石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

うめきつつ

2007-04-30 11:20:29 | Weblog


イエス様に依存して生きる
でも、私の魂はうめく

人に評価されたとき「せっかくだけど、それは私じゃない。」とうめく
人にそしられたとき「どうせ私はそのような者にすぎない。」とうめく

私の魂は生きようとしてうめく
今日もそんな魂を引きずっている



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イエス様に寄生して

2007-04-27 11:08:59 | Weblog
 私は病人で、何時もイエス様の癒しを必要としているから、イエス様にべったりくっついて生きている。本当に頼りっきり。どんなこともまずイエス様に聞いて、イエス様というフィルターを通してから選択をする。イエス様に祈った結果であれば失敗してもそれで良い。その時は、悪い結果と見えても、それが主の許されたことであるなら、それは平安であり恐れることはない。主の赦しの中にあるのだから。

でも、すべてのことに「主よ。介入してください。」と祈るには、ひとつの覚悟が必要ではある。それは結果が私の思い通りでなくても、感謝をして受け入れること。いや、祈るときすでにすでに手放して祈っているから大丈夫。主はあなどられるようなお方ではないことは少なくとも知っており、だからこそ祈るのだから。もし、私の要求に応じるだけのお方であったなら恐くて頼れない。祈る意味さえない。神様のレベルが私ごとき者と同じということになる。ああ、それは何と恐ろしいこと!

 私以上に私をご存じで、私の必要をもっともご存じのお方。唯一、私の信仰を守っていてくださるお方。また、私の様な者でもその用い方をご存じのお方。私は御手によって造られた者だから。私は主のものだから、主は私をご自身の思いのままに導く権利を持っておられる。だから主にこの身を委ねることによって得る私の大安心。

「私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの手で造られたものです。」(イザヤ64:8)

「陶器師は、粘土で制作中の器を自分の手でこわし、再びそれを陶器師自身の気に入ったほかの器に作り替えた。」(エレミヤ18:4)
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お葬式

2007-04-26 15:08:41 | Weblog
 彼はやりたいことをして、自分で選んだ人に看取られて死んだ。お葬式で彼を褒めた人は、司式中の天理教の祭司だけだった。

 しかし、彼は、私が小学校で必要だった木琴を買ってもらえなくて、木ぎれを拾ってきて叩いているのを見たのだろう、ある日、木琴をプレゼントしてくれた。それはみんな持っているような紐でつないだ上等の物ではなく、釘を打ちつけた物で子どもの目にも安物だと分かったけれど、私は嬉しくて嬉しくて得意満面で学校に持って行った。先生は私の木琴を見ると教壇に持っていって、「買うときには、こんな物を買わないようにしましょう。良くない物です。」と言った。私たちの頃にはこんな教師も居た。私は決して豊かではないのに、買ってきてくれた彼にとても済まないと思った。私自身にとっては、彼とはそんな昔からのつながりがある。彼は義理の叔父であり、あるときは父親代わりだった。

 親族のお葬式という場は、私には自分の肉の姿を見る辛いとき、信仰生活の中の嵐の日となる。でも、その見たくない自分の姿が私の事実であることは、時間と共によりはっきりする。主に対する思いでしてきたことなら、なにをしてもそれはその時限りであり、誰に向かって言い立てることでもなく、すべて主にあって終わっていると、よくよく分かっているはずであるのに、人の言葉や様子に反応して、心の底のヘドロのようにいろんな思い、止めようもないうめきのようなものが吹き出してきて、自分の中ではげしい葛藤が続く・・。そんな時まるで今までの平安なんて、絵に描いた餅のように虚ろになってしまう。

これが本当の私の姿であり、こんなどうしょうもない私のために、イエス様の十字架のがあるのだと、「ハッと」我に返ることができたことは本当に幸い。本当に感謝なこと。一方的なイエス様のお守りを痛感する。幾たびも幾たびも私は世の波間に沈み、ヘドロを飲み、主の差し出された御手にすがって引き上げられる。主に触れられ御前に静まるとき、たちまちすべてのこだわりは消え、洗われ清くされる恵みをいま味わっている。
「主よ。感謝します。」ただ、それだけ・・。
 
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信仰

2007-04-18 18:41:12 | Weblog

 礼拝でイエス様が語られる言葉を聴くことは大きな喜び。
イエス様がどんなに素晴らしいことをしてくださったかを聞く時、心が喜びで弾む。イエス・キリストを共に喜び、分かち合うことは私たちの霊の喜び。

