石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

パソコンがない日々

2008-03-30 16:49:24 | Weblog
3月22日パソコンが変な動きをした。その前にもちょっとしたトラブルがあった。息子が部品を買いに行くというのを引き留めて祈る。仮に、しばらく使えなくなってもいいからちょっと落ち着いて様子を見てからにしようと提案。

しかし、息子の見立て通りに月曜日には完全に動かなくなった。修復は彼の戻ってくる週末にならないと無理。祈りによって選んだことだから、まあ、いいか。と家事をし、聖書をただ淡々と読む日々。どこにも何も発信することも受信することもなく、春の陽を受けやわらかな風を受けて過ごす。

でも、私の深いところで23日の礼拝の余韻がずっと続いている。「交わり」と言われたLukeさんのメッセージは、人の言葉でではなく静かな聖霊の無言の満たしのようだった。一つ場所に集う礼拝とは、復活のキリストの一つのからだの交わり。そのことが初めてわかった・・いや、味わうことができた。私は今までメッセージを聞くということに重点を置いていたけれど、saltさんの言われていた言葉の意味に気がつくことができた。

Sugarさん、Lukeさん、emiさんに初めてお目にかかれたことはとても嬉くて、主に心から感謝をした。Lukeさんのホームページを姉妹に教えられて一生懸命に読んだ日々。そしてカナン教会を知ることができた私には言葉にならない思いがあった。けれどもその集まりは不思議なほどすべてが自然、特に言葉はいらないほどで何をしていてもいなくてもただ満足だった。

Sugarさんの熱いメッセージはいつまでもいつまでも聞いていたかった。交わりの時も細やかに気遣いをされて、兄弟姉妹の間を回って交わってくださり、私にも「十字架は、まだまだ深いものです。」と大きな希望、喜びを教えてくださった。「もっともっと真っ正面から戸を叩きなさい。もっともっと知りなさい。」と・・・。


「見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。それは頭の上にそそがれたとうとい油のようだ。それはひげに、アロンのひげに流れてその衣のえりにまで流れしたたる。それはまたシオンの山々におりるヘルモンの露にも似ている。主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。」(詩篇133:1~3)
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ヒヨドリの遊び?

2008-03-21 13:53:24 | Weblog


 外から帰って来た息子が、「面白い写真が撮れたよ。ちょっと見てみろ」とこの写真。ヒヨドリだけど、金柑の皮らしいものをクチバシでくわえて放り上げ遊んでいるように見える。何度も放り上げては受けるを繰り返してから食べた。鳥も遊ぶのかなぁ・・?

 息子は撮ってきた写真を私に自由に使わせてくれている。彼の写真をパソコンの横からのぞき込んで、「これ、ちょうだい」「これ、ちょうだい」と、私のブログに保存してくれるよう頼む。時には機嫌良く、時にはうるさそうでも後で見るとちゃんと入れてくれてある。我が町はこうした撮影には恵まれた環境だと思う。彼は、休日の度にカメラを持って飛び出していく。時には泊まりがけで出かける。「僕には鳴き声が聞こえないから、鳥を撮るには不利なんだよ。」と言いつつも鳥をよく撮ってくる。

 
 私は、カワセミを彼の写真で初めて見た時にショックを受けた。「わ~すごい!」と鮮やかに光る色の美しさに、神様の作品の奇抜さを見て驚いた。なんでこんな派手な姿に造られたのだろう。だって、生き物にとっては自然に溶け込むような保護色が有利じゃないのかと・・。でも、なんて楽しいんだろう!みんな保護色ではつまらない。私たちへの大サービスなんだと思う。

 神様が天地を創造された時に備えてくださったプレゼント!
四季折々の自然、花や鳥、雪や雨、青空や豊かな水の流れ、小さな生きものたちの写真は、神様の慰めや癒しに満ちている。今日は、春雨が一日中しとしとと降り続いて満開の梅をぬらしている。ウグイスの声も心なしか湿りがち・・きっと、ぬれて冷たいんだろう。先日主人の蒔いた青菜の種はすぐに芽を出すことだろう。
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祈り ②

2008-03-20 09:46:29 | Weblog


 以前、信仰の姉妹と議論したことがあった。例えばリボンを求めるとき、「ピンクのバラの花柄のリボンが与えられますように」と祈るという姉妹に、私は「私に似合うリボンを与えて下さい。」と祈ると、そんな議論を繰り返したことがあった。今思えばそんなことはどちらでも良かったんだと思う。

