石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

曼珠沙華

2007-09-27 21:22:59 | Weblog
彼岸花、今ではほとんどの人がこう言うけれど
曼珠沙華の方が似合っている

草刈りをした畦や土手を、ある日突然真っ赤に染めるように咲く
一本一本が、私にはとても豪華な花に思えた

幼い頃、首飾り、水車、かんざしを作って遊んだけれど
大人はあまりいい顔をしなかった
「毒があるよ」
「お墓の花、死人花」
そんな言葉を聞いたこともある

血のように赤いからだろうか
花びらが散らずに、腐ったように枯れてゆくからだろうか

今年はちょっと咲くのが遅かったから
私は待っていたよ

毎年そうするように、3本手折って花瓶に挿した
子供の頃に、素直に美しいと思った心で・・・
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至聖所

2007-09-21 14:07:17 | Weblog
主よ 感謝します
イエスの十字架を通ってはいる小部屋を

世のどんな事情も持ち込めない 
人のほめ言葉も 責め言葉も持ち込めない

そこには あなたのおことばだけがあり
どんな時も 私の霊も、魂も
「アーメン アーメン」と
いのちにあふれて 叫びますように
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今日

2007-09-19 14:27:37 | Weblog
 主は 元気であろうとする私に
   元気はいらないと言われる

   明るく頑張ろうとする私に
   そのままでいい 静かにしなさいと言われる

 私のすべてをご存じの主に「はい」と答えて座った

 オレンジ色の秋の陽と
 主の御手のような 風が通りすぎてゆく
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今日は芋掘り

2007-09-14 20:58:28 | Weblog

 主人と昼食をとりながら、「これから、さつまいもを掘って孫に送ろう。」ということで意見が一致した。昨日の天気予報では、今日は雨のように言っていたので無理だと思っていたけれど、今からなら掘って来て洗って送ることが出来る。そうしたら彼らの3連休に届くだろ。仕事の忙しい息子は、家族で食事を取ることが無理らしいので、連休ならゆっくり焼き芋でも楽しんでくれるだろう。

 食事の後、NHKの連ドラが終わって、さあ、長袖服を着て軍手をはめて、水筒にお茶を入れて帽子と準備が整ったところで、わずかな距離だけど畑まで歩くことにちょっと緊張。左足の踵の痛みが最近はずっと良くなっているけれど大丈夫かな・・。でも、早くウォーキングできるようになりたいから、これで痛まなかったらすごく嬉しい。

 畑で、芋の茎を切ってスコップで芋の周りを掘り、出てきた赤い綺麗な芋を思いっきり引っ張ると、ぼっきっと折れた芋が出てきた。「鍬でちゃんと掘らんとあかん。」主人に言われて、ちょっとやってみたけど、重い鍬を振り下ろすのは息ばかり切れて、普段なんにもしたことのない私にはとうてい無理。やっぱりスコップを持ってきて幼稚園並みにごそごそ土を掻く。「かっこわるいなあ・・まったく!」
結局主人が手際よく鍬を振り上げて掘ってしまった。私は芋を集めて運ぶ手伝い。それでも汗が流れる。

 大急ぎで帰ってきて、泥を洗い落し陽当たりの良い庭に並べて干す。乾くまでに手頃な箱を探し出して荷造りの準備。アスパラ菜と、困るだろうと思うけど大きな日本カボチャ(これは私の好み)と西洋カボチャの2個、孫に買って置いた絵本とメモのようなひとこと。宛名を書く時になって3種類の伝票を前にしてちょっと考える。持ち込むと安いところがあるけれど今日の荷物は重いから・・・など。


 荷物を送りだして夕食の準備が終わった時、足が痛まないことに気が付いてとても嬉しかった。これで、また歩いても大丈夫かなあ・・。コスモスの咲いているあの道を、抜けるような青い空を見上げて歩く日も近い。癒し主のイエス様、祈っていてくださった方々にとても感謝!
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愛する者を主にお委ねして

2007-09-12 11:05:46 | Weblog

 トロアスでパウロたちと人々は夜中まで語り合った。パウロは主を語り続け、人々は聴き続けた。うたた寝をした青年が窓から落ちて死ぬようなことが起こり、パウロによって生き返るような奇跡の一大事が起こっても、何事もなかったかのように、パウロは語り続け人々は聴き続けた。

