石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

わたしがあなたがたを選び・・

2007-03-30 19:02:36 | Weblog

「・・・マリヤはイエスといっしょにいた人たちが嘆き悲しんで泣いているところに行き、そのことを知らせた。ところが、彼らは、イエスが生きておられ、お姿をよく見た、と聞いても、それを信じようとはしなかった。」(マルコ16:10)

「その後、彼らのうちのふたりがいなかのほうへ歩いていたおりに、イエスは別の姿でご自分を現わされた。そこでこのふたりも、残りの人たちのところへ行ってこれを知らせたが、彼らはふたりの話も信じなかった。」(16:12)

イエス様とずっと一緒に居て、沢山の奇跡も体験している弟子たち。彼らは、イエス様からあらかじめこれから起こるすべてのことを聞いていた。

「人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは、人の子を死刑に定め、そして、異邦人に引き渡します。すると彼らはあざけり、つばきをかけ、むち打ち、ついに殺します。しかし、人の子は三日の後に、よみがえります。」(マルコ10:33)

「 しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます。」(マルコ14:28)

こんなにはっきり語っておられる。それでも弟子たちは、死んだイエス様が生き返られた事実を、聞いただけでは信じることができなかった。
だったらなおさらのこと、今の世が聖書を信じられないのは当たり前。

聖書に書かれていることをそのままに、イエス様のよみがえりを文字通り信じる者は、イエス様がその人の内に現れてくださったからだと思う。

マリヤに現れてくださったように、クレオパに現れてくださったように、信じないトマスに手の釘の痕を見せてくださったように、信じられるようにどこまでも助けてくださったからだと思う。

それはやはり特別な恵み、なんてすばらしいことだろう。


「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」(マルコ16:17)
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彼らは眠っていた

2007-03-29 23:09:59 | Weblog

イエス様が十字架に向かわれる危急の時。「目を覚まして祈っていなさい」と言われても、弟子たちはひどく眠けがさして起きていられず眠ってしまった。

イエス様が血のような汗をしたたらせ、恐ろしさのあまり身もだえして祈っておられるときに、起こされても、起こされても眠りこけてしまう弟子たち。

「彼らはイエスにどう言っていいかわからなかった。」
この言葉が身に浸みる。

私も眠りこけてしまった経験がある。祈りが大切なときに、とても必要なときに、イエス様にちゃんとお話ししないと・・・しかし、疲れ果てて祈ることもできずに、身を投げ出してただ眠りこけてしまった。
 

直前に弟子たちはこう言っている。
「ペテロは力を込めて言い張った。『たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。』みなの者もそう言った。」

この言葉は嘘だった。彼らはイエス様を裏切った。
私も嘘を祈ったことがある。いったい私の祈りがどれほど真実なのだろう・・。

私に何の良いところがあるのか・・。しかし、イエス様は十字架を選び取ってくださった。私のすべてをご存じだから、赦しのための十字架を負って下さった。
おひとりで・・。

ぜんぶイエス様がしてくださった。こんな私に十字架の血は滴り・・私は十字架の下で安息する。
「主よ。感謝します」

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私の中のマリヤとマルタ

2007-03-28 22:29:21 | Weblog

十字架にこれから向かわれるイエス様に、マリヤが香油を捧げたとき弟子たちは「むだ」と言った。いのちの主に捧げるささげものを「むだ」というとは「なんということ!」と思ったけれど、よく考えてみると私の中にも同じような考え方がある。いのちを頂いた御方を知るみことばの時間が、時には時間を失ってしまったように感じることがある。

主を知りたいとみことばを開くと、ついつい1、2時間は経ってしまう。洗濯も掃除も遅くなるそれは当然のこと。でも、それはイエス様にひざまずいてみことばを聴いたマリヤの選択、最善を選んだということ。なのに心の何処かでなにか咎めるものがあったならそれは違うはず・・。