 たとえ小さなことでも、そこに働かれるイエス様のお証を聞くと「主よ感謝します!」と心の中で叫んでしまう。なぜなら、そのとき主のご愛があふれてこぼれてきたように感じるから。

 でも、日常の暮らしの中で色々な場面に痛感するのは、私に信仰はないということ。私は心底疑り深く、愚かで誤魔化されやすく、自己中心で、神様中心の意味さえわかっていない。主のご真実はあまりに純粋で、量り知ることはできない。

 イエス様は天から人となってこの世に来た下さった。そして、唯一完全な人となり、完全な信仰をもって十字架にまで従順された。神様はイエス様をご覧になって、地上に完全な信仰をご覧になった。だから私はイエス様を見よう。ゴミ箱のような私の心を覗いて信仰を探すことなどしないで。ハレルヤ!!主よ感謝します。


「ただ、神様の恵みにより、キリスト・イエスによる購いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」(ローマ3:24)
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日曜日はイエス様のお話を聞く 2007.4.15

2007-04-16 20:17:16 | Weblog

saltさんのメッセージ「私にあるものをあげよう」 (使徒3章)

 使徒の働きには、初代教会の様子がリアルに描き出されています。必ずしも当時の様々な背景を無視して、そのまま真似することをお勧めできませんが、今日の教会も、同じいのち、同じ使命を受け継いでいるのだということを覚えつつ、見ていく必要があると思っています。

 使徒3章は、生まれつき足のきかない男が、ペテロとヨハネによって癒される場面です。この男はいつも宮で憐れみを求めていました。彼はペテロとヨハネに施しを求めました。ペテロとヨハネは、その男をみつめて「私たちを見なさい」と言いました。男は何かもらえると思ってふたりに目を注ぎました。この「私たちを見なさい」ということばは、この施す者と施される者という従来の関係性を変えます。

 普通施す気のない人は施しを求める人と目を合わせないようにして、出来るだけ距離を置いて反対側を足早に通り過ぎてゆくものです。「良きサマリヤ人のたとえ」でも、サマリヤ人以外は反対側を通り過ぎています。

 そして施しを受ける側の興味も、どれだけ施してくれるかと言うことであって、誰が施してくれるかではありません。もともと足のきかない人の視界は、立って歩いている人たちよりも遙かに低いところを見ているものなのです。施しものを入れる器を見てはいても、あまり顔を見上げることは少ないと思います。しかし、「私たちを見なさい」と言われて注目しないわけには行きません。男は何をもらえるのだろうと思って注目します。まさか、「私たちを見なさい」と言っておきながら「はい、さようなら」ということはないでしょうから。

 この「目を注いだ」と翻訳された語は、原語では未完了型ですので、「その時だけぱっと見た」ではなく、「一定の時間じっと見つめていた」のだとわかります。男に注目させて期待させておきながら次のことばがすごいです。

 「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって歩きなさい。」(使徒3:6)

男の求めているものはズバリ金銀です。しかしわざわざ声をかけて注目させておきながら、きっぱりそれはないと宣言しました。しかし、自分たちにあるものをあげようというのです。金銀ではないけれど、これほど自信たっぷりに紹介してくれるものは何だろうと当然期待は高まります。

 そこには、ユダヤ人を恐れて隠れていた弱々しい姿とはかけ離れた、強く雄々しい復活の証人として立つペテロとヨハネの姿があります。ペテロは十字架の場面で、どのような態度だったかを思い出してください。ペテロは姿を隠して様子をうかがいに行き、正体がばれてイエスさまとの関係を追求されたときには、完全に否定しました。

 ところが、ここでは「自分を見なさい」と言っています。主であるイエスを目の前から奪われたとき、すべてを失ったように思えましたが、今は自分が持っているものを上げようと提案しています。確かに金銀はありませんが確かに得たものがあります。
 
 ペテロは手紙の中で次のように語っています。

「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。」(Ⅰペテロ1:3~4)

「ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」(Ⅰペテロ1:18~19)

 ペテロは、自分たちが与った福音のもたらす祝福について知っていました。それは施しものを入れる器にはいるようなものではありませんでした。それは天にたくわえられた莫大な資産であって、とてつもない量であると同時に、金銀よりも遙かに上質のものなのです。そんな目に見えない約束を確信できた根拠はふたつあります。ひとつは、キリストの流された血の意味とその価値を知ったからです。もうひとつはよみがえられたイエスさまに会い、その十字架と復活を経て、自分も新しく生まれ、生きる望みを持つようになったのだと語っています。

