石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

「ユダよ、死ぬな」

2007-01-30 13:34:21 | Weblog

息子と聖書を読む 2007.1.27

そのとき、イエスを売ったユダは、イエスが罪に定められたのを知って後悔し、銀貨三十枚を、祭司長、長老たちに返して、
「私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして。」と言った。しかし、彼らは、「私たちの知ったことか。自分で始末することだ。」と言った。 (マタイ27:4)

「ユダは、パリサイ人の所に行ったのが間違っていると思う・・」息子のひとことが私には新鮮に感じられた。
「ああ、それが間違っていたのか・・『私の知ったことか!』といわれるだけだったね。」
「その後、ユダは自分で始末したことも違うと思う。死んではいけなかったんじゃないか。」
「そうだね!神様の前に悔い改めて、すべてを委ねて裁きを待つべきだったよね。ペテロは激しく泣いて、よみがえられたイエス様に会えたね。『悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。』ってあるね。」

「僕だってユダになることもあるだろう。」
「確かにそうだね、人は礼拝の時をお金に換える様なことをするよね。
イエス様はすべての人の罪を十字架で負って下さったんだものね。イエス様はユダに『友よ・・』と言われている。ユダがイエス様を裏切った後で言われたのだから、すべてをご存じで言われている、此処にユダの望みはあるね。私は、なぜこの時ユダがイエス様の前で崩れなかったのかと思うよ。」
「それは無理だと思うよ、後ろに大勢の人を連れて捕まえに来ているのだから、もう、引き下がれなかったと思う」
「そんなことはどうでもいい。イエス様の『友よ・・』のお言葉に、すべての経緯を忘れてしまって、ペテロのように激しく泣くことができたんじゃないかな・・」


 息子が「死んではいけない。」と言った言葉がとても嬉しかった。
そもそも私が、イエス様に救いを求めたきっかけは、彼が小学3年生の時、障害に気落ちしてか、私の詰め込み教育に疲れてか、「僕が死ぬのは僕の勝手だろう。」と言って、毎晩激しく泣いて眠る日々が続き、私は自分の力に絶望したことからだった。

イエス様は彼の霊、魂を癒し、生きる力を与えてくださった。聴覚の障害は彼の弱さとして残し、そこに在るイエス様の助けと備えを通して、彼はイエス様を常に体験できる。私は、主のなさることの完全を知って、深い感謝と驚きを覚えた。

お祈りの時に彼は「失敗をした時、自分でなんとかしようとしますが、イエス様を忘れずに祈って待つことも出来ますように。聖書の学びをこれからも、続けさせてください。」そんなふうに祈っていたことが嬉しかった。導いてくださったイエス様に、親子で心から感謝をした。今日は忙しくて短い時間だったけれど、私には教えているはずの息子に教えられた嬉しい時間だった。

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お葬式のお手伝い

2007-01-27 21:30:01 | Weblog
89歳のご近所のおばあさんが亡くなられた。昨日、今日は皆さんでお手伝い。
沢山の人と働くことは気も遣うけれど、何時もお勤めに出ておられて、あまりおしゃべりをする機会のない方々と、触れあう時でもある。
孫のことや、主人のこと、健康のことから、料理のことなど、主婦同士だから長時間いても幾らでも話題はある。

昔はとても気を遣って嫌々だったけれど、これも年の功でずいぶん楽になった。なによりも、イエス様が共に居てくださるという、平安の中で出ていけることが私には感謝なこと。

息子が、葬式の手伝いとはどんなことをするのかと、一緒に行くことは出来ないかと尋ね、ご近所つき合いを覚えようとしている。聴覚障害があることで、新しいことを覚えるには大きな不安があるのだろう。近頃、私たちの老後を背負おうとしてくれていることが、言葉の端々に見えて、頼もしく思いつつも辛くもあり複雑である。

結婚する前に叔母が教えてくれたとおり、私は何時も、もっぱら洗い場を受け持つことにしている。此処は気楽な場所。ちょっと手が荒れるけれど、洗い物をしながらいろいろとおしゃべりも出来る。

