石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

主の答え

2008-04-24 14:06:16 | Weblog
 孫達の訪問はちょっと先になりそう・・・会えば嬉しいし、先に延びても楽しみ。「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」だからお任せ。

 昨夜床の中で聞いていたみことばのテープ、うつらうつらと聞いていたのだけど、「えっ」と意識が鮮明になった箇所を今日は開いて読み返した。

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。』」(マタイ11:26~30)

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」クリスチャンだった祖父の家にかかっていた額のみことば。小さい頃からいつも見慣れた言葉だった。

 「どんなふうに休ませるのか・・・」幼いときに父を亡くし、唯一頼りとなる母も12歳で病死した後、祖父の家で朝晩見るそのみことばに抱いていた疑問だった。しかし、毎夕薄暗い部屋で背を丸めて祈っている祖父に聞くことはなかった。私の期待するようには答えることは出来ないだろうと思っていたから。そんなに単純な問題ではないと何となく思っていた。

「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」と続いていたんだ!私もクリスチャンになってこの箇所を何度も繰り返して読んでいるのだけれど、気がつかなかったのは28節があまりに強く心にあったからだろう。

 みことばを切り取ってはいけないといつも言われるsaltさんの言葉を思い出した。みことばに新しく出会えたような感じ。幼い頃からの疑問が解けた喜びもある。みことばの疑問は単純に聖書の中に答えがあった。それも続きに書いてあった。それが何十年もかかって解けるとは・・。でも、このことに主のご真実を思った。主は、私の祈りにもならない問いさえもお忘れになることはないんだ。

 信仰が長いだけで本当は何にも分かっていないのに、なんか分かったように思ってしまって気づくと思い上がって・・・。でも、選ばれたのはこのことによるのだった。
「これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。」

 今、勝手に悩んだり苦しんだりしている。そんな魂にこびり付いた信仰歴の垢のようなものを洗い清めるように、「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」イエス様のおことばが染みこんで行く。
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お日様だ~ぁ

2008-04-21 18:43:36 | Weblog


 障子を貼り替えて、ほとんどの布団を放り出し、たまっていた洗濯を干して、ゼンマイを干して(でもこれは長雨で手遅れ)布団カバーにアイロンをかけて・・・昨日と今日の晴天を目一杯活用しようとちょっと焦っていたけど、そんなに焦らなくても明日も晴れらしい。

 孫達がやって来るから超張り切っている。嫁さんに無理はするなと繰り返し言われているけれど、出来るということはそれだけ元気と言うこと。土曜、日曜と精一杯手伝ってくれた次男に、幾度も「落ち着け!」と叱られながらも、気になっていたことが片づいていくことが嬉しい。

本当に健康はうれしい、それに変な言い方だけどやる気がありがたい。先日、検査を申し込んだ時点で、これらのことを片づけておこうと思っていたのだけどどうしてもやる気になれなくて、気になるし出来ないしで情けなかったから。
そこで「どうか助けてください。やる気にさせてください。」と祈った。大きな事も些細な日常もとことん主に頼りっきりな私。
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水を満たすこと

2008-04-18 18:07:38 | Weblog

 カナの婚礼で、母マリヤはイエス様に「ぶどう酒がありません」と事実だけを伝えた。イエス様の初めての奇跡はこの言葉からだった。祈りってこうなんだと思った。自分の思惑など付け加えないで、方法など計画しないで申し上げるだけ。但し、言われることを何でもする従順をもって。

 手伝いの人たちはイエス様が「水瓶に水を満たしなさい。」と言われたとき、お言葉通り忠実に水瓶の縁までいっぱいにした。ただ、言われるままに完全に従った。大きな瓶いっぱいに水を満たす作業はそんなに簡単じゃない。その時、この水がぶどう酒になることを彼らが知っていたとは思えない。イエス様のお言葉に、ただ、忠実にすべての水瓶を満タンにするまで手を休めなかった人たち。

 満タンにした中身が水であることを知っている彼らが、イエス様のお言葉通りに宴会の世話役の所に持って行くには信仰がいる。一口でも飲んで確かめているのなら信仰はいらないけれど、イエス様の目の前で「さあ、今、くみなさい。」と言われて持って行くには恐れがあるだろう。水を持って行っては満座で恥をかくことになるから。

 私の信仰にはいつも恐れがある。そして恥をかくことをある意味覚悟していないと深みに漕ぎ出せない者。でも、今私たちには助け主が「これに歩め」と声をかけて導いてくださる。このお手伝いの人たちのように黙って水を運び、信仰による勇気を持って証をする時、確かにイエス様を共に喜ぶことが出来る。

「イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行ない、ご自分の栄光を現わされた。それで、弟子たちはイエスを信じた。」(ヨハネ2:11)
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メッセージの喜び

2008-04-15 18:45:13 | Weblog

 みことばが忠告していることを、自分のことと捉えられないことは悲しい。それは、聖霊に導かれなければ不可能なことだから。パリサイ人も偽牧者も自分が責められていることに気づかないのだ。羊飼いのふりをしている偽の牧者とは、少し違っているだけ、ちょっと足りないだけなんかではなく、強盗であり盗人であると書かれていることに改めて驚く、この言葉をどんなにか軽く読み過ごしていたことかと・・・。

 教会を、安らかに出入りすることと、養いの牧草を見つけることとは神様の約束。なんとその約束を奪われている人の多いことかと胸が詰まる。saltさんのメッセージを聞くとき、いつもみことばに新しい発見を教わって嬉しい。それは本当に、主の牧場で豊かに養われるいのちの満足感。

でもそれは、「何も特別なことではなく、ちゃんと聖書に書かれていることであり、誰でもきちんと読めば分かることです。」と言われる。けれど、噛み砕いて忠告されやっと気づくことが多くある。今週のメッセージもみことばを丁寧に、鮮やかにヨハネの10章を解き明かしてくださった。いつも間近に聴くことが出来て、おいしく調理されたみことばのご馳走に満腹することができる幸せを主に感謝する。すべては「神より発し、神によって成り、神に至る」ことだから。

 今日は花見客で電車が混雑していたり、ちょっと遅れていて乗り換えが大丈夫かとヒヤヒヤ、ドキドキだったけれど、ちゃんと礼拝に間に合った。毎週の礼拝は決して同じことの繰り返しなどではなく、時々どきどき、はらはらがあり、それは主のお導きの確かさを味わう時となって感謝となる。

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吉野山

2008-04-14 19:24:40 | Weblog
 
吉野山に今年も登った。妹と二人で体力のもつ所まで、毎年春の桜と秋の紅葉を見に行く。いっぱいおしゃべりをしながら登る。芥子菜の漬け物で巻いたおむすびと、私たちの年代ではお弁当に欠かしてはならない卵焼き。なにしろ気まぐれに今から行こうということで、急遽決まるからお弁当は超簡単なものを私が準備するならわし。

 今年はタイミングと天候に恵まれて山は幻想的に美しかった。とてもとてもカメラには収まらない。花曇りに山桜は可憐な花を付け、またははらはら、はらはらと一面に降りしきる花吹雪が、夢かうつつかと思うばかり。花とも葉とも定かでない、はんなりと淡いパステルカラーが山一面に広がっていて、今日は曇った空と一体のしっとりとした美しさ。下り坂一面に散り敷いた花絨毯の上を歩いていると、自分の体もふわふわと夢の中を漂っているような感覚にとらわれる。


 しかし、登り坂を「ああ、しんど」「疲れたなぁ」なんて言いながら歩いていると、山から下ってきた女性に呼び止められた。「私は○県から働きにきています。此処の空気は体にすごくいいのです。疲れたなんて言わないで感謝しなさい。そしたら健康になれます。」と叱られて唖然とする。なんとか「はい、はい」と切り抜けて、妹と「人に感謝を押しつけるか!だいたい、体に良いからと口先で感謝、感謝と言うなんてそんなの感謝じゃないなあ。」「あれはきっと○○教やで。」なんてひとしきり、彼女曰く体に悪い言葉を好き勝手にしゃべりながら歩く。でも、ちょっとおもしろかった、此処にもいろんな人がいるんだ。

 どんなに美しい所でも人は大なり小なりぶち壊し、どんなにすばらしい交わりでも完全なんてあり得ない。妹にお抹茶を点ててもらってほっと疲れを癒した後、お付き合いに熱心でない私はわがままだよと忠告された。
神はひとり子をたもうほどに世を愛された・・・私さえも。
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主の鞭

2008-04-10 11:35:11 | Weblog
 

主の振るわれる愛の鞭は懲らしめるものじゃなく導くものだと私は感じている。私の経験では結果として誤りのない方向に導かれ、良きを得させようとしてくださった事を知っているから。その時は分からなくても後にその懲らしめの意味を知る時、成長の肥やしになっている事を知る。

 成長とは少しはましな人間になると言うような事じゃなくて、主と歩んだ年月、その間の主との交わり、そして確かにされる希望。主のくださる平安、安息をより深く知るということ。

 だから現実がどうであるか、良いか悪いかはあまり関係が無く、自分の信仰の中にすべてがある。妄想系みたいだけど、こんなにコロコロ変わる捕らえどころのない世の中という現実よりは、私にはずっと確かな事実。