 ここで足のきかない人が歩いたことは、福音のもたらす全体からすれば、取るに足りないちょっとした現れにすぎないとさえ言えるのです。ペテロやヨハネの中にも当然そのような認識やバランス感覚がありました。

 勿論、生まれつき足のきかない人が歩き出すことはすごいことです。通常は骨折でもして一ヶ月歩かなければ、筋肉が落ちて足の機能は低下してしまいます。リハビリなしで、躍り上がってまっすぐに立ち、歩き出すと言うことなどは不可能です。ましてや生まれつき歩いた経験のない人です。筋肉はおろか骨だって未成熟で、歩けるわけがないのです。人々が驚いたのは当然です。それでも、驚くべきことは、この生まれつき足のきかない人が歩けるようになったという奇跡ではなく、この後に語るペテロのメッセージの内容についてです。

ペテロはこう言っています。

「イスラエル人たち。なぜこのことに驚いているのですか。なぜ、私たちが自分の力とか信仰深さとかによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。」(使徒3:12)

普通は驚くに決まっていることについて、ペテロは驚くなと言っています。それが驚くべき事ではないからではなく、もっと驚くべきことは別にあるからです。ペテロは自分たちが奇跡を起こせばどのようになるか予想はしていました。自分たちを注目するまなざしの置くに、さらなる奇跡や力を求める宗教的渇望や野心があるのを即座に見て取り、きっぱり否定したのです。この奇跡は、決して信じる者の力や信仰深さによるものではないのだとペテロは言いました。これは、何と重要な宣言でしょうか。今日、しるしや不思議を行ったり、それをもてはやす人たちは、この時のペテロとは全く正反対の事を言っています。ポイントは何のための誰のためのあかしなのか、どこにその栄光があるのかということです。

「アブラハム、イサク、ヤコブの神は、そのしもべイエスに栄光をお与えになりました。」(使徒3:13)とペテロは語っています。そうです。神は、ご自分の選んだ、ご自分のただひとりの「しもべ」イエスにすべての栄光をお与えになりました。この方の栄光を誰も横取りすることは出来ません。このしもべということばは、原語ではパイスといいまして、イザヤが繰り返し語ったしもべにも同じ言葉が使われています。これは、イエスこそ、預言者達が待ち望みつつ語ってきた約束のメシアなのだと言っているのです。

そしてパイスという語は、欄外にもあるように「子」と訳せます、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」(マタイ3:17)これが父の証でした。ぶどう園の例えでもあったように、「わたしの息子なら、敬ってくれるだろう」(マタイ21:37)と期待をこめて送った最後の使者でした。

 さらに、この方を「きよい、正しい方」(使徒2:14)として、紹介しています。この「きよい」と訳されている原語ハギオスは、カペナウムで追い出される悪霊が、イエスさまに対して「あなたは神の聖者です」(マルコ1:24、ルカ4:34)と言う場面で使われています。ここで、悪霊は「ナザレ人イエスはメシヤである」と認めています。面白いですね。認識と信仰は別なのです。

 もうひとつの表現として、「いのちの君」(使徒2:15)があります。このアルケーゴスということばには、欄外にもあるように「源」という意味があります。「創始者」よも訳され、ヘブル人への手紙の記者も特徴的に使っています。
「救いの創始者」(ヘブル2:10)「信仰の創始者」(ヘブル12:2)など極めて重要な聖句の中で用いられています。

 ペテロは自分たちの癒しの力に集まった注目を、イエスさまに向けようと話を続けます。ペテロはアブラハム、イサク、ヤコブから始まって、モーセやサムエルの例を出しながら、イエスさまの登場と十字架、復活が預言の成就であると同時に、人知をはるかに越えた神の計画と予知に基づいたものであることを伝えています。

 そして、イエスを受け入れることは、これまでの人生の延長にはなく、全く新しい始まりであることを強調しています。イエスを信じることは、「罪をぬぐいさっていただくために、悔い改めて神に立ち返ること」(使徒3:19)であり、「邪悪な生活から立ち返ること」(使徒3:26)なのだといっています。

そして、このメッセージを伝えるペテロ自身が、福音書のペテロとは全く別の次元にいるのがわかります。ペテロは「あなた方の信仰と希望は神にかかっている」(Ⅰペテロ1:21)と言っていますが、ペテロ自身が信仰のベースを自分自身ではなくイエスに置き換えたがゆえのことばです。

 最後にもう一度「私にないもの」と「私にあるもの」について考えてみます。お金がない、才能がない、時間がない、健康がない。いろいろ「ないもの」を数えてみればキリがないでしょう。何もかもそろっていて、「もれなくそろっていることに満足している人」なんていません。逆に相対的に見て満たされているように見える人ほど自分に対する評価が低く、人生への不満が大きかったりします。

