石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

神様に託す

2007-07-31 06:53:43 | Weblog
 サムエルをエリに預けることはとんでもないこと。とてもできないこと。エリは自分の息子をしつけることもできない駄目祭司。そこには悪い息子たちがいる悪い環境、そういう所に幼い我が子を預けるなんて・・・。


 息子は中学では障害児クラス、3年間女性教師と一対一という環境だった。「お母さんが教えないでください、勉強は自分の力で1212アヒルの行列でよいのです」などという教師に預けることになった。

彼女はパフォーマンスばかりで教科をほとんど教えている様子はなかった。内緒で塾に行かせようかと塾を探したりもしたけれど、嘘をついたり隠したりそんなことを息子にさせたくはなかったので結局なにもせずに祈っていた。


 思い悩んでいるとき、未信者の方からこのエリの話を聞かされた。そのころは私も教会に通っていて、この箇所を知らないわけでもなかったけれど、彼女がこの話を突然しだしたときに心に響くものを感じた。そして聖書を読んだときその意味がわかった。このことは祈りの中にあるのだから人を見てはいけない、「神様に預けるのだ」ということを。今思えば、彼女の口を通して主が私を導いてくださったのだと思っている。

 事実、3年間の忍耐を神様は無駄にはなさらなかった。私はその間「鼻から息をするものに頼らない」という教育を受けた。息子は毎日ひたすら本を読んでいた。それはその後の進学にとても大切な基礎となった。読み書きはすべての基礎。筑波技術短期大学で先生に国語力をほめられたけれど、それは中学のときの読書から得た力が大きいと思う。神様のなさることには少しも無駄がないことを身をもって知った。

サムエル記2章を読むたびにその頃のことを思い出す。

「 主は聖徒たちの足を守られます。悪者どもは、やみの中に滅びうせます。まことに人は、おのれの力によっては勝てません。」(Ⅰサムエル2:9)
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新品パソコンだよ~

2007-07-30 11:23:33 | Weblog
 パソコンが新しくなってとても快適!新しい液晶ディスプレーもこれで本当に生かされるようになった。すべての機能がそろって初めて良さがわかるのだと知った。画面が格段にきれいになって見やすい。

 息子が以前から買い揃え続けてきた部品が全部そろったからと、木曜日に休暇を取って帰ってきて組み立ててくれた。すべてこだわりの物ばかりだと自慢しても、気の毒だけど私にはかいもくわかっていない。

ただ、「できるだけ省エネに、そして静かに」それを繰り返すばかり。しかし、息子はスピードにも機能にもこだわりがある。その折り合いが課題だったらしい。ビスタにも対応しているけれど当分はxpのまま、私もそれには賛成。というか、それで私には十分であるということ。

 私はもちろん何もわからないけれど、結構野次馬なので横から興味津々で覗き込み、これは何かと質問を繰り返すが、我慢強く教えてくれることにちょっと驚いた。私はこういう立場だったらきっといらいらしてしまうと思うから・・ 。

料理などしているときに横に来て、これは何かと彼に質問されると面倒になって「邪魔だよ」と説明をほとんどしないことが多いなあ・・。子供のころには何から何まで丁寧にしつこく教え続けたのに、もうすっかり教育しなくなってしまった。

 本当に、近頃は会社に対して「育ててくださった」と感じることが多い、私に対する我慢強い説明もそのような環境から来ているのだと思う。同じところに長く勤めて、そこで丁寧な教育を受けることができることはとても感謝なこと。その場所に導いてくださり、その場所を守ってくださっているイエス様に感謝をするばかり。

 画面に並んだ文字を見ていて
「こんな英語が読めるのか」と問うと
「英語じゃないよ。まあ、コンピューター語。これが読めんかったら仕事にならん」
ちょっと偉そうに聞こえた。

「でもさ、全部私が教えたことから出ているんだよ~『ママ』という言葉を教えたことから始まっているんだから。」さすがにこの言葉は心の中で言っただけ・・。

一度も「耳を不自由に生んでごめんね」とは言わなかった私。そんな事は死ぬときも言わないだろう・・。ドラマでそういう言葉を聞くことがあるが私の大嫌いな台詞。「選べるものなら誰が不自由になんか生むものか」という怒りがでてくる。理不尽なことを謝れるものか。なぜ、そういう台詞があるのだろう・・。彼の立場に立って一応謝ってあげるのだろうか・・やはり嘘っぽい。