 それほどにパウロの存在は彼らには必要であったのだと思う。彼らは渇きパウロはそれを知っていた。パウロは去るとき、彼らを神様とみことばに委ねている。どんなに頼られても、引き留められても、パウロは自分の役割を知っていたのだと思う。もっとも大切なパウロの役割は彼らを主にお委ねすること。そして、ひとりでイエス様の御足跡を行くことを彼らに教えること。

「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。」(ヘブル12:1)

「いっさいの重荷」を抱えたままでは、イエス様の後を行くことも家族を主にお委ねすることもできない。私が抱えていては主も導くことが出来ない。信仰はひとりひとりが主に向き合うことだから。

「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒16:31)みことばの約束に信頼して、まず、イエス様に出会った者が、イエス様に向かってまっすぐに進まなければならない。みことばの実現は、家族や残された者が問題ではなくて、私と主との関係によると思うから。

 パウロがまっすぐにイエス様の御足跡を歩んだことで、今日こんなに感動をもってパウロの真実な信仰を、聖書によって多くの人々が学ぶことができる。これこそ神様のみこころの実現であり、当時の兄弟達の喜びでもあろうと思う。私たちは目先のことから情に訴えられるととても弱いけれど、一番愛するものがイエス様であるなら間違うことはないと思う。そして神様の愛を信じることが出来れば。


「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。」(イザヤ49:15)
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私の中の「ヤスコちゃん」

2007-09-11 15:17:20 | Weblog
 
 引っ越してこられた方から思いがけなく「イクちゃん」と呼びかけられて、私はその方を全く覚えていなかったこともあって、とても戸惑ってしまった。でも、彼女が仲良しだったヤスコちゃんのいとこだと分かって、彼女の消息を聞き記憶ははるか60年ほども昔に飛んだ。

 私の記憶はなぜか、笛吹童子の曲が「ヒャーラリ、ヒャラリーコ」と暮れゆく道に流れて、ヤスコちゃんが重なるのはなぜだろう・・。本当にそうだったのかどうか確かなことは分からないけれど、なぜか心にその絵が浮かんでくる。

暗くなった台所で、小さなヤスコちゃんが夕食の準備をしている。夕食が出来ていないとお兄ちゃんに殴られる。妹と3人暮らしだった。向かいの大きな家には資産家のおじさん一家が住んでいた。

彼女たちは、いつもそのおじさんやおばさんの顔色を見ていた。私は子供心に理不尽だと、とても可哀想だとオロオロと見ていた。彼らのご両親が何で亡くなられたのか、私はちゃんと聞いたこともなく知らないけれど、あの頃は親のそろっていない子が身近に何人も居た。戦争で死んだ人もいれば、食糧事情が悪くて病気になって死んでしまった人もいた。

 今は、孫の世話をしながら幸せであることを聞いて心から嬉しかった。「イクちゃんも苦労したやろう」そんな言葉を何気なくかけるこの人は、ヤスコちゃんとは違う。資産家の両親の元で何不自由なく生きてきた人だとわかった。そんなことで今さら苛立ったって彼女にはどうしようもないことだとは分かっていても、私の心の奥にある子供の頃に親を失った者の傷が、老いてなを痛みを残し素直には答えられない。

ヤスコちゃんはご主人が病気で早く亡くなられて、娘さんを抱えて苦労をされたことを聞いた。「孫の世話が大変で、幸せだけど今年は暑かったし、体も小さいことから疲れているらしい。」私はわずかな間だけしか知らないから、覚えているのは小柄な子供の彼女だけど、大きく成長できるような環境ではなかったことは知っている。

 もし、ヤスコちゃんに会うことができたら・・。私にはひとことで「苦労したやろう」なんて言えない。「元気で良かったね。」だと思う・・。いや、元気がなくても「良かった!」だと思う。「生きていて良かった。孫を見ることが出来て良かった。がんばれて良かったね。」ヤスコちゃんの妹さんは亡くなられた聞いたから・・。

 親しげにあっけらかんと話し続ける女性に、ヤスコちゃんに自分を重ね合わせる私の心など分かるわけもなく、こんなことはこの女性には理不尽なことであろう。その言葉の端々に「面倒を見てきた」関係が感じられるように思えたから。

