石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

真っ新だよ~

2006-12-29 21:40:21 | Weblog

待望の液晶ディスプレーで打っている。目に優しく、老眼でも見やすいものを選んでくれたので、小さな字も拡大できて見やすい。今日まで古いモニターが必死に踏みとどまってくれ、少しも不自由することがなくて本当に感謝。

今日は、モニター入れ替えでパソコンデスク周辺、いや、リビングを大掃除となった。息子が大活躍してくれたけれど、男が家で何かしてくれる時には、なぜか女はめちゃくちゃ忙しいけれど・・

でも、私はとても感謝している。パソコン関係はすべて息子の物、そして週末にしか帰らない息子に代わって、もっぱら使うのは家にいる私。彼が居なかったら私は決してインターネットもブログもメールもしていなかっただろう。壊しても修理してくれるという気楽さから、大胆にいじるようになった事は事実。好奇心だけはあって、パソコンの入り口はゲームだったけど・・

とにかく、パソコンデスク周辺がとてもすっきりして気持ちがいい。はみ出していたスピーカーもちゃんとデスクに収まった。さて、なにをするか・・それが問題。それは宿題。

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お掃除です

2006-12-27 18:49:01 | Weblog

年末の大掃除を毎日マイペースでやっている。目に付いたところから始めて、今日はちょっと苦にしていたシンク下と冷蔵庫。

この流し台は、家を建てる時大工さんが自慢して取り付けてくれた物で、決して広くはないけれど、30年以上使って来ても、扉はきちんと閉まるし、掃除がし易くて丈夫、良い物は何十年も経ってからその真価が分かる。掃除の度サンウエーブに感謝している。

詰め込んである物をひとつずつ拭きながら放り出して、洗剤を付けた雑巾で床面を拭くと、ひと拭きで真っ白なホーロー面が現れる。やってみれば簡単で、結構気持ちの良いことなんだけれど「やるぞ!」という取っ掛かりが問題。

何でこんなに沢山の醤油を買い込んだのか、何でこんなにお酢の種類が必要なのかと、普段とは違った方向から自分のしていることを見る。捨てても良い鍋や、捨てるべき空き瓶が詰まっている。身動きできないくらいに・・。

何の部品か分からないものが出てくる。うかつに捨てて後で困った経験があるけれど、結局分からないので捨てる。我が家はこんな時、儲けもんが出てくることは絶対にない。しょうもない物ばかり、ゴミがいっぱい。年を取ったらどんどん捨てておかないと、迷惑を掛けることになるだけ。

そんなことを思いながら、それでも手を動かした分ちゃくちゃくと綺麗になって行く。主人は日曜日にオーブントースターを掃除してくれたとかで、毎日使うたびに「綺麗になったなあ」と大げさに感動して言う。「ほんまに綺麗になったなあ」と相づちを打つて居たけれど、今日はもうしらんふりをした。

冷蔵庫も洗剤とアルコールで拭き取って、捨てるべき物は思い切って捨てた。ずいぶん空間が出来た時宅急便が来て、長男の嫁さんから美味しそうな牛肉が届いた。ご褒美をありがとう!! 大事な息子を、私以上に大事に思っていてくれる愛しい娘です。別に牛肉を貰ったからではありません。
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来年はどんな年ですか

2006-12-26 16:58:45 | Weblog

「来年はどんな年だと思いますか」そんなアンケートに出会った。
政治、経済、教育等々・・設問があった。どう考えても、現実をある程度見ていれば「良い年」と答えることは難しく思え、正直に答えていくと、まるで世の中を呪っているような結果となってしまった。そんなつもりはないのに・・。

それに反して自分達のことには、すべて「良くなる」なんて答えている。「私ってなんという都合の良い考え方をしている奴だろう」と笑ってアンケートを終わった。

でも、我が家のことはすべてイエス様にお任せだから、悪くなりようがないと思う。現実だけを見る時、老いていくばかりで「なんの良いことがあろうか・・」だけれど、私の内なる人は、私の外なる人の弱さに反比例して強められている。

私にとって「良いこと」とは、私のすべての判断の基準が、イエス様に支配されていることだから、生まれつきの私が自然に弱る「老い」ということは良いこと。病むかも知れないけれど、そこでイエス様をもっと知ることが出来るならそれは良いこと。

