石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

「小犬」(マルコ7章から)

2008-02-26 11:46:46 | Weblog
 律法学者やパリサイ人から、弟子たちが手を洗わないでパンを食べたことでイエス様がとがめられている。「汚れた手」であり、昔からの言い伝えを守っていないと。彼らは多くのしきたりを完全に守ることを誇り、そのことをもって人々を裁いたから、弟子たちのしきたり破りを見たとき、訴える口実を見つけて「やった!」と思ったのだろう。

イエス様は「あなたがたは、神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っている。」と言われた。彼らの言い伝えやしきたりと、神様の戒めとは何の関係もないと言われた。

 善悪の知識の木の実を食べたアダムの血筋を受け継いで、人間の「善」と「悪」は人間中心、時に自己中心で、何が本当に良いことであり、何が悪いことであるのか分からなくなっている。戦争でさえ「良いこと」になりうる。

人の良い考えは、神様のことばを空文にする時さえある。言い訳の材料にみことばを使ってしまうこともあり、自分の計画のためにみことばを利用することもある。神様とは何の関係もないことである。

 スロ・フェニキヤの女はイエス様にひれ伏して、自分の娘から悪霊を追い出してくださるように願った。
「まず子どもたちに満腹させなければなりません。子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」
厳しいイエス様のお言葉の前に、ひれ伏して女は願い続けた。
「主よ。そのとおりです。でも、食卓の下の小犬でも、子どもたちのパンくずをいただきます。」その言葉に、「そこまでいうのですか」とイエス様は願いをかなえられた。

 私は癒しを求めるとき、こんなに自分をわきまえているだろうかと思った。心の中からでてくるものは「悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさ」とイエス様が言われる。その時「主よ、そのとおりです。」と、心から同意するほど自分を知っているのだろうか。

 今、共にいて下さる聖霊は私のどんなところに居てくださるのか・・。朱に交わっても赤くなることのない主。いや、真っ白にしてくださる!自分の心から出てくる「良い考え」には拠らず、助け手なる聖霊に導かれつつ、みことばを空文にすることのない選びの中で平凡な日常を生きていたい。

「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」(イザヤ1:18)
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いちじく (マルコ11章から)

2008-02-23 11:05:16 | Weblog
 イエス様は空腹を覚えて、いちじくの木に実を探されたけれど実は成っていなかった。5千人以上の人々にパンを与えられたお方が、空腹を知って居られたことに親しみと感謝を感じる。ご自身のためには40日40夜の断食の後でも、1個のパンも用意されなかった。

 イエス様はご自分のためには奇跡はなさらないから、私たちがたわわに実を付けたいちじくを準備できるならなんと嬉しいことだろう。でも、「今はまだ実の成る季節じゃないから・・」とこの世の時の流れに身を任せていては、イエス様の必要に応えることは出来ない。

 私にはイエス様の必要がいつか分からないから、いつも実をつけているために、主につながっていなければならないんだ。「絶えず祈りなさい。」と言われる。それはきっと言葉にもならない息のような祈りだと思うけれど、主にある交わりの中にいるそんな生き方。

イエス様は「神を信じなさい。」と言われた。「信仰」それは真剣に積極的に、心で疑わず主を求めているということ、いつも主に渇いているということ。律法学者たちはついにイエス様の権威を認めることはなかったけれど、素直に主を認めることが出来ることはなんと感謝だろう。

真っ直ぐな信仰は奇跡の実を結ぶことも出来る。奇跡の実は私たちの必要を満たす前にイエス様の必要を満たすものなんだ。

「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」(ヨハネ15:5)
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また,パン

2008-02-15 17:06:36 | Weblog
「『こんなへんぴな所で、どこからパンを手に入れて、この人たちに十分食べさせることができましょう。』すると、イエスは尋ねられた。『パンはどれぐらいありますか。』弟子たちは、『七つです。』と答えた。」(マルコ8:4~5)

 6章でパンの奇跡を経験しているのに、弟子たちのこのような反応はなんだろうと思った。また8章の14節でも、「パンを一つしか持ってこなかった」と互いに議論をはじめていた。いつもいつも「パンがない」と弟子たち。