 でも、全てのことは私と神様の間のこと。私の中にある古い傷、親もなく財産もなく厄介者であった頃の傷は、癒えているように思えても、ふっとしたことでぶり返して疼くことがあるけれど、でも、そんなことは私だけのことではない。自分だけが特別だと思って古傷を見つめるから人を許せなくなるのだろう。

 イエス様はそんな、人のすべての罪や痛みを十字架で負われた。その事実を知っているのだから、過去は主に在ってもう葬ろう。案外ヤスコちゃんの方が、今では対等な良いおつきあいをしているのかも知れない。主は私が主を知る前からこのように守っていてくださった。

 
「あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」(1コリント10:13)
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日曜日にはイエス様のお話を聞く 2007.9.9

2007-09-10 15:48:39 | Weblog

saltさんのメッセージ「主のみこころのままに」

 今日はかなり繊細で深いテーマに迫ってお話しします。注意深くみことばをひもとき、学んでまいりましょう。

「私たちは弟子たちを見つけ出して、そこに七日間滞在した。彼らは、御霊に示されて、エルサレムに上らぬようにと、しきりにパウロに忠告した。」(使徒21:4)と書かれています。

 「しきりに」と書いてあるので、おそらくパウロ達が滞在していた7日間の間に、何度もツロにいた兄弟達は、「エルサレムに行くべきではない」と勧めたのでしょう。勿論それはパウロたちの身を案じての心からの忠告です。見送りの場面を見ても、家の玄関先で別れたのではありません。妻や子供たちも町はずれまで一緒についてきてパウロたちとの別れを惜しんでいます。

そして海岸にひざまずいて祈っているのです。(使徒21:5)そんな様子からも彼らの交わりの親しさと、信仰の豊かさが伺えます。そういう親しい兄弟達が心から自分のことを心配してくれて、繰り返し忠告してくれていたのです。単に主張がぶつかって、どちらがより正しいかという話ではないことがわかります。

 ツロを出たパウロたち一行はトレマイに渡りました。そして、翌日にはカイザリヤに着き、ピリポの家に滞在しています。そこへアガポという預言者がユダヤからやって来たのでした。アガポはパウロの帯をとって、自分の体まで縛って見せて、

「彼は私たちのところに来て、パウロの帯を取り、自分の両手と両足を縛って、「『この帯の持ち主は、エルサレムでユダヤ人に、こんなふうに縛られ、異邦人の手に渡される。』と聖霊がお告げになっています。」と伝えました。(使徒21:11)

エルサレムの方角からわざわざこの預言のために下ってきた人物の、パフォーマンス付きの具体的な預言です。それを聞いたカイザリヤの兄弟たちも、ルカをはじめパウロの同行者たちも、黙っていられなくなり、共にパウロがエルサレムに上らないように頼みました。

 ツロでは「忠告」でした。その主体は「彼ら」すなわち現地の兄弟たちです。ところがカイザリヤでの場合は涙ながらの「懇願」です。その主体は「私たち」すなわちパウロと旅を共にしてきた兄弟たちです。

 当然、パウロの気持ちも揺れたはずです。先ほども触れたように、単なる反対意見やお節介ではありません。パウロの性格や気持ち、そしてその信仰を尊敬している兄弟たちが心から止めているのです。しかし、パウロは力強く次のように答えました。

「あなたがたは、泣いたり、私の心をくじいたりして、いったい何をしているのですか。「私は、主イエスの御名のためなら、エルサレムで縛られることばかりでなく、死ぬことさえも覚悟しています。」(使徒21:13)

 パウロは忠告や懇願の中身を十分に理解し、彼らの優しい気持ちもくみ取ってもなお聞き入れませんでした。兄弟たちはパウロの固い決意を感じてそれ以上のことばもなく、「主のみこころのままに」と言って黙ってしまいました。


 では、この場合「主のみこころ」とは何でしょう。パウロがエルサレムに上ることは主のみこころに反しているのでしょうか。
「このエルサレムには上るべきでない」と主張した兄弟たちは、いずれも一時の感情でそう言ったのではありません。「御霊に示され」(使徒21:4)あるいは、「聖霊のお告げを受けて」(使徒21:11)自分のことばではないことばを語ったのです。言わば、彼らは「主のみこころを代弁した」のではないでしょうか。

