石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

成長

2006-08-31 16:35:43 | Weblog

今日は31日。子供達が小学校に通っていた頃は、今夜はささやかでも夏休みさよならパーティーだった。今は主人とふたりのなんのこともない普通の夕食。

子供達は、それぞれの持ち場で頑張って自分の人生を歩んでいる。親にとってそれは本当に嬉しいこと。普通に成長することは何よりの親孝行。「私たちの責任はある程度終わった」と、ホッとさせてくれるだけでもありがたい。

長男が小学校を卒業する時、彼らのクラスは記念樹として、校庭に「ユズリハ」の木を植えていた。下から古い葉は落ちて、新芽が伸びてゆくおめでたい木。時が来れば地に落ちることによって、新しいものに交代して行く事はおめでたいこと。

今、年寄りがとても長生き、それは良いこと。でも、なんだか子や孫の分の何かをむさぼっているようで、素直に喜んでばかりは居られない気持ち。
また、成長しない若者が多いとも聞く、学校を卒業しても自立しようとしない若者、幼稚さから抜けようとしない若者、ご両親はさぞご心配なことと思う。

クリスチャンも成長することは大切なこと。イエス様のいのちを頂いたのだから当然成長するはず、成長できないのはなぜだろう・・・
成長するには、身に合わなくなったものを捨てる必要もある。

かっては良いものだって、堅いものを噛むことが出来る歯が伸びているのに、ほ乳瓶を何時までも大切にしては成長できない。成長するには捨てて、次に挑戦する勇気が要るよ。ユズリハだって葉を惜しんでいては新芽は育たないもの。


恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。聖書
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エデンの園で

2006-08-30 11:43:49 | Weblog

女は、神様から唯一食べることを禁じられている「善悪の知識の木」の実を食べるように誘惑する蛇に対して、
「それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」
と言われた神様の言葉を
「あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。」
このように言葉のニュアンスを弱めて話した。そして、ちょこっと付け足してもいる。

蛇はみことばを知っているから、彼女が神様のことばを曖昧にしたことで足がかりを得た。もう誘惑に成功したようなもの、
「あなたがたは決して死にません。 あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです」
この様に言われて食べてしまった。

私たちは誘惑には勝てない。おいしそうに見えたらいつか食べてしまうだろう。美しく見えたら引き寄せられるだろう。「賢くなりたい」それがなぜ悪いのか分からない。
誘惑に乗ると肉の目は開けてどんどん欲望は増して行き、それを隠すために取り繕い、偽りを語るようになる。罪はそうして際限なく膨らんでいく。

エバに出来ることは、神様のことばをきちんと覚えてその木に近づかないことだと思う。避けるべきもの、無視するべきもを知ることは大切だと思う。

この木は「善悪の知識の木」知識を増し、自分で善悪を判断することがなぜ悪いことなのか人には分からない。すべての判断の基準が自分中心になっても、それには気が付かない。聖書を知ることに対しても、この木の実を食べた子孫として、知識を増して行くことには危険もあるということ。

みことばを丸ごと単純に受け入れて「アーメン」と言うこと、みことばを正しく覚えることがサタンに勝利するよい方法だと思う。


悪者どもの道にはいるな。悪人たちの道を歩むな。それを無視せよ。そこを通るな。それを避けて通れ。 箴言4:15
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とこちゃん

2006-08-29 08:45:20 | Weblog

うさぎのとこちゃんは8年私たちと生きた。庭に放していたので時々逃亡したけれど「とこ!行ったら怖いよ。ハウス!」と呼ぶと、立ち止まって耳を立て一目散に走ってきた。お隣のご主人は「うちの孫より賢いな」なんて感心してくださったこともあった。そのお孫さんが大好きでよく一緒に遊んでいた。足にまとわりついたり、上手に少しの間隔をあけての追いかけっこや、手から葉っぱをもらったり。

誇り高いうさぎだった。我が家で彼女が一番毅然としていた。おやつの麦だってこぼしたものは決して食べず、ちゃんと器に入れたものだけしか食べない。あまりからかっているとプイと後ろ向いてしらんふり。

浄化槽の掃除に毎年来ていたお兄さんは、とこちゃんが死んで3年も経つのに、今年も「あのうさぎ可愛かったなあ」と話していく。好奇心が強くてなんでも見に来た。作業をしていると側に寄ってきてまとわりつく、私も足を踏みそうになって「とこ!邪魔だよ」と何時も言ったね。ゴボウを持ってきてくれるおばちゃんの声は特に良く覚えていてすっ飛んで来た。