 人は食べないと生きていけないから恐れる、弟子たちのようにお金がないとパンが買えない。人の面倒を見ている場合じゃないと・・。今日のパンがあっても明日のパンを思い煩い、老後のパンを思い煩う。思い煩うのは悟るところがなく、その心は堅く閉じているから。

 パンが5つあるとき、主によって5000人が満腹して12かご余った。パンが7つの時4000人が満腹して7かご余った。弟子の手元には1つのパンがあったからそれで十分だった。私たちがどれだけ持っているかなんて、主の御手を経るときなんの関係もない。主はいつも私たちに1つは持たせていてくださる。

 日々の小さな奇跡も謙遜なら覚えている。そんなことから信仰は積み重ねられて、思い煩う者ではなく主に安息して、主を賛美する生活を導いてくださるのだと思う。

わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。(詩編103:2)
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傷跡

2008-02-14 10:51:01 | Weblog

何の脈絡もなく 流れ星のように心を横切る 過ぎし日の断片

どれもこれも刃物を帯び 一瞬に心を切り裂いてゆく

後悔だけじゃない かっての喜びさえも痛みとなる そんな無数の傷跡に 

イエスさまの血潮 したたり落ちて 傷に沿って流れる 

それは温かいイエスさまのぬくもり 凍りついた心を解かし 

さあ、もう一度立ち上がり 共に行こうと前に導く力
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五つのパンと二匹の魚を捧げた少年

2008-02-12 14:46:47 | Weblog

 イエス様の「パンはどれぐらいありますか。行って見て来なさい。」というお言葉に、「は~い。あります!」と、少年は大喜びで自分のお弁当を差し出したのだろう。少年はなにも考えなかった。ただ、自分が持っていたことが嬉しかっただけ。きっとそれは、あらかじめ主がもたせてくださっていたもの。

 そのお弁当がイエス様の手に渡り、それから、群衆のすべての人にどんどん、どんどん分け与えられてゆくのを、少年は目を丸くして見ていただろう。自分もお腹一杯になって、周りの人々もお腹一杯になったことで、どんなにか幸せだっただろう。少年の捧げたものは、一つもむだにされることはなく12のかごを満たした。

 他にもパンを持っていた人がいたかもしれない。でも、「どうせ、これっぽっち何の役にも立たないだろう。」と差し出すチャンスを失ったとしたら、イエス様から頂いたパンで満腹しても、心は惨めだっただろう。こんな経験はしたくないと思う。少年と同じように主がもたせてくださったものなのに何の役にも立たなかった。

 少年のような信仰を持ちたい。幼子のような心の信仰が欲しい。自分の持っている小さなものをも、「は~い。ここにあります!」と単純に主の呼びかけに応えたいなあ。
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殺されるまで教え続けて(マルコ6章から)

2008-02-06 18:14:36 | Weblog
 イエス様の郷里の人々は、イエス様のわざやことばの力を見聞きしても、「この人は大工ではありませんか」と、「わざを見て信じる」という救いのチャンスを失った。彼らの不信仰に驚かれたイエス様は去って行かれた。不信仰は私たちの日常の身近なところにあって、ごく自然に流れていく。でも、信仰は選び取ることが必要。「もう知っている。」なんて言わないで、みことばに隠されていることがらを発見しつつ、日々、みことばに瑞々しく感動するような新しい出会いをしたいと思う。

 「ヨハネを正しい聖なる人と知って、彼を恐れ、保護を加えていたからである。また、ヘロデはヨハネの教えを聞くとき、非常に当惑しながらも、喜んで耳を傾けていた。」
ヘロデ王は耳の痛いことばであったけれど、喜んで聞いていたのである。群衆もイエス様のことばを喜んで聞いていた。私たちとどう違うのだろう。先日のメッセージで「聞くだけなら群衆です。あなたは弟子ですか、群衆ですか。」と聞かれたけれど・・・。

