人は誰だって自分の中に、「どうにも、ままならないもの」を抱えていると思う。主はそのように人を造られているはずだから。
なぜなら、そのままならない部分こそが、主を知るために重要な役割を果たすのだと思うから・・。
そういう意味で、もし、「自分には障害なんか何もない。」という人がいるなら、それこそが本当の障害だとさえ思う。あり得ないのだけれど、神様の造り損ないではないかと・・。
息子の聴覚障害を知って、その大変やっかいな問題と戦っていた頃、私はありのままの障害という事態を受け止めず、向き合っていなかったように思う。
私自身にとって、この不都合をなんとか処理しようと、そればかりを考えていたのだろう。いかにも、彼自身のためにしていると見える事にも・・。
イエスさまを知った今は、障害は乗り越えるものではなく、受け入れるものであり、その与えられているものの中で、主と共に、その人らしく伸び伸びと生きることだと思う。
どれほど重い障害者であったとしても、その人は神様によって造られた人であり、神様のご計画に沿って分け与えられ備えられたのだと・・。
人間の都合を中心に考えるとき、そのことは面倒で世話が焼けて、邪魔に感じられ、容姿に醜いとさえ感じる障害もあるけれど、そんな人間の傲慢に気づくためにこそ必要な障害なのだろう。だから主は、誰一人完全な人間なんて造られなかったのだ。
大切なことは人間にとってどうかではなく、造り主のご計画がどうであるのかということ。人間にはそれがまるで出来損ないのように見えても、造り主には、問題そのものが誰かのための完璧な備えなのかもしれない・・。
なぜなら主なる神様はそもそも完全なお方なのだから。
そのような主のご計画を、障害者が障害がないかのような努力して、成しとげるということではないだろう。存在そのものによってすでに主のご計画は成っているのだと思う。
ありのままで、主に造られた者としての喜びと平安があれば、障害の中で、老いて少し呆けた中で、病んだ弱さの中で、その人は主の期待されている役割を果たしているのだと思う。
そのような喜びは世には絶対に無いものだから。それこそ、環境が暗ければ暗いほど鮮やかに現れるだろうから。
しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。
ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。(Ⅱコリント12:9)
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