新しくされるということは主のわざ。主は私に新しいいのちをくださって、そのいのちに従って生きることを導いてくださる。けれども、私の中の古い生き方、習慣が根強くあって、イエス様を第一にするには、価値観をガラッと変える必要がある。そして、そこに安息する必要がある。私の中のマルタにも、主は「今は良い方を選んだのです」と語ってくださるのだから、主のお言葉に安息しよう。それはいつか新しいいのちの習慣になるだろう・・

「しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。・・」
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今日は・・・

2007-03-27 23:56:14 | Weblog

主人と一緒にスーパーでお魚を買ってきて、今夜は焼き魚と大根と豚肉の煮物、絹ごし豆腐をカラット揚げて生姜醤油浸しに味噌汁。そして、主人が昨日一握り摘んできたわさびの花。熱湯を一瞬ぶっかけて(これは本当にバサッとぶっかけないと駄目)瓶に一晩詰めて置くと、思いっきりピリッとしたわさび漬けになる。主人の好物。我が家の春の味。ほんの一口というところがちょうど良い。

あれやこれやと、どうでも良いようなことを話しながらのささやかな食事の後、主人はぽつんと「ほんまに結構やなあ。もうこれ以上なんにも望むことはないなあ・・」と言う。「私もほんまにそう思うわ。何処かで何かがあったら、それだけでこうはしてられないね。のんびりとマイペースで、好きなようにしていられるのは一番ありがたい老後やね。嫌なことはしなくても良いし、やりたいことは出来るし、何を食べても美味しいし・・感謝やね」「ああ、感謝やな」

おめでたいような会話だけど、我が家では大真面目に時々こんな会話を交わす。その時はふたりで心から感動する。主人とこのように一緒に感動できることが私の何よりの幸せ。

これから年を取るばかり・・先のことは分からない。主人もその事は知っている。私もその事は知っている。でも、本気でそのことをその時忘れている。いや、煩っていない。今日までのイエス様を知っているから・・。


「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」
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日曜日はイエス様のお話を聞く 2007.3.25

2007-03-26 22:30:43 | Weblog
saltさんのメッセージ 「復活の証人」 (使徒の働き1章)

「使徒の働き」は、ルカの福音書の続編として、異邦人の医者ルカによって書かれたものです。イエスさまの死後ちょうど30年ぐらい経った頃のことです。イエスさまの死によって全てが終わってしまったかのようにみえたのですが、福音はわずかな時間で当時のローマ帝国を揺るがすほどの、大きな力を持って広がっていきます。その結果、クリスチャン達は皇帝ネロによる激しい迫害にあうのですが、ルカはその事にはいっさい触れていません。このことから、使徒の働きのおよその執筆年代を割り出すことができるわけです。

 ルカはテオピロというローマ人に正しい書物を伝達するために「ルカの福音書」と「使徒の働き」というふたつの書物を書きました。それぞれの冒頭の部分を見れば、ルカの執筆の動機がはっきり書かれています。(ルカ1:1~4,使徒1:1~2)福音書の続編でもある使徒の働きは、教会の誕生から始まり、初代教会の様子が生き生きと描かれています。前半はペテロ、後半はパウロの記事が多くを占めますが、それらはすべて聖霊の働きであり、地上でからだを失ったイエスが、「からだである教会」をコントロールして自由に働かれた記録です。福音書にはイエスさまがいますが、使徒の働きにはイエスさまはでてきません。しかし、それはかたちは違っても「イエスさまの記録」です。これは非常に重要な認識です。

 ルカはそのことを印象づけるために、使徒の働きの冒頭できちんと断っています。「前の書」すなわち「ルカの福音書の記事」は、「イエスさまが行い始め、教え始められたこと」(使徒1:1)だと言っています。つまり、イエスの活動も教えも十字架と復活で終わったのではなく、継続しているのだと言っているのです。ルカの教えを素直に受け止めれば、「まだ続きがある」というより、「これからが本当の始まりなのだ」と言わんばかりの書き出しになっているのが確認できます。使徒の働きの一番終わりの部分を見ても、まるで終わったと言う印象を受けません。(使徒28:25~30)