 しかし、パウロはそれを受け入れませんでした。ではパウロは主のみこころに逆らったのでしょうか。どうやらそれも違うようです。パウロはパウロで、もっと明確な啓示をすでに繰り返し頂いていたからです。

「いま私は、心を縛られて、エルサレムに上る途中です。そこで私にどんなことが起こるのかわかりません。ただわかっているのは、聖霊がどの町でも私にはっきりとあかしされて、なわめと苦しみが私を待っていると言われることです。」(使徒20:22~23)この「心を縛られて」という表現は、欄外の脚注をご覧いただくと、別訳して「聖霊に縛られて」となっています。
 
 パウロは、自分に忠告して懇願してくれる兄弟たち以上に、自分の身に降りかかる苦しみや危険を予見していました。聖霊は同じ事を何度も繰り返して、町から町に移動するごとにパウロに教えたのです。当然パウロだって好き好んで苦難の道を進んでいくわけではありません。パウロは自分の考えや決意に縛られていたのではありません。

聖霊に縛られていたのです。それは降りかかる苦しみを承知の上で引き受けようとするさらに大いなる力です。パウロはおそらく普通の人よりも遙かに意志が強く勇気のある人だったに違いありません。しかし、この決意は、パウロの意志の強さや人間的な勇気がもたらしたものではありません。別の次元の力がパウロを支えているのです。

 繰り返して確認しますが、だからと言って、パウロ以外の兄弟たちが示されたもの、感じたこと、彼らの忠告や懇願が間違ったものだったのか、余計やお節介や惑わしだったのかと言えば、そうではありません。それを示したのも、また聖霊なのです。

 それぞれの兄弟たちには、それぞれの分や役割があり、理解も違います。しかし、それぞれに主を愛し、主につながる兄弟を愛しています。誰もが主のみこころの中を歩みたいと願っているのです。主はその必要に応じさまざまな場面で、それぞれにご自身のみこころを示されます。それを受け止め、与えられた自由によって、判断し行動するのは私たちひとりひとりの責任によるところです。


 私はこの点について次のように考えています。
 例えば、ある出来事に関して意見が分かれた場合、ひとつの意見だけが正しく、他は全部間違いだとか、ひとりの人だけが100パーセント正しく、他の者の判断や行動はすべてにおいてその人より下位に置かれるなどということはないと思っています。私が知って経験してきた限りにおいては、そう断言できます。

 パウロが考えている「走るべき行程」は、十字架の向こうに続く道です。前回お話しした「あなた」と「私」の走るべき行程も同じです。その道は、十字架の向こう側にしかないのです。競技場のラインは死の向こう側に引かれています。死を経ていないものはすべて偽物です。よみがえりのいのちによって導かれたのでないなら、それはこの世でいかに成功したように見えても、どのような高い評価を受けようとも、それはこの世限りのものです。主が喜んでくださる御霊の実ではありません。

 パウロだって何も好き好んで苦難の道を歩みたいわけではありません。パウロは自分の走るべき行程の苦難を理解していますが、それを見てはいません。パウロが見ているのは、さらに困難な道をすでに克服してくださった御方の姿であり、ゴールで待っていてくださるこの御方の笑顔なのです。これが、単純ですが、人間的な宗教といのちの信仰との決定的な違いです。

多くの人は自分の「道」にこだわります。パウロが見ていたのは、道の向こう、ゴールであり「決勝点」です。だからパウロはこう言ったのです。「私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。」(1コリント9:26)

 迷うとき、悩むとき、落ち込むとき、私たちは決勝点を忘れています。道を見ているのです。自分の道は間違っていないだろうか。本当にこれで良かったのだろうか。祝福されるだろうか。災いに合わないだろうか。多くの困難や度重なる失敗の中で、「なぜ」「何のために」「何を目指して」歩き始めたのかを完全に忘れてしまうのです。

「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。
信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」(ヘブル12:1~2)
ここでも、競争を走り続ける際に最も大事なことは、イエスから目を離さないことだと教えられています。