それでも、すべてが済んで家に戻ったらほっとした。息子が家事を手伝ってくれたのでずいぶん助けられた。明日、寮に戻る時のお弁当に、彼の好きなきんぴらを作って上げようと思っている。
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最近、気になること

2007-01-23 20:18:40 | Weblog

「パワー・フォー・リビング」という本の広告が、テレビで、新聞で、折り込みで激しく流されている。「これはいったい何?」とぼんやりと見ていたけれど、あまりの圧倒的な広告の量に考えてしまった。

読まずに批判するのは良くないけれど、でも、やはり私には「違う!」と思えてならない。
①内容を隠して勧めることはそもそも嫌い、すべてを出来るだけ明るみに出すべき。本の内容を、インターネットを通じて公開することは簡単に出来るはず。強引に本を申し込ませようとしているように見える。
②簡単、ひとまとめに教育する。アメリカがインディアンに対して、過去に行った宗教教育を思い出す。
③札束で頬を叩くようなやりかたは、何にしても嫌い。

どれも、イエスさまの方法ではないように思う。
「善悪の知識の木」の実を食べた魂で、「良いこと」を行っているそんな気がする。良いことが「正しい」のではなく、「神のみこころ」にかなったことだけが、正しいことだと思う。これは貧乏な1個人の、すごーく小さな意見に過ぎないけれど・・。


すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。
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日曜日はイエス様のお話を聞く 1.21

2007-01-22 15:18:23 | Weblog

メッセージ 「ピラトの前のイエス」

ユダヤの暦では1日は夕方から始まります。安息日は金曜日の日没から始まるのです。聖書に出てくる神さまの最初のことばは何ですか。「光よ。あれ。」(創世記1:3)です。
 光はやみと区別され、やみは光と交わることはありません。創世記を見ると、「夕があり、朝があった」(創世記1:5,8,13,19,23,31)と繰り返し書かれています。人は夜眠り、朝、光と共に目覚めます。神は私たちに十字架の死と復活という深い摂理を覚えさせるべく、眠りという小さな死をお与えになりました。

 聖書に書かれている最初の眠りはどんな内容でしょうか。それは、アダムの眠りです。(創世記2:21~24)この眠りは、アダムにとって本当の助けてとなるべき者を生み出すための眠りであり、十字架の死を象徴しています。アダムはイエスの雛型であり、エバは教会を表しています。

キリストがローマ兵の槍によって脇腹を刺され、その肉体の死を確認されたことは、ご承知の通りですが、エバがアダムの脇腹から生まれてくると言うことは、その事実を予表したモデルなのです。
「アダムによって死が全人類に入ったように、最後の人イエスによっていのちが支配する」(Ⅰコリント15:45,ローマ5:12~21)と書かれています。

 さて、実際に十字架の場面の記事を見て参りましょう。(ルカ23:1~23:12)光と闇のことをお話ししましたが、イエスという光は、人の世の闇、人の心の闇、人の心の闇に隠れているものを暴きます。十字架が近づくと、それはいっそうはっきりします。イエスさまだけが光であって、世は全くの暗闇であることが明確になります。イエスさまだけが栄光を受けるにふさわしい御方であり、人の虚栄心や誇りがいかに情けないものであるかが露わになります。表面は整っていても、その内側の動機が薄汚れたものであることは、イエスさまが繰り返し指摘されたところです。

 まず、十字架をとりまく周辺の状況や反応について、よくご承知の方も多いと思いますが、念のために整理してみます。イエスさまは「ユダヤ人の王」として刑を受けますが、このあたりの整理が出来ていないと、ヘロデとピラトの間でたらい回しされたり、「ユダヤ人の王」という称号がいろいろ問題になったりすることの意味が不明瞭になります。

 イエスさまの時代は、ユダヤの国はローマ帝国により支配されていました。そのローマの総督がピラトで、彼自身が自らの口で語っているように、彼こそが囚人を死刑にする権限や釈放する権限を持っているわけです。このローマの支配下には、イエスをむち打ったり侮辱したり、実際に十字架刑を執行するローマの兵士がおり、そして、「この方はまことに神の子であった」と感嘆のことばをもらす百人隊長もいます。