この生まれながらに足のきかない人は、金銀を求めましたが、彼が求めなかった歩ける足を得ました。「神は彼の求めたものではなく彼にとって必要な物をお与えになったのだ」と書く信仰書もあります。こういう落とし方は人の宗教心を煽ります。しかし、本当にそうでしょうか。彼にとって一番必要なものは、歩けるようになることではありません。イエスさまを知ることです。

イエスさまとの出会いによって、病気や怪我が癒される人もいれば、そのままの人もいます。それは、その「人の力や信仰深さとは関係がない」のです。癒されることも、癒されないことも、すべてはイエスの御手の中にあります。癒しを中心に据え、癒す人や癒される人の力と信仰深さに結びつけるのは、全く聖書的ではありません。

御名を信じた人たちが持っているものは、癒したり癒されたりするよりも大きなものです。クリスチャンはすでに持っているものの価値をあまりにも少ししか知らないので、あたかも持っていないかのように、足りないかのように、訴えるのです。私たちは誰かに連れて行ってもらって美しの門にすわるべき存在ですか。違うでしょう。私たちもペテロやヨハネと同じく復活の証人なのです。

 福音とは、決して自分の何かが改良、改善されることではありません。十字架によって全ての罪が購われ、よみがえりのイエスさまに出会い、そのご人格に触れ、愛の中にとどまり、交わりの中にいることです。

 「だれでも行き過ぎをして、キリストの教えのうちにとどまらない者は、神を持っていません。その教えのうちにとどまっている者は、御父をも御子をも持っています。」(Ⅱヨハネ9)
私たちが持っているものは、御父であり、御子です。

 ペテロやヨハネの大胆さはここに根拠があったのだと覚えてください。私たちは何を持っていませんか。ほとんど何も持っていません。持っていなくても結構。それでよいのです。私たちは何を持っていますか。主です。このことを知っていれば、必要な物は少しずつ与えられます。

しかしながら、すでに持っているものの価値に気が付かず、道ばたで物ごいするようなクリスチャンでいるなら、その日暮らしのそれなりの恵みにありつくだけです。ペテロやヨハネのように、主にあってもっと大胆にこの世をねり歩きたいものです。私たちが与えられている良き知らせは、それほど価値のあるメッセージなのです。
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春を食べる

2007-04-12 19:52:29 | Weblog

主人が「タラの芽」を取ってきてくれた。先日から私が毎日のように「まだ?」「まだ?」と待っていたもの。天ぷらにするととても美味しい。これを食べないと春を味わえない!わざわざ山に登って取ってきてくれた。

揚げていると、「隣にも持っていってあげたら・・」と主人が言う。こういうことに気が付くのは主人の方。私は駄目いい年をして本当に疎い。「なるほど」と、5,6本あったものを全部揚げて半分持っていく。ご主人がとても嬉しいそうに「おおきに!」と言いながら、お酒を飲む手つきをされた。酒の肴が増えたということなのだろう。

夕食は、スーパーで買ってきた刺身と、竹の子の煮物。これはお隣のご主人に連れて行って頂いて、主人が掘ってきたもの。堀立をゆっくり茹でたのでとても美味い!そして、自家製の干し椎茸の煮染め。

「ビ-ルを飲もうか」主人の言葉に、久しぶりに350mlの缶ビールをふたりで飲む。「美味しいなあ。『春は畔に味噌塗って食べる。』おお婆さんが、よく言うてたなあ。」そんなことをしゃべりながらのんびりと食事をした。穏やかな時間の中で、神さまが備えてくださった食べ物、そんな贅沢を満喫した。
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日曜日はイエス様のお話を聞く 2007.4.8

2007-04-11 13:45:50 | Weblog

saltさんのメッセージ「子どもたちのために」(進級お祝い特別メッセージ)

ゲームをやりましょう。
1.ここにたくさんのコップを用意しました。中にはそれぞれ同じくらいの量の液体(水のようなもの)が入っています。ただしコップには、いろんな「ことば」が書いてあります。
2.私とジャンケンをして勝った人から、ひとつ選んでそれを飲み干してもらいます。
3.飲む前にひとこと質問してもよろしい。

上流の水
下流の水
ダムの水
井戸の水
海の水
四万十川の水
大和川の水
水たまりの水
南アルプスの天然水
おしっこ入りの水
HcI
飲むと賢くなる魔法の水
飲むと痩せる奇跡の水