 兄弟たちが示されたことも、パウロが示されたことも、共通していました。それはエルサレムに上ればパウロが苦しみに合うというものでした。兄弟たちは、パウロが苦しみにあって欲しくないと思いました。パウロは、たとえ苦しみにあってもさらに福音を前進させたいと考えたのです。

 では、さらに進んで考えてみると、パウロの判断が主にとってさらに喜ばしいものであるとするなら、みこころを示されてもパウロのようには判断できないであろう周辺の兄弟たちに、なぜ、繰り返して、パウロの身に起こる出来事を示されたのでしょうか。エルサレムでのパウロの苦しみを予見できる御方が、そのことを兄弟たちに伝えれば、結果としてパウロの後ろ髪を引くような反応を示すことを予見できないのでしょうか。

 私はパウロに「エルサレムに行ってくれるな」と忠告し懇願した兄弟たちの思いも、主の偽らざるみこころの一部だと感じています。主が、私たちの進む行程において、あえて私たちを苦しみに合わせるとき、それは主にとっても非常につらく悲しいことなのです。それが愛です。

 主はパウロには示すことのできない、もうひとつのみこころを周辺の弟子たちに十分にお伝えになりたかったのではないでしょうか。
 アブラハムにソドムとゴモラの町の裁きをお知らせになったとき、一番その町に正しい人がいることを期待して居られたのは誰ですか。その町全部を救うことが出来たらと願って居られたのは誰ですか。

ニネベの町についてはどうですか。ヨナは偶像を拝む、拝まないと行った「信仰の正しさ」でものを見ていましたが、さまざまな経験を経る中で、神さまのみこころの深さと愛を学んでいくのです。それは魚の腹の中での十字架の死を学んだからです。神のみこころの一番深いところを流れているものは愛です。


 罪のないイエスさまが、十字架を選ぶ道行きには、葛藤があり、苦しみがありました。それがゲッセマネです。
イエスさまの祈りはどんなものだったでしょう。

「父よみこころならば、この杯を取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」(ルカ22:42)
「わたしの願い」は何時だって御父とひとつでありたいというものです。当然、十字架になど架かりたくはないのです。それは偽らざる御子の思いです。しかし、十字架に架かるためにこそ、お生まれになり、人としてのご生涯を生き抜いてくださり、みことばのとおり此処まで歩んでこられたイエスさまです。これから、十字架に架かることこそが、走るべき行程の最終章であることは、百も承知のはずです。

そして、御父もこの従順で真実なひとり子に極限の苦しみを負わせて見捨てるということなど出来ることではありません。「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」これこそ、御父の御子イエスへの評価のすべてです。また、だからこそこの御子を罪を購い得る唯一の御方として、十字架に架けるために、この世に遣わされたのです。

 父なる神もまた、御子が忠実で素晴らしい歩みをされればされるほど、この方を罪ある者として罰するには忍びないのです。そんなご自分の裁きがたい御父の思いさえ察する御子であるが故に、ただ自分が苦痛を回避したいと願う以上の深い祈り、それが「みこころのとおりに」の意味です。

 十字架というのは、そもそも御父にとっても御子にとっても、ともに「選ばなくてもいい選択」なのです。あえてそれを選んでくださったからこそ、十字架は全てのものにまして価値があるものなのです。だからこそ、人が何一つ付け足す必要のない、付け足すことができない完全な救いなのです。主のみこころは、すべてこの十字架を通ります。
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なぐさめの花

2007-09-05 14:40:27 | Weblog
 高砂百合が今年も庭に咲いた。この百合は夏の終わりに咲く。庭の片隅に植えたものが、勝手に場所を選んで芽を出し咲くようになった。
きちんと植えられている庭も勿論良いけれど、「あれっ」と思うところに芽を出し、気ままに咲いている花も私は大好き。草を引くとき気をつけて、花の芽と思うと引かないようにしているから、家の庭はあまり垢抜けない・・。草引きをしてもすっきりとはしない。

 茗荷は残して、フシグロセンノウらしいからこれも残して、苔を引かないように気をつけて、シダもある程度残して、こんなところにエビネが出てきているこれも引かないで。千両や万両がまた、増えているけれど・・と悩んで残して、リュウノヒゲも増えたようだ・・。とか、クマガイ草の芽らしいから引いては駄目。これはハーブだからある程度引くけど残して・・・。