 一方ユダヤ人はと言えば、ユダヤの領主をローマ帝国から委嘱されて治めるかたちで領主のヘロデがいます。そして、大祭司のカヤパがいます。ことは過越しの期間中に起こっていますから、カヤパなどはピラトの居る総督官邸には入ろうともしません。異邦人の領域にはいると汚れて過越しの食事が食べられなくなるからです。(ヨハネ18:28)律法学者やパリサイ人というユダヤの宗教指導者達が居て、これが群衆を扇動するのです。そして、最後に裏切る弟子たちは全員ユダヤ人です。

 それぞれの人の心の中にあるもの、その本質が十字架の前に明らかになるわけですが、今日はローマ総督ピラトにフォーカスして、ともに考えましょう。ピラトは「カイザルに税金を納めない」「王キリストだ」と言っているという訴えには応じないわけにはいかないわけですが、ピラトは、イエスさまには訴えられているような罪はないことに気づきます。それでも、祭司長や群衆がしつこく言い張るので、ヘロデに判断を押しつけるわけです。
 
 ヘロデの反応も結構詳しく書かれています。ヘロデはイエスさまを見ると喜びました。「非常に喜んだ」と書いてあります。イエスさまに会いたいと思っていたのです。奇跡も見たいと思っていたし、いろいろ質問しています。イエスさまは何もお答えになりませんでした。その動機が腐り果てていたからでしょう。ヘロデはまともに相手にされないことを怒り、イエスさまをさんざん侮辱してから、ピラトに送り返します。

 ピラトはもう一度イエスさまには訴えに当たる罪はないということ、死罪には全く不適当だということをユダヤの祭司長や指導者たちに伝えますが、聞き入れられません。ピラトはイエスさまを取り調べるうちに、逆に自分が取り調べられているかのような不思議な感覚に陥り、自分の権限で死罪を命じることにおそれを抱き始めます。そこで何とかユダヤ人達を納得させて釈放する手だてはないかと考えます。(ヨハネ18:33~40)

ピラトはイエスさまに質問しています。
「あなたはユダヤ人の王ですか」(33)これは、罪状に対する審問のつもりでしたが、ユダヤ人の王であると言うことは、単純にある地方や民族の指導者という意味だけではないので、イエスさまは逆に問い返されます。「あなたは自分でそのことを言っているのですか。それとも他の人が、あなたにわたしのことを話したのですか。」(34)

 ピラトは、この問題はユダヤ人の宗教上の問題、つまり特殊な人たちの信仰や習俗に関する問題であって自分には関係ないという立場、そして、出来れば具体的な判断や決定を避けたいという態度を取ろうとしたのです。これはこの世の知恵や権威を持つ人たちが、人となられた神であるイエスに対してとる象徴的な立場や態度です。

 話は進んでいきます。イエスさまは、「自分の国はこの世のものではない」と、言い、「真理に属する者はみなわたしの声に従う」と言われるのを聞いて、ピラトは、イエスさまの存在が自分にも何らかの影響を及ぼすのではないか、という不安と恐れにかられ始めます。(36~37)

この不安と恐れから逃れるために、祭りの時の恩赦の習慣を利用しようとします。その引き合いに出された人物は、イエスさまとは正反対で、誰もが認める赦され難い罪を犯したバラバと言う強盗犯人でした。ピラトは最後の手段として、この名を知られたバラバという悪党を引き合いに出し、これを釈放すると提案したわけです。

つまり、誰かひとりに恩赦を与えるとするなら、この危険なバラバと言う男を野に放つよりは、さすがに「それならイエスを釈放してくれ」と言うに違いないと思ったわけです。ところがどうでしょう。群衆はみな指導者に扇動され、「バラバを釈放してくれ。」と叫ぶのです。(44)