 彼の障害によって家族がイエス様を知り救われたのだから、そのことは彼が生まれてきたことの明確な意味であり祝福なのだから。私たちは顔を上げて主を賛美しよう。


しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。(Ⅱコリント12:9)
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ハンナ

2007-07-28 14:47:21 | Weblog


ハンナは、ペニンナという二人目の妻に、子どもがないと言うことで精神的にいじめられていた。神様がハンナの胎を閉じて居られたと書かれているから、すべては神様のご計画。神様のご計画によって、いじめられる立場に立つことがある事実。

女として、夫のエルカナの慰めのことばは虚しいと思った。「私は十人の息子以上のものではなか」この言葉に真実なんてない。二人目の妻を持ったことがすべての原因なのに、「本当にあなたが私のすべてです」と喜べると思うのか!なんて・・ちょっと腹を立てつつ読んだ。

神様はハンナを追い込んで行かれる。彼女は主に叫んで誓った。そして神様に信頼して安息した。「捧げるために与えてほしい。」そんな約束をすることはとても危険なことのように思う。

サムエルが生まれると彼女は約束通りに、乳離れした時に祭司の下に連れて行って手放した。人間的には手放すためなら、産む必要はないのではないかと思う。乳離れしたばかりのひとり子を手放すことは、母であればいかに辛いことであるか・・。その痛みが神様に誓うということの結果であるように思う・・。それでもそれができたのはハンナが神様の導きの中で誓っていたからだろう。

結局子どもを持ったペニンナと、子無しのハンナという立場は変わらないわけだけど、ハンナの本当の悲しみは、子どもの有る無しではなく「主に顧みられない」ことが悲しかったのだとわかる。


 主に祈りが聞かれたとき彼女は満足し安心したのだと思う。そして、サムエルを捧げたことで彼女はみこころを行った者の大きな喜びがあった。ペニンナに何人の子ができたとしても彼女には関わりのないことであり、「神様が私を顧みて下さった。」それはすべての悲しみを覆って喜びとなりハンナはもう、人を見ないで毅然と生きて行くことができるようになったと思う。
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小さな祈り

2007-07-26 15:18:21 | Weblog

 主人が「アスパラ菜」の種を買ってきた。畑の土を掘り返し、畝を切って鳥除けのネットまで張り終えて、さて、種まきをしようとした時種が見あたらない!小屋の中から、持ち物から手当たり次第に探し回ったけれど何処にもない。

家に戻って来て「見なかったか」と聞く。私はチラッと車の中で種の袋を見ただけだと伝えた。年と共に本当に忘れっぽくなって、いつも何かと探し回ることが多い。

 「畑かな・・」と戻ろうとするのを引き留めて、「ねえ、、祈ろう」と勧める。玄関先で頭をくっつけて立って祈る。主人は「やっぱり畑やろう・・」と祈り終えるやそそくさと出て行く。「駄目だ・・」と思った。私に合わせただけの祈り。主人にしたら「祈る間に探そう・・」だったのだろう。残念だけど時間が必要みたい。

私も家の中に置き忘れていないかと探しつつ、「主はご存じなのに・・教えてくださるのに・・でも、待つしかないな。」と、主人に信仰の導きを祈りつつ待つことに決めた。

 その日も次の日も出てこなかった。でも、主人の言葉が少しずつ変わってきた。「出てくるまで待つわ」たかが種の袋ひとつ、わりと高い種だけどもう一度買ってきても大したことではない。それを作業の手を止めて「待つ」という言葉が嬉しかった。

 その日の午後、ウオーキングで畑の下を通りかかったとき、主人が畑から見てみろという。「種を蒔いたぞ!」とても嬉しそうだった。種はやはり出て来た。その夜主人と話した。
「祈りは聞かれるでしょう。イエス様はご存じだから教えてくださるよ」
「でも、探さなかったら出てこないだろう」
「探したくなったでしょう」
「なるほど」
350ml缶の発砲酒を半分ずつ入れて二人で静かな乾杯!外でひぐらしが鳴いていた。