 この箇所を見れば、異邦人の医者であるルカが自分の使命をどのように考えていたかがわかります。福音がユダヤ人だけでなく、異邦人へ、全世界へと広がってゆく過渡期に、律法の知識や創造主に対する知識が乏しい人たちに、客観的に読んで検証するに足りる資料を提供する必要があるとルカは考えていたのです。福音書と使徒の働きの前半は綿密な取材をもとに、使徒の働きの後半は自らがパウロに同行して実際に見聞きした内容をまとめたものです。繰り返しますがルカは医者です。人が死んだら生き返らないことは、誰よりも良く知ってます。ルカは常識では有り得ないことが起こったので、さまざまな噂や教えで混乱する中で、正確な情報を集めたのです。

ルカはパウロの伝道旅行に同行したことがどうして分かるかというと、パウロの書いた手紙の挨拶の中に何度かルカの名前が出てくるのです。パウロは愛する医者としてルカを紹介しています。さらに「使徒の働き」では、前半は弟子たちのことを「彼ら」と表記していますが、途中から「私たち」に変化します。
 具体的に働いたのが「彼ら」であろうが「私たち」であろうが、それはイエスの働きです。同じ聖霊の力です。ルカはその事を良く知っていたはずです。
 教会を通してなされる聖霊によるイエスの働きは、そのいのちの流れを受け継いで、今日に至るまで脈々と続いているのです。

 ですから、私たちが今再び、この使徒の働きを学ぶとき、「本来クリスチャンはこうあるべき」「このようであるはず」という外側からかせをはめるような読み方をしがちですが、そうではなくて、同じいのちが私たちの内にあるという事実が感じることができるように願うべきです。そしてそのことに驚き、大いに喜ぶことです。そして、私たちさえそのいのちに完全に委ねるなら、主は「今この終わりのときにしようとしておられることをされるのだ」と信じることです。私たちは主からはなれて何事もなすことは出来ません。ですから、主がして下さることをただみことばの約束に期待してとどまるのです。

 その点では、当時の弟子たちも私たちと全く同じです。ルカは
「イエスさまは、40日にもわたって繰り返し弟子たちの前に現れ、ご自分が間違いなくよみがえって生きて居られる証拠を示された」と書いています。(使徒1:3)
使徒の働きはすべてイエスさまの復活が前提になっています。復活が単なる希望を正当化するための教えにすぎないのなら、この後の記録はないはずなのです。復活の事実を確認できなければ、確信できなければ、ローマ帝国を相手にした福音伝道などできるはずがなかったのです。

組織もなく、力もなく、学問もない、ないないずくしの集団です。使徒たちはそれこそ、イエスの使徒であると言う以外何もない人たちでした。その使徒という資格も、世間的には全く通用しない、ユダヤ教ナザレ派とでも呼ばれていた少数の異端者の集まりです。ユダヤ人にも異邦人にも何の権威もありませんでした。そういう状況だったということをよく知っておくべきです。

 イエスさまの命令は、「エルサレムに留まって約束を待て」ということでした。その内容は、聖霊が臨まれると、力を受けるということ、そして、証人になるということです。逆に言えば、聖霊が臨まれない限り、私たちは証人ではないと言うことです。(使徒1:7~8)
 証人と言うことについて考えてみたいのですが、復活の場面でも、昇天の場面でも、主の側にはちゃんと御使いをふたり用意されています。御使いひとりでは能力不足ということではありません。全てのことは、ふたりの証人によって確認されなければならないからです。(ルカ24:4)(使徒1:10)証人となると言うことは、それほど大事なことなのです。間違いのない事実としてきちんと確認された事柄が、こうして伝えられてきたわけです。(マタイ26:60~61)(ヘブル10:28)

