真のクリスマスは、25日で燃え尽きたり終わったりしない。イルミネーションや蝋燭のように消えることはなく、大切なことはそれから始まるのである。キリストと共に生きることが・・。
すると主の使いが彼に、現われた。柴の中の火の炎の中であった。よく見ると、火で燃えていたのに柴は焼け尽きなかった。(出エジプト3:2)
モーセの見た火は燃え続け、燃えさしも灰も残らない。本物は尽きるものではなく、いよいよいのちを増し、尽きることはないものだ。
偽物は必ず尽きる、偽物は疲れて尽きる。それが続くことはない。
義人の道は、あけぼのの光のようだ。いよいよ輝きを増して真昼となる。(箴言4:18)
神より発したことは疲れない。いや、いよいよ力を増しいのちを増すのだ。もし、それが疲れたり飽きるなら、それは神より発したものではなく、何処かで間違っているのだと思う。
疲れることをもって、疲れることのない神を現すことは間違っている。だから・・今、みことばに聞こう。
「やめよ。わたしこそ神であることを知れ。わたしは国々の間であがめられ、地の上であがめられる。」(詩編46:10)
多くの人を集めて、盛大にツリーを飾ることによって主が崇められるのではない。神の御子キリストには、暗闇でお出会いするのだ。羊飼いたちも東方の博士もそうだった。
人は絶望と暗闇の中で、「見えるようになることです。」という言葉を持って主を待つなら、キリストに導く星の光を見つける事が出来るのだ。
「カイザルのものはカイザルに返しなさい。神のものは神にかえしなさい。」
カイザルのものと神のものはまったく違うはずである。カイザルのものは世で朽ちるものであり、神のものは永遠のいのちに至るものだから。
神にかえす手段は人には見えない。もし、わかっても人にはそれを成す力はない。それは、キリストだけが知っておられ、その力はキリストの中にある。キリストに依り頼み、キリストに在って始めて成就されるのである。
だから、それはキリストに依り頼んで生きることなのだ。
それは、クリスマスであっても、正月であっても、結婚式でも葬式でも年がら年中同じである。ただ、主に依り頼んでみこころを生きるのだ。
主が灯してくださった聖霊の炎はいよいよ光を増し、キリスト者の傷から漏れ出でて、人はその救いの目的を成し遂げるのである。
すべての目的は、主の御名があがめられるためにある。
今世界の圧迫の暗闇でそっと祈る人々のクリスマスに、信仰の光がいよいよ輝きを増し、その聖霊の働きが輝き出で、真昼のようになりますようにと祈る。そのすべての光が主を照らし、見る者が膝をかがめて伏し拝みますように・・。
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ムベ
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