 これはピラトにとっては思いもかけない展開だったでしょう。あのバラバラを引き合いに出せばいくらんでも、「イエスでなくバラバを釈放してくれ。」とは言わないと思っていたはずです。ピラトはどうしてよいかわからず、とりあえず、イエスさまを捕らえてむち打ちます。そして、もう一度群衆の前に出てきて、イエスさまを示します。群衆はますます激しく叫びますが、ピラトは「あなたがたがこの人を十字架につけなさい。私はこの人には罪を認めません」(ヨハネ19:4)と宣言します。そのあたりから続きを見てみます。(ヨハネ19:1~16)

 此処まで見てくると、私たちはあることに気づかされます。それは、私たちはみな、自らの意志で十字架に架かろうとしているかに見える、この罪の見あたらない人物イエスを評価するピラトと同じ座、同じ地位にいると言うことです。

 ユダヤ人の証言はますます、ピラトを恐れさせます。
「この人は自分を神の子としたのですから死刑だ。」(7)と言うのです。ピラトが裁いてきた事件の中で、「自分を神の子だ」と自分で宣言したという理由で死刑になった者などいません。しかも、この方は自分が見たところ、何の罪もない。むしろ自分の心の中をのぞかれているような感じさえするわけです。

 ピラトはイエスが自分に引き渡されたのが、ユダヤの指導者の妬みによることに気づいていたとも書いてあります。(マタイ27:18)これは非常に重要な情報です。さらにピラトが裁判の席にいる時に、ピラトの妻からの使者が来て、イエスの死刑には関わらないようにと伝えています。(マタイ27:19)
 最終的にはピラトは群衆の暴動を恐れて、自分には責任はないから好きにしろと言う態度を取ります。(マタイ27:24)

 実はある程度聖書の中身を知っている人の中には、イエスさまのことを否定しなくても、むしろ一定以上に認めつつも、このピラトのような態度で「自分には関係ない」「責任がない」と言って、手を洗って一歩引いている人たちが多いのです。

 イエスさまに罪を認めなくても、イエスさまが正しい御方だとわかっても、イエスを取り巻く人々の罪を見抜いたとしても、たとえ、この御方が神の子だと理解したとしても、自分の罪を悔い改め、その罪のためにいのちをあたえて下さる方として信じ受け入れることがないければ、イエスさまとの関係は生まれません。救われることはないのです。

「私は、すべてのものにいのちを与える神と、ポンテオ・ピラトに対してすばらしい告白をもってあかしされたキリスト・イエスとの御前で、あなたに命じます。・・・云々」(Ⅰテモテ6:11~16)

 「すべての者にいのちを与える神」と、「ポンテオ・ピラトの前のイエス」が対にして書かれています。ピラトに裁かれるイエスは、そのすばらしい告白を除けば、むち打たれても、嘲られても抵抗しないひとりの弱々しい人間の姿をしています。そしてこれから彼は十字架に架かるだけの、支持者がひとりもいない王なのです。しかし、パウロはこのピラトの前のイエスこそ、闇の世界に対する「光」であり、死の世界を蘇らせる「いのち」であると言っているのです。

 このように聖書全体を見てみると、なぜ私が十字架のお話をするのに、天地創造から話し始めたかがおわかり頂けると思います。
 十字架は私たちの理解を遙かに超えた神の壮大なご計画の中心です。
「祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、ただ一人の死のない方、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たこともない、また見ることもできない方」を心から賛美しましょう。
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金曜日

2007-01-19 16:11:19 | Weblog

畑に主人を送り出してから、霊の賛美、異言の祈り(私には日常)詩編を読んで、一部分日記帳に書き写し、愛する方々の事などを、イエス様にお祈りと言う形でお話しをして、聖書を閉じる。

いざ立ち上がり「さあ、やるぞ!」と、リビングに掃除機を掛けて、汚れていたトイレの掃除をして、風呂場を重曹で蓋までみがく。主人の寝室でもある座敷のお掃除。お布団を全部干して、サッシを開け放って畳に風を通す。もうちょっと晴れて欲しいなあ・・。
今日ちょっと頑張っているのは、今夜息子が帰ってくるからで、いつもよりは丁寧にお掃除をする。

