石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

献金

2007-11-19 10:33:21 | Weblog
イエス様は献金箱に向かって座り見ておられた。(マルコ12:41~44)ひとりの貧しいやもめがレプタ銅貨2つを捧げるのを見るために。それは、彼女の生活費のすべてであることをご存じだったから。

捧げた後はどうするの、生活費のすべてということはもう何もないということ。捧げてしまっては生きていけないだろう。彼女の心は
「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。」(ピリピ1:21)なのだろう。いのちを捧げた。それをイエス様はちゃんと見とどけられた。

でも、このレプタ2枚は、証のために神様が彼女に残しておいてくださったものなのだと思う。エリヤを養ったやもめに、一握りの粉を残して下さっていたように。(Ⅰ列王記17:9~15)
捧げものは神様が準備してくださる。「主の山の上には備えがある」(創世記22:14)

神様が準備して下さったものをどのように使うか、それをイエス様は正面に座って見てくださっている。彼女にレプタを1枚ではなく、2枚残してくださっていたことに神様の深いご愛を感じる。彼女が最善を選んで捧げることができたから。

此処を読んでいたとき息子は言った。「出来ない。」「そう、私にも出来ない。」でも、「人にはできないことが、神にはできるのです。」(ルカ18:27)このみことばに望みがある。きっと私にも証のチャンスを残して置いてくださる。レプタ銅貨を2つ。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

晩秋の今日

2007-11-16 14:30:42 | Weblog
 

風が冷たくて、「ウインドブレーカーを着てきて良かった」と、手を袖の中に隠して歩き始めた。それでも、今日は昨日よりは大股でさっさと歩ける。足が完全に治ってとても嬉しい。

 畑には白菜や大根、菜っぱ類が青々と元気。桜の小枝を見上げて芽がふくらんでいるかなと探してみる。銀色の枯れススキの間にまだ咲き残っている百日草が二本。道端にドングリがころころころころ・・いっぱい落ちている。

 去年、おばあさんがこの辺でムカゴを拾って居るのを見たなあ・・と足を止めて見回したけれど見つけられなかった。もう、遅いのかも知れない。私はムカゴに無関心だったけれど、今年は料理法を聞いていたので「食べてみようかなあ・・」とちょっとそんな気になったんだけど・・。主人に頼むとすぐに取ってきてくれるけれど、今まで取ってきても料理をしなかったから、もう持って帰らなくなっていた。

 先日、蛇が車にひかれているのを見た場所で、反対側のほうを歩きながら探してみるけれどもう無い。何しろ11月に蛇を見るのはとても珍しいことだから、あのときは恐さ半分、不思議さ半分で足を止めてじっと見てしまった。

 夜、主人に話したら、「11月に見たことはないなあ」と珍しがっていた。「しっぽが長かったよ。」と話すと「それならハビ(まむし)やないなあ。」なんて話したけれど、蛇のしっぽなんてどこからがしっぽなのかどうしてわかるのかと、自分で言っておきながらおかしく思い出して歩いた。

 折り返し近くまで来るとウインドブレーカーが暑苦しくなってきて、前を開けて袖から手を出した。ひんやりした風が気持ちいい。
青い空をバックにして、三角山は錦をまとって、煉瓦色、オレンジ色に、黄色に茶色に緑色。

 帰りに畑によって、白菜を一株主人に引いてもらって夕食の準備に持って帰る。「少しは農薬をやったらどう?」と説得をするが主人は聞かない。食べられる部分が三分の一くらいしかないし、あまりにも見栄えが悪い。息子はこれを見たらたぶん食べないだろう。彼は農薬よりも虫が嫌いだと言っていた。

 主人がどんなに一生懸命に虫を取っているかは、聞いているからわかっているけれどとても追いつかない。
見てくれだけなら何処ででも、もっと立派な野菜が安くで売られている。この白菜は本当にとても安全で愛ある貴重品、これが本当の贅沢なのだけど、そんなことはわかるけれど、それにしても畑の作り方も自己流で下手くそ。私は自分では何もできなのに、批判することだけはいくらでもできる困り者。感謝がないなあ・・・。
コメント (2)
この記事をはてなブックマークに追加