庭に出て行きたがらなくなったと思ったら 、突然後ろ足を引きずって這うようになった。病院に連れて行った時、先生が驚くことを言われた「この子妊娠していますね」「それはないと思います」「ああ、それでは想像妊娠でしょう、うさぎにはあることです」

懸命な庭掘り、そして小枝を運んできて、わらを運んできて、苔をむしってきて、体の毛を抜いてせっせと穴に運んでいたのは巣作りだったのかと思い当たる。そんな作業中あまりに一心不乱で、庭を掘られては困るけれど、誰にも逆らえないような気迫があった。

骨の異常はなく怪我はないので、点滴を続けつつ抗生物質を与えて様子を見るということで、帰ってからも抗生物質をスポイドで毎日、何度も無理に飲ませる。だんだん抵抗しなくなったけれど元気をなくしていった。

ある日、夕食の準備で目を離している間に、利かない後ろ足は血まみれになっていて私は悲鳴を上げた。病院で手当を終えて帰ってきたが、首に巻かれたエリザベスが気に入らなくてゲージに頭を打ち付けるので、それを取り外して抱いていることになった。なぜ足を噛んだのか私には直ぐに分かった。利かない足に気の強い彼女はかんしゃくを起こしたのだろう。目を離すと足を傷つけるので遅くまで代わる代わる抱いていた。

そんな私たちの気持ちが分かったのか、足を噛むことはなくなっていったが、下半身が利かないので体が汚れて大変だった。シーツや、藁や、干し草や柔らかそうで尿を吸ってくれそうなものを探し回った。体を洗うことが彼女にはとても負担に思えた。しかし、皮膚が汚れてただれると大変。

ゲージから出すと、渾身の力を振り絞って植え込みに行こうとする。かまわれずに静かにそこで命を終えたいと思っていることは分かっていた。でも、そんなこと出来るはずもない・・・。

40日ほどの闘病の後、体を弓なりに反らせてはげしく喘ぐようになった。直ぐに病院に駆けつけて「安楽死をお願いできませんか」と言った。 先生は「抗生物質の大量投与を試してみましょう、入院させてください。」と言われた。私は先生の引き留める言葉を振り切って連れて帰った。「あまり苦しかったら私が殺してあげるよ」そんな決意で。

とこちゃんをこんなに惨めにしてしまった責任は私にあると思えた。うさぎにだって命の尊厳はある。気が付くのが遅すぎた。彼女は植え込みで自然に死にたかったのに・・。幸い喘ぐことは収まったけれど、次の日、すべての力が尽きたようになって、頑張って私たちに付き合ってきてくれた彼女は息を引き取った。とこちゃんの代わりは居ない、どんなに淋しくても代わりなんて居ない。今も私たちの心でずっと生きているから、ずっとこのままで居よう。とこちゃんの空洞をそのままにしておこう。


五羽の雀は二アサリオンで売っているでしょう。そんな雀の一羽でも、神の御前には忘れられてはいません。聖書
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日曜日はイエス様のお話を聞く 3

2006-08-27 22:04:45 | Weblog

今日のお話は「主がお入り用なのです」イエス様が小さなロバに乗ってエルサレムに入城される箇所。
大の男が子ロバに乗る姿はこっけいだと思うけれど、威風堂々の名馬じゃないのは、イエス様のご性質、平和の主の謙遜なお姿。

「主がお入り用なのです」その言葉だけでロバは準備された。イエス様のことばには、信じる者にも信じない者に対しても権威がある。クリスチャン同士ならいざ知らず、信じない人に対して通じないのじゃないかと考えることは罠だと思った。

「主がお入り用なのです」この言葉は、イエス様が私を必要として居られる言葉。サマリヤの女の礼拝を、ザアカイを、イエス様は求めて居られると聞いて、そんなイエス様に感動する。イエス様、あなたに必要とされる私は本当に幸せ者です。


今日は先生が「石ころ」を良いブログと紹介してくださった。
今まで「人の褒め言葉なんて必要ない」そんなふうに突っ張っていたけれど、自分の中にある「嘘」があらわになった。

イエス様は癒し主だから、頑なな心を解かしてくださる。けれど、本音もさらけ出される。
このようにして神の愛と、人の愛を素直に受けることが出来るようになるのだろう。
イエス様のお導きに年は関係ない。生まれたばかりの幼子のように、素直にされるのだろう。嬉しいな・・・
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畑仕事をした!