そんな風な草引きだから、時間の割にはかどらず、どこの草を引いたのか説明をしないと分かってもらえないような優柔不断な庭。でも、こんな小さな小さな日当たりの悪い庭でも、私に季節を楽しませてくれる。

木蓮の花、山茶花の花、椿も咲く、紫陽花も・・・いろんな季節ごとの花を見ることは大好き!苔の緑も大好き!ゼニ苔のような悪い苔とずいぶん戦って守ってきた。一輪どこからか来て咲いた小さな花も嬉しい。けれど、実は茗荷や百合のように食べられるものもとても嬉しい。

「今年はヤマユリが咲かなかったね」と主人に話すと「お前、去年の暮れに掘って食べてしもうたやろう」と言われ、「そう言えば茶碗蒸しに入れたような・・」と大笑いしたこともある。今も食用になる百合が一本ある、心の中で何かの時に使ってやろうかと・・・、たくさん花が付いているからきっと大きな球根だろう。でも、高砂百合は食べられないから、我が家にいても何時までも無事である。

息子が写真に撮った翌日にはほとんど散ってしまった。まるでこれで役割は終わったというように・・・。だから花は愛おしい。一瞬にも一生懸命自分の仕事をしている。神様が私たちに慰めとして備えてくださった花々は、ささくれた心を癒して柔らかくし明るくしてくれている。


「ゆりの花のことを考えてみなさい。どうして育つのか。紡ぎもせず、織りもしないのです。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。」ルカ12:27
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宿題 (使徒20章)

2007-09-04 11:12:12 | Weblog
メッセージの最後に宿題を出された。ひとりひとりがもう一度、自分で使徒20章を読んで主から直接聴くようにとのことだった。

 パウロは「御霊に縛られて・・」と書いている。キリスト者の自由とは、御霊を否むか、従順するかなんだと思う。力のようなものを求める人は多いけれど、御霊に縛られることを求めることこそ必要ななのだと思う。パウロの力は御霊に縛られることから出たのだと思う。だから彼はどんな用い方をされても安全なんだ。

 彼は人を蘇らせたけれど自分の死は知っていた。人を癒すことが出来たけれど、自分は癒されないことを知っていた。そんな彼は誰よりも、その力がどこから出ているのかを知っていたと思う。

 ある礼拝後の交わりで、パウロの前掛けで人が癒された箇所を、「パウロがそんなことを始めたのは、どんな動機からだったのかしら・・」と、教会の姉妹方と話し合ったことがあったけれど、パウロが、自分ではなく主が何でも用いることが出来るお方だから、ということから始まったとしたら、パウロの謙遜から始まったことかも知れない・・そんなことも考えた。

 パウロから力が出るわけじゃないけれど、主にはパウロを連れて行く必要があった。パウロの同意と彼の存在が主には必要なのだ。それは私たちにも同じだから、その存在の意味は揺れることのない生きる望みになると思った。

 私たちは救われ、主の元に上げられそこから遣わされているという。そして、今置かれている場所は、主の競技場、私は真剣にゴール目指して走るアスリートであると・・。
主の置かれた競技場を見失って、この世のなかで空を打つような戦いをする者ではないんだ。なにしろ御子の血が支払われ買い取られて救われた者だから。パウロのようでありたいではなく、イエス様を見上げて自分のコースから逸れない走りをしたい。御霊の縛りの中にこそ、その秘訣があると思うから祈ろう。

 
「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。」ピリピ1:21
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日曜日にはイエス様のお話を聞く 2007.9.2

2007-09-03 14:25:30 | Weblog

saltさんのメッセージ「走るべき行程」 使徒20

 今日は「走るべき行程」というタイトルをつけました。
 世界陸上の影響も少しはあるかも知れません。私はスポーツが好きなので、ついつい気になってチェックしていました。

 同じ競技でも、スタートラインに並んだ時点で、その種目ごとに体型まで違います。短距離には短距離の、長距離には長距離の適正やトレーニングの仕方や戦術があります。実力だけでなく、本人の体調や心理状態、天候や会場のコンディションも影響しますし、レースそのもののさまざまな駆け引きが勝敗を分けます。

