石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

「わたしの母、わたしの兄弟たち」

2007-10-19 15:42:22 | Weblog

「ベルゼブルに取りつかれている。・・・悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出しているのだ。」(マルコ3:22)
イエス様の癒しの業を、律法学者たちがそんな噂を立てて中傷したとき、イエス様の母や兄弟たちは心配をしてイエス様を連れ戻しに来た。

マリヤはイエス様を、聖霊によって身ごもったのであり、誰よりもイエス様がどなたかを知っているはずだけれど、あまりにも平凡な子育ての中で、いつしか普通の母親になっていたのかなぁ・・。

イエス様は
「まことに、あなたがたに告げます。人はその犯すどんな罪も赦していただけます。また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます。」(マルコ3:28~29)

イエス・キリストを私たちに教える聖霊を否定してしまっては、救い主であるイエス様を知ることは出来ず、永遠の滅びしかない。
今日の、私たちの幸いはどれほどであるかと思う。イエス様を信じた時に来てくださった助け主なる聖霊は、私たちの求めに応じてイエス様を知ることを導き続けてくださる。

「『わたしの母とはだれのことですか。また、兄弟たちとはだれのことですか。』 そして、自分の回りにすわっている人たちを見回して言われた。『ご覧なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。神のみこころを行なう人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。』」(マルコ33~35)

イエス様がこのように話されたとき、お側にいた人達は、「ご自身のお望みになる者たちを呼び寄せられた」お弟子達であり、彼らは自分の家族に優先してイエス様を選び取って来た人達だった。

でも、今、イエス様を救い主と信じる私たちも、神様を「父」と呼び、イエス様を「兄」と呼ぶ神の家族とされている!全知全能の神の家族である。全宇宙を創造し、今も支配して居られる神の家族である。このことがどれほど素晴らしいことであるか、私たちが本当に知ることができるようにと願う。そして、いつもイエス様のお側に居る者であり、イエス様に遣わされて出て行く者であり、みこころを行う者でありますようにと願う。
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従順

2007-10-18 13:50:02 | Weblog

イエス様にお出会いしたら「すぐに従う」ということはとても大切なこと。父を葬ることよりも主に従うことの方が優先する。イエス様の弟子たちはそのように従って行った。それは実際すごいこと。

「イエスがガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、ふたりの兄弟、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレをご覧になった。彼らは湖で網を打っていた。漁師だったからである。イエスは彼らに言われた。『わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。』彼らはすぐに網を捨てて従った。
そこからなお行かれると、イエスは、別のふたりの兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父ゼベダイといっしょに舟の中で網を繕っているのをご覧になり、ふたりをお呼びになった。彼らはすぐに舟も父も残してイエスに従った。」(マタイ4:18~22)「イエスは、そこを去って道を通りながら、収税所にすわっているマタイという人をご覧になって、『わたしについて来なさい。』と言われた。すると彼は立ち上がって、イエスに従った。」(マタイ9:9)

それは彼らがイエス様がどなたかを知ったからだろう。そして、彼らが自分自身よりも家族よりもイエス様を愛したということ。それが、イエス様の弟子となる資格だったのだと思う。学歴でも、能力でもなく主を愛したことによるのだと思う。

クリスチャンが本当にイエス様がどなたであるかを知るなら、当然、イエス様がすべてに優先するはず。いつも後回しになったり、「・・が解決したら」などと言い訳をしているということは、本当にはイエス様のことがわかっていないからだろう。

「どうか私たちが主を知ることができますように。」

「それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。」(マタイ16:24~25)

「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。」(マタイ6:33)

従うならその他のことは神様が責任をとってくださる。どうして主に信頼する者の必要を主が放って置かれるだろうか・・。それは家族への私の愛よりも、遙かに勝ってイエス様の方が私の家族を愛してくださっているから。

イエス様だけが十字架の恥や、痛み、苦しみ、孤独を通して私の家族を救ってくださった。私たちは十字架という愛の証拠をもう知っている。ペテロやヨハネの時代より、多くイエス様の愛を知っているのに、どうして彼らのように真っ直ぐに生きられないのだろう。