 クリスチャンは復活の証人でなければなりません。証とよく言いますが、私たちはちょっとラッキーだったことを神様に関連づけて語ることを証だと思ってはいけません。証とは、キリストが復活したというと言う証なのです。
なぜ多くの教会にいのちがないのでしょうか。それはそもそもそこに、イエスの復活の信仰がないのです。ですから、そのような信仰の中では、どうあがいたところで、文化や道徳のお話にしかなりません。聖霊という言葉やそれに伴う現象を強調したところで、それはキリストの復活とはかけ離れた超常現象の領域にはまってしまいます。

 さて、ペテロはイエスさまを裏切って自殺したユダに代わって、12人目の弟子を決めることを提案しています。このくだりを読むと、自分はもっとも派手にイエスさまを裏切っておきながら、そのことは棚に上げてよく言うよと思うような激しい口調でユダを非難しています。このことを見て感じるのは、ペテロの明確な生まれ変わりです。ペテロはもう裏切った過去を引きずってはいません。この後もペテロは初代教会のリーダー的存在として活躍しますが、決して罪滅ぼしのために頑張っているのではないと言うことがわかります。

ペテロは旧約聖書の約束にこだわり、みことばの具体的な根拠を元に論を展開していきます。「イエスの復活の証人」としての教会の基礎を築く十二弟子となる資格についてペテロはこう言っています。それは「ヨハネのバプテスマから、昇天までの間に、何時も行動を共にしていた人」です。もちろん、ルカもパウロもそれには当たりません。それほどこの使徒職のつとめと地位は特別なものでした。これは当たり前の条件のように思いますが、この世的には当たりまえではありません。この世が何事かを始めようと組織する時は、当然その中核をしめるのは、頭のいい、能力の高い人たちです。ペテロやヤコブ達は田舎の漁師なのです。生活の知恵はあっても、エリート達と論争できるような学問はありません。当時の指導者たちがどのように使徒を評価したかは、これまたルカが正確に記録しています。

「彼ら(ユダヤの指導者たち)はペテロとヨハネとの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚いたが、ふたりがイエスとともにいたのだ、ということがわかって来た。」(使徒4:13)と書いてあるとおり、使徒たちが無学であったことが、いっそう証としては効果的に働いているのがわかります。実はこのことが重要なのです。

 安部内閣は教育現場にも市場原理を持ち込んで、早くから競争させ、子供たちをふるいにかけようとしています。考えてみてください。支配者層にしてみれば、国民の大半は使い捨ての労働力に過ぎません。政府は学校に何を期待するでしょう。政府を転覆させるような反対勢力になりうる批判力や行動力を持った人材ではなく、従順な労働力になってくれれば事足りるわけです。まあ、百マス計算などが速く正確に出来ればそれでいいわけです。ほとんどの大学がレジャーランドであっても、一部の大学で官僚になる人たちを養えればあとはどうでもよいのです。

 神さまはそうではありません。神の国の力は、幼子たちの賛美によってもたらされるのです。私たちは単純な理由で教団教派を批判するのではありません。自民党内の派閥争いのような発想で私の発言を評価する人は、そもそも何一つ分かっては居ないことを明らかにしています。私が問題にしているのは、みことばに根拠がないところに、この世的な価値観で力を担保し、資格を保証することが間違いだと言うことです。これらの人間的な遣り繰りは証の力を決定的に弱めているのです。その発想は、安部内閣に代表されるエリート主義と同じです。

聖霊がくだることによって、「キリストがよみがえったのを見た」から、その証は「キリストが私の内側によみがえった」となります。この違いは明確です。このことを具体的に経験していない人は証などしようがないのです。
 パウロは
「私たちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝えるのだ」と言っています。(Ⅱコリント4:5)さらにパウロは続けます。
「 私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。」(Ⅱコリント4:7)
これが本来の証の目的であり動機であるべきです。まさにルカが書き送ったように、「聖霊によって力を受ける」のです。決して私たちが力をつけるのではないのです。