 祈りはすべてイエス様を通して神様に届くのだから、イエス様は最善を神様に届けてくださる。将来のことなど、本当は自分にとって今何を準備することが必要なのかなんて、ちっとも分かってはいない私たち。そんなことをよくご存じのイエス様が、私たちが何を願ったからと言って、そのとおりになどなさるわけはない。お任せでも詳細に願いを申し上げても同じ事ではないだろうか。

 それでも、私の考えは少し変わってきた。やはり、詳しく望みを申し上げた方が得かも知れないと・・・。イエス様はあまりにも私たちを良くご存じだから、そして憐れみ深いお方だから、ピンクのリボンではなくブルーのリボンを与えるとき、神様に賜った完全な選びを、私たちが喜んで受け入れることが出来るようにと、ハラハラと気遣ってぴったりと寄り添って支えていてくださるだろう。そして後にブルーのリボンが上品で、より相応しいことを知って感謝を捧げるとき、お任せよりはイエス様との関係はもっと深いだろうから。

 私たち人間の弱さや愚かさをイエス様が細やかに心配してくださるのなら、そしてそんな弱さの中にこそ神様の力が完全に働くのだから、弱さをもっているということはとてつもない祝福なのだと思う。

 イエス様によって祈ったとき、すでに主は最善をスタートさせてくださっている。そして、それは決してこの世の様々な事情で挫折するようなものではなく、まっすぐに良い計画を成就してくださる。祈りから始まったことですでに失敗のない確かな歩みは完成していると。

「わたしは、あなたの神、主である。わたしは、あなたに益になることを教え、あなたの歩むべき道にあなたを導く。」(イザヤ48:17)
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真っ新な聖書

2008-03-19 10:42:46 | Weblog
 saltさんの綺麗な聖書を見た時、新しい聖書がとても欲しくなった。普段から私は人のものにまったく興味がない。だからお話にならないことが多いのだけれど、このときだけは別だったから即座に買おうと決めた。

確かに少し前から、20数年使ってきた聖書にちょっと困っていた。信仰に入って初めての聖書だったから、赤い線や青い線や書き込みが多くあって、それが時にはとても煩わしくなってきていた。でも、その書き込みの中には、折々の重要な導きが日付とともに書き込まれていて、主のご真実を見ることが出来る信仰日記であり、感謝がいっぱい詰まっていることも事実。


 ちょうど1万円自分のお金を持っていた。主人が私の誕生日に「何か好きな物を買え」と言ってくれたもの。いつもは手袋とか花束とか何か買ってくれるけれど、今年は主人の思っていたものが売り場になくなっていたとかで現金になった。何が欲しいかと聞かれても私は「いらん」と言ってしまう。それでも、セーターでも買おうかと思っていたのだけどなんとなくそのままになっていた。あまり物にこだわらないので本当はどうでもよかったんだと思う。今は、日々手にする聖書を買うことに用いることが出来てとても満足。

 新しい聖書を入手して、持ち歩くためにもカバーが欲しいと布切れを買いに行くと、求めていたキャンパス地では白と黒の荒い縞の布が一枚だけあった。たった一枚。私は迷いようもなく選びようもないことにちょっと不満。でも、車で待っていてくれた主人に見せて話すと、即座に「ええ色やんか、イエスさんが置いといてくれはったんや」と言われて納得。ときどきこうして教えられる。


 真っ新の聖書を開いて真っ新な気持ちで読む。昨日までの経験は過ぎ去ったこと。今日から始まる主との新しい出会い。御国に行くまで日々新しい発見!に導いてくださいますように。

私のたましいは、あなたの救いを慕って絶え入るばかりです。私はあなたのみことばを待ち望んでいます。(詩編119:81)
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迷える小羊のこと

2008-03-18 11:24:04 | Weblog

「迷える小羊」の話は、あわれに迷い続ける小羊の物語ではなく、一匹の小羊を見つけだした天の喜びの話であり、探し出されて今から始まる。のだと今週のメッセージで語ってくださった。巷に乱用されている言葉とはずいぶん違う。

 人は性質において羊とよく似ている。羊は帰巣本能を持たないでいつまでも迷い続ける。羊は群集心理で動くもので、一匹が走り出すとみんな付いていってしまう。それもとても人間によく似ている。事実、ひとりで他人と違う方向に進むことはとても恐い。

 イエス様は、そんな迷える私たちを探し見つけだして下さる。無力な赤子となって私たちの所に下ってくださり、人の弱さの中にご自分を閉じこめられ、罪人とされ十字架の死まで味わってくださったから、私たちの弱さや愚かさもよくよく知っていてくださる。