2006-08-26 08:58:19 | Weblog

なんと!今日は朝から畑仕事。
昨日見たお年寄りのように、首にタオルを巻いて、長袖の野良着を着て、蚊取りを持って、消毒薬を作って畑に向かった。一見ベテラン百姓風。

主人が昨日の仕事帰りに、畑を見て茄子に虫が沢山来ていると嘆いていたので、やって見ようと思った次第。

蛇がすごく怖いので「蛇がでませんように」と祈りつつ歩く。本当に私には怖いものが沢山ある。台風が怖い。地震が怖い。火事を見ると震える。血を見るとゾッと体中の血が逆流して固まってしまう。ちょっと病気をするとすぐに参ってしまう、気力ゼロ。だからしょっちゅうイエス様に逃げ込む。本当にイエス様を知らなかったら、どんなに不安だったろう・・・

茄子の消毒をして、ネギも食べる分を取って虫か病気か(私には「なんか変」としかわからない)ついでに消毒しておく。本当は消毒なんかしたくないけど、1度や2度は仕方がない。買ったものに比べればずっとましだろう。妥協もしないと全滅することもあるから。せっかく主人が植えたのに。黄色ピーマンはひとつも取っていない、実が付いているのにまともに大きくならずに腐ってくるから消毒。

それから楽しみの、サツマイモの盗み堀り(探り堀りと言うのじゃないかなとは思うけど)なんかこの言葉にスリルを感じる。はびこる葉を切り取って、めぼしいイモを探すがこれが結構大変。畝が割れて大きなイモが付いていそうな茎を見つけて、土をかき分け探るとすごく大きな赤いイモが顔を見せた。あまり大きくて抜くのにしばらく格闘するが、立派なイモに大満足!

収穫は、おくら2本(天ぷら用)小さい茄子(お味噌汁用)とネギとサツマイモ。これらは今のところ正真正銘無農薬。うろうろしている間に、日が差してきて汗が流れてきた、歩いていると暑くはなくても、畑にいると結構暑いんだと気が付いた。

戻ってくると、近所の人に「えらい早ようから」と声を掛けられた。ご機嫌!・・・でも、私の気まぐれを冷やかしていたのかな・・・どっちでもいいや、少なくとも主人は喜ぶよ。

神様は人に仕事を与え、それに必要な力を備えてくださる。


神である主が、土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造られたとき、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が、生き物につける名は、みな、それが、その名となった。聖書
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夏の朝

2006-08-25 08:15:54 | Weblog

主人を送り出して久しぶりのウォーキング。昨日友人宅までのわずかな距離を歩いて、昨夜の心地よい眠りを体験しているから。本当に私は単純。
でも、人の体って単純なものなのかも・・・不調はちょっとしたことで回復する力を持っているのかも知れないと思った。

血圧が低くて「暑い時はしんどい」と歩かなかったので、もう筋力も弱っているだろうと後ろ向きになっていたけれど、涼しい朝の空気の中をさっさと歩くことが出来て何も変わっていなかった。ちょっと驚き!

山の間から差し込む朝日は以外にも心地よくて、焼け付くような日中の太陽とは大違い「夏でもこんな日差しがあったんだ」と新しい発見をした。

栗の木に丸い実が沢山成っていた。
田圃の稲は、たわわに穂を実らせてうなだれていた。
夏の間咲いていたひまわりの代わりに、高砂百合がいっぱい咲いていた。

お年寄りのご夫婦が、キュウリに水やりをしておられた。畑にはお年寄りが何人も働いておられた。みんな心地よい夏の朝の空気を知っていたんだ。
今まで私は何も知らずに、自分の弱さを訴えてひとり隠っていたのかな・・・
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神の家族愛

2006-08-23 15:38:22 | Weblog

「そして神は、われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。」聖書
このみことばは、どういう意味だろう・・・と私は長い間疑問に思っていた。

今日ルカ2章を読んでいて、人となられたイエス様を、慈しんで居られるような神様のことばを読み、父なる神様と子なるイエス様の愛は、私たちと同じような、感情のこもったものだったのかしら・・・と考えた時、逆だと気が付いた。