貧しくなるかも知れないけれど、今日までイエス様は必要を与えてくださったから恐くはない。むしろちょっとワクワク・・だって、その度に心からイエス様の御名を崇めることが出来る。知恵も与えてくださるから貧乏も結構おもしろい。それにイエス様のパンはとても甘い。


「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。 Ⅱコリント12:9
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イエス様と共にクリスマス

2006-12-25 20:39:25 | Weblog

子供達と一緒に礼拝、3歳から大学生、そして老人まで・・一緒にメッセージを聞く。
「この子供のように・・とイエス様はおっしゃっいました」からメッセージは始まった。「クリスマス」でイメージする言葉を子供達が挙げて、その言葉が聖書にあるかを尋ね、自分できちんと聖書を確かめることが大切であると子供達に導かれた。


「クリスチャンとは、マリヤの処女懐胎も、聖書に書かれているロバが言葉を話したことも信じている人たちのことであり、『聖書を知っている』と『聖書を信じている』は似ているけれど全く違います、重要なのは『はっきり信じている』ことです。

ごく普通の田舎の娘さんだったマリヤが、 突然御使いから「おめでとう恵まれた方」と身に覚えのない大変なことを告げられました。でも、このことはマリヤだけの特別なことではなく、クリスチャン二世も、自分でイエス様を自分の内に宿すことを決断する時が来ます。

新約聖書の初めのページは、取っつきにくい名前の羅列から始まることで、聖書を読む気力を失ってしまう人が居ます。しかし、此処に書かれている人々を知って読むともっと感動して読むことが出来ます。この人々のつながりの歴史の中に、神であるイエス様が人となって、死ぬために生まれて下さったのです。

イエス様は、神が人となってもっと違ういのち、終わりのないいのちを下さるために来て下さったのです。クリスマスはこの事実を喜ぶ日、永遠のいのちを覚える日です。」


カブトムシのカード「卵」「幼虫」「幼虫」「幼虫」「さなぎ」「成虫」を使って、いのちのつながりを話しつつ、死ぬことはこのつながりを絶つことであると、いのちは沢山の未来のいのちであり、過去の沢山のいのちからのつながりであると、「どんなに辛いことがあっても決して死んではいけない」と教えられた。

私は以前「死んではいけない」と子供に話せなかったことがあって、メッセージは心に響き感動して聞いた。「一人だけのいのちではない」と言葉で良く聞くけれど、目で見てよく分かるようにされていて「さすがはプロだなあ・・」と思ったけれど、それは手段や工夫だけではない力が言葉にあった。平和で幸せな時に、このようなメッセージをちゃんと伝えておくことは、子供さん達にとって本当にとても大切なことだと思った。

メッセージはお子様ランチではなかった。良く準備された豪華なディナーに心から感謝。「earth」を間近で聞くことが出来たことも、とっても得をした気分!聞きに行きたくても私には無理だったからとても嬉しかった。ご馳走もおいしかったけれど、おしゃべりも楽しかった。イエス様がずっとご一緒してくださったような平和なクリスマスに感動。
駅に着くと主人の車が待って居てくれて、細やかにご配慮下さるイエス様と主人に心から感謝。
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捨てる

2006-12-19 20:44:11 | Weblog

モニターが健気に保っていてくれる。とてもありがたいのだけれど、新しいものが届いたら捨てなければならないだろう。

パソコン以前に、富士通のワープロ「オアシス」を使っていた。変な漢字変換も少なくて、とても気に入っていた。自己流で始めて活字に触れ、「五十音」変換で入力を覚えたけれど、打ちにくくて途中から「ローマ字」変換に変えたから、パソコンに代わっても何の不自由も感じなかった。ただ、使い慣れたワープロをなかなか捨てられずに、デスクの下で長い間埃をかぶっていた。

しかし、今度はそう言うわけには行かないだろうなぁ・・。なにしろでっかいモニターだから。いくら機械とはいえ、即、廃棄処分にするなんてあまりに無惨。


私、もし入院なんて事になったら・・。ちょっと具合の悪い時に考えることがある。インターネットが出来る環境なら、退屈はしないだろうけれど、そんなことが出来る部屋には入れそうにもないから、健康に気をつけないと、すごく淋しいことになってしまうだろう・・なんて思うこともある。