「しっかりしなさい。」

2007-11-14 11:22:05 | Weblog

「イエスは、弟子たちが、向かい風のために漕ぎあぐねているのをご覧になり、夜中の三時ごろ、湖の上を歩いて、彼らに近づいて行かれたが、そのままそばを通り過ぎようとのおつもりであった。」

 どうしてただ通り過ぎるおつもりだったのかと考えてしまった。夜中の3時頃なら、弟子たちは本当に身も心も疲れ果てていただろう・・。イエス様がそのことをご存じないはずはないのだが、それでも、イエス様のお姿を見るだけで彼らには十分だということなのかなあ・・。でも、彼らにはイエス様が見えなかった。

 自分たちの力で、風や波と戦い続けていたからだと思った。私は自分の力で頑張っているときイエス様を忘れている。そんな時イエス様が側を通られても気が付かないだろう。そして弟子たちのように疲れ果てている闇の中なら、恐れて逃げるかも知れない。イエス様が見えないということは、本当に闇の中だということだから。

 弟子たちはこの時、手を止めて思い出せば良かった。イエス様が先ほど食べさせてくださったパンのことを。そしたら、側を通られるイエス様を見ることが出来ただろう、そして平安に湖を行くことが出来ただろう。それが、イエス様のご計画の通りだったのじゃないかな・・。

 奇跡だけでは信仰は保てない。パンをお腹いっぱい食べて味わったとしても、世のちょっとした波風ですべて忘れてしまうから。
イエス様の「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」そのお言葉を聞くまで私たちは恐れ続ける。

今、私たちが聖書を開くとき、イエス様は信仰のない私たちの中に来てくださって、おことばをかけてくださる。真実な力あるみことば。平安と希望を与えて、この世の波風から救い出してくださる。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

イエス様と歩く

2007-11-09 09:42:54 | Weblog
会堂管理者のヤイロは、イエス様の足下にひれ伏していっしょうけんめいに願って
「私の小さい娘が死にかけています。どうかおいでくださって、娘の上に御手をおいてやってやってください。」と願った。
その途中で、12年間患っている長血の女が来て
「お着物にでもさわることでもできればきっと直る」と群衆に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。

ヤイロは群衆の前で、イエス様にひれ伏して願った信仰。女はこっそり着物に触れた信仰。信仰の初めはそれぞれだけれど、イエス様は癒された女にスポットライトを当てるように、群衆の真ん中に出された。女はイエス様の前に出てひれ伏し、真実を余すところなく打ち明け、群衆の前で証をした。
「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」イエス様のみことばはなんと優しいのだろう。このときイエス様が癒されたのはからだだけではなく、それまで虐げられてぼろぼろになった心だと思う。「あなたの信仰だ」と、彼女の選びを認めて、群衆も恐れないで光の中でしっかり生きられるようにしてくださった。からだの癒しは、いずれ必ず死ぬ身だから効果が切れるときが来る。でも、イエス様のみことばは真のいのちを得させる。からだだけが癒されてもみことばを聴かないと意味はない。

ヤイロはその間どう思って見ていたのだろう。死にかけている娘を思ってハラハラしていたのだろうか、それともこの癒しを見て励まされていたのだろうか・・。

私はイエス様にいろんなことを願って来た。でも、何年も待つことを求められることも多い。時をお委ねすること、内容をお委ねすることを学ばされた。それでもイエス様は無意味に待たされたことはなかった。待っている間も導いていてくださる。日々主をよく見て、よく聞いていることで、自分の信頼している御方がどのようなお方であるのかが分かってくるから、信仰が導びかれて成長しそれが結果となる。

娘が死んだという知らせを聞いたヤイロに必要なことは「恐れないで、ただ信じていなさい。」だった。ヤイロが先ほど見たことは大きな信仰の導きになっただろう。

イエス様が、私の求めたことだけをしてくださるという方なら、愚かな私には恐くて何も願えないけれど、イエス様は私の必要を知り尽くしていてくださる。だからこそ安心して今日も祈ることが出来る。私の願いのためにでも共に歩いてくださるイエス様。すべての時がどれほど素晴らしい時であるか・・結果ではなくその瞬間瞬間を味わいたい。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

墓場でイエス様に出会った

2007-11-08 18:38:49 | Weblog
 ゲラサ人の地にイエス様が来られたとき、男についている汚れた霊どもは、イエス様を「神の御子」と知っていて、恐れ、懇願して願っている。
 