実はすべてのコップの中には同じ水が入っているし、みんなも多分そうだろうなと思いながらも、おかしなことが書いてあるコップの水をのむのは抵抗があったはずです。私は何を聞かれても「大丈夫だよ」と答えました。

このゲームにはいくつかの意味があります。
まずひとつは、内容に関係がなく、それに貼り付けられたことばに結果が左右されたり、影響されたりしやすいということです。

ことばに左右されず、つまり騙されないで判断する力を持つことが大事なのですが、それはとても難しいことです。これは、コップにことばが書いてあるだけの簡単な場面設定ですが、みなさんが毎日出会う問題は、もっと複雑でややこしいものばかりですね。
さらにもう一つの大きな問題は、「知識が増せば人はよけいに迷う」ということです。文字が読めなければ、また文字が読めてもその意味がわからなければ、「これは飲んでも大丈夫」という信頼できる人のことばは、簡単に信頼できるからです。

ですから何も知らない小さな子どもが、何でも信じて受け入れるのと、あらゆることをわきまえた大人が、それでもあらゆるものの中から信頼すべきものを選ぶのとでは、結果は同じでも価値は違います。

 創世記3章で、人が初めて罪を犯す場面は、私たちに色々なことを教えます。サタンがコップに貼り付けるレッテルと、目に見えない神のことばに信頼するのとでは、どうでしょうか。
さきほどはみんなに飲んでもらうために安全なものを用意しましたが、サタンはすばらしいと見せかけて、口にしてはならなかった木の実を食べさせたのです。


「みなさんは勉強が好きですか。嫌いですか。」

「なぜ、好きですか。なぜ、嫌いですか。」

何のために勉強をするのかわからなければ、つまらないし、長続きはしません。親や先生に叱られるから、褒められるから、という動機だと、親や先生が褒めたり叱ったりしてしなくなれば止めてしまいます。

テストや通知票のためだと、テストや通知票がなくなればやめてしまいます。良い学校にはいるためだと、学校に入ってしまえば勉強しなくなります。そういう歪んだ動機、間違った考えで勉強しているので、勉強がつまらないのです。

 学校は勉強をするところです。勉強が嫌いだとどうしょうもない。辛いです。解決法は、勉強を、教科書や先生やテストとは切り離して考えることです。そして、勉強そのものの内容が面白いとわかるまで、しっかり勉強することです。これは本人の努力にかかっています。
おいしい食べ物がおいしいように、勉強は面白いのです。
勿論、食べ物にも好き嫌いがあるように、勉強にも好き嫌いがあるでしょうが、それは、自分の嫌いな教科がまずいのではないし、役に立たないのでもないのです。


勉強するのは、神さまが作られた世界の秩序や法則を学ぶためです。そのみことばの価値を正しく知り味わうためです。
ヨハネやペテロは「無学な普通の人」でしたが、それは学校の勉強はそれなりだったという意味ですが、彼らは漁師でしたから、生活や仕事の体験を通して自然の法則を学んでいました。そういう体験も立派な勉強です。そのような体験的な知識は机の上で学ぶものより遙かに大事です。
しかし、それで十分ではないのです。やはり彼らは「無学な普通の人」です。彼らにもし、さらに進んだ学問の知識があれば、その体験はいっそう深いものとなったのです。


本当に勉強した人の特徴をいくつか教えましょう。
1. 自分はまだ十分に知らないことを知っている。
2. 価値を相対化できる。正しい比べ方ができる。バランス感覚がよい。
3. 神さまを愛し、弱い人、小さなものを決して軽んじない。

最後に、人間にとって一番大切なことは自由であることです。自分できちんと選ぶことです。誰かのために、誰かのせいで、何かを選んでやらされている人は最低だし、決して幸せではありません。

みんながもし、イエスさまなんか嫌いなら、無理して教会に来る必要はありません。

誰かに強いられた人生を送っている人の特徴を言いましょう。その人は必ず、自分がうまくいかないことを誰か他の人のせいにします。

みなさんのこれからの毎日が祝福されたものとなりますように。
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「無学な普通の人」

2007-04-10 14:39:30 | Weblog

聖書では、弟子たちが「無学な普通の人」であると書かれているけれど、それって現代ではどういう人なのかなあ・・「普通」の基準ってなにだろう・・。
小学校、中学校は義務教育だから普通。高等学校は普通以上なのかな・・高等だから普通ではない?でも今や日本では普通でしょう。