「われわれのかたちに、人を造ろう」この言葉のかたちとは、神の家族の愛のかたちのことかと・・・私たちが神様にその様に造られたから、私たちは家族の中で一番に愛を経験するのだと。

神様が男と女を造られた時、彼らの間は完全な家族の愛のかたちだったのだろう。でも、神様に背いて、彼らの愛は不完全になってしまったけれど、それでも、今も私たちは家族の中で豊かな愛を経験する。

父なる神様は、子なるイエス様を私たちの罪のあがないのために、この世に遣わせてくださったけれど、どんなにお心を痛められたことか・・・罪を知らない方に負わせる人類の罪は、あまりにもおぞましい。

私が救われるために支払ってくださったものが、どんなに神様の家族の痛みに満ちたものであったかを私は分からないだろう。
ただ、浅い感謝を日々捧げるだけの者に過ぎない。
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ひとり

2006-08-20 19:59:13 | Weblog

ひとりでイエス様の御前に居ます
ただ、黙って息のような祈りだけ・・・

言葉もなく、静まりのなかで
私の心はうるおっています

いつまでも・・・いつまでも・・・
いつまでも居らせてください
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結婚して37年

2006-08-19 14:26:52 | Weblog

結婚して37年。ずいぶんお互いに我慢もしたね。我慢できなくて喧嘩もした。私が言いつのり、主人が怒鳴りつけ、結婚当初は椅子さえ飛んできた。

もし、過ぎた恨み事を言わせてくれるなら、子供の運動会に、途中で消えて一人で釣りに行ってしまったこと。本当に淋しくて、私たちはしょんぼりとお弁当を食べたんだから。子供達に「お父さんは?」と聞かれて言葉に詰まったんだから。

私がクリスチャンになって、「洗礼を受けたい」と主人に話した時「お前が洗礼を受けるのは勝手だけど、俺を折伏しようと思うな」その言葉に「はい」と答えた。
聖書には「主人に従いなさい」はあるけど、「説き伏せなさい」とは書かれていないと安心して答えた。

それから数十年して、主人はあるとき教会に来た。私はただ祈っていただけ。
「誕生日のプレゼントは何も要らないから、一緒に礼拝に出たい」
その願いをイエス様が憐れんで、主人を導いてくださったのだと信じている。

私には、かわいい泣き言や弱音を吐くことがほとんど出来ないので、主人には鉄のような女と映っていたのだろう。そんな私がある時入院をしたことで、私にも弱さがあったのかと驚きだったようで、その後何かと細やかに助けてくれるようになった。口うるさくなった面はあるけれど、それも優しさの現れと思うことにした。

主人が教会に通う日々が多くなって、家族で祈ることは自然になった。
長男が帰郷の途中で、全財産を入れたポーチをドライブインに忘れて来た時も、主人と静まって祈ることができた。イエス様がその時与えてくださった望みによって、探しに戻る彼らを、パニックになることもなく落ち着いて送り出すことが出来た。そして彼らの財産は守られた。

主人には主人の信仰がある。息子達には息子達の信仰がある。私の踏み込めない部分も沢山あるけれど、イエス様が彼らを愛して下さっていること。良い計画を持っていてくださることは良くわかるから、私は何も心配してはいない。

今、私たちは喜んでいる。祈りは心の内に絶えずある。すべてのことを感謝している。ハレルヤ!
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朝顔

2006-08-18 20:52:53 | Weblog

朝の楽しみは朝顔を見ること。ちょっと種を蒔くのが遅れたけれど、そんなことは気にしていないかのように、植えられた場所を精一杯守って咲いて、さわやかな彩りで玄関を飾ってくれている。

良い鉢に植えたものは大きく美しい、地の悪い庭に蒔き放したものでも、それなりにつぼみは次々に開花して健気な姿を見せてくれる。毎日、毎日違う花を開く朝顔にマンネリなんてないんだ。毎日真剣勝負の花。でも、押しつけがましさなんて欠けらもなく、たんたん咲いてと日々楽しませてくれる。

花を見ると、鳥の声を聞くと、風の心地よさにふれるとイエス様の慰めを感じる。神様を信じる者にも、信じない者にも、生きることの辛さをご存じで、沢山の慰めを備えておいてくださったと。


ゆりの花のことを考えてみなさい。どうして育つのか。紡ぎもせず、織りもしないのです。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。聖書
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