この世は影だとsaltさんはいつも言われるけれど、確かに真実な輝きも光もない薄っぺらなこの世界が反転して、不動の輝きに満ちた世界を垣間見ることができるのがキリスト者!そこで主に見える望みは、この世のいかなる現実も決して奪うことができない確かな希望。その望みに今この世界で生きることができる。

 今はこの世界でもう少し主と生きよう。此処でしか聞けない、今しか知ることができない、此処でしか出来ないことがある。主のお導きはとても細やかで、要求される前からすでに必要は満たしていてくださる。そのことは私の中に置いてもそうなのだから。

 私は、主を知らせていただく毎にこの世の歩みを重んじることを教わっている。以前はこの世界から逃げるように、なんとかこの仕事だけ終わったら早く御国に行きたいものだとそんなことばかり考えていた。目の前のことに追われて仕方なく生きているような・・。

 主は決してこの世に絶望することを望んではおられない。イエス様は、罠をもうけて近づくパリサイ人や律法学者をも決して無視なさらず、忍耐の限りを尽くして教え続けられた。憎しみと苦痛を与えるだけの鞭はイエス様ご自身が受けてくださった。


「主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。」(詩篇23:3.4)
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検査の日 ②

2008-04-09 14:53:51 | Weblog

 本当に私はうかつで一番大切なことを昨日書き忘れていた。
 実は、主に「はい。もう握りしめません。私のすべてをお委ねします。」と言った日から完全に出血も下血も止まっており、カメラでも原因はわからなかったけれど私にはわかっている。まだ、一日入院をしてポリープを取ることと、昨日は痛くて大腸の3分の1しか見られなかったので、残りをその時に見ますと言うことだけれど、このことは本当はもう終わっている。

 一番大切なことはひとつだけ。主に「はい」と言ったかということ。そのほかのことは実は小さな事。でも、その小さな事にも忠実でいないと・・・聖霊の宮の管理をおろそかにしないようにと愛の鞭を受けた。


主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。(ヘブル12:6)
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検査の日

2008-04-08 18:29:52 | Weblog

 気の重い検査を受けるために、病院に向かって単車で走っていると、目の前にぽっかりと飛行船が浮かんでいた。もちろん浮かんでいるのではなくて、桜見物の遊覧のために飛んでいるだけれど、そののんびりとした姿にふっと緊張が解けた。

 先日から続いていたわずかな出血は誤魔化しもできたけれど、ついに下血がありさすがに私もこれ以上放っておくことはできなくなってしまった。それでも「検査は嫌なんです。」と祈っていた時、いつも「みこころのままに」と言いながらも、決して手放さないで自分自身のことを握りしめていると気づかされた。家族の健康管理は気しているつもりだったけれど、自分のことにはなをざりにしていた。それなのに握りしめているとしたら矛盾しているなぁ・・・。私たちの体は聖霊の宮と知っているのに。

 病院にひとりのおじいさんが大きなリュックや鞄を提げて入ってこられた。入院でもされるのかなぁと思ったとき、「主人がこんなふうに、たったひとりで入院をするようになったら・・・」と思うと胸が詰まって、「主よ。私を生かしてください。そして主人の最後を看取ることができるようにしてください。ちゃんと自分の体を管理することができるように助けてください。」と素直な祈りが出てきた。

 心を決めて何事にもジタバタしないと看護師さんのやさしい言葉に身を委ね、言われるままに従った。確かに苦痛だったけれどそれは体の上だけのこと。主に従うことを選んだ時の平安が検査を待つ5日間ずっとあり、それは本当に大変幸せなことなんだと思う。

 姉妹からあらかじめ検査の様子を聞かせていただいていたので、痛みが治まったとき「ガンがあったら教えてくださいね。」気軽にお医者さんに話すことができた。お医者さんと看護師さんが笑い声で液晶画面を指して「これはポリープです。後日取りましょう。」と教えてくださった。


 今週は祈りについてのメッセージ。子供達のためにとおっしゃいながらも、決して子供だましなどではない、丁寧に準備をされた中身の濃いメッセージだった。自分の祈りについて吟味できるようにプリントも準備してくださって、さすがに教育的配慮は完璧。いつもこんな先生に教わることができたら子供たちは幸せだろうに。

 霊は息のよう、だけどふつうに呼吸をするという以上の意味があり、「神様の霊と私の霊が循環している。」なんかとてもよくわかる。すごいこと!祈りはそういうもの。呼吸は吐いてから吸う、自分の中の苦いものを吐きだすことで神の霊を受け入れることができる。みこころを本当に求める祈りを導いてくださる。