では、大学を出ていることは普通以上なのだろうか?普通以上なのだろうなあ。でも、普通以上の教育を受けているということが、普通以上の人格を有しているということではない。このレベルでは普通以下である人がわんさか居る。

人格のレベル?この基準は難しい。学問が人格のレベルを上げるとは私はあまり信じられない。けれど私は子どもに出来る限りの学問を受けさせようと懸命になった。それは彼らが「無学な普通の人」じゃなくなるためではない。

彼らの中に、神様が備えてくださったであろう、生きるための手段としての能力を引き出すための学問を求めた。この世で与えられたいのちを生きるために、神さまが備えてくださっている能力を発見するために求めた。それは掘り起こすものだと思うから。

合格しやすい学校を受験するのではなく、その当時人気のある職場に近づくためでもなく、ひとり一人に神さまが与えられた生きる力、この世で生きる手段を発見するために教育はあると思うから。でも、その高等教育を受けても、それで普通以上になるわけではないと思う。その能力を用い続けていくときに、いつか知らず知らずにその道で「有学な普通以上の人」になっているのだろうなあ。

でも、それは「その道」であって、「無学な部分」が大半なのではないかなあ・・。それは生きて行くにはそれでそんなに困らないだろう。むしろ「無学な部分」がある方が何時までも学ぶ、知る楽しみが残るから、感動することができて楽しいのだろう。

また、自分が知らないことを教わるとき、尊敬することを学び、謙遜を学ぶことができる。このことと人格とは関係がありそうだと思う。
死ぬまで無学な部分があることは楽しそうだ。それは新しい出会いがありそうだから・・。
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家族

2007-04-04 23:06:11 | Weblog

 先日、NHKテレビで中国の激しい貧富の差を見た。3000万円のマンションに住む人と、150円の子供の運動靴が買えない人。

親は出稼ぎに行き、1年に一度しか戻ってこない。子供達が貧しい小学校の寮で、暖房もなく薄い汚れた布団に身を寄せ合って眠る。少女は「一生懸命に頑張って勉強をする。パパ、ママにはもうこれ以上苦労をして欲しくない。・・」作文の途中で泣き伏してしまった。他の子供達も目に涙を浮かべる、彼らはわずか7歳!

金は金持ちの間を回って膨れあがって行き、物価は高騰していく。唯一の望みは家族の誰かに教育を受けさせて這い上がること。しかし、高等学校さえも、値上がりする学費に家族全員が苦闘する。兄嫁までもが手の中の幼い子供を親に預けて、成績の良い妹の学費稼ぎのために出稼ぎに行かなければならない。その兄嫁の手を握って涙を流す妹の心中を思うととても切ない。そんな出稼ぎも、年に1度の里帰りに子供の好きなおもちゃさえ、高くて手が出ず買って上げることができない夫婦。


 この放送から数日が経った。けれども私の中では、悲しみがちっとも薄まっていかない。しかし、今日ふっと気づいた。彼らは大丈夫だ。彼らの方が大丈夫だ。なぜなら彼らには家族がある。強い強い絆で愛し合い、互いに涙を流しあっている。例え物理的には共に居る時間がわずかであっても、分け合える物がどんなにわずかであっても、そこにはすべてを補う家族の愛が濃厚に流れて続けている。

いつも共に居て、すべての物が何不足なく整っていても、互いの心が遠く離れてばらばらであれば、それは、どのようにして埋めればよいのか、どうすれば近づくことが出来るのか、そのほうがどれほど寂しいことだろう・・その方がずっと深刻かもしれないではないか・・・。
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日曜日はイエス様のお話を聞く 2007.4.1

2007-04-02 19:28:18 | Weblog

saltさんのメッセージ「ペンテコステ」 (使徒の働き2章)

五旬節は、「仮庵の祭」「過越の祭」とともに三つの大きな祭りの一つです。
この五旬節は、「七週の祭り」(出エジプト34:22)とも、「初穂の日」とも呼ばれていますが、過越しから50日目ということで、50日目の祭りを意味するギリシャ語によってペンテコステと呼ばれて、よく知られています。

 「五旬節の日」(使徒2:1)と書いてあるように、「仮庵の祭」や「過越の祭」が一週間続いたのに対して、ペンテコステは一日限りのお祝いでした。
そこで起こった出来事は、
「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待っていた」ことの約束でした。それはイエスが語られたとおり、「水によるバプテスマではなく、聖霊のバプテスマを受けたのです。(使徒1:4~5)