 「小羊が飼い主を探し求めることはない。」と聞いたとき本当にそうだと思った。自分のことを思いだしてみても私は迷うばかりで、自分から真の神様を探し出したのではなく、神様が私を探し出してかかえるように、追い込み導いてくださったことがわかる。

 なにもできることのない私たちだけれど、感謝なことに一つだけできることがある、それは主を求めること。よい羊飼いの声を聞き分け、その声を聞いて歩むとき、もう迷える小羊というあわれな歩みではなく、天を喜ばせる賢い歩みとなる。私の名を呼んで私に語ってくださるイエス様に、私は聞き耳をたててお従いしたい。導かれるところは緑の豊かな牧場。そここそ唯一貧しさも恐怖もないところだから。
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私も大金持ちだけど

2008-03-14 11:34:07 | Weblog


 真面目な好青年がイエス様に質問をしている。「永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか。」律法は守っているという彼に、イエス様は「あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」と、彼をいつくしんで言われた。

 イエス様は彼を試して言われたわけではない。彼にとってそれ以外になかったからである。でも、「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」とイエス様は後で言われているから、彼が全財産を貧しい人に与えるという行為によってしか救われないということではない。

いや、「また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。」(Ⅰコリント13:3)永遠のいのちを自分のものとして受けるために、財産を差し出したからと言ってその行為に愛があるとは言えない。

 彼が幼子のように何も持っていなかったら、彼には欠けたところはなかったことになる。確かに彼が去って行った理由は捨てるべきものが多すぎたから。彼が去っていったこと自体、お金というものが信仰の大きなつまずきであることを証明している。

つまずきとなるものは、たとえ自分の身体の一部でも切り捨てなさいとイエス様は言われる。そのことは、永遠のいのちの価値をどのように思っているのかを問われていることだと思う。なにを選び取るかということ。

イエス様はお金をも備えてくださることを私は生活の中で知っている。事実、我が家のかめの一握りの粉は尽きず、つぼの油も尽きることはない。(Ⅰ列王17)

「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)

そこでね。時々切る私の啖呵。
「てやんでぇ べらぼうめぇ こちとら 神様という大金持ちの子どもでぇ 
イエス様というすげえ兄貴もいるんだぜぇ 全宇宙を支配する家柄さ
な~にを小せえことでギャギャ叫いているんだよ~ どーんとしてねえか!」
アハハハハ・・なぜかこの時江戸っ子になる。
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春だよ~

2008-03-13 15:39:23 | Weblog

ウグイスが高らかに鳴いている。そっと裏山を見上げてみると、すぐ近くの梢に姿を見せて、ホーホーケキョー ホーホーケキョー ケキョ、ケキョ、ケキョ・・結構上手に鳴いている。

声は聞こえても、姿を間近に見ることは少ないのでとても嬉しかった。ちょっと落ち込んでいたからはげましてもらったのかなあ・・。
小さな小鳥にはげまされたり、小さな小さな青空のような花に春を告げられはげまされたり・・。
本当にイエス様の備えは完璧。やさしいなあ・・。

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イエス様のたとえ話

2008-03-10 14:39:29 | Weblog


 聖書を読んでいて「何だか変だあ・・。」と思ったことがあるけれど、そのままに流してしまわないで、そこで立ち止まって主に聞いてゆくことが如何に大切であるかを教わった。それは神様の奥義を「本当に知りたいか」と問われていることだから。

 「畑に隠された宝を見つけるとそれを隠しておいて畑を買う。」単純に文字通り理解するとき、私はこのストーリーにはついていけなかった。単純に「それは狡い事でしょう。」と思ってしまう。イエス様がなぜそんな言い方をされるのだろうと思っていたけれど、メッセージから「?」が解決してとても嬉しかった。いつも教わるけれど、3つのたとえ話を総合的に読むことの大切さ、みことばをみことばから解き明かされることの大切さに目から鱗。

 人には誰もイエス様の価値は分からなかったこと、また私たちは買い取る代価を持ってはいないことに気づかされて「ああ、そうだった」と心から「アーメン」することができた。畑を買い取ってくださるのは主。本当に神様はひとり子の御子のいのちを持って買い取ってくださった、私たちはそういう畑。なんの良いところのない畑だけれど、聖霊が豊かな実を結ばせてくださる。それこそ神様の宝。

