石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

求めているもの

2008-01-24 15:02:34 | Weblog
マリヤが香油をイエス様に注いだとき、その部屋は香しいかおりが満ちあふれただろう。イエス様に注がれたものだけれど、共にいる者すべてに香りは移っただろう。芳しいその香りに共に酔うことも出来ただろう。なのに、イエス様と共に喜ぶことが出来なかったのは、お金に対する執着が喜びを奪い、感動を奪ってしまったから。

香しいかおりの中でユダは素早く計算をしていた。ユダがイエス様と共に居て求め続けていたものはお金だった。イエス様がご自身を証されることばも、ユダにはぜんぜん届いてはいなかった。ユダの頭の中はこの世のことだけだったから。

彼は盗人であっていつも盗んでいたと書かれている。ユダがイエス様を売ったのは、いつもしていることをの延長線上であった。ただ、お金を求めただけのこと。ユダは最後まで自分の選びの中を行ったのだろう。私たちが何を選ぶかについてイエス様はなんの強制もなさらない。裁くこともしないと言われた。

ユダはイエス様に足を洗って頂いたそのすぐ後に、光であるイエス様を離れて、外の夜の闇の中に出ていった。「あなたがしようとしていることを、今すぐしなさい。」というイエス様のことばを聞いてすぐに行動した。今までお側にいて聞き続けていたイエス様のことばには全く反応しなかったけれど、自分の欲望を果たすためにみことばを用いることにはなんと素早いことだろう。


「だれかが、わたしの言うことを聞いてそれを守らなくても、わたしはその人をさばきません。わたしは世をさばくために来たのではなく、世を救うために来たからです。わたしを拒み、わたしの言うことを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことばが、終わりの日にその人をさばくのです。」
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神の栄光を見る

2008-01-23 19:41:38 | Weblog
「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」
ラザロが死んだとき、マルタもマリヤもイエス様にこう言った。でも、神様にとって私たちの環境や時間など、そんな条件は意味をもたない。死んで4日も経っていようと腐っていようと、事実ラザロはよみがえらされた。そんなことで神様のわざを止めることなどできなんだ。つくづく人間が神様を知るということは難しいことだと思った。

 イエス様が墓を塞いでいる石を取りのけなさいと言われたとき、マルタは喜ぶより躊躇している。なぜ、すぐに喜べなかったのか、きっとイエス様に兄弟の醜くなった姿や、悪臭をさらすことを躊躇したのだろう。愛する者であれば自分のことのように、そんな醜い姿は見せたくないと思うだろう。

 信仰生活において私たちは、神の栄光を見るべきであると思う。ある時、主に命じられるままに、主の御前に自分の悪臭をさらし、腐った肉をさらす覚悟をすることによって、神の栄光を見せていただくことがあるのだと。それは、取り繕った美しいものではない。なんと人の思いとは違うことだろう。

 
「イエスは言われた。『その石を取りのけなさい。』死んだ人の姉妹マルタは言った。『主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。』イエスは彼女に言われた。『もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。』」(ヨハネ11:39~40)
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「死」

2008-01-22 11:05:20 | Weblog
 それはイエス様が涙を流された人間の事実。十字架に拠らなければ、どんな人も死は永遠の滅びでしかない。なのに、「死=天国」そんな幻想によって、どれほど誤魔化されていることだろうか。私はその言葉の向こうでサタンの嗤いが見えるように思う。

 もし、死がこれほどに軽々しく誤魔化されていなければ、もう少し大切に生きるだろうし、もう少し信じるに足りる確かな真理を、命のある間に探し求めるだろうと思う。

 今、人が死んだ時に、「それは嘘だ」と暴かれることはない。サタンの思惑通りに人の感情や、常識がそれをさせない。

 人間の死に涙を流してくださったイエス様。そして、その永遠の滅びの「死」を十字架で解決してくださったイエス様。罪をあがない、永遠のいのちに至る道を開いてくださった。

 しかし、今もイエス様の涙を誘う死が、無意味なきれい事の言葉で飾られて、激しい勢いでいのちを持ち去り続けている。
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主の御名はほむべきかな

2008-01-07 20:41:05 | Weblog
「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」(ヨブ1:21)
私は信仰に入って間もなく、このみことばを知ってとても感動した。
これこそキリスト教なんだなあ・・と感動して、ヨブのような信仰が欲しいと思った。

「私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか。」(ヨブ2:10)
しかし、ヨブはつぶやくようになる。本音で語るなら、神様の試みをつぶやかずにこのように受けることができる人なんてありえない。だから、イエス様は「こころみにあわせず」と祈ることを教えてくださったのだ。人はそれほど強くも正しくもないから。