 この聖霊のバプテスマがどのようなかたちで成就したのかを確かめておきましよう。まず、それはみなが一つところに集まっているときに起こりました。つまり、それは個人的体験であると同時に、集団的体験であったということです。そして、多くの人が同時に、風による大きな響きを聞き、振動を感じ、炎のような舌を見たのです。それは、周辺にいたすべての人が感じるような不思議な自然現象を伴っていました。

 さらに、何より大きな意味を持っているのは、ガリラヤ出身の無学な普通の人たちが、習得したことのない世界各地のことばで、神の大きなみわざを語ったということです。聖霊のバプテスマや異言について考えるとき、この3点のポイントをきちんとおさえておくことが、非常に重要な意味を持ちます。

ペンテコステは教会の誕生日であると言われます。ユダの抜けた使徒の欠員を補充し、弟子たちはイエスさまの約束を待ちました。そして、改めて復活の証人としての召しを受けたわけです。パウロはその召しについてエペソ人への手紙の中で次のように語っています。
「主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ」(エペソ4:5)それは、頭であるキリストとからだなる教会が目に見えて合体した瞬間でもあったわけです。聖霊のバプテスマは、個人的な体験である前に集団的な体験であり、私という個人の心の満たしである前に、キリストの証人として働きのために受けた力の現れなのです。

 聖霊降臨は、奉仕につくための機能的な満たしです。
「それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」(エペソ4:12~13)
それぞれ働きの違いは、「キリストの賜物の量りに従って与えられた恵み」(エペソ4:7)のさじ加減であり、教会の中に優劣や階層を生み出すためのものではありません。

 私たちにとってのまことの大祭司はイエスさまです。この御方が私たちのかしらであり、この方に油が注がれました。メシアとは「油注がれた者」の意味でしたね。
詩篇133編でダビデはこう歌っています。 

「見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。それは頭の上にそそがれたとうとい油のようだ。それはひげに、アロンのひげに流れてその衣のえりにまで流れしたたる。それはまたシオンの山々におりるヘルモンの露にも似ている。主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。」(詩篇133編)

 私たちの中の誰か特別な人の頭に油が注がれるのではありません。頭なるキリストに注がれた油が、ひとつのからだにバプテスマされた兄弟姉妹に流れしたたるのです。この比喩は素晴らしいと思います。

 去年の暮れに仕事で愛媛県に行きました。松山市が研修の拠点だったでしたが、初日の夜に関連行事のある西条市に足を伸ばしました。西条市は日本でも有数の美味しい水が流れる町です。「うちぬき」と呼ばれるわき水を町のあちこちで飲むことができるのです。どうしてそういうおいしい水が出るかというと、四国最高峰の石鎚山の雪溶け水が豊かにあるからだそうです。

 この詩篇133編にもヘルモン山が出てきます。私はかってヘルモン山の麓の町ピリポ・カイザリヤにも行きましたが、同じように水の豊かなところでした。死海のほとりとは全く違う水と緑が豊かなところでした。その町は、ペテロが初めて信仰告白をした町であり、此処でイエスさまは教会について言及されたのでした。

 南アルプスの天然水のCMでも「山の神さまがくれた水」というコピーがありますね。雪解け水の清らかさは、信仰のない人たちにとって特別なものなのですね。クリスチャンは、その被造物に込められた神さまの思いをさらに深く感じることができます。生ける水の川にたとえられる聖霊は、罪を覆うようにして降った真っ白な雪が降ったとけた美しい水だと思うと、本当に素晴らしいですね。求めるものは誰でもそれをただで飲むことができます。

「『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。』これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。」(ヨハネ7:37~39)
こうしてみると、イエスさまはかなり早い時期から、このことを預言してくださっていたことがわかります。

 次にペンテコステの日は、すべて人が感じることができる自然現象が伴っていたことについて見ましょう。イエスさまの誕生の場合、母マリヤは聖霊によってみごもられたのですが、聖霊が目に見えて宿るところは誰も見ていません。

ヨセフが聖霊が鳩のように降りてきてマリヤのからだの中に入っていくのを見ていたとしたら、どれだけ気が楽だったことでしょう。しかし、そんなしるしはありませんでした。マリヤもヨセフもしるしを伴わないみことばを信じる以外、方法はなかったのです。

さらに、もうひとつ。イエスさまは常に聖霊に満たされておられ、聖霊の導きの中で生きておられました。そうであるにもかかわらず、公の生涯に入られる前に聖霊を受けられました。
 このように内なるいのちとしての聖霊と、召しのために注がれる聖霊との区別があることに気づかれるはずです。