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あかりちゃん誕生

2007-10-17 10:29:34 | Weblog

二人目の孫の誕生を土曜日に電話で聞いた。「ちょっと小さいけれど、とても上手におっぱいを飲むとほめられた」と、そのことを一番に伝えた息子の言葉に、父親の喜びと安心が伝わった。

数日前から陣痛があり、わくわくするような、心配なような、電話が鳴るたびに飛んで行き、セールス電話にがっかりしたりと落ち着かない日を過ごしていた。そんな数日後に前期破水したことを聞いて不安が増した。私も前期破水して陣痛促進剤で死ぬかとおもう苦しみを味わったことがある。激しい痛みと嘔吐を繰り返したことを思い出し、祈ろうと静まろうと座った直後、祈りよりも早く賛美が心に広がり、祈りは平安と感謝となった。

生まれたという電話を受けた時、今は陣痛促進剤は使わずに良い方法があり、まだまだだろうといわれていたけれど、診察時に「ああ、もう生まれる」なんて急にスムーズにお産が進んだことを聞いて、主のご真実に心から感謝をした。

写真で見た孫は母ちゃんを見て笑っていた「いっしょにがんばったね!」そういっているみたいだった。どんなに息子が可愛がっていても、おねえちゃんは夜には母ちゃんを恋しがって泣いたと聞いた。やはり母には勝てないね。

神様の憐れみは、私が顔を覚えていない父の片鱗を息子に残してくださっている。孫にも繋いでくださる。代々そのようにいのちを繋いで生きることも許してくださっている。
主よ。どうぞ彼らの名を呼んでくださいますように。


「見よ。子どもたちは主の賜物、胎の実は報酬である。」(詩編127:3)
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土の器

2007-10-16 15:27:48 | Weblog

私たちは素焼きの土の器、もろくて傷つきやすく、欠けやヒビが沢山ある。
石のようにでも、鉄のようにでも、神さまにはおできになったけれど、
深いご計画によって土で造られた者。
それはみこころ、それが最善の主のご愛。

こんなに弱くてもろい欠けだらけの土の器を、
聖霊の宮として、天地を造られた主が住まわれるとは・・。
これは一体どういうことなのだろう!

私たちの弱さの中に「完全に現れる」という主よ、
私は何を祈る。何を祈ればよいのかわからない。
内におられる御霊の神の深いうめきだけ・・

ああ・・時が来たら、
崩れる土の器をぱらりと脱いで、義の衣を着せられて、
もっとリアルに、待ちに待ったお方にお会いする。
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呆け

2007-10-04 14:36:03 | Weblog
  
今は認知症というらしいけれど、呆けの方が自然な感じがする。年を取れば大なり小なり呆けっぽくなって、天然なんだか、病気なんだか、演技なんだか分からなくなって、それが本人にも分からないところが年の功。

深刻な症状に本当に悩んでおられるご家族もおられ、それも人ごとではない立場だけれど、「まあ、良いじゃないの」と思うことも結構ある。そう思うのが私の天然なところだけれど・・。ちょっと変なことくらい受け取る方に余裕があれば「?」で終わること。

テレビで認知症の番組を見たり、インターネットで調べていると、だんだん自分が認知症だと思えてくる。合う症状が結構あるからこれは困ったことだと思いつつも、認知症と健全との境目は何処にあるのかと考えるとわからなくなる。こんなの判断出来る人はさすがに専門家なのだろう。だって人は生きているから絶えず揺れるもので、体の部分も毎日のように、何かが良くなったり悪くなったりしている。

特に年を取ると、朝は元気だったのに夕方にはひどく気分が悪くなったりすることがあり、病気かと思うけれど次の日にはケロッとしているから、どこで切り取って判断するのかで全く違ってくる。近頃は最悪で切り取って、即、検査と薬ということで長寿のめでたいお国(破綻しかけているけれど・・)だけれど、私は願わくばできるだけ自然に老いたい。

安心して呆けられるといいなあ・・・。年を取って病気になっても家族とゆっくりと最後まで自分の慣れた日常の中で過ごせたらいいなあ・・。無理に生かさないで、食欲が無くなったら「もう食べなくても良いよ」と言って欲しい。枯れ木のようになって穏やかに死にたい。本当に今一番恐いことは死ねないことのような気がするから。

「胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。」イザヤ46:3.4

なんだか胸がいっぱい・・・「主よ。感謝します。」
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「称賛」

2007-10-02 14:31:30 | Weblog

主人と二人の穏やかで平凡な朝に感謝や喜びを感じる。一日一日が貴重だから今の平和が身に染みる。それでも、現実問題として調べるべき事を調べて備えた。

でも、新しい命が生まれてくることも、年を取って衰えてゆくこともとても自然なことで、別にジタバタすることではないと思った。生まれた限りは必ずどのような形でか、この世を去って行く。まして、クリスチャンにとってはそれこそ望む所。

嵐が来る予報の中でも今日の晴天を喜んで洗濯ができる。台風の目の中に居ても一時の晴れ間を喜ぶことができる。それが主のくださった平安。明日のことは明日、いや主が心配してくださる。私たちが歩けなくなったら主が負ってくださる。信仰のない者にも信仰を導いてくださる。本当に信仰は主が下さるものだから。


今週の日曜日に、次男とⅠコリント4章を読んでいて共に感動をした。
「ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです。」Ⅰコリント4:5

「なぜ称賛なんだろう。私たちの何が褒められるのだろう」と二人で考えた。神様に褒められるなんて?厳しい裁きの言葉ではないのか・・
「ああ、そうか!」イエスさまの十字架があるからなんだ。もう、罪はイエスさまが負って罰せられてくださったから、イエスさまに身を寄せる者に残っているものは、褒め言葉だけということかなのか!神様が私たちの心の内を明らかにされるのは、罪をあぶり出すことではなくて、私たちがすっかり忘れているような小さなこと、主の弟子に水一杯でも飲ませてあげたことを、明るみに出してくださることだった。

私たちは十字架にとても深い感謝を覚えた。主はなんと弱い者にも恵みに満ちた御方なのだろう!次男は、ひとりで聖書を読んでいる時も、主が導いてくださるようにと祈っていた。そう、私たちの出来ることは主を知ること。この大きな恵みを知ること。
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「勇気を出しなさい」2007.10.1

2007-10-01 22:30:18 | Weblog

「勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをしなければならない。」使徒23:11

このみことばが決定的となって、この「事」を確信することになった。数年前から気付いていないわけではなかったけれど、何回も回復が与えられていたからたいしたことではなかった。しかし、今日は私が事実を認めてきちんと関わるべきだと覚悟を決めた。長い戦いとなるかも知れないけれど・・・。

先日から何を待っているのか分からないままに、何かが明らかになるのをじっと待っていた。今日はさりげなく近所の人の口から、また、本人の口から聞いたことで、恐れて認めたくない思いと、認めることのとまどいがあったけれど、みことばによって受け入れることに平安と希望が与えられた。今日までいつも最善をしてくださった主のご計画にアーメン。どうかこのことによって私が謙遜を学ぶことができますように。

 年を取ればいつかこういう「事」があると、あるていどの覚悟はあったがいよいよ具体的に立ち向かわなければならなくなった。ただ、優しさはそのままなのがとても嬉しく感謝なこと。これからは細やかな対応が必要になる。不用意な言葉に気をつけて、出来るだけいっしょに居てフォローするようにしよう。不安を与えないように気落ちしないように励ましてあげたい。主がいつも共に居て助けてくださるから、これからこそ良い時間を持つことが出来ると信じる。これからこそ一心同体。

「エルサレム」と「ローマ」は「場所」だけれど、私の「エルサレム」と「ローマ」は「事柄」だろうと思う。そう、勇気を出そう。何が起こるのかわからないけれど真正面から事実にぶつかろう。私たちに主のご計画があることはとても感謝なこと。主のご計画ならすべてアーメン。


でも、今日はとても嬉しいニュースもあった。二人目の孫の誕生が近いとのこと!すべては神様の備えられた祝福。どんな時にも「勇気を出しなさい!」とただ良き計画をもって主は微笑んで居られる。主よ。感謝します!
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