彼は人を使うのが上手い。良く気が付き、上手にほめるから、つい気持ちよく彼の手に乗ってしまう。主人なんかちっとも気が付かないし、頑張っても「何時もこうしとけ」とか、「ちょっと此処がまだ・・」とか言う。最近はちょっと優しくなったけれど、あまりやる気が起こらない。

ええ年になっても、人間はほめて使うものに変わりはない。まして、子供ならよく観察してほめて上げるべきと思う。しかし、私が子育てをした頃は、自分のことで精一杯で、子供をちゃんと見ては居なかったと反省。今、子供に教えられている。

本当に、年を取ってから教わることがとても多い。でも、若い方々に教わることは嬉しいこと。好もしいことで、安心なことである。悟りのないままに年を取ってしまったけれど、教わる楽しみをイエス様は残して置いてくださった。

さて、今夜のメニューは、太刀魚を煮るか、焼くかまだ思案中。ターサイと薄揚げの煮浸し。それに粕汁、大根や人参やジャガイモや干し椎茸やネギを入れ、鮭にするか、豚肉にするか・・それは思案中。


あなたのみことばは、
私の上あごに、なんと甘いことでしょう。
密よりも私の口に甘いのです。

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喜びの祈り

2007-01-18 00:03:36 | Weblog

温かいふかふかお布団にもぐって、「イエス様、感謝します!この幸せをありがとうございます。」思わず口にする感謝。
「今も寒さの中に居られる人々を、どうか顧みてください。」少し辛くなる。私は寒風の中を彷徨ったことがある。
 
主人は早朝に目覚めて、床の中で祈ることがあるという。何を祈るのか聞いてないけれど、「こんなにしていられることを、有り難うございます。」だと思う。
いつも言っている「こんなにのんびりさせてもろて、ええのかな」そんな言葉から分かる。

老人になって知る、イエス様の恵みは特別に身に浸みる。
足も痛まずに普通に歩けること。菜っぱも鯖も美味しいこと。好きな時に寝られること。孫も子供達も、今日も無事であったこと。仕事も、少しは選り好みできるようになって、穏やかな時間を持つことが出来るようになったこと。

嵐の中にもイエス様の平安はあるけれど、平凡な日々はなおさら感謝があふれる。
取るに足りない、このような者達をも顧みて下さるイエス様。小さなつぶやきのような喜びにも、お耳を傾けて下さるイエス様。

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祈り

2007-01-16 13:41:40 | Weblog
 
私のかしこさで尊敬を得ることよりは、みことばを選んで軽蔑されることを選びますように

私の言葉で平和を得るよりは、みことばを語って捨てられますように

みことばを知っている者よりは、みことばを生きる者でありますように

みことばの剣を何本持っていても、使ったことのない者がその切れ味を知ることはありません。

エジプトを出ないと、イエス様に出会うことはありません。火の柱も雲の柱も知りません。
海が分かれることも知りません。

エジプトで岩を打っても水は出ません。エジプトでマナを求めてもその養いを得ることはありません。

荒野にイエス様は居られます。
イエス様、あなたは私をご存じです。不信仰も、弱さも、愚かさも知って居られます。

あなたを知って、荒野であなたを喜び楽しみますように
あなたを、私がすべてに勝って愛しますように

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日曜日はイエス様のお話を聞く 1.14

2007-01-15 09:30:50 | Weblog

メッセージ 「ゲッセマネ」 ルカ22:39~46

 オリーブ山と呼ばれる場所は、何時もイエスさまが祈ったり、弟子たちとともに集まったりしている場所です。いよいよ十字架に架かられる日が近づいたとき、この場所で特別な祈りがなされたことが詳しく記されています。福音書の中でも、十字架と復活の次に重要な箇所です。オリーブ山には、ゲッセマネと呼ばれる園がありました。ルカは祈りの山と言う点を強調して、オリーブ山と記していますが、マルコとマタイはゲッセマネという場所を指定して書いています。ゲッセマネとは「油しぼり」と言う意味です。オリーブ山と言うくらいですから、オリーブの木が沢山栽培されていて、オイルを採るための圧搾機があったのだと言われています。今も当時の様子を偲ばせる古いオリーブの木が残っています。