そして、アスリート達は一秒でも早くゴールするために、日々の厳しい練習に耐え、レースに全神経を集中します。その真剣な姿が、見る者を引きつけるのです。素人がたとえ同じ距離を、おなかをたぷたぷさせて走っても、誰も感動など覚えないでしょう。やはり鍛え抜いた人たちが、与えられた力を極限まで発揮する姿が、人の心を動かすのです。

 使徒の働きの9章以降は、パウロに関する記事が大半を占めます。読み手もついついパウロの旅路に同行するような気持ちで読み進んでしまいます。パウロの超人的な働きの背景には、もちろん彼の個人的な能力の高さや、特別に与えられた役割があります。しかしながら、何度も繰り返し言っているように、それは主がともにおられたからこそ成し得たことであり、多くの不思議やしるしも主がパウロを通して行われたことでした。

 そして、私たちが一番心を動かされるのは、パウロの賜物や働きの大きさではありません。私たちがパウロにひかれるのは、その真摯な信仰の姿勢や、イエスさまに対する愛に対してではないでしょうか。パウロは自分に与えられたものすべてを使い尽くすように、限界まで努力奮闘しました。それは世界の頂点を競い合うアスリートの姿とも似ているのです。

 パウロ自身はこのように語っています。
「肉体の鍛練もいくらかは有益ですが、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です。このことばは、真実であり、そのまま受け入れるに値することばです。私たちはそのために労し、また苦心しているのです。それは、すべての人々、ことに信じる人々の救い主である、生ける神に望みを置いているからです。」(Ⅰテモテ4:8~10)
 
 パウロが目指したものは、肉体の鍛錬以上のものでした。パウロは体を鍛えることが無益だと言っているのではなく、もっと有益なものを追求せよと勧めているのです。それは生ける神にのみ望みを置き、キリストのために労することです。

 アスリートたちが、五体満足、意気軒昂に実力を競い合えること自体が、大きな神様の恵みなわけですが、私たちもキリストの苦しみを賜ったことは恵みなのです。彼らは非常に努力しています。同じように、私たちにも努力が必要です。それは、名を上げ、自分の栄光を求める肉の努力ではありません。神の御名があがめられることを求め、神の栄光を求めるあゆみです。

 さらにパウロは、「私がキリストを見習うように見習って欲しい」(Ⅰコリント11:1)と語っていますが、まさに私たちが学ぶべきポイントはそこにあります。呪術師がパウロのわざや権威をまねたように、うわべだけを見ていい格好をしたい人はたくさん居ますが、私たちが見習うべきことはそんなことではないのです。

 パウロが此処で語っている「走るべき行程」とは、単に伝道旅行のことではなく、「主に委ねられたことの全体」を指しています、パウロはそれを全うできたかどうかを自問しているわけです。

 パウロはダマスコの途上で、よみがえられたイエスさまに出会うまでは、それこそ、レース場を全速力で逆走するような、あるいは、レースそのものを妨害するような生き方をしていました。信仰がなければ、この競技場も見えないし、競技のルールもわからないし、その戦いの意味も、それによってもたらされる栄誉も分かりません。この世の人には、私たちが何を礼拝し、何のために生きているのかわからないのです。


 みなさんに聞きます。あなたは何を主に委ねられましたか。あなたのレースはどんなレースですか。また、自分はアスリートであるという自覚があるでしょうか。残念ながら、そんな自覚の乏しい方や備えやトレーニング不足の方も多いのではないかと思います。それでは駄目なんです。

 勿論パウロは「特別な人」ですが、同じように、私たちひとりひとりも「特別な人」です。パウロに彼の「走るべき行程」が備えられていたことは疑う余地がありません。そして、パウロがその行程を忠実に歩んできたことも、「使徒の働き」に見るとおりです。

 私たちはどうでしょうか。私たちには私たちの「走るべき行程」があるのです。もっと責任を明確にするために、「私たち」と言うのはやめて、「私」には「私」の、「あなた」には「あなた」のと言い換えましょう。あなたの行程はあなただけのものであり、そこには責任があります。それは非常に重い責任です。真理は私たちを自由にします。そうです。自由です。この自由ということほど尊い価値は他にありません。私たちは罪の奴隷でした、しかし、今は自由なのです。この空中の権威者の下にいました。しかし、今はキリストの自由を得たのです。自由には責任が伴います。