 ヘロデ王は愚かに誓って体面を保つために、
「ヨハネの首を求めた少女の願いを退けることを好まなかった。」
とある。そんなことのためにでも、それまで喜んで聞いていた救いのことばを捨てることができることが恐ろしい。それは本当にヘロデ王だけなのだろうか。少なくとも失敗に気づいたときには、恥を恐れずに即座に主に向きを変えること。私たちは何時でも罠から逃げることが出来る。私一人ではなく多くのいのちがかかっていることだから。

 バプテスマのヨハネは、殺されるまでヘロデ王に教えを語り続けた。それが彼の結んだ実。私たちにはその価値は分からないけれど、イエス様も十字架で殺されるまで教え続けられた。

「この人こそ、『見よ、わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を、あなたの前に備えさせよう。』と書かれているその人です。まことに、あなたがたに告げます。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。」(マタイ11:10~11)
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ヤイロ(マルコ5章から)

2008-02-01 14:31:19 | Weblog
「私の小さい娘が死にかけています。どうか、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。娘が直って、助かるようにしてください。」
 ヤイロはイエス様の足元にひれ伏して一生懸命に願って言った。この箇所を読むと心が痛い。瀕死の小さい娘にヤイロはどんなに必死だったろう。

 子どもを育てた者にはよくわかる。こんな時は気も狂わんばかりになって、自分の願いの他のことはすべてが邪魔になってしまう。愛する肉親を思うとき人のエゴはむき出しになる。しかし、ヤイロがイエス様に願ったのはこの言葉だけだった。群衆に邪魔をされても、長血の女が割り込んできてイエス様の足が止まっても、黙って待っていた。

 いや、女の癒しに励まされていたのだろう。女の告白に感動していたのだろう。イエス様が女にかけられた祝福の言葉を喜んでいたのだろう。彼がイエス様に心から願ったとき、小さな娘のいのちをイエス様に託していたから、手放していたからこそ黙って従って行くことが出来た。

手放したときには、それがどんなに深刻な問題であっても忘れてしまうことが出来る。彼は女の癒しをちゃんと見て共に喜ぶことができただろう。完全にイエス様の御手の中に問題をお委ねするときにイエス様はわざをなしてくださる。その時、私たちは共にイエス様の御救いを喜び合うことができる。

 大切なのは結果だけじゃない。イエス様のわざを見ながら歩き、また、娘が死んだという言葉を聞いて絶望してしまいそうなときに、「恐れないで、ただ信じていなさい。」というイエス様のことばを握りしめて歩いたその経験こそが、何にも代え難い喜びなのだと思う。
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ゲラサ(マルコ5章から)

2008-02-01 00:10:05 | Weblog
 ゲラサの墓場で悪霊に憑かれて狂っていた男よりも、豚を飼っていた人たちの方が救いからは遠かった。金持ちが救われることはらくだが針の穴を通るより難しいことだとイエス様は言われたけれど、2000頭の豚よりも、自分のすべての財産よりも、イエス様の救いの方が大切だとそう告白できることは驚くような恵み。聖霊に拠らなければ決して知ることはないことだから。

 ゲラサの人々は、自分たちこそ永遠の滅びである墓場に住んでおり、この世の霊に重要な判断の自由を奪われていることに気づくことはない。悪霊から解放され正気になって座っている男を目にし、神のわざを見ても頑なな心は逆に恐れた。唯一の救い主に、この地方から離れてくださいと、滅びの墓場から解放してくださるお方を追い払ってしまった。人は誰でも、何時でもイエス様を拒む自由をもっている。イエス様は怒ることもなく黙って去って行かれるだけである。

 救われた男はイエス様のお供をしたいと願ったけれどそれはゆるされなかった。
「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい。」

 イエス様のお供の方が彼には楽だったかも知れないと思う。墓場で自分がどんな様子でいたのか、どんなにあわれな様子から救って頂いたか語ることは決して簡単なことではないだろう。まして、日常家族と暮らしている地域であれば、自分自身も家族も主に捧げていないとできることではない。

「そこで、彼は立ち去り、イエスが自分にどんなに大きなことをしてくださったかを、デカポリスの地方で言い広め始めた。人々はみな驚いた。」
それは神様の御名があがめられたことであり、それこそ救われた者の仕事なのだと思う。
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