「幸いを受けるなら、災いをも受けなければならない」その言葉に私は疑問を感じた。信頼する者に神様が災いを与えることはあり得ない。神様が与えるのは「悪しきこと」ではなく、より深く神様を知るために備えられた「試練」であるはず。神様は信頼する者にとって終始「愛なる方」であり、良い計画をもっておられる方であるとヨブ記を読んで知ることが出来た。

 ヨブは子ども達のために全焼の生け贄を捧げていた。それはヨブの心に神様への信頼だけではなく、自分の行いによって、子どもを神様から守りたいという思いがあったのじゃないかな。
「私の最も恐れたものが、私を襲い、私のおびえたものが、私の身にふりかかったからだ。」(ヨブ3:25)確かにヨブには恐れていたものがある。

 ヨブの妻が「それでもなお、あなたは自分の誠実を堅く保つのですか。神をのろって死になさい。」(ヨブ2:9)とても、酷いことをいっているけれど、家族には本人よりも心の内が見えていたりすることがある。

 ヨブの捧げていたものが「自分の誠実」によるものなら、
「だれがわたしにささげたのか、わたしが報いなければならないほどに。天の下にあるものはみな、わたしのものだ。」(ヨブ41:11)このように言われてしまう。

でも、神様はヨブをこのように言われる。
「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいないのだが。」(ヨブ1:8)

ヨブは確かにどんなになっても神様の御前から去らなかった。自分を弁護し言いつのりつつも御前にいた。神様の正しい裁きを求めていた。理不尽に思えることのなかで
「私に教えよ。そうすれば、私は黙ろう。私がどんなあやまちを犯したか、私に悟らせよ。」(ヨブ6:24)と語り
「あなたの御手は私を形造り、造られました。それなのにあなたは私を滅ぼそうとされます。」(ヨブ10:8)
「私たちふたりの上に手を置く仲裁者が私たちの間にはいない。」(ヨブ9:33)ヨブはイエス様を求め、
「だが、私は全能者に語りかけ、神と論じ合ってみたい。」(ヨブ13:3)そして、神様はヨブのその願いを叶えられた!
「あなたが呼んでくだされば、私は答えます。あなたはご自分の手で造られたものを慕っておられるでしょう。」(ヨブ14:15)このヨブの言葉は神様へのすごい信頼だと思う。神様の愛を信じきっての言葉。
「私のそむきの罪を袋の中に封じ込め、私の咎をおおってください。」(ヨブ14:17)ヨブのイエス様を求める声。
「今でも天には、私の証人がおられます。私を保証してくださる方は高い所におられます。」(ヨブ16:19)
「その方が、人のために神にとりなしをしてくださいますように。人の子がその友のために。」(ヨブ16:21)ついにヨブはイエス・キリストを知った。

 理不尽な苦しみの中で、理不尽を一身に引き受けてくださったイエス様を知ったヨブ。これこそ神様は決してサタンの口車にのせられて、ヨブを気まぐれに苦しめられたのではないことがわかる。「幸いを受けたのだから災いをも受ける」なんてことではないとわかる。

 試練は神様の良い計画である。災いではない。自分の誠実や、自分の行いや、自分の良きなにかによってイエス様を知ることはないから、神様は私たちを導いてくださる。主なるかたとの深い愛の関係に。そのためには神様は私たち求める者にいつでも親しくみことばを解き明かし平安を満たしてくださる。

 神様はヨブにメッセージを語ってくださった。ヨブはそのメッセージを聞いて、何も反論することはなかった。神様が語ってくださった喜びに満たされていたのだろう。このとき、ヨブは神を神として本当に畏れることを知ったのだ。

友人は理解も同情もなく、冷たく正しい言葉で非難し続けたけれど、イエス様を知ったヨブは完全に癒されていた。だからヨブは友人のために神様にとりなして祈ることが出来た。試練による傷は、神様に出会うとき完全に癒されることを知った。
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願い 2008

2008-01-01 00:15:08 | Weblog
 
マリヤはマルタのように 主に食事を差し上げることはできない
マルタはマリヤのように 座っている時間はない
最善を選ばないと 両方を選ぶことはできない

イエスさまに サマリヤの女は水を差し上げなかった
いのちの水を頂いたのは 女のほうだった

イエスさまを信じたとき 私はイエスさまに入れられたから
胎の子のように 私はイエスさまからいのちを頂くばかり
子は母の骨を削ってでも 栄養を奪って成長するもの
そして それは母の喜び

まして 無限の富をお持ちのイエスさまであれば
私は知りたい 母を離さぬ乳飲み子のようでありたい

イエスさまに差し上げるものを 私は何ももたない
ただ聴く時を奪うものに勝利して 御前に座っていたい
それは永遠にまで 続くことだから 
それだけが 確かなことだから    
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