でも、何時かそういう日が来る。その時はインターネットではなく、何時でも何処ででもお会いすることが出来るお方。イエス様とゆっくりとお話しすればよい。ちっとも退屈することはないだろう・・。お話ししたり、まどろんだり・・うう・・痛みに耐えたり・・は、自信がない。でも、イエス様がぴったりと共に居て、すべてをお導きくださるからお任せしよう。

私たちは使い捨てじゃない。神の御子がそのいのちをもって、買い取ってくださった身だから。なんと平安なことだろう。


キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。 Ⅰペテロ3:18
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日曜日にはイエス様のお話を聞く 12.17

2006-12-18 10:38:32 | Weblog

「わたしを覚えて」
巷には、イエス様抜きのクリスマスがあふれている。それは昔も同じことで、エルサレムの神殿でも、神の家は商売の家、強盗の巣だった。
イエス様への純粋な思いを妨害するものに対しては、優しさや寛容ではなく、鞭であり、余計なものは追い出さなければいけない。イエス様が宮から出て行かれたら、宮は崩壊するしかない。

イエス様に捧げる捧げものは良いものではなく、何も残さずすべてである。
一日に三度の食事が必要なように、私たちの体を作られた主は、その本質の十字架を、そのいのちの犠牲を、一日に三度は覚えるためにそのように造られた。正餐式が無ければ食事は単なる燃料補給にすぎない。

天から降ったマナを思う時、肉を養う食事と霊を養うみことばのバランスが大切。食事には、買い物から食べるまで、多くの時間を用いておいしく食べる。みことばがなぜ味気ないのか、それは何の準備もなく、泥付きの大根を食べるからである。みことばをしっかり読んで、丹念に準備された良いメッセージはおいしい。それは聖霊が居られるから自分ででも出来る事である。

食べることにはあらゆる事が含まれている。生きることはキリストである。普段の生活に置いて、私たちがどのような態度で過ごすのか、何時も主を覚えているか、自分で吟味することが大切である。 (メッセージ要旨)


私は、今週のメッセージから主に鞭を頂いた。

まず、体に余計な肉をたっぷり付けている私に、食生活とみことばとのバランスにおいて問われた。確かに、食事のために多くの時間を掛けている。それは主婦として良いことであると思いこんでおり、みことばに費やす時間とを比べることなど思いもしなかった。そうでなくても、時間を本当にどれほど浪費しているかと・・。テレビに、新聞に、ゲームに、パズルに、ぼんやり・・に。

時間の用い方は、私が何にウエイトを置いて生きるかということ、本当に余計なものを追い出して、この聖霊の宮を清めて頂いて、何も残さずに主に捧げることを望まないと、妥協をして強盗の巣にされるがままであっては、崩壊してしまうだろう。このような危機感は確かに予感していたので、今日のメッセージは身に浸みた。


あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。
この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。 ローマ12:1.2

あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。 Ⅰコリント10:31 

あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。
あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。 Ⅰコリント6:19.20

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連絡

2006-12-17 11:20:56 | Weblog

モニターが瀕死で、何時このブログをお休みすることになるか分からない状況です。
PCが見られなくなったら、私は静まることに致します。きっとその時なのだと思います。

息子が、急いで新しいモニターを求めてくれるようですが、どんなに急いでも週末に戻って来るまでは、お会いできないかも知れません。
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待とう

2006-12-15 20:15:19 | Weblog

とても久しぶりのお日さま!
思わず見上げてしまって・・「ああ、しまった」真っ暗になってグラッと来た。
どんなに嬉しくても、お日さまは直接見るものではなくて、ほっかほかと感じるもの。青い空を見て知るもの。

今、悩んでいる。魂が落ち着きをなくしている。私の言葉に神様を表現することが出来なくて・・、本当は、いっぱいお話したいことがあるのに・・。
どのように話せばいいのか分からない。