 その宝は、養殖真珠のようにドブ貝から出来ているかもしれないけれど、それをアコヤ貝が自分のからだを傷つけて、その体内で時間をかけて何層にもコーティングして育ててゆくようなもの。それがただ一つの教会。

 「だから、天の御国の弟子となった学者はみな、自分の倉から新しい物でも古い物でも取り出す一家の主人のようなものです。」
弟子たちは御国の学者であり、新しいものとは目に見えない御国と福音の奥義であり、古いものとは、律法と目に見える被造物の世界であって、そのふたつの世界を行き来するための鍵がイエス様の「たとえ話」だという。深いメッセージにとても感動をした。
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主が私の手を取ってくださいます(マルコ8章から)

2008-03-06 22:56:27 | Weblog


「人々が、盲人を連れて来て、さわってやってくださるようにイエスに願った。」(マルコ8:22)
 このみことばいいなぁ。こんなふうにイエス様の所に連れて行ってあげたい。かって私もこんなふうにイエス様の所に連れて行ってもらった。そして、イエス様に霊の目を開いて頂いた。

 イエス様は彼の手を取って村の外に連れて行かれた。そこはイエス様とふたりの世界。イエス様はつばきを両目につけ、両手を当ててくださった。イエス様のつばきは十字架の血のように彼を洗い清めたのかしら・・。イエス様の両手は力強くて、温かくて、ふれられるととても安心。

「何か見えるか。」と聞かれたとき、彼は落ち着いて「人が見えます。木のようですが、歩いているのが見えます。」ありのままに正確に答えている。イエス様はもう一度両目に両手を当ててくださった。きっとイエス様の息を感じただろうなぁ・・。

「そして、彼が見つめていると、すっかり直り、すべてのものがはっきり見えるようになった。」彼は安心してじっと見つめていることができた。イエス様ははっきり見えるようになるまで待っていてくださる。恐いお医者さんの前にいるように緊張などしなくても良い。イエス様は心にスッと添ってくださるお方だから。

「そこでイエスは、彼を家に帰し、『村にはいって行かないように。』と言われた。」
せっかく村から連れ出してくださったのだから、そして、真理がはっきり見えるようにしてくださったのだから、もう後戻りしてはいけない。イエス様に開いていただいた目は世のものをみるための目ではないのだから。


「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。」(Ⅰヨハネ2:15~17)
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「食べもの」

2008-03-02 23:36:58 | Weblog
 今日、礼拝で食べ物のことを話された。私も先日からずっとそのことを考えていた。礼拝に行く間も電車の中で考えていた。農薬餃子の事件からも思うことは多い。また、イージス艦の事故以来、私の好きなお魚を頂くことの重さについても考えてしまう。

 夫や息子を海に送り出す過酷な日々を送って居られる女性が居られ、彼らが本当に命がけで捕ってくださったお魚だった。恥ずかしいことにそんなことをあまりにも考えていなかった。とかく美味しいか不味いかとか、安いか高いかとか、輸入物か国産か、そんなことばかりに気を取られていた。本当は輸入でも国産でもその労働のありがたさには変わりはない。

 料理は愛の形でもある。最近の家族の体調や季節や好みを考えて毎日作るもの。もし、この作業が単なるお金の価値だけで計られて終わりなら、なんと空しいことだろう。今と同じ気持ちで作り続けることはとてもできない。そんな作業を他国の人に押しつけているのなら問題が起こることは当然だと思う。作ってくださった方々に感謝をどのように伝えることが出来るのだろう・・。以前は食堂でもお金を払うときに「ごちそうさま」とお礼を言ったと思う。

 昔は、一粒のお米粒も無駄にはしなかった。それはお百姓さんの労苦を思うからだった。お釜を洗った時に米粒を流すことはいけないことだった。それを取って置いて洗濯の糊として使った。酸っぱい臭いがしていることもあったけれど・・。

 それがいつの間にか、腹立ち紛れに料理をゴミ箱に捨てるようなドラマを目にするようになってしまった。私は「冥加に悪い」という言葉を捨てられないでいる。それでも、知らず知らずのうちに、賢い主婦のやりくり術などと、如何に安く買うかなどとそんなことにばかり気持ちが奪われていたように思う。

お金に心が奪われると大切なことが分からなくなってしまう。食べ物を備えてくださった主に感謝をして、それを労苦して捕ったり育ててくださった方のことを覚えて細やかな心を持って大切に食べなければいけないと思う。

 
「食というのは単なる栄養源ではなく、キリストのいのちによって養われること、またその喜びをともに分かち合うことの象徴なのです。」saltさんのメッセージより
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