 何か事が起こるときそのことによっていつも主に新しくお出会いする。気づかなかったことに気づかされ、委ねていなかった部分を指摘される。そうして、少しずつ主のいのちを受けてゆっくり成長させてくださる。だから私は、失敗だらけでも主のいのちによって必ず成長できるいという望みがある。
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マルコ13章

2008-04-04 11:38:18 | Weblog

 マルコの13章は終末の記事。繰り返し読むとき、イエス様から十字架のことを聞いた時の、弟子のとまどいがわかるような気がした。私たちには先のことはわからないから、それが自分の思いに近いときにはすんなりと受け入れることができるけれど、思っても見ないことや、思いたくもないことを告げられるととまどってしまう。それは、受け入れるためには覚悟を決めなければならないから。

でもそれらは決して突然なことではなく、日々みことばを通して近しく主に接している昨日、今日、明日の上にあることなのだと思った。みことばを教える聖霊は導いてくださるから、私が人の噂に惑わされることはないだろう。なぜなら、私の霊は違和感というアンテナを持っているから「その話はいったいどこから出てきたのかよく吟味しなさい。」と教える。

こんなささやかなブログであっても言葉を導いてくださり、私自身いつも何かを知らされるという不思議を経験している。知っているから書くのではなく、書きつつ模索しているうちに教えられている。

「その時がいつかわからないのだから、目を覚ましていなさい。」と繰り返し書かれている。でも、ペテロ達は起きてはいられなかった。眠り込んでしまっていた・・・。
ああ、そうだ。今、私たちには聖霊という助け主がおられるから、イエス様を忘れて眠り込んでしまうことはない。私が眠っているときも、遊んでいるときも、食べているときも息のように私を生かす力だから。

 一度は死ぬべき体をもっているからこの世の終わりは誰にでも平等にある。年を取るとその時を常に意識するようになる。どのようにその時を過ごせばよいのだろうとも思う。けれども、まるで手錠をかけられて生きているかのような、この肉の体を脱ぎ捨てることができるのはクリスチャンにとっては最高の喜び。

しかし、問題はその前に越えるべき未知との遭遇がある。誰にとってもその時は初めての経験だから恐れもあるけれど、私はイエス様の舟の中。嵐の中で何もできなくなったらイエス様の平安が私の平安。波にたゆとうていれば良い・・・。

「この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。」(マルコ13:31)
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「彼は、外に出て、激しく泣いた。」

2008-04-03 15:14:37 | Weblog
「彼は出て行って、激しく泣いた。」(マタイ26:75)
聖書には泣くという言葉がたくさん出てくるけれど、私にはこのときのペテロの涙ほど痛みのわかる涙は無い。

 イエス様が捕らえられたときに、ペテロは一度逃げ出していながらも後を付けて行き、大祭司の家の庭に入り込みたき火(光)のそばにいた。恐くて隠れる者は闇の中を好むけれど、ペテロは明るいところにいた。命がけの時に暖を取りながら見物していたわけではないだろうから、彼はイエス様から見られることを意識していたのじゃないかなぁ。

イエス様に、「たとい死ななければならなくても、私はあなたを知らないなどとはいいません。」と誓った彼は「イエス様。私は逃げません。」こう言いたかったのだろう。しかし「イエスの仲間だ」と女中に言われただけで彼の強さは崩れてしまった。3度にわたる追求に否定の言葉はだんだん強くなって、「そんな人は知らない」と呪いをかけて誓ってしまうほどペテロは恐怖に襲われてしまった。これがペテロの本当に姿だった。これが私の姿だとも思う。

 それにしても、神様の備えのなんと完璧なことか!私たちには涙が備えられていた。激しい後悔の涙。自分という者を知ったときのペテロの衝撃を癒す涙。
彼の涙は、ゲッセマネでイエス様と共に目を覚ましていることができずに眠り込んでしまった者であり、人が恐くてイエス様を否定して逃げてしまう、そんな者に過ぎないことを知った嘆きだっただろう。

痛烈な痛みの中で流す涙だけれど、涙にはなぜか優しさや甘ささえある。泣いて泣いて自分というものをすっかり注ぎ出してしまうまで泣いた後には、空っぽになった心にイエス様のみことばが残る。「わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。」(ヨハネ22:32)と言われていた・・・。そして、イエス様の慈しみの眼差しを思い出したろう。だから、よみがえりのイエス様に素直な喜びの中でお会いすることができたのだと思う。

「イエスはシモン・ペテロに言われた。『ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。』ペテロはイエスに言った。『はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。』」(ヨハネ21:15)
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