でも、太陽に目がくらんだ時、はっと気付いた。太陽は直接見るものじゃないように、神さまも、霊の内に居られることを知っているのだから、いつも感じているのだから、
言葉がゆっくりとあふれてくるまで待とう。
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日曜日はイエス様のお話を聞く 12.10

2006-12-11 15:37:33 | Weblog

「裏切りの背景」「なぜユダがイエス様を裏切ったのか」「なぜイエス様がユダを十二弟子としてお選びになったのか」イエス様が夜を徹して祈って決められたのである。

私に質問されたように思えた。saltさんのメッセージを聞くと、私は自分の中で聖書の世界が広がってゆく。考えて、思いめぐらせて、みことばを思い出して、どんどん広がって行く。このことの楽しさが一年生みたいに、ちょっと分かって来た。

「ユダは、別にお金が欲しかったからではない」と話されていた。でも、ユダはお金をくすねていた。ユダはイエス様と何年も一緒にいたけれど、イエス様を近しく感じたことがない様に思える。ペテロのように自由にイエス様に要求したこともなく、ヨハネのようにいつも側にいて自分を「イエスの愛した弟子」なんて言うほど信頼できなかった。

お金に関心のないイエス様の会計係では、イエス様に誉めて貰うチャンスもなく、お金をくすねてみたりすることでイエス様を試していたのかな・・。ユダはイエス様を知ろうとすることよりも、自分の賢さの通りの「もっと良い方法」を知って欲しがったのではないか、香油を注ぐマリヤに言った言葉のように・・。

イエス様はユダをも、愛して受け入れて居られたけれども、イエス様の愛は、ユダが信頼して受け入れないとユダに届かない。私たちもイエス様の愛を、イエス様の愛の深さそのままに受け入れられないことで、私たちの思いのようになってしまうのではないかと思う・・。

イエス様といつも一緒にいて、イエス様を知ることがない者、イエス様の愛するものを愛し、イエス様の心を心としたいと願わない者は「生まれなかった方がまし」と言われているのだろう。
「教会に居ても、みことばを良く知りもしない、聖書をあまり読んでも居ないのなら、それはユダ以前の問題です。」と語られた。

ペテロは誉められたり、叱られたり。叱られた時イエス様は「退けサタン」とペテロに働くサタンに叱られた。つまりペテロを守られた。ユダも、自分に働くサタンをイエス様に叱って欲しかったのか・・。しかし、ペテロとユダは違う。ペテロはイエス様を知っていて、不器用でもイエス様を愛している。ユダはイエス様を知ろうとはしなかった。

イエス様はなぜユダを選ばれたのか?それは私たちに、ユダを通して覚えるべき事があるからではないか・・。イエス様を知ることの大切さ。みことばを求める事の大切さ。知ろうとしないことはユダの罪だと。
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12月24日

2006-12-07 19:12:13 | Weblog
 
私は12月の24日生まれ。若い頃は、いつも淋しい思いをした。「いいなあ」と言われたこともあったけれど、それはあまりに知らない人の言葉・・。

父母が亡くなり、祖父の元で暮らすようになった中学生の頃、祖父母がクリスチャンだったこともありケーキを食べたけれど、それは、いつもクリスマスケーキであり、私の誕生日は添え物に思えた。

ジングルベルが街に流れて、世間が賑やかになると私の淋しさは募った。誰もが家族の元に急ぐその日、何時も孤独でひとりぽっちだったクリスマス。その上誕生日が追い打ち。淋しさが二倍だった。誕生日を忘れることさえ出来なかった。

結婚してからは、家族を得てクリスマスを共に過ごすそれだけで嬉しかった。その頃は自分の誕生日なんかどうでも良かった。子育てに夢中で自分のことなんか忘れていた。

私がクリスチャンになってから、なぜか主人が誕生日にプレゼントしてくれるようになった。大きな花束にとまどってしまって「勿体ない」を連発してしまったなぁ・・。お正月まで持たそうなんて思って・・。でも、本当はとても嬉しかった!

クリスマスイブに、なんの聖書的な意味もない事を知ったけれど、今は、ちょっと嬉しい12月24日。この日に私を世に生み出させてくださったイエス様に、ほのぼのと感謝。
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