 小さな祈りは、主と共に生活をする日常の主とのコミュニケーション。主に家族のように困ったことをお伝えする。主はいつも喜んで返事をしてくださる。そんな小さな応答が何時もあるから、私は主を近しく感じていられる。
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希望

2007-07-25 11:40:17 | Weblog
今週は考えていた。
聖霊の導きの内から逃げ出さないで留まっているには、私はどうすればよいのだろうと・・・。パウロのように、シラスのように、導かれたところに留まって神様のご計画が成就するためには。
痛むからだででも、惨めさの中ででも、主に信頼し続けて歌い続けるには・・。

ああ、そうだった!
それはイエス様がしてくださること。パウロはイエス様の型でもあると聞いた。私は救われた看守だと・・。
私たちからイエス様は逃げなさらなかった。十字架で救いをすでに成就してくださった。そして、来て下さった聖霊は助け主なるお方ではないか・・。

聖霊は、神様が妬むほどに私を知り尽くし、イエス様のわざを私に実現してくださる。私の内にキリストを形づくってくださる。それはみことばの約束だから。

私は幾らか知っている。
イエス様が導いてくださる世界のこと。お任せして委ねていてもちっとも恐くないこと。最善以下のことは決してなさらないこと。痛みも和らいでふっと忘れたことさえある。神様のご計画の成就は、そんな経験した日々の続きに過ぎないのかも知れない。

「すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至る」
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日曜日にはイエス様のお話を聞く 2007.7.22

2007-07-23 21:04:35 | Weblog

saltさんのメッセージ「獄中の賛美」使徒16章

 パウロはテモテに割礼を施しました。私は最初にこの箇所を読んだとき、「あれ」と思いました。割礼の習慣にこだわるユダヤ人を喝破しておきながら、いとも簡単に妥協しているではないかという印象を受けたからです。しかし、この後のパウロの言動や、晩年のテモテに当てた2通の手紙を見ると、パウロにとっては、テモテはどれほど大事な存在であったかということがよくわかります。そして、パウロは「キリストにある自由」を本当に豊かに用いた人なのだとわかります。

 テモテが割礼を受けているかいないかなどは、パウロにとっても本当はどうでもよいことでした。「割礼を受けなくても良い」ということは、「受けない」ほうが正しいという考えという考えに縛られることでもなく、「どうでもいいんだから、別に受けたっていい」ということも含んでいるのだとパウロは示したのです。

 割礼を受けないことで、相手の弱い良心と信仰をつまずかせるより、割礼を受けて後の良い関係を作るほうがよいだろうと考えたのでしょう。
 ガラテヤ人への手紙では、アンテオケにおいて、割礼のことで妥協したペテロについて激しく批判したことが書いてあります。ですから、パウロがテモテに受けさせた割礼でペテロのようにユダヤ人を恐れた妥協ではないことは明らかです。パウロの思いはこのひとことに尽きるでしょう。「割礼を受けているかいないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。」(ガラテヤ6:15)
 クリスチャンにとって大事なことは、この新しい創造の基準、すなわち、よみがえりのいのちによって歩んでいるか否かです。

「自由・自由」と口で言う人はたくさんいますが、本当に解放された自由な生き方を見せられると、けっこうとまどうものです。はっきり言って、それをみて戸惑う人は本当の自由を得ていないのです。
 たとえば、KFCのルークさんは、自身がカリスマ化されることを嫌って、あえて「酒を飲んだ」だの、「映画を見た」だの、プールやサウナですっきりした」だの「温泉が楽しみだ」だのと書いておられます。それは、確信犯的な自由の提言であって、「真理が人を自由にしたひとつのかたち」を示しておられるわけです。彼の日々のコメントを読んで、いろんな刺激を受け、自らを振り返る方は多いと思います。

 しかし、「そういうのがお洒落なんだ」「それがホントのクリスチャンライフなんだ」と思いこんだりすると、今度はそうした歪んだ基準でしかものが見えなくなり、今度は一見堅苦しく見えるけど、本当に解放されている人たちを見下したりする危険性も出てきます。同じいのちに生きる兄弟姉妹でも、パウロのような人もいれば、バルナバのような人もいます。そして、マルコのような人もいます。