 イエスさまは、弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈っていなさい。」と言われました。肉の弱さの中にあっては、常に葛藤があります。ここで言われているのは、単純に罪を犯さないようにという意味から、さらに深くみことばにのみ仕えるようにということまで、幅広い意味合いで語られていると思います。少し前の場面でも、
「しかし、あなたがたは、やがて起ころうとするすべてのことからのがれ人の子の前に立つことが出来るように、いつも油断せずに祈っていなさい。」(ルカ21:36)
と言われているので、弟子たちは、基本的にはその延長線上にある注意だと受け取ったことでしょう。
 
 他の福音書を見ると、イエスさまは、自分が祈っている間、ここに座っているように命じて、その中からペテロとヤコブとヨハネの3人だけを連れて、そこからさらに進まれ、
「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目を覚ましていなさい。」(マタイ26:38)とおっしゃっています。

 少し話はそれますが、イエスさまが、この3人をなぜ連れていかれたのかをお話しします。この3人は、ヤイロの娘がよみがえる場面や、イエスさまの変貌の場面にも立ち会っています。彼らは一番主のお心に近いお気に入りの弟子だったのでしょうか。そうではありません。律法は、真実を証言する場合2人または3人の証言を求めています。(申命記17:6,19:15)新約の時代でもすべての真実は2人または3人の証人の口で確認されると言われているからです。(マタイ18:16)彼らが特に大事な場面でイエスさまのそばにいることが許された本当の理由はイエスさまの生涯の事実を確認し証言するためです。何を確認するのでしょう。それは、この方が完全に神であり、そして、人であったということです。

キリスト教の世界には、くだらない神学や教理が山ほどあります。しかし、いつもお話ししているように一番大切なことはこのポイントなのです。イエスさまが特別な御方だと言わない教会はないでしょう。しかし、この御方のことを正しく証言しない教会は間違っているのです。「イエスは人である」と言うだけでも、「イエス様は神である」というだけでも、いずれもとんでもない間違いなのです。イエスさまは、完全に人であり、完全に神であったということです。
「愛する者たち、霊だからといって、みな信じてはいけませんそれらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。人となって来たキリストを告白する霊は神からのものです。それによって神からのものを霊を知りなさい。」(Ⅰヨハネ4:1~2)
このことを正しく告白させる霊が聖霊なのです。

 祈りの中身に戻りましょう。「悲しみのあまり死ぬほどです。」とイエスさまはおっしゃいました。神のひとり子がお感じになった「死ぬほどの悲しみ」とはどのようなものなのでしょうか。また、その悲しみをもたらした原因は何なのでしょうでしょうか。そして、弟子達に理解できるはずもないこの感情を吐露された背景には何があるのでしょうか。

 弟子たちの思いとイエスさまの思いはあまりにもかけ離れています。弟子たちは何処までもイエスさまに従っていけると思っていますが、イエスさまは全員が裏切って、我が身かわいさに全員が散り散りに逃げて行くことを知って居られました。お互いが愛し合って仕え合うことを説かれますが、弟子たちは自分たちが裏切ることも、イエスさまがどのような最後をとげられるかもわからずに、誰が一番偉いかを論じたりしているわけです。 そして、ゲッセマネでは、眠りこけてしまうどこまでも役立たずの弟子たちでした。物理的には40~50メートルの距離しかないわけですが、弟子たちとイエスさまの間は、とんでもなく離れていました。

 それでもイエスさまはそんなとんちんかんな弟子たちに、感謝のことばを述べられるのです。
「けれども、あなたがたこそ、わたしのさまざまの試練の時にも、わたしについて来てくれた人たちです。」(ルカ22:28)
私たちは、このような場面で語られたイエスさまのことばに何を感じるでしょうか。
 