 パウロはこう言っています。「私はすべての人が受けるさばきについて責任がありません」(使徒20:26)パウロは「すべての人に対して負債を負っている」というふうに考えていました。(ローマ1:14)「福音を伝えることはどうしてもしなければならないことで、それをしなければ災いに遭う」とさえ言っています。(Ⅰコリント9:1~18)このⅠコリント9章では、神の恵みのもとでの人の努力について、さらに、自由について、権利について、誇りについて語っています。

 私たちは、それをどう読めばいいのでしょうか。あなたは、その信仰の道のどのあたりにいて、さしあたっては次に何をすべきなのですか。このⅠコリント9章の後半では、パウロはいみじくも、陸上競技を信仰に喩えて書いています。

 同じ陸上の競技の中でも、マラソンは2時間以上走らないと結果が出ませんが、100メートル走なら10秒と少しで結果が出ます。あなたの参加種目は何ですか。自分が何を主から委ねられ、どのように自分を鍛え、どのような心構えで、日々を過ごすべきなのかという自覚がないのは困ったことです。

 救われた以上、主から「何も委ねられない」ということはありません。いのちが与えられ、家族に加えられたなら、お互いがその中で役割を果たすべきです。言い換えれば信仰に観客は居ないのです。全員がアスリートであり、競技参加者です。しかも、パウロの表現から伺えるのは、タラタラ楽しく走る市民レースではなく、勝利を目指した真剣勝負です。失格は何としても避けたいものです。

 動機付けは何でしょう。世界陸上であれば、自分のため、家族やチームのため、あるいは国家のために走るのでしょう。ある競技では、ケニヤが金・銀・銅と独占して、3人で国旗を揚げながら、走ってういる姿はけっこう胸が熱くなりました。私たちの場合はどうでしょうか。

 「神がご自身の血を持って買い取られた神の教会」(使徒20:28)という教会に支払われた価値の大きさを知ることが原動力になるのです。肉の目で「教会」見ていては、意欲などわかないでしょう。「支払われた代価」を通して教会を見つめるとき、主の愛が私たちを突き抜けて他の兄弟姉妹に及ぶようになるのです。この買い取るというギリシャ語は贖いを意味しています。ただ「買う」のではなく、「獲得する」「自分のものにする」という強い意味があるのです。「買い取られた」は完了形にになっています。継続や繰り返しはないのです。

 それは、ただ一度過去に起こった行為、つまり十字架で流された血潮によって獲得されたのです。(エペソ1:7)

 さらにこのことばの後に続くのは何でしょうか。「・・・を牧させるために、あなたがたを群れの監督としてお立てになったのです。」(使徒20:28)

 その価値ある教会を牧するリーダーをお立てになったのは聖霊です。
 教会における人事を行われるのは聖霊なのです。すべてを導かれるのは、人ではなく聖霊です。パウロは教会における聖霊の主権を宣言した直後に、起こりうる問題についても語っています。
「私が出発したあと、狂暴な狼があなたがたの中にはいり込んで来て、群れを荒らし回ることを、私は知っています。あなたがた自身の中からも、いろいろな曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こるでしょう。」(使徒20:29~30)

 これはパウロが聖霊によって知っていた彼らの未来に関する予言でした。パウロはその危険を承知していたので、涙とともにひとりひとりを訓戒してきたのです。
 そのエッセンスが32節です。
「いま私は、あなたがたを神とその恵みのみことばとにゆだねます。みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができるのです。」

 みことばが、私たちを育成するのです。みことばが御国を継がせるのです。みことばが私たちの唯一の武器です。
 やり投げの選手が槍を持たずに競技に参加できますか。ハンマー投げの選手がハンマーを持たずに競技に参加できますか。クリスチャンがみことばなしで、どうやって競技で戦うのですか。

 みことばに養われていない人は、何年教会に集まっていても、洗礼を受けていても、失格者であり、公式記録なしです。

 今日のメッセージを、決して人間的にとらえないでください。もう一度ご自分でみことばを読み、主から直接教えられてください。それぞれに必要な語りかけをお聞きになると思います。
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