 さらに、テモテが割礼を受けなければ、いつまでも「彼のお父さんはギリシャ人だ」とこだわってしまうユダヤ人の兄弟だっているのです。パウロは、テモテに割礼を受けさせることで、そういうユダヤ人の信仰の弱い兄弟たちのつぶやきを消したのです。
ですから、パウロがテモテに施した割礼は、人間的な妥協ではなく、与えられた自由な決定を聖書が示した結果だと見ます。

その後の展開を見ても、「アジヤでみことばを語ることを聖霊によって禁じられた」(使徒16:6)という表現や「ビテニヤのほうに行こうとしたが、イエスの御霊がそれをお許しにならなかった。」(使徒16:7)と言う表現から、パウロの伝道の道のりが、完全な聖霊のみちびきにのっとったものであることが伺えます。

それは、その辿ったコースだけではなく、そのさきざきでのパウロの言動もまた、聖霊とともにあったと言えるでしょう。パウロはマケドニア人の幻を見て、アジアからマケドニアへと完全に方向を転じることになります。パウロは確信を持って進んで行ったと記されています。

 そのような聖霊の導きの中にありながら、妨害され、鞭打たれ、投獄されます。こういう状況で、人はいったい何を考えるでしょうか。
 おそらく、「みこころでなかったから戒められているのだろうか」というような過ぎたことへの葛藤や、「何でこんな事になるのか」という現状に対する不満や、「これから先どうなるのだろうか」と未来への不安などが、心に渦巻くことでしょう。

 しかし、パウロとシラスの心に沸き上がってきたのは賛美でした。彼らのまなざしは囚われた自分自身にではなく、神さまに向けられていました。

 ただの賛美ではありません。この賛美はただのゴスペルミュージックでも、礼拝の式次第の中の賛美ではありません。彼らは「祈りつつ」賛美を歌っていたのです。(使徒16:25)

 賛美と地震の因果関係はわかりません。ある人々は、パウロとシラスの賛美と祈りの力が地を揺り動かしたのだと言うでしょう。でも、私は、パウロとシラスが解放を求めて祈ったり賛美を歌ったりしていたのだとは思えません。むしろ、最善以下のことは決してなさらないはずの神が、みこころに従ってマケドニアにやってきた自分たちをあえて鞭打たせ、あえて獄につないだからには、何かがそこにあるはずだと信じていたと思うのです。その証拠に、大地震が起こっても、扉が開いて鎖がほどけても、驚きもせず「今こそチャンスだ」とばかりに牢から逃げたりもしません。
神のみこころの中にいる人たちは、どのような状況であろうと、神が神であるというただそれだけの理由で賛美ができるのです。

 これは単なる私の偏見にすぎませんが、パウロとシラスの賛美が音楽的にとびきり素晴らしいものだったとは思いません。しかし、ほかの囚人たちが聞き入るような崇高な何かが感じられたのです。なぜ、そう考えるかというと、ただ音楽的に優れていただけなら、真夜中に歌われると、「やかましい」と感じるのが普通だからです。真夜中に聞かされてもやかましいと感じさせない何かがあったと考えるのが自然です。

 さて、そこに突然の地震です。このような状況になれば、囚人は看守の目を盗んで逃げ出すものと決まっています。牢の開いた扉を発見するや、看守は自害しようとしていました。パウロは大声で叫んでそれを止めます。この看守は自殺をまぬがれただけではありません。パウロの語る福音を信じたことによって、彼と彼の家族全員が救われたのです。

 すばらしい証です。もし、彼が自害していたら、残された家族は何と惨めだったことでしょう。殉職と言うにはあまりにも馬鹿馬鹿しい死に方です。囚人が逃げても居ないのに、逃げたと思いこんで自らいのちを絶つのです。そんな間抜けな主人を失った妻子は、憐れとしかいいようがありません。
 しかし、彼は信じました。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒16:31)家族全員の永遠の運命を変えたみことばです。

