石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

私のクリスマス

2007-12-25 16:05:58 | Weblog
イエスさまは マリヤという乙女の胎に来られました
「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」
夢もいのちも投げ出して マリヤはイエスさまをお受けしたのです
マリヤはイエスさまを胎で十月十日育てました

女はみごもったことを知ったなら 片時も胎の子を忘れることなどありません
寝ても覚めても いつも思っています
家族はみんな まだ見ぬ子を守ろうと気遣って過ごします
そうして 産まれた子と共に成長するのです

イエスさまを信じたとき 私のうちにもイエスさまが来てくださいました
母が子を育てるように 私はイエスさまを育てているでしょうか
片時も忘れずにいるでしょうか

「いいえ」
私はマリヤのようにはイエスさまをお迎えしたのではありませんでした
それでも

イエスさまは言われました
「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。」
そう、母と子のように私はすでに イエスさまと血肉の関係にあることに気づきました

それはイエスさまに 霊も魂も私のすべてが隠れてはいないということです
すでに一体であるということです

イエスさまを知るとき みことばを知るとき
なんの値もない者が 高価な者とされたことを知ります
マリヤは神様の前に 自分を「はしため」と言いました
神様は「あなたは高価で尊い」と言われます
うちにイエスさまが生きておられる故にです!

コメント (4)
この記事をはてなブックマークに追加

落葉をも

2007-12-14 10:47:18 | Weblog

朝日にキラキラと舞い散る 無数の木の葉
出番を待ちかまえていた 踊り子のように
うれしそうに楽しそうに 光を受けて輝き舞う

神は 散りゆく木の葉さえも 金色に装われた
そして老いゆく私をも 日々新しくしてくださる 
主を知る喜び みことばを知る喜びを 
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

ある日の礼拝(アクシデント)

2007-12-12 15:39:11 | Weblog
 
2食分の食事とお弁当の準備も終わり、家事から開放され単車で駅に駆け付ける。4~50分の電車の中でほっと、くつろいで本を読んだり、好きな数独をして遊ぶのが楽しみ。けれども、降りる駅が近づいてくると、ここからが戦闘開始。

駅が近くなり時計とにらめっこ。きちんと1時3分に到着しても、階段を駆け下りて、駆け上って、ホームを移動し4両目まで走っていって、7分発に乗り込まないとならない。この乗り換えがもっとも緊張する。

やっと乗り込んだ電車は3駅間だけ。再びドアの一番前に立って、到着と同時に飛び降りて階段を駆け上がって、「発車します。」と叫いている(私にはそう思える)電車のドアが閉まるギリギリまで、前方の車両に走っていって飛び乗る。そして、ちょっと一息、それでも急行なので一駅の間だけ。

再びドアの前に立って開くと同時に階段を駆け下りる。ここではいったん改札を出てJRに乗り換え。此処でも時間はないのでエスカレーターを歩いて登り、切符と買おうと券売機に向かって目を剥いた。「保守工事のため運休」との張り紙が一枚。

「どうしろというのか」しばし呆然・・。もちろん代替バスなどいっさい無し。おろおろと電話機に向かって助けを求めようとしたけれど、電話は通じなかった。時刻を見れば、通じたところでどうしようもないだろう・・・。とあきらめる。

「イエスさま!」助けを求めるべき方を思い出した。バスの停留所があったことを思い出して、何とか近くまででも行けないかと調べてみると、バスがあるにはあるが一時間近く待つ必要がある。タクシーしかないかと思いつつも、一体いくらぐらいかかるのか見当も付かないことが不安であった。

ぼんやりとバス停で立っていると、入ってきたバスの運転手に「ヤナギモトまで行きますか?」と聞いているおじいさんの声が聞こえた!そのバスが行かないことは分かっていたので、とまどっているおじいさんに「私も、ヤナギモトに行くのです。」と一生懸命に声を掛けた。

かって今までこんなことができる私ではなかった。ウジウジしている間に機を失ってしまうことばかりだったけれど、このときはとても勇敢だった。「いっしょにタクシーに乗りませんか、割り勘で」とお誘いすると、「そらええわ、そうしましょう。おおきに助かりました。」と、とても喜ばれて客待ちをしているタクシーを助けてあげることができた。

おじいさんは、古墳を見に行ってきたことなどを話されて、私も子どもが好きだったので考古学博物館には何度も行ったことなどを話してちょっと楽しく、「袖擦れ合うも多少の縁」そんな言葉を思い出していた。

タクシー代は二千三百幾らかだった。おじいさんは「千円でよろしいわ」と言って、私の持っている千円札を抜き取るとタクシー代の支払いをしてくださった。この千円もあらかじめ備えられていたお金だった。ちょっとした息子の手伝いをして、お礼にと貰ったものだったから気が軽かった。

ヤナギモトの駅前でおじいさんにお礼を言って、左右に分かれ教会に向かって歩き出したとき、心はスキップをするようにはずんで、口からは賛美があふれてきた。ひとりで「やったね!」と勝利の凱旋気分で足早に歩いた。礼拝にはちょっと遅刻したけれど、いつもより道はずっと近かった。

小さな出来事だったけれどとても嬉しかった。アクシデントは何処ででも起こるかもしれないけれど、ちっとも怖くないことを経験した。いつもイエスさまが居てくださるから、アクシデントは新しくイエスさまと出会う時であり、出会った喜びを味わうときなんだと思った。

そして、人に頼ろうとしたとき電話が通じなかった事に感謝をした。そんなふうに助けられたらイエスさまを知らないままで、迷惑をおかけするだけの出来事に過ぎなかっただろうから。これこそ守られたということなんだと思った。そして、あのとき勇気をもって話しかけることができて、私には大きな経験になった。

毎週の礼拝は確かに遠いけれど、自分の望み通りに主が開いてくださった道である。それに、私には週に一度くらいの緊張感はちょうど快い。まるでゲームのように、乗り換えが上手く行くたびに「クリア!」そんな感覚。
コメント (4)
この記事をはてなブックマークに追加