 バプテスマのヨハネの証言はこうです。
「御霊が鳩のように天から下って、この方の上にとどまられるのを私は見ました。私もこの方を知りませんでした。しかし、水でバプテスマを授けさせるために私を遣わされた方が、私に言われました。『聖霊がある方の上に下って、その上にとどまられるのがあなたに見えたなら、その方こそ、聖霊によってバプテスマを授ける方である。』私はそれを見たのです。それで、この方が神の子であると証言しているのです。」(ヨハネ1:32~34)

「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」という天からの声も聞こえました。イエスさまの場合も、任職の際には、視覚と聴覚によって聖霊の降臨を確認できたわけです。

 弟子たちの場合は、内住の聖霊を得たのは、よみがえりの後、イエスさまに息を吹きかけられて、「聖霊を受けなさい」と言われた場面です。(ヨハネ20:22)そして、五旬節において、召しのために注がれる聖霊を受けるのです。

 最後に、聖霊のバプテスマを受けた結果ですが、弟子たちがみな異言で語り出したということです。それは、意味の分からないことばではなく、はっきり意味のある異言でした。そして、その内容は、神のみわざについてでした。

 バベルの呪いによって、人々の言葉の混乱し、国や使う言葉が変われば、意味や内容が通じなくなりました。しかし、いのちのことばであるイエス・キリストによって、その呪いが解かれた瞬間でもあったわけです。

 さて、この使徒2章全体の中で、聖霊を表すことばと、イエスさまを表すことばがそれぞれどれだけ出てきたかを確認してみても良いでしょう。
聖霊、御霊、わたしの霊という表現も沢山ありますが、同時にイエスさまを表す「この方」「あなたの聖者」「彼の子孫のひとり」「主ともキリストともされたこのイエス」などの表現も、それ以上にたくさんあります。聖霊は、イエスを証する霊であって、その人格は控えめな助け主です。聖霊を人格のないパワーのように考えているのはとんでもない間違いです。

 異言についての教えは、コリント人への手紙にあるだけです。しかし、その中で、パウロだけがこれだけ詳細にわたって注意を促しているということは、当時、コリントの教会だけでなく、多くの初代教会の中に、異言の賜物は豊かに存在したということを意味しています。異言を語る様子は、周囲から見ると「酒に酔っている」かのように思えるほどでした。

それは異言を語る個人にとても「感情の満たし」に関して強い効果を持っていました。そのようなわけで、コリントの人たちはコントロールを失ったわけです。今日もこの異言をめぐってはさまざまなことが語られ、誤った教理が大きく伝えられています。

 パウロはこの箇所で、非常にすっきりと異言とはどのようなもので、いかに取り扱うべきかを語っています。

異言には人の異言と御使いの異言があります。(Ⅰコリント13:1)異言とは霊によって奥義を話すことです。さらに異言を語ることと解き明かすことは別の賜物として語られています。(Ⅰコリント14:13)異言は解き明かしをしなければ、自分の徳は高められても、教会の徳は高められません。(Ⅰコリント14:4~6)パウロは誰よりも異言を語ったし、異言そのものを禁じるべきではありません。(Ⅰコリント14:18,39)
ただし、集会の場面では、解き明かす人がいる場合に限り、3人以内の人が順番に話すべきです。解き明かせない場合は個人的な祈りに用いるべきです。(Ⅰコリント14:27~28)

 教会の中では異言で1万語話すより、ほかの人を教える5つのことばの方が高い評価を持っているというのを、相対的な基準として考えてください。簡単な算数です。異言は知性による預言の2000分の1の価値しかないと言うことです。(Ⅰコリント14:19)異言は不信者のためのしるしです。(Ⅰコリント14:21~22)「人々はみな驚き惑って互いに『これはいったいどうしたことか』と言った。」(使徒2:12)と書いてあります。天下のあらゆる国から、里帰りしていたユダヤ人たちが、それぞれ自分の国ことばで神のみわざについて聞きました。そして、やがてユダヤ人が拒んだ救いが異邦人に及んでいきます。(イザヤ28:11~12)

 後半の記事を見ると、救われた人たちは、自然にひとつの共同体を作っているのが分かります。(使徒2:43~47)それが自然ないのちの流れでした。大事なことは、民に好意を持たれ、毎日人が救われていたということです。その集まりは信者だけがこの世から隔離されたようなものではありませんでした。常に周囲の世界と接触を持ち、生き生きと活動していたのです。今日、同じようなライフスタイルと求めても混乱しか起こりません。自然ないのちの流れの中で主に委ねた結果であればどのようなかたちであっても安心です。喜びと真心を持って交わることが活動のベースです。
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