 この素晴らしい出来事は、「獄中」でおこりました。これらの証のために、パウロとシラスは鞭打たれ獄につながれる必要があったのです。この獄中と言うことで、もう少し考えてみます。

 新約聖書は、わたしたちのからだを「聖霊の宮」「神殿」また「幕屋」であるという表現を繰り返し使っています。
 それは、「私たちの存在の本質はからだではない」という表現と、「その本質を宿すからだも大切なものである」という二重の意味があります。からだがそれ自体汚れているとか、いないとかは、全く別の次元の問題として取り上げています。
 
 反面、旧約聖書の中には、「人間は生きているだけでその存在自体が汚れている」ということを意識させるような律法が細かくあります。それは、その人物がどういう人物で何をしたとか、しなかったとかいうこととは関係なく「生まれながらの人間はそのままでは神に近づけない」ということを教えるためにルールでした。

アダムの契約違反によって、人は善悪を知り、己の裸を知り、いのちへの道を閉ざされたのです。このように見てくると、ユダヤ人たちがきよめの儀式にことさらこだわったのも、それなりの理由があったということがおわかりいただけるでしょう。

 この新旧の聖書の基準には何の矛盾もありません。当然ながら神は全く同じ、変わらないきよさを保っておられます。神は、旧約では、動物の血を、新約ではキリストの血を見ておられるのです。神は人間の心の動機や暮らしの隅々を、深い関心を持って見つめておられますが、きよさという点で人を評価されることはありません。人は生まれながらにきよくないのです。きよくないから、何の関係もない動物の血が必要なのです。

 人間が汚れを取り除くためには、無数の動物の血を必要としました。しかし、その動物の血が象徴していた神の子羊イエスの血が流されたことによって、いけにえは必要なくなったのです。イエスさまは、世の罪を取り除く神の子羊ですから、イエスさまの血潮によって、もう罪は取り除かれているのです。ですから、罪や汚れという問題の葛藤へと陥るのは、十字架の意味が何も分かっていないのだと言えます。

 さて、ただ一度の購いのために、なだめの供え物としての御子を世に与えるためになされたことは、イエスという世のはじめからおられた御方が、肉体を持たれたと言うことを思いだして下さい。

 永遠の神のロゴスなる御方が、人となって、肉体を持たれたのです。
「ことばは人(肉)となって、私たちの間に住まわれた」(ヨハネ1:14)これは、幕屋を張られたという原語なのだと何度か申し上げているとおりです。

 神が肉体という牢獄につながれてくださったのです。それが人の子イエスの姿です。無限の御方が、人として時間や空間的制限を受け、みことばに服し、聖霊に導かれ、みこころの中に歩むがゆえに、人から侮られ、妨害され、そして鞭打たれ、それでもあえて肉にとどまってくださったのです。

 しかし、イエスさまは鎖につながれてはいませんでした。その門はいつも開かれていました。この御方は肉体の中にありながら、完全に自由でした。もうすでにおわかりのように、牢獄のパウロたちの姿は、肉体を持たれたイエスさまの姿と重なって見えます。そして、自害をとめられた看守は私たちの姿です。私たちの家族も救われなければなりません。そのために、「救われるために主イエスを信じる」という意味をしっかりとらえる必要があります。

「こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。」(ヘブル10:19~20)
 この道を通ってまことの聖所へはいることが、まことの救いです。

 パウロは、肉体という幕屋にいるときの「うめき」や「重荷」について語り、さらに、「肉体にあってした行為に応じて報いを受けること」を語っています。(Ⅱコリント4:16~5:10)また、「私たちが肉体にいる間は、主から離れている」(Ⅱコリント5:6)と言っています。

 肉体にある状況は決して喜ばしいものではなく、それは肉の目には「神殿」ではなく、「牢獄」です。だからこそ、私たちは見えるところによってではなく、信仰によって歩むのです。それこそが、牢獄の中の本当の賛美です。
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今日、思ったこと

2007-07-20 19:45:01 | Weblog
 昨日は思いのままに感情を吐きだしてしまったからか、今日はもうケロッと立ち直り、朝から沢山のシーツを洗って怪しげな空模様に一日中振り回されてバタバタ・・。それでも、糊は立ったから感謝。但し、もう一度晴天に干す必要がある。いかにも梅雨な毎日は、湿度が高くてすべての洗濯物が仕舞えなくて困るなぁ。

