  
「地を這ってつかむ喜び」  1988年11月1日 

 我が子の障害(高度難聴)を知ってから、今日までそれは多くの戦いがありました。
 それは世間の価値観との闘いのようでありながら、実は自分の中に深く潜んでいる、障害者に対する絶望感でした。声を出すための訓練、言葉を覚える訓練、普通は誰でも自然に身につけていくことに、死にものぐるいの努力が必要になるのです。初め私はなんと割に合わないことかと思いました。

 誰もがかっこいいスニーカーを履いて、駆け抜けて行く道を、這いながら進むのです。時には走ってきた人に蹴飛ばされつつ進むのです。子供が小さい時、その障害を親が負います。訓練にどこまで耐えるか、どれほど熱心になるかは親次第だからです。まず、親自身、這ってしか進めないことを認めて、受け入れ、地に手をつかなければなりません。それまで目にしていた、周りの人は全く見えなくなり、一緒に這う子だけを見つめます。

 マイペースで、しかし決してあきらめず、一歩一歩何も見えず、何の目当ても見当たらないような努力が続きます。そして、ある時、子供の中に、障害を乗り越えようとする、たくましい変化を見つけて、思わず「やったね!」と叫びます。それは誰かをけ落とした喜びではありません。とても純粋な喜びです。

 今は彼も自分の足で立ち上がって、駆け抜ける人の列に加わって、おぼつかない足取りででも、歩み出そうとしています。障害ゆえに目の前まで来たら、突然見えない重いドアに行く手を阻まれることが必ずあります。でもどうか絶望しないでほしいと思います。その時また、恐れず地を這って、そのドアを開いたら、後の誰かが続くことができるかも知れないからです。
 
 なんとそれは価値ある事でしょう。もうすぐ、高校入試です。知りたいことが山ほどあって、今はなかなか勉強に集中できないようです。自立しようとしている彼に、もう私のくちばしを挟むときではないのですが、やっぱり、がんばってほしいと思っています。

地を這ってきた日々の、そのがまん強さをなくさないで欲しいのです。障害を持って生まれてきたことは、無限の可能性を自分の障害の中に、示し続けることだと私は教わったからです。

 また、障害は先祖のたたりか、のろい、罪の報いのように思われていて、その考えがどれほど障害者を傷つけていることでしょう。
「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。」聖書はこう語っています。
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「肉に従って・・」

2008-06-02 15:26:09 | Weblog

 理不尽だとカッと頭に血が上って、主人に「どうして、あの人の言いなりにならなければならないの。」と怒りをぶつけてしまった。
主人は、お見舞いに行こうと誘われて急いで食事を済ませて、その人を迎えに行たのに留守だったと帰って来た。数時間後に電話で呼び出されて再び行くことに私は怒っていた。侮られていると腹を立てていたのだけれど主人が出かけた後、我に返って「イエス様ごめんなさい。」と言うと同時に、今日のみことばを思い出した。

「もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。」(ローマ8:13)
「私の生活の中ではどういうことなんだろう。」今朝そのように思いながら読んでいた。

 今の私の「理不尽だ」という怒りは私の肉の思い、肉は筋を通せと言う。でも、その一本通っている筋とは自己中心。決して神中心ではない。
また、私は先ほどちょっとした親切が出来なかった。簡単なことだったのにとっさにすぐに動けなかった。その心の底には小さな妬みがあった。これも明白な私の肉。

でも、私はなぜいきなり怒ったんだろう。自分の立場が分かっていなかったからだ。私の日々がどれほどの神の赦しの中に、忍耐の中にあるのかを、ぼんやりと暮らしていて忘れているからではないか。
なぜとっさに妬んだんだろう。私が妬む必要がどこにあるのか!主に賜っているもの豊かさをしっかり覚えていないからではないか、どれほど主が良くしてくださっているのかを忘れているからではないのか。

 
 そんな失敗ばかりでも、「アバ、父。」と祈りに導いてくださる御霊がいてくださるから、このような生活のど真ん中で、みことばをどのように生きるのですかと明日もまた聞いていこう。


「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。」
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