 器である私たちは、所詮「土」なのです。私たちは、その中にあえて住んでくださる方の偉大さとその祝福を告げ知らせるのです。私たちが証に対して臆病になったり弱気になったりするときは、何か別の資格によって、違った何かを伝えようとしているのです。本当に信じているのなら、同じ主が住んでいるのです。外側の器が丼だろうが、湯飲みだろうが、おちょこだろうが関係ありません。かけた茶碗だっていいのです。
 このように見てくると、「器」を強調することがいかに間違っているかおわかりだと思います。
「無学な普通の人」こそ、力強い復活の証人となるべきです。
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今日もマルコ12章を読む

2007-03-23 14:26:37 | Weblog

貧しいやもめがレプタ2枚を献金した時、イエス様はちゃんと生活費のすべてであることをご存じだった。全部ご存じのイエス様のお目は優しい。
金持ちの青年はイエス様に「持ち物を皆売り払い、貧しい人に与えなさい」と言われて、救いから落後してしまったけれど、イエス様は彼の犠牲の痛みをご存じで言って居られる。

貧しいやもめにとっても持ち金のすべてであったのに、金持ちの青年ほどに難しく思えないのはなぜだろう。事実、多くの財産を処分して主に従うには、ポケットのレプタ2枚捧げるよりは多くの信仰が要ると思う。
だから、「らくだが針の穴を通るより難しい」と言われたのだろうか。

これは神の公平さなのかなぁ。この世に望みのない者の方が御国に近いということ・・。
イエス様に一番大切な教えを質問して、イエス様に同意をして、賢い返事をした律法学者にイエス様は「あなたは神の国から遠くない」と微妙な言い方をされている。捨てなければならない物がいっぱいあるのだろうなと思える。


「イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた。」
こんなふうにイエス様に見られたら、どんなことでもしてしまいそう。私たちの試練の時、イエス様はこんなふうに私たちを見ておられるのかしら。試練の時に思い出そう!

近頃はこんな事を考えながら聖書を読むのが楽しくなった。みことばが身近にリアルに感じられて・・本当に主に感謝いっぱい!
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買い物はちょっと苦手です

2007-03-22 19:31:27 | Weblog

今日は買い物を楽しもうと張り切って昼から出かける。孫のお誕生日のプレゼントに洋服や絵本を買おう。また、自分のものも何か買おう。

先日テレビの「女は買い物が好きで、自分の買い物でなくても楽しんでしまう」なんて言葉を聞いて、買い物がそれほど好きじゃない私は驚いた。そう言えば思い当たることがある。友達と買い物に行き彼女のあまりのねばり強い選択ぶりに、一緒に買い物は二度とゴメンだと思ったが、なるほどそういうことだったのかと遅ればせながら理解。

でも、今日は楽しもうと思っていたけれど、やはり自分の服を2、3着てみてもあまり気乗りがしない。もう面倒になって「これでいいか」なんて適当に決めてしまった。いつもこうなる・・。だから通販で買うことが多い。

でも孫の服は特別、女の子の服を買うのは楽しい。昔、男の子の売り場に比べて、女の子の売り場の広さを羨ましく思ったこともあった。男の子なんて本当に代わり映えしなかったなぁ。今はそのあこがれの女の子の服を選べる!でも、今は長袖?半袖?両方あればいいか。なるべく肌触りの良いものを選ぶ。着ている姿を思い描いて「うん。これで良い」

次は本売り場。あれ?絵本はぜんぶラップされている。中身を確かめることが出来ない!これでは選べないよ。昔、子供の絵本を選ぶことは私の楽しみだった。今日も一番楽しみにして来たのに・・次々と試してやっとラップしていない一冊を手に取った。「百万回生きた猫」クリスチャンとしては「ちょっと困った?」題だなあ・・なんて思いつつも前から興味があった本なので喜んで立ち読み。そしてとても感動した。絵もいいなあ。でも、買うことはちょっと待った。有名な本なので孫が持っていないことを確認してから買おう。