 罪人が、罪なき者が罪を背負うことの葛藤を知る由もありません。神との和解を要する者が、神と完全にひとつである状態が引き裂かれる苦しみを予感されて、悶えるその痛みを推し量ることなど不可能です。このときの弟子たちに、そんなゲッセマネの苦しみを理解できるわけがありません。

 それでもイエスさまは弟子たちの存在そのものを喜ばれたのです。役に立つとか立たないとか、能力があるとかないとかではなく、神は神から生まれたものを愛するのです。ただ、そばに置いておくだけでイエスさまは嬉しいのです。どこが正しくどこから間違っていようと、「あなたは幸いだ」と褒めているときも、「下がれサタン」と叱責しているときも、イエスさまは弟子たちがかわいくて仕方がないのです。

 この後、ペテロはイエスさまがおっしゃったとおり見事に裏切ります。(ルカ23:60~61)鶏が鳴いた瞬間、ペテロはイエスさまのことばを思い出します。そのとき、イエスさまは振り向いてペテロを見つめました。そのときのイエスさまのまなざしをペテロは忘れることはないでしょう。もし、そのまなざしが、恨みや怒りのまなざしであれば、ペテロは立ち直ることはできなかったでしょう。子であれば、何度失敗しても愛されなくなることはないのです。子どもが窮地に陥るときこそ、親は何とかしてやりたいと思うものです。だからこそ、前もって厳しい宣告を与え、失敗した時には、責めるのではなく赦し励ますまなざしをおくるのです。

 ゲッセマネで、弟子たちはイエスさまが何を祈っておられるのかも、よく分からなかったと思います。ただ、イエスさまが苦しんで居られるのを見ました。何かとんでもない恐怖や悲しみがイエスさまを襲っているのを見ました。弟子たちは眠ってしまいましたが、それは悲しみの果てでした。弟子たちはその時分かる弟子たちなりの悲しみを共有したのです。

 これが神から生まれ神の子とされた者に与えられた特権です。
「この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。 この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」(ヨハネ1:11~13)

 父に対して祈られた内容を見てみましょう。
「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」(マタイ26:39)
これは十字架を回避する可能性についての祈りです。イエスさまは十字架に架かるためにこそ生まれ、まさにその時を前にして激しく苦しんで居られるのです。
「神は実にそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された」と書かれていますが、与えられた御子イエスさまは私たちと同じように肉体を持ち、意志や感情があるわけです。イエスさまの中には、「出来るならば十字架を避けたい」という思いがありました。もしそれがなかったとしたら、十字架はこれほどまでに私たちの心を動かすことはないでしょう。

しかし、イエスさまは「私の願いではなく、あなたのみこころのように」と言われたのです。これがゲッセマネの核心部です。そこには罪人への愛以上に父への従順の姿があります。そして、この祈りが聞き入れられ、イエスさまは裁かれ捨てられるのです。ゲッセマネは油しぼりです。どのような植物油も圧搾されすりつぶして取り出します。聖霊のことばやわざが現れるためには、そのような苦しみの中で従順であることによってもたらされるのです。

「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。」(ヘブル5:7)
このみことばの続きを見れば、イエスさまが苦しみの中で従順を学ばれたことが記されています。

 油はみこころを無視した私の願いの上に注がれるものではありません。みことばに対する従順と、御父のみこころを願う従順の結果もたらされるのです。
「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」(ヘブル12:2)
イエスさまの前に置かれた喜びとは何でしょう。それは、永遠に購われた弟子たち、永遠の子ども達をそばに置くことなのです。

「父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。
17:25 正しい父よ。この世はあなたを知りません。しかし、わたしはあなたを知っています。また、この人々は、あなたがわたしを遣わされたことを知りました。
17:26 そして、わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。それは、あなたがわたしを愛してくださったその愛が彼らの中にあり、またわたしが彼らの中にいるためです。」(ヨハネ17:24~26)
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息子と聖書を読む 2007.1

2007-01-11 18:55:58 | Weblog

ルカ10章を読む。

「わたしがあなたがたを遣わすのは、狼の中に小羊を送り出すようなものです。」
「確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。」