 以前、息子が乾燥機を買ってやろうかと言ってくれたけれど、その頃には何も困ることはなかったのできっぱりと「勿体ないからいらない!」と言ってしまったことを思い出した。まあ、滅多にいらないんだけれど・・。それに電気代がもったいないし、まあ、私が洗濯物を細やかに出し入れしていればエコロジーなんだから。この身のたっぷりお肉も少しは消費することにもなるだろうし・・。


 洗濯物を干し終わって、士師記18章を読んだ。
このころのイスラエルは非道いけれど、


「ライシュに着き、そこの住民を見ると、彼らは安らかに住んでおり、シドン人のならわしに従って、平穏で安心しきっていた。この地には足りないものは何もなく、押えつける者もなかった。彼らはシドン人から遠く離れており、そのうえ、だれとも交渉がなかった。」

このような土地に乗り込んで占領するなんて、何と非道いことをするのだろうと思った。まるで天国のような所・・・・・
いや、違う。天国には主が居られる!

主が居られないのに「足りないものは何もない。」なんて罪深いことば。主が居られないのに、「安らかに住み、平穏で安心」それも私にはわからない。この地は幻想の地じゃないかなぁ・・「押さえつける者もなかった」畏れるべきものもなく、「だれとも交渉がない」とは、自分達の世界に浸っていたってこと?やはり、この地はいずれ滅びるべき土地なんだろう・・。

 でも、こんなクリスチャン生活を知らないわけじゃない。
主にお従いすることをちょっと脇に置いて、平和だ、足りないものは何もない。押さえつける者もないと、自分の世界から何処にも出て行かず生活を楽しんでいるってこと。
それってこの「ライシュ」じゃないかな。そう思ったらちょっと緊張感を覚えた。


あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。(黙示3:17)
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ひぐらし

2007-07-19 22:39:56 | Weblog


夕暮れと共にひぐらしがしきりに鳴いている。昨日までは鳴いていなかったのに・・ひぐらしの声はもの悲しい。
嵐の夜にやって来て、潮が引くように去っていった孫たち。なんだか・・抜け殻のようになった心にひぐらしの声が染みる・・。

金ぴか折り紙の指輪をソファの下から見つけた。ずっと抱いていたおっとせいのぬいぐるみにはめてやる。キラキラのお星様もある。リビングの壁面は孫の画廊。カラフルでにぎやかな絵に囲まれているのに、心はやはりひぐらし。

彼らは記念撮影をして、手紙とお金をそっとPCデスクに残して行った。
「完璧すぎるんだよ~~」
夜中にノートパソコンをかかえて、帰郷してまで仕事をしていた息子。このお金がどれほど尊いかを知っているから切ない・・。ぶっきらぼうであまりしゃべりもしないくせに・・。

私は、感情のコントロールが下手なんだか上手なんだかわからないけど、泣くことはほとんどないし、感情に浸ることも苦手。去年までは、帰った後はてきぱきと片付けに没頭したけれど、どうも今年はちょっと違う・・やはり年かなあ。
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嵐に向かって走れ!

2007-07-16 22:49:26 | Weblog
 今週の日曜日は礼拝をお休みした。メッセージを楽しみにしてくださっていた方には申し訳ないこと、お許し下さい。


 長男がお腹の大きい妻と5歳の娘を連れて土曜日に帰郷した。彼が嵐の中を帰郷するのはこれで2度目。ハラハラしつつ、結局は家族でいっぱい祈って共に平安を頂いて待つことになる。なぜこういうタイミングになるのかわからないけれど・・・。日もとっぷり暮れ、強まる風雨の中を無事に到着した車の音を聞いた時、本当に嬉しくて飛び出して行って迎えた。