汚れた霊から解放された男の噂を聞いて集まってきた人びとも、イエス様を恐れたけれど、イエス様がどなたかは、わざを見ても悟ることはなかった。彼らがイエス様を恐れたのは、自分の豚が死んだことにより、自分の財産を守りたいから恐れただけだ。

人は神を知らず、「ああしろ、こうしろ」と言う。自分にとって都合が悪いと「離れてください」という。汚れた霊どもは自分たちの方法ではなく、イエス様の方法だけが成ることを知っていたけれど、人は自分たちが何者であるのかを知ろうともしない。

もし、彼らが正気に返った人のことを喜ぶことが出来たら、イエス様を喜んだだろう。でも、彼らは自分のことだけ、この世の富、財産を守ることだけしか考えていなかった。そんな男のことなどどうでもよかった。だから、余計なことをするとイエス様を邪魔にしたのだろう。

汚れた霊どもの必死さと、人間が神様を知ろうすることの差を感じて、こんな「人」のために来てくださったイエス様、こんな「人」を神様の家族にと計画された神様の計画は、なんとある意味とんちんかんじゃないかと思ってしまう。


解放された男がお供をしたいと願ったとき、イエス様は家に帰り家族と暮らすことを命じられた。どんなに大きな奇跡を味わっても、普通に家族と暮らして、そこで、自分の知っているイエス様をありのままに語るだけで良いのだと・・・。イエス様はなにも代償を求めなさらない。私たちはいつも無条件に受けるばかり。

父の神様と御子イエス様は、その深い絆を十字架で断ち切ってまで、私たち信じる者を神の家族に加えてくださった。激しい痛みを伴った十字架の事実は、どんなに私が理解できなくても、「人」を愛しておられることの証明。

私も、墓場のようなこの世で、この世のいろんな霊にあやつられるように、ひとり冷たい心であれを求め、これを求めて、生きるために悪戦苦闘し、自分を傷つけ、家族を傷つけ、他人を傷つけてさまよっていた。

そしてある時、イエス様は私に来てくださった。イエス様はこの世のもろもろの霊から私を解き放ってくださって、落ち着いて家族と暮らすように導き、神の愛と、穏やかな家族の愛の中で暮らせるようにしてくださった。このゲラサの男のように・・・。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

スパム

2007-11-07 17:53:37 | Weblog
スパムが気持ち悪いので、コメントは一度保留してからスパムを除いて、公開いたします。よろしくお願いいたします。

このペンギンは何か物思いにふけっていると思いませんか・・。
愁いを含んだ瞳をしているように見えて・・・。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

微笑みと涙

2007-11-02 23:25:26 | Weblog
動こうとしない主人を置いて、ひとりで新幹線に乗って孫を見に行った。帰ると同時に、ちょっとしたpcトラブルで何も出来なくなった。でも、それでゆっくりできて疲れもとれたし、みことばを味わうにはむしろ都合がよかったのかもしれない。

孫は本当に可愛い。あかりちゃんはとってもよく笑う。だっこしている手の中で、にこ~っと大きな口を開けて、とっても幸せそうに、とっても気持ちよさそうに笑う。見ている方もとっても幸せな、良い気持ちになって、同じようにおもいっきり笑ってしまう。

5歳のさくらちゃんとは、粘土のパン屋さん遊びや、着せ替え遊びをした。彼女はとっても穏やかに話しつつ遊ぶから、しばらく一緒に遊んでいると、催眠術にかけられたようにだんだん、だんだん・・ねむ~くなってくる。

それでも、さくらちゃんとお話をすることはとても楽しいけれど、「おじいちゃんは今頃なにしているかなあ・・ひとりぼっちだね。」遊んでいてもぽつんとそんなふうに気遣う。少し大きくなったんだね。大きくなるといろんな事を考えて悲しくなったり、辛くなったりする。

「明日は土曜日でさくらの保育園お休みだから、おばあちゃんと一緒に遊ぼうか!」目を輝かせて、良い計画をたててくれたのに帰ってしまってごめんね。また、さくらの心をちょっと傷つけてしまった。
ふたりの孫の笑顔と涙を見た。
コメント (2)
この記事をはてなブックマークに追加