この二つの言葉は矛盾しているようだけど、なぜこう言われたのだろう。
息子「出かける前には、弟子達がこれからすごい経験をするので、慢心しないためだろう」
私「私たちは弱いけれど、イエス様の権威によって守られているということじゃないのかな」

「ちょうどこのとき、イエスは、聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。」

息子「聖霊によってとあるけど、イエス様は人の霊も魂も持って居られたのかな、だろうね、完全な人となられたのだから。」ひとりで納得している。
私「イエス様は聖霊によって喜んだり、怒ったり、涙を流したりされているね。感情は魂の働きだけど、霊によって喜んで居られるね。」
息子「人間もそういうことがあるかなあ・・」
私「あると思う。クリスチャンとして、すごく健全な状態だと思うけど」

私「イエス様は、知恵ある者が悟るという、人間の普通の状態とはまるで逆の、幼子のような弟子達や私たちに、神様を知らせてくださったことを、とても喜んでくださっているね」
息子「パリサイ人や律法学者じゃなかったんだね」

「あなたがたに言いますが、多くの預言者や王たちがあなたがたの見ていることを見たいと願ったのに、見られなかったのです。また、あなたがたの聞いていることを聞きたいと願ったのに、聞けなかったのです。」

息子「旧約聖書の時代の神と、新約の神はまるで違うようだ。契約の箱を支えただけでも死んだ人が居たね」
私「そうだね。旧約時代は救い主が来られるための備えの時代だと思う。人はまず神様の 聖さ、義が分からないと罪も分からず、イエス様の十字架の意味を知ることも出来ないからね。だから『今は恵みの時、今は救いの日です。』と書いてあるよ」
息子「本当に今はすごい時代なんだ。」


こんな時間も、イエス様の大きなご配慮の中で持つことが出来ている。彼には去年転勤の話があった。しかしその話が消えて、毎週家に戻って来る事が出来るから、このような時間を持つことができる。

聴覚障害の彼にとって、聞こえる方々ばかりの職場では、かなり緊張状態にあるようなので、週末毎にリラックスできる今の環境は、非常に重要だと思っている。イエス様はすべてをご存じで、彼の必要を備えてくださっている。そのイエス様を知ることに、幾らかでも時間を用いることが出来るようにと願っている。


どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。
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電話が不通!

2007-01-10 19:32:45 | Weblog

何時からか分からない・・(なんてこと!)気が付いていなかった。そう言えば、最近何処にも電話を掛けていなかったし、うるさいセールスの電話もかかってこなかったなぁ、良くかかってきた間違い電話も、とんとかかってこなかった。実にのんきなこと。

ブログだ、メールだとやっていて、電話がかからないことに気が付かなかったなんて・・笑ってしまう。ふつう電話が通じないならNTTに来てもらうとか、電話器なら電気屋さんに頼むけれど、壊れていないので電気屋さんじゃない。インターネットが通じるのでNTTじゃない。

IP電話なので(関係あるのか無いのか知らないけど・・)年末にディスプレーを交換した時に、何かあったのだと息子にメールをしたところ、対処法を幾つか教えてくれたけれど無理。手を付けたくない。

結論として、今更慌てても仕方がないので、週末に息子の帰りを待つことにした。誰かに迷惑をかけているのかも知れないけど、電話がないことはちょっと気楽でもある。セールスにはうんざりするし、間違い電話にもイライラする。

なかにはひどい間違い電話もあって「違います」と言っても、「では、お宅は誰ですか」と聞き返されて、思わず答えかけたこともあった。また「では・・さんは何番ですか」と聞かれ、たまたま知っているお店だったので、番号を調べて教えてあげたけれど、度々その人から間違い電話を掛けてこられて、我が家が取次するような変な関係が出来、ついにはぶっきらぼうに「知りません!」と答えた。今でも時折かかってくる。いったいどうなっているのだろう?

携帯電話も持っていない私たちなので、今はちょっとした鎖国状態。
「イエス様、大きな迷惑を掛けることがないように、この期間をお守り下さい。」お祈りをして、静けさを楽しみます。
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