 家族が共に住むことは麗しい事だけど、それには互いに、いくらかの緊張感と尊敬をもっていないと平和には暮らせないんじゃないかなぁと思う。核家族の中で幼い頃から個室を与えられ、我が儘な生活スタイルが当たり前になり、どんどん自己中心になって、その行き着くところは閉じこもりや、家庭崩壊、離婚と言うことなのだろうか、我が儘の実はひとりぽっちかもしれないな・・・。私は近頃のニュースを見ていてそんなことを思ったりしていた。

 昔は大家族で住み、幼い頃より周りへの気遣いを自然に身につけた。母親が舅や姑に気を遣っている姿を身近に見ていたからだろうか・・。人と人がたえず肩ふれあって育つなかで、自然に相手の顔色や空気を見て気遣いつつ、自分がどのように振る舞うべきかを学習していったのだろう。沢山の心遣いの中にこそいっぱいの愛があることを、幼い頃から経験出来たことは幸せなことなのだと思う


 一年ぶりで彼らに会って、次男も兄家族との交わりを楽しみ、機嫌良く細やかによく手伝ってくれた。私は嫁さんに関西弁のレクチャーをしながら、ペチャクチャと積もるおしゃべりをし張り切って食事を準備。主人は孫の手を引いて畑に連れ出し、また遊ばせつつ孫の成長を一々感動している。

嫁さんの大きなお腹にも私たちの期待はふくらむ。孫はお絵かきが大好き、その中の一枚にはお母さんのお腹の中にしっかりと赤ちゃんが描かれていた。一日のバタバタとした大騒ぎも終えて、終い風呂の中でほっとした時、優しい家族を与えて下さった主に心いっぱいの感謝があふれてくる。


「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい。」(マルコ5:19)
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律法から解かれて

2007-07-13 19:23:47 | Weblog
 イエス様の十字架による罪の赦しを受けて、これからは主にあって生きようと決心をした日々。でも、どうあがいても自分の手垢にまみれたものに過ぎない現実の中で、神様をお喜ばせることなど出来ないことを知った。

それは、良い行いをしようとするまでは気が付かなかったことだけど、しようとすると自分の中にあるもろもろのものが沸き上がるように現出てきて、私は本当は自分のやりたいようにしたく、また何もしない者であることに気付かされた。

人を愛そうと思ってもあれやこれやと事情があって思うようにはならない。それに人を常に愛せるわけでもなく、好きな人もいれば嫌いな人もいる。好きな人には少しは親切に出来ても、嫌いな人に対しては嫌わないようにがんばって、できることならふれ合わないように避けているだけで精一杯、これは無視のようなものでまったく愛などではない。

 私の中の「愛」それは自分の身から出たものに対してであり、「喜び、平安」自分の中でのことであり「寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」こうなると全敗。元々私にはないものであり、無いものはどんなにがんばったって出てこない。罪人は自分を愛することで精一杯。だからもめ事があり、共存ではなく競争があり、妬みがあり、争いがあり、戦争をする。罪人とはそう言う者なんだ。その罪人は私。

 信仰を得て律法にうめいた。そこには脱出の道はなく、むしろもっと厳しい自分自身の現実を見ることになって、祈っても、祈っても自分の中からは何も良いものが出てこないと言う現実。罪の力を知るばかり。私はイエス様に出会っても何も変わってはいなかった。

 そんな絶望の中で、イエス様と共に十字架で死んだというみことばの意味を知った!死体なら何も出来ないのは当たり前であり、今此処にいるのは十字架の死を経てよみがえられた主イエス様に生かされている私。この私はキリストのものであり、キリストの力が私を覆って生かされているということ。

 例え、見かけが生まれつきの私のように見えようとも、キリストによって生きる者であり、昔と同じような失敗を繰り返すことがあっても、私は新しく造られた者であり、キリストの力に拠って生きる者とされている、これはみことばの事実。

私は律法から解放され良い行いに対して自由になった。キリストが私の内に律法を全うされる。そのことは、主が計画されて主が備えられたことなので主がさせて下さる。すべては主なる神様の中にあり私ではない。

私は主と何時もいっぱいお話をするけれど、死体のように私のすべての権利を持ってはいない。御真実な主が、良き計画を持ってみこころを私に成就して下さる。今その望みはどんな時にも消えることはない。


私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。(ガラテヤ2:20)

私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。(エペソ2:10)

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