我が家は、家族で買い物に行くとみんなバラバラに行動するが、帰る頃は自然に一緒になることから、私の買い物は男の人を待たせない程度の早さなのだと思う。
食品売り場で買い物をする頃は疲れてしまった。家に帰って時間を見ると2時間も経っていなかった。やはり時間を忘れて買い物をするなんて私には有り得ない。
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今日はマルコ10章

2007-03-21 22:45:11 | Weblog

イエス様が明確に語っておられる十字架への道筋を聞いても、弟子たちはそのみことばから目を閉ざし耳を塞いでいる。
そんな気持ちが分かるように思う。彼らはすべてを捨ててイエス様に従ってきた。イエス様だけがすべてだから・・。
弟子たちは、イエス様を十字架で失ったその瞬間は、最後の望みさえ絶たれてしまった。イエス様のよみがえられたお姿を見るまでは・・・。イエス様に従うことの厳しさ。

私も純粋に信仰を選んだと思っていても、すべての望を失うような経験をする瞬間、目の前で起こることをじっと見ていよう。幼子のように思い煩わないで・・・。でも、私の必要をバルテマイのように主に叫ぼう。

「何をしてほしいのか」と問われた時、バルテマイのように私も「目が見えるようになることです」と、神の国を見る目を求めますように。

あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます。 (Ⅰテサロニケ5:24)
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今日はマルコ8章

2007-03-19 19:44:58 | Weblog

パリサイ人はしるしを求めた。彼らは見ても信じない。弟子たちも幾度もイエス様のわざを見ているのに悟らない。私もイエス様の備えの中で、今日まで生かされてきたのに安息しなかった。

私は違うと思っていたのに・・・。無意識のうちに自分でやりくりしようとしていた。だから、この数日なんとなくちぐはぐな日々だった。こんなになってしまったのは、焦点がいつの間にか「イエス様」から「人」に変わってしまっていたのだと思う・・。

「わたしとわたしのことばを恥じるような者・・」と言われたけれど、私もイエス様のことばを恥じることをしていたのかも知れない。イエス様の備えてくださることに自力で付けたそうとしていたから・・。
「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とに十分気をつけなさい。」

でも、イエス様は繰り返し私にふれてくださって、私の目がはっきり見えるようになるまで導いてくださる。ハレルヤ!
「それから、イエスはもう一度彼の両眼に両手を当てられた。そして、彼が見つめていると、すっかり直り、すべてのものがはっきり見えるようになった。」


ムベの新芽が無数に膨らんでいる。今にも爆発しそう・・いのちがあるから自然に芽生える。なにものもそれを止めることなど出来ないんだ!イエス様だけで充分!
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息子と聖書を読む 2007.3.17

2007-03-17 14:51:24 | Weblog

今日は、息子が祈りの中で初めて「ハレルヤ!」と御名を言葉にして誉め讃え、主に喜んでいたことが何より嬉しかった。
彼は、最近聖書をむさぼるように読んでいる。小学生の頃から教会に通っていたから、聖書は読んではいたが旧約聖書を物語のように読む・・そんな読み方だった。最近は新約を初めからどんどん読み進んでいる。

彼は今イエス様を知りたいと渇いて読んでいる。このことは聖霊の導きだと本当に感謝。私が勧めてもできなかったことが、自分で進んで楽しんで求めることが出来るなんて・・。この時を待っていて本当に良かった。

彼が変われたのはすべてから解放され「・・でなければならない」「・・あるべき」そんな要求がすべて無くなって、礼拝も献金も奉仕も要求されることが全部なくなって、ただイエス様に居るだけ。そんな全くの恵みを受け続けて、自然にその恵みの主を知りたくなったのだと思う。

彼は若い、今ならどんどんみことばを蓄えることが出来る。覚えることが出来る。それはとても羨ましいことであり、私には妬ましい。
みことばに親しんで、みことばを喜んで、みことばを生きていって欲しい。それ以外になにも私は望まない。主を知ることほど幸いなことはない。それほど安心なことはない。それほど聖い行いはないから。
心から私も「ハレルヤ!」

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